第一話 ノイズの混入
包丁がまな板を叩く、トントンという小気味良い音が、ワンルームのキッチンに響いている。
鍋からは出汁の優しい香りが立ち上り、換気扇がそれを静かに吸い込んでいく。俺、湊蓮は、火加減を調整しながら、壁掛け時計へと視線をやった。
時刻は十九時を少し回ったところだ。
そろそろ、彼女が帰ってくる頃だろう。
「よし、味付けはこんなもんか」
小皿に取った煮物を一口味見して、俺は満足げに頷いた。
大根は芯まで味が染みているし、鶏肉も柔らかく仕上がっている。彼女、桜井琴羽の好物だ。
俺たちが同棲を始めてから、もうすぐ二年が経つ。
大学進学を機に地元を離れ、この街で暮らし始めた当初は、お互いに不慣れな家事に戸惑うこともあった。けれど、情報工学部という理系専攻の俺にとって、料理の手順や効率化は意外と性に合っていたらしい。今では掃除、洗濯、料理といった家事全般の七割を俺が担っている。
琴羽は文系学部で、サークル活動や付き合いも多い。俺よりも外向的な彼女が外で羽を伸ばし、俺が家を守る。そんなバランスが、俺たちには心地よかった。
少なくとも、俺はずっとそう思っていたし、疑いもしなかった。
保育園からの幼馴染で、小学校も中学校も同じ。高校だけは別々だったが、大学でまた同じ地域に出てきて、自然な流れで一緒になった。
交際期間は六年。人生の四分の一以上を、恋人として過ごしていることになる。
お互いの両親も公認の仲で、帰省すればそれぞれの実家に顔を出し、「いつ結婚するの?」なんて冷やかされるのも恒例行事だ。琴羽の両親からは、本当の息子のように可愛がってもらっているし、俺の両親も琴羽を娘のように思っている。
俺たちの関係は、強固な地盤の上に築かれた城のように盤石だと思っていた。
空気のように当たり前で、なくてはならない存在。
それが、俺にとっての琴羽だった。
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。
続いてドアが開く音と、「ただいまぁ」という少し間延びした声が聞こえてくる。
「おかえり、琴羽。ちょうどご飯できるよ」
俺は火を止め、エプロンで手を拭きながら玄関へと向かった。
そこには、少し肩を落としてパンプスを脱いでいる琴羽の姿があった。セミロングの茶髪がふわりと揺れ、甘い香水の匂いが鼻をくすぐる。
いつもと変わらない、愛らしい恋人の姿だ。
「んー、いい匂い。今日は煮物?」
「ああ。琴羽の実家から送られてきた野菜、まだ残ってたからさ。大根と鶏肉の煮物にしたよ」
「さすが蓮くん。私、もうお腹ぺこぺこ」
琴羽は力なく笑うと、重そうに鞄を床に置いた。
その表情には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
最近、彼女は就職活動で忙しい日々を送っていた。今日も朝から合同説明会だとかで出かけていたはずだ。
「お疲れ様。就活、大変だった?」
「うん……まあね。いろいろ歩き回って足パンパンだよ」
「そっか。ご飯食べたら、マッサージでもしようか?」
「え、いいの? 嬉しい。蓮くん大好き」
琴羽は俺の胸に軽く頭を預けてくる。
その体温に触れると、俺の中にある「守ってあげたい」という庇護欲が刺激される。
よしよし、と頭を撫でてやると、彼女はくすぐったそうに身を捩った。
この温もりがあれば、俺は他に何もいらない。研究室での課題がどれだけハードでも、将来への不安が多少あっても、彼女の笑顔さえあれば乗り越えられる。
そう信じて疑わなかった俺は、この時、彼女の纏う空気の「わずかな歪み」に気づいていなかった。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。
夕食の席に着くと、琴羽はいつものように「いただきます」と手を合わせ、俺が作った料理を口に運んだ。
「ん! 美味しい! やっぱり蓮くんの料理は天才的だね」
「大袈裟だよ。でも、口に合ったならよかった」
「本当だよぉ。私、蓮くんがいなかったら餓死しちゃうかも」
無邪気に笑う彼女を見ながら、俺も箸を進める。
他愛のない会話。テレビから流れるニュースの音。
穏やかな時間が流れるはずだった。
しかし、ふとした瞬間に、違和感が棘のようにチクリと胸を刺した。
琴羽が、スマホをテーブルに置いた時だ。
いつもなら画面を上に向けて無造作に置くのに、今日は伏せて置いた。
画面が見えないように。
そして、食事中にも関わらず、どこか上の空だ。俺が話しかけても、一拍置いてから「え? ああ、そうだね」と曖昧な返事が返ってくることが何度かあった。
「琴羽? どうした、何か考え事?」
「えっ? ううん、別に。ただ、ちょっと就活のことで頭がいっぱいで」
琴羽は慌てたように首を振り、誤魔化すように煮物の汁を啜った。
「そっか。あまり無理するなよ。焦らなくても琴羽なら大丈夫だって」
「……うん。ありがと」
彼女は少し目を伏せ、それから不自然なほど明るい声を出した。
「あ、そういえばさ! 今度の週末なんだけど、先輩にOB訪問のアポ取れそうなの。だから、またちょっと帰るの遅くなるかも」
「週末? 土曜日ってこと?」
「う、うん。土曜の夜。先輩の仕事終わりじゃないと時間取れないらしくて」
「そうなんだ。大変だな、休みの日まで」
「仕方ないよぉ。これも内定のためだし」
琴羽は視線を泳がせながら、手元のグラスに手を伸ばした。
俺は少しだけ首を傾げる。
OB訪問で土曜の夜?
