2.夜の裂け目
その老人―ーアルフがなじられるのを見た瞬間、胸の奥がきしんだ。いたたまれなくて、ソルは路地を駆け抜けた。
ソルは理解していた。
金を稼ぐ事……時には自分を殺し、世間にしがみつき、若輩にだって頭を下げなければならない。
それでも、それでもソルには耐えられなかった。
(僕のせいだ。僕のせいで、お金が要る。だから、じいちゃんは)
情けなさと怒りが、入り混じって喉に詰まった。
「――あれ? ソルくん? どうしたの?」
帰り道で、桶を抱えたララが首をかしげる。
「……あ……学校、休みだって。昨夜、魔物が校舎を少し壊したみたいで」
「今夜は新月だもんね。……ソルくん、何かあった?」
「えっ? いや、ないない! なにも。ほら、今日はたくさん勉強できるよ」
ララは同い年の幼馴染。学校には行かず、家業を手伝っている。
栗色のおさげとそばかす。知識に貪欲で、読み書きを教えたのをきっかけに、手が空けばソルが勉強を見ていた。
「やったぁ。早くお仕事終わらせるね! 今日は現代史の続き!」
「うん。……このまま待ってるよ」
ぱっと明るくなる表情に、少しだけ息がつけた。
ララの家の居間。整った器具の並びが、母のエマの性格を映す。
二人で本を広げる。
「――小人族は滅んで、森人族も数を減らしてるんだね」
「うん。昔の戦争が主な原因。もともと数も少なかったみたい。長生きでも、数が増えるわけじゃないんだって」
「ふうん。不思議だね」
「そういえば、じいちゃんがエマさんに教わったスープ、すごく美味しかった」
二人で笑うこの時間は、刺のない場所みたいだ。
夢中になって教えているうち、窓の光が傾いた。暗くなる前に帰らなくては。
「ねえ、ソルくんは勉強して将来何になるの? やっぱり学者さん?」
「……そうだね。たぶん、学者かな」
「そっか。いつか町を出ちゃうのかなぁ。私も学校、行ってみたいな」
ララの声に、影が一枚落ちる。指先が教科書の余白をそっとなぞった。
答えの出ない思いを抱えたまま、ソルは少しぶっきらぼうに言う。
「またね」
「……うん。ソルくん、何かあったら話してね?」
「ありがとう」
自宅が見えてくるころ、夕闇が足元まで降りてきていた。
等間隔の街灯に橙の火が灯る。深い闇と広い空間は瘴霧の温床だというので、町は徹底的に闇を潰している。灯りは魔術で管理されるらしい。
「もうすぐ日の入りだぞー。早く帰れよー」
若い衛兵が声を掛ける。ワット・シアーズ。
赤茶の髪、端正な顔。槍を持つ腕に、紋様のような入れ墨がのぞく。
「ワットさん、こんにちは。こんなところ珍しいですね」
「ちょっと用事でな。今夜は新月だろ。警備がね」
多くは語らず、彼は足早に去った。貧民街は自衛が求められる。だが夜警には借り出される。いつもの理不尽だ。
家の煙突からは煙、窓の向こうに灯り。
短い廊下の突き当たりで足を止め、早鐘のような胸を押さえる。
(言おう。今日こそ、はっきりと)
「ただいま」
埃っぽい居間。台所で鍋が鳴り、卓に食器が並ぶ。
「おかえり」
アルフは手を止め、こちらへ歩み寄った。
「学校、休みだったんだろう? ララちゃんの所にいたようだが」
いつもの笑顔。
安心するはずのそれを見て——無理を重ねた皺の寄り方に、堪えていたものが溢れた。
「……ソル? どうした?」
立ち尽くす肩が震える。アルフが顔を寄せる。
「……じいちゃん。僕、学校やめる。働く」
いつもなら、すぐに諭されて終わる話だ。だが今は違う。前髪の奥で、濡れた瞳が燃えていた。
