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六年間の純愛と、三ヶ月の裏切り。バグだらけの彼女を、僕が静かに削除(デリート)するまで  作者: ledled


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10/10

後日談 灰色のメリーゴーランド

冷たい雨が、薄いトタン屋根を叩いている。

その不規則なリズムだけが、カビ臭い六畳一間のアパートにおける唯一のBGMだった。

湿った布団にくるまりながら、私は天井の隅にできた黒い染みをぼんやりと見つめていた。

あの染み、先月よりも大きくなっている気がする。

まるで、私の心の中に広がる絶望のシミが、現実に侵食してきたみたいだ。


「……寒い」


ひび割れた唇から、白い息が漏れる。

暖房なんて贅沢なものはない。電気代を滞納して止まるのが怖くて、ここ数日は部屋の明かりすら点けていない。

三十三歳になった私、桜井琴羽の生活は、底辺という言葉すら生温いくらいに腐敗していた。


枕元に転がっているスマートフォンが、短く震えた。

画面には無数の亀裂が走っていて、指でスワイプするたびにガラスの破片が刺さりそうになる。

通知は、登録している派遣会社からのメールだ。

『急募! 深夜の弁当工場ライン作業。時給1100円。即日払い可』

今の私には、これに飛びつくしかない。

昨日の夜から何も食べていない胃袋が、キュルキュルと情けない音を立てて抗議している。

私は重い体を起こし、ヨレヨレのスウェットから、毛玉だらけのジーンズとパーカーに着替えた。


鏡を見る。

そこに映っている女は、誰だろう。

肌はガサガサで、目の下には消えないクマが張り付いている。

髪はパサパサで、プリン状態どころか、白髪さえ混じり始めている。

かつて「大学のアイドル」と呼ばれ、チヤホヤされていた面影は、顕微鏡で探しても見つからない。

十年前、私は確かに輝いていたはずなのに。

どうしてこうなったんだろう。


「……行かなきゃ」


独り言を呟き、私はアパートを出た。

錆びついた鉄の階段を降りると、冷たい雨が容赦なく降り注いでくる。

傘を買う金も惜しいので、フードを目深に被って歩き出す。

水溜まりを踏むたびに、穴の空いたスニーカーから冷水が染み込んできて、足先から体温を奪っていく。


この街は、いつも灰色だ。

十年前、湊と一緒に住んでいたあの街は、もっと色が溢れていた気がする。

オレンジ色の夕焼け、ピンク色の桜並木、そして湊が作ってくれた料理の鮮やかな彩り。

記憶の中の色彩が強烈であればあるほど、今の灰色の世界が惨めに際立つ。


工場への送迎バスに乗るために、駅前のロータリーへと向かう。

そこには、私と同じような死んだ目をした人々が集まっていた。

お互いに目を合わせることはない。

言葉を交わすこともない。

ただ、その日暮らしの銭を稼ぐために集まった、名前のない労働力たち。

私もその中の一つの歯車に過ぎない。


バスを待っている間、雨宿りのために駅ビルに併設された大型ビジョンの下へ移動した。

巨大なスクリーンには、華やかなニュース映像が流れている。

『経済界の若きリーダーたち』という特集らしい。

私は興味もなく視線を逸らそうとしたが、スピーカーから流れてきた名前に、心臓を鷲掴みにされたように動きを止めた。


『株式会社サイバーネクスト、専務取締役、藍月 湊さんです』


「……え?」


私は濡れた顔を上げ、スクリーンを凝視した。

そこに映し出されたのは、洗練されたスーツに身を包み、大勢の聴衆の前でスピーチをしている男性の姿だった。

湊だ。

間違いない。

でも、私の知っている「蓮くん」とは、何かが決定的に違っていた。

十年前の彼は、優しくて、少し頼りなくて、いつも私の顔色を窺っているようなところがあった。

けれど、画面の中の彼は、自信に満ち溢れ、圧倒的なオーラを放っている。

三十代半ばを迎え、男としての渋みも加わり、息を呑むほどにかっこよかった。


『僕たちが目指すのは、テクノロジーによる優しさの再定義です。人と人との繋がりを、より豊かで、確かなものにするために……』


彼の低く落ち着いた声が、雨音を掻き消すように響く。

カメラのフラッシュが彼を包む。

彼は、雲の上の存在になっていた。

私が泥沼を這いずり回っている間に、彼は空高く舞い上がっていたのだ。


「うそ……専務って……」


まだ三十代前半のはずだ。

日本を代表する大企業の役員。

年収なんて、想像もつかない。数千万? いや、もっとかもしれない。

もし。

もしも、あの時、私が馬鹿なことをしなければ。

今頃、私は「専務夫人」として、あの華やかな場所に立っていたかもしれない。

