夜。時々、昼。
常に胸の中のしこりを気にして生きている。この胸のしこりの名前がなんなのか、なんと表現したらいいのか分からない。誰も知らない。分からない。ただひたすらに人生を歩んで行く度に、苦しみを伴いしこりは大きくなっていく。このしこりと苦しみは自分だけなのか。そう孤独に苛まれる日々を過ごしている。
曲がりなりにも25年。人間として生きてきて、この形容しがたいしこりの名前だろう言葉にいくつも出会ってきた。不安。ストレス。抑うつ。パーソナリティ障害。統合失調症。いわゆる精神病と呼ばれる数多くの言葉。若者言葉やネットスラングと呼ばれるものも中にはあった。メンヘラや厨二病。そんな言葉でも、この胸のしこりに名前が付けれるなら何でも良かった。きっとこれだろうと思った言葉でさえ、何か違和感があった。そんな言葉で片すことの出来ない。このしこりから来る苦しみはこの程度の言葉では許容出来ない。そんな風に思ってしまい。否定してしまう。そして次第にしこりは大きくなり苦しみは増していく。そもそもこのしこり。いつからあるのか。なぜ出来たのか。それさえ思い出せない。恐らく物心着いた時にはもう既にあったのだろう。あまりにも胸のしこりの存在感は大きいため、そう感じてしまっても仕方がない気がする。
小学生時代の自分は胸のしこりかなり小さかったと思う。将来やりたい事もしたいこともなかったが、勉強は授業を受けてればある程度は出来たし、何よりも本を読むのが好きだった。分からない言葉や読めない漢字でも、似ている漢字や前後の語句から何となく意味合いが取れたり読めたりするのが好きだった。特に運動は苦手な事もあり、高学年にもなると読書に打ち込んで行った。そんな少し内気で陰気臭い自分だったからこそ、周りとの友達とも徐々に話が合わなくなっていき、友達と呼べる相手も片手で数えれる程度だった。そしてこの時からだろうか、周りの子達との差を感じるようになってきたのは。
中学生にもなるとそんな内気な自分を少しでも変え、万人に好かれようと運動部に入部し、好きだった小説は封印し、特に興味はなかったがドラマやゴシップ情報を熱心に取り入れ、いわゆる普通の中学生らしい自分へと昇華して行ったが、根が陰気臭い自分だ。次第に周りとは話が合わなくなり、収まるところに収まったな。という記憶がある。そして元々勉強は出来るという自信もあったせいか、成績は落ちた。そして周りとの差は埋まる事無く、歴然とした差になって行ったのはいうまでもない。
高校生時代には、中学生時代と同じように無理をしてもしょうがない。という少し大人の考えになったおかげもあって充実した毎日を送れていた。今まで成績も中の下ぐらいだった自分が上の中ぐらいには居る事が出来たし、好きだった読書や運動の楽しさも知れた。今思えば、高校生時代が1番楽しかったかもしれない。そして、進学か就職か選択する際、やりたい事も学びたい事もこれと言って特に何もなく、まだそこまで大きくなかったしこりを分かりながも分からないフリをして誤魔化しながら生きていた中、中学生時代叶わなかった万人に好かれる人間になれるのではと思い、心理学を学べる大学に入学した。このしこりの名前と原因を少しでも知れて理解出来ればという期待もあったのかもしれない。しかし、大学の授業で嫌になるほど学んできた知識は、このしこりの名前の正解を教えてはくれず、何1つとして役に立たない。唯一役に立つとすれば、他人の心に寄り添うふりが出来るようになったぐらい。果たして本当に寄り添えているのかずっと疑問だが、実際に心理学を学んでない他人に比べたらずっと出来ている方だと思う。しかし本当は自分に寄り添って欲しかった、自分を知ってもらい、この胸のしこりの名前を言い当てて欲しかった。しこりの名前さえ付けて貰えれば、それかこのしこりの名前を知れたらそれだけで充分だった。自分は無駄に知識をつけすぎた。そのせいで、名前を付けるタイミングを失ったのだろう。自分のしこりは大きくなる一方、このしこりとその苦しみは同時に大きくなって行って悩みの種は明確になった。