確かにそういうケースもなくはないだろうが、琴羽の志望している業界は土日休みの企業が多いはずだ。それに、以前の彼女なら「せっかくの休みなのに最悪だよー」と愚痴の一つでもこぼしていただろう。
だが今日の彼女は、どこかその予定を楽しみにしているような、あるいは隠したいことがあるような、妙な高揚感を漂わせているように見えた。
「……どこの会社の人?」
「え? ああ、えっと、広告代理店の人。サークルの先輩の紹介で」
「へえ、広告か。琴羽、そういう業界も興味あったっけ?」
「まあね! ほら、視野は広く持たないとって言うじゃん?」
早口でまくし立てる彼女に、俺はそれ以上追及するのをやめた。
彼女が頑張っているのに、俺が疑うようなことを言って水を差すのは良くない。そう自分に言い聞かせたのだ。
六年という月日は、信頼を育むと同時に、相手の変化に対する感度を鈍らせることもある。「琴羽に限ってそんなことはない」というバイアスが、俺の理性的であるはずの思考回路に靄をかけていた。
食事が終わり、俺が食器を洗っている間、琴羽は早々に風呂場へと消えていった。
いつもなら、食後は二人でソファに座ってテレビを見たり、スマホで面白い動画を共有し合ったりする時間だ。
「汗かいちゃったから、先に入るね」と言い残した彼女の足取りは、どこか逃げるように急いでいた気がした。
シャワーの音が聞こえ始める。
俺は洗い物を終え、タオルで手を拭きながらリビングに戻った。
ふと、テーブルの上に目をやる。
そこには、琴羽が忘れていったスマホがあった。
いつもなら脱衣所に持ち込むのに、よほど慌てていたのか、それとも充電が切れそうだったのか、充電ケーブルに繋がれたまま置き去りにされている。
画面は真っ暗で、伏せられてはいなかった。
俺は何気なく、その横を通り過ぎようとした。
プライバシーを侵害する趣味はない。俺たちは互いのスマホを勝手に見るようなことはしてこなかったし、パスコードすら共有していない。それが信頼の証だと思っていたからだ。
ブブッ。
静寂の中で、バイブレーションが短く震えた。
琴羽のスマホの画面が明るくなり、ロック画面に通知が表示される。
俺は反射的に目を向けた。
通知は「MINE」の新着メッセージだった。
『表示設定により内容は非表示です』
ポップアップにはそう表示されている。
だが、俺の視線はそこに釘付けになった。
通知の差出人の名前。
そこには『Sho』というアルファベット三文字が表示されていた。
Sho?
