198話:名もなき騎士
死ぬのは怖いことだ。
男は自室でふと思った。
これまで名も知れていない、そして、これからも名を知られることがないであろうその若い騎士は、空を見上げながらブルリッと体を震わせた。二つの月が世界を見下ろしている、まるで足掻く命をあざ笑うかのように。
これから自分たちは死地へ赴く。
領騎士の連合隊、王宮騎士団第三部隊が壊滅した地。
今回の任務は【終焉級】、国という単位を必要とする。
雑兵など、死ぬために行くようなものだ。
(怖い…に…決まってる…。)
騎士棟にいるだけでヒリヒリする。
それほどに周囲の騎士はギラついている。
金属の擦れる音すら耳に届く、圧倒的な静寂。
手の汗が、背の汗が止まらない。
恐がっているのは自分だけか。
王宮騎士団はエリートの集まり。
きっと死の恐怖などないに違いない。
以前、こんな噂話を聞いたことがある。
今や知らぬものなどいない我が国の英雄【ネルカ・コールマン】は、死地にこそ生還を見出し、殺しにこそ成長を見出しているのだと。そんなバカなと初めこそ疑っていたが、今なら信じることができる。
だって――
だって――――
「俺は英雄などなれやしない…ッ!」
抱く恐怖に負けている。
あまりにも、英雄などとはほど遠い。
自分の正反対こそが英雄なのだろう。
なら、噂話どおりのネルカこそ、英雄にふさわしい。
(こんな俺、たった一人が逃げても、誰も、困らない…ッ!)
男は荷物をこっそりとまとめ始めた。
同じ部屋の仲間たちにバレぬよう、こっそりと。
(何が誇りだ、何が英雄願望だ、何が守りたい人だ、バカバカしい。生きることが最優先に決まってるだろ。情けないと嘲笑えばいい、臆病者だと罵ればいい、弱者であると見下せばいい……それでも生きてるやつが正義だろうが! だいたい、俺がここにいるのも家のコネのおかげだ。第二部隊で、護衛任務で、でも何も起きない……そんなぬるま湯を……求めていただけの俺が……いきなり【魔の森】の討伐に参加しろなんて、無理に……。)
そんな時だった――
なにやら騒がしい。
いや、間違いなく訓練場の方が騒がしい。
おかしい、この空気の中で騒がしいはずがない。
誰かの気でも狂ったか?
だが、騒がしい声はあまりにも堂々としている。
恐怖でも、励ましでもない。
まるで、戦うことが当たり前かのような。
まるで、戦うことが生物の本能であるかのような。
まるで、俺らの背を理不尽に押してくるような。
闘争に理由などない、そんな騒がしさだった。
(誰だ…?)
廊下なら、訓練場が見える。
男は荷物をまとめる作業を中断して廊下に出た。
隣部屋の仲間たちも廊下に出てくるところだった。
訓練場に二つの人影。
目を凝らす。
「えっ!?」
そこにいたのは――ギウスレアとマーカスだった。
金と銀、国は違えど同じ王の子という立場。
『フハッハ~、見よ、双月が俺を祝福しているぞ!』
『いいねぇ、いいねぇ! 酒がすすむってもんだな!』
いつも通りのギウスレアと、酔っ払いのマーカス。
まさかの二人の組み合わせに一同は目を疑った。
「ふむ、王国に来てからというもの、これほどに人生が楽しいと感じたことはない。良いぞ、マーカスよ、貴様も我が友にふさわしき者だ! 俺の背中を預けてやろう、だから、俺に背中を預けよ!」
「ほぉ? 随分と思い切ったこと言うじゃねぇか。怖くはねぇのか?」
「怖いだと? ふん! 答えが分かり切った質問をするな。」
小馬鹿にするように鼻を鳴らすギウスレア。
対して、マーカスは神妙な顔でその目を見た。
「……ってことは?」
ゴクリッ――それは誰の喉の音だろうか。
男のものか、それとも周囲のものか。
いや、ギウスレアを見るすべての者から発せられた音だ。
それぞれが顔を見る、それぞれの心を見た。
(そうか、怖いのは皆が、そうだ。)
今先ほどの喉の音は、恐怖の音。
ギウスレアから否定の言葉が出ることに恐れた音だ。恐怖を抱くことの否定など、自分たちにとっては人格否定にも等しい行為なのだから。
きっと、ギウスレアは死など恐れていない。
だから、自分たちの気持ちなど理解できない。
それを突き付けられるのが、何よりも恐ろしい。
弱肉強食の隣国、それがパラナン帝国。
そんな信条の体現者、それがギウスレア皇太子。
ギウスレアが口を開く――
「――怖いに決まっておろう。」
えっ? その呟きはすべての者から放たれた。