社会人になった今、誰もが知っている大手企業に営業として就職が出来た。人並みには幸せそうな日々の生活とやらを営めていると思う。しかし、そうして日々過ごす中、依然として胸のしこりは日々着々と大きくなる一方だ。しこりが大きくなっていくうちに自分という存在が分からなくなる。何をしているのか、何がしたいのか、どうすればいいのか、何が辛くて何が苦しいのか、何が悪くて何が良いのか、何が好きで何が嫌いか、何も分からず過ごしていくうちに仕事を辞めていた。仕事を辞めると上司に話をし、了承を得た際、心は晴れやかな気分だったが、数分もすれば何も考え無しに仕事を辞めてしまった自分と将来の事で焦りと不安で心は満ち満ちていた。だが初めてそこで心理学が役に立った。人生上手くは行かないがなんとかはなる。誰が言ったのかは分からないがそんな言葉が頭の中に過り、仕事を辞めた次の日には遅い自分探し兼、しこりの名前探しに向かった。真っ先に車に乗り込み向かったのは海だった。生命はこの広い海から始まったとされている。そんな母なる海を見ていれば、いずれしこりは膿のように海へと流れ、身体から毒素が抜けていく気がした。そうすればしこりの名前などもう考える必要は無い。しかし思惑とは裏腹にしこりはまるで産声を上げるかのように胸から全身に駆け巡り内側から重く張り裂けそうな感覚がずっと続き、いずれパンクしそうな気がした。自分の考えは浅はかだったと思い、翌日には世界を見渡したいという思いから地元から近い山の山頂へと向かった。空を自由に舞い美しい鳴き声をBGMに街を見下ろして居れば、しこりがどこかへ飛び立ってくれる気がした。だが実際にはそんな気がしただけで、しこりは血管から全身へ駆け巡り、まるでムカデや蛇のように身体に纏わりつく感覚だけが残った。さらに翌日にはもう何もする気も起きやしなかった。ただただベッドの上で横になるだけで精一杯だった。理由は明白で、しこりがまるで漬物置きの丸石のように大きく胸にのしかかっている感覚がしたからだ。果たしてこのしこりはなんなのか。初めてそこで自分は自分と向き合うことが出来たのかもしれない。本当はもっと幼い頃に自分と向き合うべきだった。なぁなぁで過ごしてきた自分に嫌気と後悔が襲ってきたが、もう既にそんな事を考えている余裕は無かった。そして、1日中しこりをもう1人の自分だと見立てて話を聞いてみることにした。何が辛いのか。何が苦しいのか。何がしたいのか。なぜずっと自分の胸に居座って居るのか。ありとあらゆる疑問を投げ掛けてみた。結果として分からないことの方が多かった気がするが、1つだけ明確に分かった事があった。それは自分が自分を好きでは無かったという事だ。海も山も空も、どんなに暴走をしていたであろう自分のそばにいてくれていた友人達も全て綺麗だった。輝いて見えていた。自分は世界が好きだったんだ。しかし、だからこそ自分は何も無い。夢も希望も主体性もしたい事も何も無い。努力もしなければならないと思いつつ、自分自身甘やかし逃げて回る。そんな自分自身が醜く汚く見えていた。そんな事は心の奥底と頭の中では分かっていた。分かってはいたが、自分はその分かっていたはずの事からも逃げていた。逃げずに戦っていたつもりでいた。そうでもしなければ自分の事を自分で殺してしまうからだ。その結果、逃げて隠していた自分自身がしこりとなり自分を苦しめていた。しこりとは弱い自分だった。それを理解した瞬間、このしこりは恐らく死ぬまで一生寄り添って生きていくことになると直感した。このしこりと苦しみは今後いつまでも解消はされないだろうと。何故なら逃げて隠した自分、弱い自分はもう変えられない。変えた所でそれはこの25年間生きてきた自分を全て否定してしまうことになる。逃げて隠していた自分自身があるとはいえ、その中でも努力してきた部分は少なからずある。故に、自分を否定し新しく生まれ変わろうだなんて、そんな事は自分でさえしてはいけない。そもそも出来やしない。否定してしまえば自分の人生を殺してしまうのと同義だと感じたからだ。それならば自分で自分に寄り添い認めて生きていくほかない。故に、せめてこの弱い自分に名前を改めてつけてあげようと思う。この弱い自分の名前は「夜」だ。そしてこの「夜」が時々「昼」のように明るく自分を照らして苦しめる事がないように成長させて行こう。そうしたらいずれ、自分自身が好きになれる。自分の進むべき道を照らしてくれるだろう。
そう考えるうちに、夜は更け、自分の幼い頃の記憶を思い出していた。小学生の時の記憶だ。初めて仲良くなった友達と図書室で表紙だけで選んだ本。内容なんて分からなかったし覚えてすらないが、あの本を捲る感覚や紙の匂い。小説を書いている筆者の気持ちや姿を想像しながら読んでいた自分の姿を思い出した。
そうだった。私は幼い頃小説家になりたかったんだ。そう思い急いでスマホを開いた。小説家になろう。そう打ち込んだ私の胸にはもう夜は無い。あるのは朝日のように明るい太陽の輝きだけだった。
昔から小説家になりたいと思って生きてきました。でも自分には無理だろうと逃げてきましたが、やらない後悔よりやった後悔だし、どうせ誰も見ないし、暇つぶし程度でもいいからやってみよーかと思い、初めて書いてみました!拙い文章ですが、ここまで読んでくれた人が1人でもいるなら私としては満足です。今後とも定期的に書いて投稿していこうと思うので、読んでいただけると幸いです!