「毎日畑も手伝う。稽古も増やす。強くなる。衛兵でも狩人でも何でもやる。だから——」
「ソル」
低く、揺れない声。大きな手が肩を掴む。
「何度も言ったろう。お前に要るのは教養だ。今やめたら——将来のお前が困る」
分かっている。けれど、
「じいちゃんは、ろくに学べずに苦労したんだ。お前の母さんにも、そして今はお前にも……」
いつもの理路整然。それでも、今日は違う。
「でも、その将来までの間に、じいちゃんはどうなるの。僕が働けば楽になるでしょ。もっと一緒にいられるでしょ」
「子どもはそんなことを考えなくていい」
「だから言うんだ! 子どもだけど、分かるよ!」
熱が溢れた。
「僕は——嫌だ。あんなふうに……頭を下げるじいちゃんなんて、嫌だ」
言ってから、息を呑む。
アルフは察したらしい。それでも、声は穏やかだ。
「じいちゃんはな、十分幸せだ。聡く優しい孫がいて、気遣って泣いてくれる。これを幸せと呼ばず、何と言う。……ソル。聞き分けなさい」
「でも……」
言葉が、見つからない。
次の瞬間、ソルは身を翻して居間を飛び出し、寝室の毛布にくるまった。
やがて扉の外に気配が立つ。だが、アルフは中へ入らない。
「今夜は新月だ。じいちゃんは警邏に出る。戸締まりに気をつけなさい。夕飯は置いておく。じいちゃんが出てからでいい」
ソルは、返事をしなかった。
「うわっ」
甲高い警鐘に、体が跳ねた。いつの間にか眠っていたらしい。
防壁内に魔物が侵入したのか、街灯が落ちて瘴霧が発生したのか。
貧民街の者は教会へ避難できない。家に籠もるしかない。
目を固く閉じ、暗闇の中で丸くなる。
ふいに、部屋の空気が張り詰めた。鐘の音が、水の底へ沈むように遠のく。
『……アルフが……』
(なに……?)
声だ。どこからともなく、子どものような大人のような、掴みどころのない声。
『……危ない……急いで……』
今朝の夢——あの声だ。
不思議と、恐ろしくはない。胸の奥で、母の顔が淡く揺れた。
「……じいちゃんが、どうしたの」
『……急いで……』
張り詰めた空気がほどけ、現実の音が戻る。警鐘が耳を劈いた。
汗が噴き、嫌な予感が全身を走る。
理由は分からない。それでも、これは真実だと確信できた。
ソルは飛び起き、着の身着のまま戸口へ。
何があるか分からない。農具入れから鉄の鍬を掴む。外へ飛び出した。
目指すは、ララの家の近くの物見櫓。
広い町でアルフを見つけるには、見るしかない。
梯子の木が掌にざらつく。上で風を吸う。灯りがまばらだ。いつもより光が痩せている。
ソルはまぶたを細め、夜を注ぎ込む。遠くの輪郭が明瞭になり近づく。眼窩がじんと焼ける。長く続ければ視界が乾いて割れる——それでも。
広場。子ども。その前に、背を丸めて立つ影。
そして、影を覆う影——巨大な魔狼。
(……じいちゃん!)
遠く、狼煙のように黒い靄が伸び、位置を変える。根元にはアルフの姿をみて取れた。
それが建物の影から滑り出るたび、灯りがひとつ、またひとつ痩せた。
戦況は一進一退。人を庇う余地は少ない。町は、今夜ばかりは負けている。
ソルは梯子に身を投げた。
「ソルくん! 何してるの!? 外は危ないよ、こっちへ!」
隣家の窓から、ララと母の声。
この状況で声を上げれば危険だ。それでも、彼女たちは躊躇なく呼ぶ。
「……ありがとうございます。でも、ごめんなさい!」
「ソルくん!」
少年はその声を振り切り、鍬を握り締め、闇へ走った。