1.失われた月と照らす太陽
少年はもがいた。
夜空だ。上にも下にも星が散り、頭上には丸い月がふんわりと浮かんでいる。月はやさしく、こちらを見つめていた。その視線に包まれているのが、なぜだか心地よい。
やがて、異変に気づく。
腹から脚へ、どろりとしたものがまとわりついている。腹の中心から流れ出ているらしい。手で押さえる。止まらない。
少しずつ、少しずつ、体から熱が抜けていく。意識がほどけ、体の自由もきしむ。
そこで、声がした。
《……ボクは、キミと繋がった》
少年か、少女か、聞き分けられない声。
「あ……ぐ……」
声が出ない。かすれる喉で、顎だけが震えた。
《背負わせてしまうけれど、やっと見つけたんだ。ごめんね》
誰だ。ここはどこだ。夢か、現か——考えが形になる前に、
(……体が)
不意に体温が戻る。指先に力が戻る。
同時に、月の光が薄れていった。
それがひどく悲しくて、少年は手を伸ばす。
「待って……行かないで……」
懇願もむなしく、月は霞み、消えた。
暗闇に、星だけが瞬いている。
頬を伝う温かい涙が、その光を一瞬だけ弾いた。
《さあ、行って。しばしのお別れ》
声は、それだけを告げた。
「——!」
布団を蹴って起き上がる。ソル・ウェスペル。心臓が跳ね、季節外れの汗が額に滲んでいる。
「……変な夢」
独りごち、隣の寝床をのぞく。温もりはもうない。祖父はもう起きているらしい。
部屋には光が一切ない。窓は板でふさがれている。
暗がりの中でも、ソルは迷いなく動いた。質素な上下に着替え、鏡の黒をのぞき込む。
深い黒の髪、黒い瞳。目元を隠すように伸ばした前髪。寝癖を手ぐしで押さえる。
不意に扉が開き、朝が流れ込んだ。
「——ソル?」
低くしわがれた、老人の声。
「うわっ、起きてるよ! すぐ行くから!」
白が刺す。ソルは腕で顔を庇った。
「すまん、まだ使っていなかったか」
声だけを残して扉が閉まる。闇が戻る。
ソルは息を吸い、指先で空気をなぞった。
じわり、と夜が生える。押し潰した煤のような靄が、もぞりと形を取り、彼の瞳へ沈む。
痛みが引く。輪郭が戻る。
日中、彼はこの遮光の魔術を瞳に掛け続けている。そうしなければ、目を開けていられないのだ。
「……よし」
扉を開ける。朝の光はもう敵ではない。
短い廊下を抜け台所へ。小さな卓には黒パンと鍋。祖父の姿は、庭。
ソルは黒パンをスープに浸し、口へ運ぶ。沈んだ野菜と欠けたチーズも手早くかき込み、外へ出た。
木造のボロ屋を背に庭へ出ると、鍬を持った男が畝のそばに立っていた。
「じいちゃん、おはよう。今朝は少し暖かいね」
「ああ。今朝のスープはうまかったろう。エマさんに教わってな」
「うん。いつもありがとう」
アルフ。白髪を短く刈り、土に馴れた手。浅黒い肌に茶の瞳。ソルの、たったひとりの家族だ。
祖母は遠い昔に、父は彼の生まれる前に、母は五年前に亡くなった。
九つのソルは、祖父と二人暮らし。裕福ではないが、彼はこの暮らしが好きだった。
「もう畑は終わり? 一緒に起こしてくれたら良かったのに」
「日も出ぬうちにか。よく寝ないと大きくなれんぞ」
「いいの。忙しいでしょ? 手伝わせてよ。昨日も遅かったくせに」
「じいちゃんはお前ほど寝んでもいい」
「そんな嘘ばっかり。……それに、学校なんか行かなくても——」
「またそれか。お前は賢い。剣より筆で食いなさい」
このやり取りは、何度しただろう。
剣の稽古は嫌いではない。けれど——