俺の記憶にある琴羽の交友関係の中に、そんな名前の人物はいなかったはずだ。サークルの友人や地元の友達はほとんど把握している。もちろん、ただのあだ名かもしれないし、俺の知らない新しい知り合いかもしれない。就活で知り合った人という可能性もある。
しかし、俺の胸中に広がる黒い染みのような不安は、その名前だけが原因ではなかった。
俺は吸い寄せられるようにスマホに手を伸ばし、画面をタップした。
パスコード入力画面が現れる。
俺は迷わず、彼女の誕生日である『0515』を入力した。
以前、彼女が入力しているのを横目で見たことがあったし、彼女はずっとこの単純なパスコードを使っていた。セキュリティ意識の低い彼女のことだ、変える理由なんてない。
『パスコードが違います』
画面が揺れ、赤い文字が無情に表示される。
俺は指を止めた。
背筋に冷たいものが走る感覚。
間違えた? いや、そんなはずはない。琴羽は面倒くさがりだ。誕生日の数字を変えるなんて、よほどの理由がない限りしないはずだ。
俺はもう一度、今度は俺と付き合い始めた記念日『0412』を入力してみた。これも彼女がよく使い回している数字だ。
『パスコードが違います』
弾かれた。
指先が微かに震える。
たかがパスコードが変わっただけだ。定期的に変更するのはセキュリティ上、正しいことだ。俺だってそうしている。
だが、今の状況でそれが意味するものは、あまりにも重い。
彼女は、俺に見られたくない何かを隠すために、鍵を掛け替えたのだ。
さっきの、伏せて置かれたスマホ。
上の空の態度。
週末の不自然な外出。
そして、見知らぬ『Sho』からの通知。
パズルのピースが、音を立てて嵌っていくような不快な感覚。
情報工学を専攻する俺の脳内で、感情よりも先に論理が警鐘を鳴らし始めた。
「バグ」が発生している。
この日常というシステムの中に、致命的なエラーを引き起こしかねない異物が混入している。
シャワーの音が止まった。
俺は慌ててスマホを元の位置に戻し、何事もなかったかのようにソファに座って雑誌を広げた。心臓が早鐘を打っているのを悟られないよう、深く息を吐く。
数分後、風呂上がりの琴羽が上気した顔で戻ってきた。
「ふぅ、さっぱりしたぁ。蓮くん、お風呂空いたよ」
「ああ、ありがとう」
俺は努めて平静な声を出し、彼女の顔を見た。
琴羽はタオルで髪を拭きながら、真っ先にテーブルの上のスマホを手に取った。
その動作の素早さ。
そして、画面を確認した瞬間、彼女の表情が一瞬だけ強張り、すぐに安堵の色が浮かんだのを、俺は見逃さなかった。
彼女は俺の方をチラリと見て、俺が雑誌に集中している(フリをしている)のを確認すると、素早く画面を操作し、何かを打ち込み始めた。
その指の動きは軽やかで、楽しげで、俺に向けられるものとは明らかに種類の違う熱を帯びていた。
「誰から?」
衝動的に、口から言葉が滑り出た。
琴羽の肩がビクッと跳ねる。
「え? あ、ううん、ただの友達。サークルのグループMINEだよ」
「そっか。楽しそうだったから」
「そ、そうかな? くだらない話で盛り上がっててさ」
彼女は不自然なほど明るく笑い、スマホをポケットにねじ込んだ。
嘘だ。
サークルのグループMINEなら、そんなに慌てて隠す必要はないし、通知の名前が個人の『Sho』であるはずがない。
彼女は俺に嘘をついている。
それも、息をするように自然に。
俺の中で、何かが冷たく沈殿していった。
怒りではない。まだそこまで感情は追いついていない。
あるのは、底知れぬ恐怖と、信じていた世界が足元から崩れ去るような浮遊感だ。
俺は無言で立ち上がり、風呂場へと向かった。
脱衣所の鏡に映った自分の顔は、酷く無表情だった。
俺は服を脱ぎながら、頭の中で冷静に次のアクションを計算し始めていた。
感情で動いてはいけない。
事実を確認しなければならない。
確定的な証拠がなければ、どんな推論も無意味だ。
バグの原因を特定し、排除する。それがエンジニアの……いや、今の俺がすべき唯一のことだ。
俺は浴室に入り、シャワーを浴びながら思考を巡らせた。
琴羽のスマホを見ることはできない。パスコードがわからない以上、無理にこじ開けようとすれば履歴が残り、警戒されるだけだ。
彼女が寝ている間に指紋認証を突破するのもリスクが高い。最近の彼女は眠りが浅いし、もし起きられたら言い訳ができない。
他のルートはないか。
俺たちのデジタル環境の構成図を頭の中で展開する。
俺のPC、俺のスマホ。琴羽のスマホ。
そして、リビングにある共用のタブレット端末。
あれは主に動画視聴や電子書籍のために使っているものだが、初期設定をしたのは俺だ。
琴羽は機械に疎い。アカウントの同期設定やクラウドの仕組みなんて、ほとんど理解していないはずだ。
もし彼女が、スマホで撮影した写真をクラウドストレージに自動バックアップする設定をオンにしたままだったら?
