自宅願望
昭和四十八年、K県M町に境元実紀夫というサラリーマンの男がいた。借家住まいの彼は、妻と子供たちからいつも「家を建てろ」、「家を建てろ」と催促され続けていた。
「いつまで借家暮らしなのよ! 家ぐらい建てられないの? 甲斐性なし!」
「お父さん、アパートに住んでるの学級で私だけよ!」
「パパ、あっちゃんがあたらしいイエできたからあしたひっこしするって。ボクんちはいつになるの?」
「分かりました分かりました。また今度ね」
薄給の身では一戸建て住宅など建てられようもないのは自分でもよく分かっていた。こんなに厳しいやりくりの生活で自宅を持つなんてことは夢のまた夢であった。
それでも妻子からの愚痴は毎日毎日続く。家に帰ればその話題ばかりだ。
「あなた! まだ建てられないの?!」
「お父さん早く家建ててよぉ!」
「パパ、みよちゃんもイエたてたんだって」
「ああ、分かりました分かりました」
会社では同僚や上司からも、飲み屋ではホステスからも「自宅を持てばいいのに」と嘲笑われる。
そんな日々を送っているうちに、境元実紀夫は次第にやつれ始めた。心労から見る見る痩せ衰え、もはや骨と皮だけだったが、しかし細長く小ぢんまりとはしていなかった。顔を中心に四方から引っ張られたように四角く薄く、その姿はまるで凧のようであった。骨と皮の凧の幅と高さは日増しに拡がり大きく薄くなる。
ある真夏の夕方、境元実紀夫は帰り道の空き地で倒れ、ストレス性の心臓病であっさり死んでしまった。死体はふらふら糸が切れた巨大な紙製の凧が朽ち汚れて捨てられたのに似ていた。
「これからの生活どうしてくれるのよ! 自宅なら家賃に悩まずに済んだのに!」
「お父さんもせめて家を建ててから死んだらいいのに」
「パパ、あきらくんもイエあたらしいのに、ボクんちはまだなの?」
バキバキと折り畳まれて棺に納められた実紀夫に対し、最期まで冷たい家族であった。
忌が明けた翌日、アパートに来客があった。
「お宅の旦那が死んだ場所でね、誰も気持ち悪がって買い手がないんじゃよ。先祖からの土地じゃが、わしゃ土地はようけあるから、荒れ地で良かったら安うするから、買うてくれんかの?」
妻の親戚筋にあたる大地主から、安価に土地を買うはめになった。
「お母さん買っときなよ」
「ママ、あのトチがあればイエたつね」
「まぁいいわ。土地さえあれば再婚相手が家を建ててくれるわ」
境元実紀夫が亡くなってからおよそ半年後の冬の朝。この男が死んだ空き地に家が建った。それも、たった一晩で。一階建ての平屋住宅であったが、ただ、壁は薄く、柱は細いのだろうか、風が吹くと少し揺れた。不思議に思いながらも、三人はその家に入る。
「お父さんが私たちのために家を贈ってくれたのかしら?」
「このイエ、パパのにおいがするぅ」
「そうね。確かにあの人のにおいね・・・」
妻と娘は嫌な予感がする。水道の蛇口からだろうか、水がポトポト落ちる音。
「お母さん、この家、まさかお父さんが呪いで建てたのかしら?」
「気持ち悪いこと言わないで!」
「だって、さっきからずっと誰かに見られてるみたい」
「昔から、壁に耳あり障子に目ありと言うの。気持ち悪いと思うからそう感じるのよ」
「でも・・・」
母子三人が居間に着く。至って普通の居間。ソファとテーブルがあり、テレビまである。まるで最新の住宅だ。ただジメジメしていて湿度は高い。
「ママ、テレビもあるよ!」
「ねぇ、お母さん。ジメッとしてるけど、ここ悪くないわ」
「そ、そうね・・・」
「満足してるか?」
夫であり、お父さんであり、パパである境元実紀夫の声に間違いない。三人は声のする方を同時に見る。天井。十畳ほどの広さの天井に実紀夫の顔が目一杯に大きく引き伸ばされて見下ろしている。
「お前たち待望の家だ。これからは安心して暮らしなさい」
恐怖した三人は逃げようとするが玄関も窓も開かない。ガタガタ揺れる平屋の中で逃げ惑う母子を、近所の人たちが遠くから窓越しに目撃していた。
「ここにいなさい。ほら、お父さんの髪の毛が屋根なんだ。ほら、オチンチンがトイレになってるんだ。風呂場はお尻の穴だよ」