1話 不調の天才狩人
「なぁ知っているか? 昨晩、紅い月が出たことを」
男はパンを一口かじり、コップの水でそれを流し込むと、向かいの席に座る妻に尋ねた。
「えぇ……。村中が騒ぎになっていますもの」
妻はコップに両手を添えながら、目線を落として答える。
いつも通りの朝を迎えられなかった所為か、静寂の室内に相反して、二人の心は穏やかではなかった。
家の外では、ここアーテミス村の人々が集まり、井戸端会議をする声があちらこちらから響いていた。
いや、その規模はもはや、井戸端では済まないものかもしれない。
議題は推測するまでもなく、件の紅い月についてだろうと夫婦は思う。
何故なら自分たちも同じ話題を取り上げているからだ。
「それにしても驚きですね。前の魔王が倒されてまだ10年しか経っていないというのに、もう新たな魔王が誕生したなんて……」
「あぁ全くだ。今回は早く討伐されるといいのだが……」
夫は妻の意見に賛同すると、コップの水面を眺める。透明なはずの水から真っ暗な自分がこちらを見つめていた。
と、そんな時だった。
「ただいま」
「ただいまぁ!」
「あぁ、お帰り」
「お帰りなさい」
二人の息子たちが帰宅してきた。
背の高い青年の方は、鼻と口元を黒い布で覆い隠しており、左手に長弓と短弓を、背中には数本の大きな矢が入った矢筒を装備してる。
一方で青年の3分の2くらいの身長である少年は、背中に数本の小さな矢筒を背負いつつ、首元に矢が刺さっている小さな動物を両腕で抱えていた。
すると、少年は嬉しそうに両親のもとへ駆け寄る。
「ねぇねぇ見てよコレ! 初めて射抜いたんだよ!」
「へぇー、そりゃあすごいなぁ!」
「よく頑張ったわね、アレイ」
母は右手でその少年――アレイの頭を撫でる。
アレイは母親の手の感触に、満足気な笑みを返していた。
だが、その一方で。
「どうしたアズメ……今日は捕れなかったのか?」
「あぁ、今日は何だか調子が出なかったんだ……」
「今までほとんど外してこなかったお前がなぁ……。珍しいこともあるもんだ」
兄である青年――アズメは、獲物を一つとして得られず、布の裏でただ唇を噛み締めていた。
アズメことアズメ=ハンテルは、代々狩猟を生業とするハンテル家に、その長男として生まれた。
家系が家系であったが故に、アズメは齢10にして父と狩りのお供をするようになった。
そして12歳の時、短弓を片手に狩りに参加。それから一気に狩人としての才能を開花させ、17歳となった今では村屈指の狩人として村人から畏怖されるまでに成長した。
彼は特に弓術に長けており、一度お得意の長弓を握れば、約300メートル先で駆け回る動物さえも射抜くことができたという。まさに、狩猟の神が生まれ変わったかのごときだった。
だが、そんな彼には一つ弱点があった。それが。
「……また、喘息が出たのか?」
そう、この天才は生まれつき喘息を患っているのだ。
そのため彼は、基本的には黒い布で鼻や口元を覆い隠して、アレルギー症状の原因となる物質を吸い込まないようにしていた。
他の狩人は猟犬を従えて落とし穴に誘導するなど、効率良く狩りをする中、アズメだけは猟犬を連れないのにもそうした理由があった。
だがそのおかげで、彼は自力で獲物を射止めることに特化し、弓術だけで村一番の狩人にまで成長できたのだから、皮肉なものである。
「それについては大丈夫だよ。最近は治まってるみたいだし」
「そうか。それならよいのだが……あまり無理はするなよ?」
「あぁ分かってる。悪いな父さん、心配かけて」
そうは言ってくれるが、父にとっては心配で仕方なかった。たとえ喘息持ちであろうとも、この鳶の息子は鷹であった。それ故に、この鷹は毎日のように獲物を捕らえてきた。
しかし、そんな鷹が今日、何の獲物も持たずに帰宅した。アズメにとっても父親にとってもショッキングな出来事だった。
一方の弟は初めて獲物を射止めるという快挙を成し遂げたというのに。
それ故か。
「……なぁ、もしかしてだが、紅い月の所為なのではないか?」