ブランド物のドレスを着て、美容エステで磨き上げた肌を晒し、彼の隣で微笑んでいられたかもしれない。

周りの人々から「素敵なご夫婦ですね」と羨望の眼差しを向けられていたかもしれない。


「あ……あぁ……」


喉の奥から、嗚咽が漏れた。

悔しい。

悲しいというより、損をしたという強烈な後悔。

私は、宝くじの一等当たり券を、自分でドブに捨ててしまったのだ。

それも、ただの紙切れだと思って、鼻をかんで捨てたようなものだ。

その「紙切れ」が、実は何億円もの価値があったと知らされた時の、発狂しそうな喪失感。


「おい、バス来たぞ! 乗るのか乗らねえのか!」


誘導員の怒鳴り声に、私はビクリと肩を震わせた。

現実に引き戻される。

私は専務夫人じゃない。時給1100円の弁当詰め作業員だ。

私は逃げるようにバスに乗り込んだ。

窓の外、遠ざかるビジョンの中で、湊が微笑んでいた。

その笑顔は、私に向けられたものでは決してない。


***


工場のライン作業は過酷だった。

流れてくる弁当箱に、ひたすらポテトサラダを盛り付けるだけの単純作業。

だが、立ちっぱなしで腰は痛いし、衛生服の中は蒸れて気持ち悪い。

「遅い! もっと手ぇ動かせ!」「形が汚ねえよ!」

現場監督の罵声が飛び交う。

ロボットのように手を動かしながら、私の頭の中では、さっきの湊の姿が延々とリピートされていた。


どうして。

どうして私は、あんな完璧な人を手放してしまったんだろう。

神崎翔吾。

あの男の顔が脳裏をよぎる。

「大人の余裕」なんて嘘っぱちだった。

中身のない、見栄っ張りのクズ男。

あんな男の、一時の甘い言葉と、安っぽい刺激に目が眩んだせいで。

私の人生は、真っ逆さまに転落した。


休憩時間、私はトイレの個室に駆け込み、スマホを取り出した。

指が震える。

『藍月 湊』で検索する。

日課のようになっている自傷行為だ。

彼の名前で検索すると、たくさんの記事や画像が出てくる。

その中に、彼のFacedookのアカウントがあった。

もちろん、私はブロックされているから本人のアカウントは見られないはずだ。

だが、彼は有名人だ。公開されている記事や、タグ付けされた写真から、彼の私生活を覗き見ることはできる。


新しい写真が見つかった。

先週末の日付だ。

綺麗な芝生の広がる公園で、湊が二人の子供と遊んでいる写真。

五歳くらいの女の子と、三歳くらいの男の子。

二人とも、湊に似て目がぱっちりとしていて、天使のように可愛い。

そして、その横でレジャーシートに座り、穏やかに微笑んでいる女性。

一ノ瀬真耶さん。

彼の妻だ。

彼女もまた、十年前と変わらず、いや、母となってさらに美しくなっていた。

ハイブランドだが嫌味のない服を着て、幸せそのものといった表情をしている。


写真の下には、真耶さんの投稿文が添えられていた。

『今日はパパがお休みだったので、久しぶりに家族でピクニック。湊くん、忙しいのに子供たちといっぱい遊んでくれてありがとう。最高のパパです♡』


『最高のパパ』。

その言葉が、私の心臓に鋭いナイフを突き立てる。

その場所は、私の場所だったはずなのに。

その子供たちは、私と湊の子供だったはずなのに。

私が産んで、私が育てて、私が「最高のママ」と呼ばれるはずだったのに。


「……返してよ」


小さな声が出た。


「私の人生、返してよ……!」


涙が溢れて止まらない。

スマホの画面に涙が落ち、滲んでいく。

私は、真耶さんが憎い。

私の幸せを横取りした泥棒猫。

でも、心の底ではわかっている。

彼女が奪ったんじゃない。私が捨てたものを、彼女が拾って、大切に磨き上げただけだ。

捨てたゴミを「返せ」なんて言う権利は、私にはない。


「桜井! 休憩終わりだ! 早く戻れ!」


ドアを叩く音。

私は慌てて涙を拭い、個室を出た。

鏡に映った自分の顔は、嫉妬と後悔で醜く歪んでいた。

まるで、童話に出てくる魔女のようだ。


***


夜明け前、仕事が終わった。

給料は手渡しで八千円ほど。

これで数日は生き延びられる。

重い足取りで工場を出ると、雨は雪に変わっていた。

季節外れの寒波が来ているらしい。

ペラペラの上着しかない私は、体を小さく丸めて震えた。


帰り道、ふと魔が差した。

湊たちが住んでいると思われるエリアに行ってみようか。

ネットの情報から、彼らが都内の高級住宅街、世田谷あたりに一軒家を構えていることは推測できていた。

ここから電車で一時間半。

交通費を使えば、今日の食費が減る。

でも、どうしても見たかった。

私が失った「正解の未来」が、どんな形をしているのかを。


電車を乗り継ぎ、高級住宅街の最寄駅に降り立った頃には、すっかり日が昇っていた。