そして、そのクラウドあアカウントが、あのタブレットにも紐付いていたとしたら?
一縷の望み、いや、絶望への入り口かもしれない可能性に、俺は賭けることにした。
風呂から上がると、琴羽はすでにベッドに入っていた。
「明日も早いから、もう寝るね。おやすみ、蓮くん」
布団から顔だけ出して、可愛らしく手を振る彼女。
「おやすみ、琴羽」
俺は電気を消し、自分のPCデスクの明かりだけを点けた。
「ちょっとレポートの残りやってから寝るよ」
「うん……あんまり夜更かししちゃダメだよ……」
琴羽の声はすぐに寝息へと変わった。
俺は数分待ってから、音を立てないように立ち上がり、リビングのローテーブルに置いてあるタブレットを手に取った。
PCデスクに戻り、モニターの明かりを頼りにタブレットを起動する。
パスコードは俺が設定した『0000』のままだ。
ホーム画面が開く。
俺は震える指で、『写真』アプリのアイコンをタップした。
頼む、同期されていてくれ。
いや、同期されていてほしくない。何もなければいい。ただの俺の勘違いであってくれ。
相反する二つの願いが胸の中で激突し、激しい動悸を引き起こす。
アプリが起動し、サムネイルが次々と読み込まれていく。
最新の写真が表示される。
そこにあったのは、今日の昼間に撮られたと思われる写真だった。
カフェのランチの写真。
自撮りの写真。
ここまではいい。問題ない。
俺は画面をスクロールした。
一週間前。二週間前。
俺の知らない風景が増えていく。
そして、一ヶ月前の日付のフォルダを開いた時、俺の指が止まった。
それは、夜景の写真だった。
どこかの高層ビルのレストランから見下ろしたような、煌びやかな夜景。
その写真の端に、ガラスに反射して映り込んでいる人影があった。
琴羽だ。綺麗にドレスアップしている。
そして、その向かい側に座っている男の姿。
顔はスマホで隠れていて見えないが、仕立ての良さそうなスーツを着ている。手首には高級そうな腕時計。
明らかに、学生ではない。
俺たちのような貧乏学生が行けるような店ではないし、こんな格好をした知り合いなどいない。
さらにスクロールする。
決定的な一枚が、俺の網膜を焼き尽くした。
車内からの写真だ。
助手席からのアングル。
運転席には、男の腕と、ハンドルを握る手が写っている。
左手の薬指には、銀色の指輪が光っていた。
既婚者。
そして、その写真に添えられた、写真アプリ上の位置情報は、俺が「サークルの合宿」だと聞かされていた日の、有名な温泉街を示していた。
「……はは」
乾いた笑い声が、喉の奥から漏れた。
心臓が凍りついたように冷たくなる。
熱など欠片もない。ただただ、冷たい。
頭の中が真っ白になり、やがてその空白を、どす黒い感情が塗りつぶしていく。
裏切り。
その三文字が、現実として目の前に突きつけられた。
俺が彼女のために料理を作り、彼女の帰りを待ち、彼女との将来を夢見ていたその時間に、彼女は他の男とこの景色を見ていたのだ。
既婚者の男と。
俺に嘘をついて。
俺はゆっくりとタブレットを置いた。
背後のベッドでは、琴羽が安らかな寝息を立てている。
その寝顔は、数時間前までは天使のように見えていた。
だが今は、吐き気を催すほどに醜悪な、見知らぬ他人の顔に見えた。
俺はPCに向き直り、キーボードに手を置いた。
震えはもう止まっていた。
涙も出ない。
ただ、静かな殺意にも似た決意だけが、腹の底で渦巻いている。
『バグ』を見つけた。
しかもそれは、システムの根幹を揺るがす致命的なものだ。
修正が必要だ。
徹底的に、跡形もなく、この腐ったデータを処理しなければならない。
俺は新しいフォルダを作成し、その名前を『Evidence(証拠)』とした。
そして、タブレットに表示されている写真を一枚ずつ、PCへと転送し始めた。
画面の光に照らされた俺の顔は、きっともう、かつての優しい「蓮くん」の顔ではなかっただろう。
暗い部屋に、マウスをクリックする乾いた音だけが、冷徹に響き続けていた。