老いた背に、昼も夜もなく働く祖父の影を見ると、歯噛みした。学費がなくなれば、少しは楽になるのに。
祖父は戯れに剣を教えたことを、今は少し悔やんでいるふうでもあった。
「ほら、学校の準備。じいちゃんも頑張る、だからお前もしっかりな」
「……はーい」
城壁に囲まれた町、サイノン。
都市と言って差し支えない人波の中で、ソルの家は南の高台の貧民街にある。
木造の家々。口を開け空を見つめる浮浪者。見慣れた風景を横目に、北側の学校へ向かう。
肩を落とし、背中を丸め、石造りの路地を縫う。
活発な年頃が、そう見えないのは異様だろう。だが住民は、もう見慣れている。
角で、二人のローブ姿とすれ違った。髪はレンガ色と暗いオリーブ。足取りがせわしい。
「今夜は新月だ。街灯、また落ちたぞ」
「瘴霧が濃い。代わりを急がないと」
その一言に、ソルの背中がひとりでに縮む。
瘴霧——夜にどこからともなく現れ、魔物を連れてくる黒い靄。朝とともに消える。
ソルが使う靄と、よく似ていた。
通りの子どもが、指さして小声で囁く。
「見た? あの黒い目……」
「しっ。聞こえるよ」
ソルは前髪を指で押さえ、歩を速めた。
ローブの男たちの髪や瞳は、魔術師のしるしだと聞く。力が強いほど、色は鮮やかになるという。
ソルは、黒い。
元は栗の髪に茶の瞳だった。それが、母が亡くなった夜、ひと晩で変わった。
黒になることなど聞いたことがない、と言ったのは誰だったか。
噂はすぐに形を持った——悪魔、背信、母殺し。声は、今も足首に絡みつく。
校門の手前で人だかり。
耳を澄ますと、昨夜の魔物が校舎を一部壊したらしい。今日は休校だという。
(どうしよう……じいちゃんも仕事だし)
肩を落として踵を返すと、よく知った声。
「よー、ソル!」
「ダリル君!」
ダリル・フォルティス。町長の息子で、学年の顔。快活で、おおらかで、好奇心のかたまり。
入学のころ、皆が距離を置いたとき、彼だけが言った——“ダッセーな。みんな親の言いなりかよ”。
その一言で、ソルは救われた。
「休校だってよ! ラッキー!」
「ダリル君は帰るの?」
「まぁな。父さんが家庭教師呼びやがってよ。……それより聞いたか? 王都に、所属不明の無人の鉄の船が漂着したって!」
「聞いたよ。信じられないけど……本当なのかなぁ」
「本当だって! 時間ないから行くわ。また明日話そうな!」
「うん、またね」
手を振って別れ、ソルは帰路につく。
ソルは毎日、帰り道を変える。視線を分散させるためだ。
それでも、いつもと違う時間の町は新鮮だった。あちこちに人だかりができていて、それを避けて歩く。
ふと、路地の奥からパンが焼ける甘い匂い。鼻の奥がくすぐったい。
その直後、ぶつかるような音と、怒鳴り声。
「なんだ……」
胸がどきりと跳ねた。変則的な一日に、高揚が混じったのかもしれない。
足は、音のする方へ向かっていた。
井戸があり、二つの影がある。
「おい爺さん! これ、洗っとけって言ったよなぁ!」
ひとりが、しゃがみ込む老人に靴のようなものを投げつけた。
「……奥方様から仰せつかった仕事を終えましたら、と——」
「あぁん? 口答えすんな。さっさとやれっての!」
「申し訳ございません。すぐに……」
「ったく。これくらい出来てもらわないと困るんだよ!」
丸々と太った中年男が、老人に悪態をつく。
ソルの足は、地面に縫い付けられたみたいに動かなかった。
胸の奥がざわつき、名前のない怒りが形を取る。
背を丸め、頭を下げるその老人が——
いつもより、小さく見えたから。