街並みが違う。

歩いている人々の服装も、犬の散歩をしているマダムの雰囲気も、私が住んでいる吹き溜まりとは別世界だ。

空気さえも澄んでいて、高級な香りがする気がした。


スマホの地図アプリを頼りに、彼らの家を探す。

表札が出ていない家も多いが、SNSの写真に写り込んでいた特徴的な外壁や、庭の木を目印に歩き回る。

不審者だと思われないように、なるべく下を向いて。


そして、見つけた。

モダンで洗練されたデザインの、大きな一軒家。

広いガレージには、ドイツ製の高級SUVが停まっている。

庭には綺麗に手入れされた花壇があり、子供用の三輪車が置かれている。

絵に描いたような「幸せな家庭」の象徴。


「……すごい」


塀の陰からその家を見上げ、私はため息をついた。

ここに湊がいる。

私の知らない、成功者としての湊が。

インターホンを押したら、どうなるだろう。

「琴羽です。反省しました。もう一度やり直したいです」と言ったら?

いや、警察を呼ばれて終わりだ。

わかっている。わかっているけど、足が動かない。


その時、玄関のドアが開いた。

私は慌てて電柱の陰に隠れる。

出てきたのは、湊だった。

スーツの上にコートを羽織り、カバンを持っている。出勤の時間だ。

続いて、真耶さんと子供たちが出てきた。


「パパー! いってらっしゃーい!」

「いってらっしゃい、気をつけてね」

「ああ、行ってきます。今日も愛してるよ」


湊は真耶さんに軽くキスをし、子供たち一人一人を抱き上げて頬擦りをした。

映画のワンシーンのような光景。

湊の笑顔は、私がかつて見たどの笑顔よりも輝いていた。

彼は本当に、心の底から幸せなのだ。

私という「バグ」を排除したことで、彼の人生は完璧なプログラムとして動作しているのだ。


湊が歩き出す。

こちらに向かってくる。

心臓が破裂しそうだ。

気づかれる?

いや、こんなボロボロの浮浪者みたいな女、まさか元カノだとは思わないだろう。

私は息を潜め、電柱にしがみついた。


湊が私の横を通り過ぎる。

ほんの数メートル。

彼から、高級なコロンの香りが漂ってくる。

その瞬間、彼がふと足を止めた気がした。

私の存在に気づいた?

ドキリとした。

でも、彼はすぐに前を向き、スマホを取り出して誰かと通話しながら、足早に去っていった。

視界の端にすら、私は入っていなかった。

十年前のあの夜、「知らない人だ」と言われた時と同じ。

彼にとって私は、もうこの世に存在しない幽霊なのだ。


「……あ……うう……」


彼が見えなくなった後、私はその場に崩れ落ちた。

雪の冷たさが膝に染みる。

真耶さんが子供たちを連れて家の中に入っていく音が聞こえた。

暖かい家。美味しい朝食。愛のある会話。

そのドアの向こうには、天国がある。

そして私は、そのドアを自ら閉ざし、鍵をかけ、鍵をドブに捨てたのだ。


「寒い……」


体の芯まで冷え切っていた。

帰ろう。

私に相応しい、カビ臭いアパートへ。

コンビニの廃棄弁当と、ワンカップ酒が待つ、底辺の世界へ。


駅までの道のりは、永遠のように長く感じられた。

途中、ショーウィンドウに映った自分の姿を見た。

そこには、老婆のように腰の曲がった、惨めな女がいた。

これが、三十二歳の桜井琴羽の成れの果て。


駅のホームで電車を待っていると、ふと、線路を見つめている自分に気づいた。

あと一歩。

ここから一歩踏み出せば、この終わりのない後悔と惨めさから解放されるんじゃないか。

「楽になりたい」

その誘惑が、甘く囁いてくる。


『間もなく、電車が参ります。白線の内側までお下がりください』


アナウンスが響く。

電車のヘッドライトが近づいてくる。

私はフラリと体を揺らした。

でも、踏み出せなかった。

死ぬのが怖いんじゃない。

死んでしまったら、湊がさらに遠くへ行ってしまう気がしたからだ。

彼がこの世で生きている限り、私はその影を追い続け、地を這いずり回りながら、彼を見上げ続けることでしか「生」を実感できない体になってしまっていたのだ。

それが、私に与えられた罰。

一生終わらない、灰色のメリーゴーランド。


電車が到着し、ドアが開く。

私は亡霊のように乗り込んだ。

暖房の効いた車内は、皮肉なほどに暖かかった。

窓の外を流れる雪景色を見ながら、私は心の中で、届くはずのない言葉を呟いた。


「ごめんね、蓮くん。……大好きだったよ」


その言葉は、誰の耳にも届くことなく、電車の走行音にかき消されていった。

私の人生はこれからも続く。

希望のない明日へ向かって、ガタンゴトンと揺られながら。

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