マーカスさえも驚きに目を開いていた。
「死ぬことを恐れぬ者は、死にたい者か、狂った者だけだ! まっとうに生きたい者にそんなバカなどおらん! 」
「そう、か…。そうかもな。」
「だがな、俺たちは、死よりも恐ろしいことがあることを知っている。」
「あ? 死よりも恐ろしいこと? 例えば、あー、そうだな、誇りを失うだとか、愛する者が死ぬだとか……そんなとこか?」
「過程であれど、結論ではないな。」
ギウスレアは立ち上がると両手を広げる。
月の光の演出が、彼の金髪を輝かせた。
「――心が死んだまま、生き続けることだ。」
誇りが死ねば、心が死ぬ。
大事な者が死ねば、心が死ぬ。
虚無のまま生きるつもりか。
甲斐のない命に、価値などない。
だから、進め。
「ハッ……ハッ…ハッ…!」
名もなき騎士の胸の奥が、ドクンと鳴った。
それは自分だけの鼓動のはずなのに――隣の者の胸の音と重なり、周囲の気配と共鳴しているように思えた。
死んでいた。
自分たちの心は、今、死んでいたのだ。
そして、ギウスレアの言葉で生き返った。
呼吸の仕方を忘れていたかのように、息が定まらない。
ギウスレアはそのまま言葉を続けた。
「だがまぁなぁ、そんな曖昧なことのために、明確な命の死に向かうのも尻込みする……という気持ちも分からぬわけではない。だから、戦士には指標が必要だ。それこそが誇りだとか、愛する者だとか。」
「なるほど、その考えはおもしれぇ。だが、人にとってはその指標すら『その程度の指標』になっちまうときだってある。その場合は、どうする?」
「俺が指標になってやる。」
「はぁ?」
ドンッとギウスレアから魔力が発せられた。
推進力が発生し、周囲では風が舞う。
その勇猛さに、マーカスは思わず笑みを浮かべた。
人々は、彼の姿を見て――立ち上がる。
人々は、彼の姿を見て――気を昂ぶらせる。
人々は、彼の姿を見て――恥を覚える。
人々は、彼の姿を見て――背を押された。
呪具など関係ない。
あれこそがギウスレア皇太子。
理屈など関係ない。
自分たちは魔の森へと向かう。
恐怖など関係ない。
心を殺すな、生を全うせよ。
「この帝国が皇太子であるギウスレア・パラナン・ガレット、この俺の背中こそが指標だ! 有無など言わせん、俺の背を見れば、勝手に貴様らは着いてくる! さすれば迷うことなどない!」
気づけば、名もなき騎士は訓練場へと降り立っていた。
否、男だけではない、すべての騎士が集まってきたのだ。
そこで、マーカスは酒瓶片手に、騎士たちを見回した。
彼の顔は険しく、どこか怒りを含んでいた。
「おい、まさか、ギウスレアの背を見るために集まったってか?」
「「「「…………。」」」」
「てめぇら! 帝国の皇太子に負けてなんからんねぇよなぁ!?」
「「「「……ォォ……。」」」」
「指標だと? 馬鹿馬鹿しい! ちげぇだろ、俺らだ、俺らこそが指標だろ! 他の誰でもねぇ。ここはベルガンテ王国、俺らの国だろうが!」
「「「「…ォォォォ…」」」」
言ってることは滅茶苦茶にもほどがある。
ただの勢い、ただのゴリ押し、ただの強制。
怖いものは怖い、それは変わらない。
なのに、どうして胸が熱くなるのか。
恐怖を凌駕する圧倒的カリスマ。
それがマーカス・アランドロ・ベルガー。
それがギウスレア・パラナン・ガレット。
「オオォォ!!」
名もなき騎士は両手を振り上げ雄叫びを上げた。
それを合図に、ゴオォッと大歓声が響き渡る。
「「「マーカス殿下! マーカス殿下!」」」
「「「ギウスレア! ギウスレア!」」」
死の森がなんだ。
厄災級がなんだ。
栄光か? 栄誉か? 栄華か?
何のため? 誰のため? いつのため?
死か? 生か? 勝ちか? 負けか?
分からない。
分からないからこそ悩むのだ。
分からないことが怖ろしい。
納得、覚悟、愛――なければ前に進めない。
だが、それでいい。
縋る過去も、掴む未来も、駆ける今だってない。
臆病者で、情けなくて、弱者なのが自分だ。
だが、
しかし、
あるいは、
それでも、
ここには確かに、
――英雄がいる。
それだけで、いい。
「待っていろ、魔の森の化け物ども。俺らが行く、終わらせに――今度こそだ!」
名もなき騎士は双月に吠えた。
心を生かせ。
【皆さまへ】
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