息子の不調を心配した父親は、どうにか他の何かに因果関係を持たせようと、その可能性をアズメに提示する。
しかし。
「いや、それは偶々だと思う。そもそも俺は昨晩もいつも通り眠っていたし、その紅い月を見てないんだ。仮にそれを目撃して心が動揺したとしても、それは一時的。そんなのでいちいち心を乱されたりはしないよ。それに、狩りに出てしまえば集中して月のことなんて忘れるだろうから、大した違いじゃなかったと思う。だから本当に今日は偶々実力を発揮できなかった俺が悪い。それだけだよ」
狩りに対して真摯に向き合うアズメは、他のモノの所為にしようとせず、己の実力不足だと主張した。
そんな息子の姿勢に納得したのだろうか、父は。
「……そうか。それならまた次回頑張りなさい」
それだけアズメに伝えると、それ以上は何も言わなかった。
アズメは胸の騒めきに違和感を抱きつつも、無言で頷いて片付けを始めた。
「そういえばお父さん。村のあっちこっちで聞こえたんだけど、魔王とか紅い月ってなに?」
母に獲物を預けてきたアレイが、不思議そうに父に尋ねた。
父は、アレイが知らないのも無理はないかと思う。なぜなら、前の魔王が滅ぼされたのは10年前なのだが、アレイはその直後に誕生しているからだ。
そのため、父は息子に対して優しく説明する。
「そうだね……魔王ってのはね、簡単に言えば悪いヤツだ」
「悪いやつ?」
「そう。魔王は魔族っていう種族のリーダーで、ソイツらは人々からありとあらゆるものを奪っていくんだ。家とか財宝とか……はたまた命さえもね」
父親の説明に、少年は目を大きく見開き、身体を強張らせる。
一方でアズメは長弓の手入れをしながら、騒がしくなる音に耳を傾けていた。
「そして、その紅い月は新たな魔王が誕生したことを表しているんだ。本来なら、前の魔王が滅ぼされてから次の魔王が誕生するまで100年近く間が空くのだけれど……どうしてか今回は、たった10年で魔王が誕生してしまったみたいなんだ。それも、つい昨日の夜にね」
「そ、それじゃあ今回の魔王は、今までのよりとんでもないヤツなの?」
「さぁ、それはお父さんにも分からん。なんせ今回のような事は類を見ないからね」
父の言葉に、アレイは身体を震わせ始める。
当然だ。得体の知れない存在が異例の頻度で復活した上に、自分たちのことを襲ってくるなど、少年にとっては恐怖そのものでしかないのだから。
そんな、すっかり恐怖で満たされてしまった息子を安心させようと、父は一つの話題を切り出す。
「でも大丈夫だよ。たとえどんな魔王が現れたとしても、勇者さんたちが魔王を倒してくれるから」
「勇者さんたち? それって誰なの? どんな人たちなの?」
「それはね――」
と、父が説明しようとした時だった。
――コンコン。
「ごめんください」
玄関の方から、ドアを叩く音と何者かの声が聞こえてきた。
「ふぅむ。こんな朝から誰だろうか?」
「父さん、俺が出るよ」
そう言うとアズメは長弓を壁に立て掛け、玄関に近寄る。
「はい、どちら様で?」
そして玄関の扉を開くと、そこに居たのは。
「初めまして。アズメ=ハンテル様はいらっしゃいますかな?」
修道服を身に纏った老人と、それを守るように付き従う騎士の集団だった。ただ事ではなさそうな様子に、後ろで座っていた父もまた立ち上がってアズメに近づいて来る。その上、獲物を解体していた母までもが様子を見に来た。
騒ぎの正体はコレだったのかと、アズメは納得する。
「アズメ=ハンテルは俺ですが、何かご用でしょうか?」
「えぇ、実はアズメ様にお願い……というよりもご命令を預かっておりまして」
老人は神妙な面持ちでハンテル一家に告げる。
その様子に一家もまた、何を言われるのだろうかと身構える。
やがて老人は彼らの顔を見渡すと、一つ息を吐いて、その命令を告げた。
「アズメ=ハンテル様。貴方は勇者に選ばれたので、魔王討伐に赴いていただきます」
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