192話:アリス オブ ワンダーランド⑨
大変申し訳ございませんが、しばらく休止させていただきます。可能な限り早めに復帰したいとは思っております。
アリスという少女は幸せ者である。
例え日の光に弱い体であったとしても、例え他人とは違う見た目だとしても、例え屋敷から出られない毎日だったとしても、例え暴挙と化した町民に襲われようとも、例え異空間で数百年も過ごそうとも――彼女はまごうことなき幸せ者だった。
だって彼女は幸せだから。
幸せだと感じているから。
そこに第三者の評価など介在するはずもない。
なので、彼女は目の前で繰り広げられた父親とエルスターの言い合いなど、何となく理解はできるけど深く理解しようとは思わなかった。誰がどう言ってこようが、自分は幸せだから無関係な話ということだ。彼女は染まらない、純白の心を持っているから。
だが――
「――愛しています、ネルカ。」
心が揺らいだ。
エルスターの瞳の中に宿っている純黒が、彼女に濁りを与える。
そう、彼女は愛されて育った少女であるが、いずれの愛も『純白な愛』。そうでなければ、アリスはここまで白でいられなかっただろう。だからこそ、同じ『純』同じ『愛』なはずなのに、真っ黒で未知な『純愛』に惹かれてしまったのだ。よりによって性根が腐り捻じ曲がっているようなエルスターの純愛に。
アリスは綺麗な幸せ者であるが、汚い幸せを知らない。
『パパママ! 殺さないで!』
『『アリス?』』
どれほど怒り狂っていようが、それでも最優先はアリスである。こうしてエルスターの首がほんの少しだけ解放されると、その少しの隙間を全力で使おうと肺と心臓が活発化する。未だ視界が朦朧とする中、意識も完全に回復しておらず、アリスたちのやり取りを冷静に聞き取ることなどできやしなかった。
『ねぇ、ネルカって誰?』
だからこそ彼はアリスが近づいていたことに気付かない。
問いに対して吟味することなどできやしない。
素直に、本能のまま、思わずに、言葉が漏れる。
「私の…最愛。未来の…妻…です。」
彼女は再びエルスターの目を覗き込んだ。
やはり、アリスはその目を、その愛を知らない。
アリスの両親は他人への配慮は欠如しているが、『アリスへの家族愛』という観点で言うなれば模範的な人間である。アリスの使用人たちも他人への配慮が欠如しているが、『アリスへの慈愛』という観点で言うなれば模範的な人間たちである。
だが、どちらも――与えるだけの愛だ。
誰も――アリス『から』求めない。
誰も――アリス『から』求められない。
「彼女は…ッ、私の…『唯一』。」
対して、エルスターはネルカに愛を与え、愛を求める。
ゆえに恋愛とは、純黒の愛なのである。
――与えたくて、与えられたい。
――そばにいてくれるだけでいいのに、求めたい。
――笑ってほしくて、怒ってほしい。
――支えたくて、支えられたい。
――自由でいてほしくて、縛りたい。
――支配されたくて、対等でいたい。
――他人を気にかけてほしくて、自分だけを見ていてほしい。
――満たされて幸せで、飢えて渇く。
この感情は決してデイン殿下には向けられないものだし、ネルカに対してだって最初からあったわけではない。知らないうちに発生していた感情であり、矛盾だらけなのに成立しているという複雑な感情――『恋愛感情』である。
『会ってみたい……私、ネルカに会ってみたい!』
生体の整いが進んだエルスターの意識が、徐々に鮮明なものになってくる。どうして目の前の少女の興味がネルカに移ったのかはそれでも分からないが、尽きかけていた絶望に一縷の光が差し込んだことだけは理解できた。そして、この負傷と激痛と拘束の中で彼ができるのは口を動かすことだけ。
『おい、アリスが会いたがっているッ! 娘について話せッ!』
「街に、まだ、いる…ケホッ…はず。身長が高く、赤髪、凛々し…い、ですかね。もしかしたら、全身が漆黒、かも、しれません、ので、髪色は、分からない、クッ、かも。」
『おぉ! そうかそうか、アリスや、任せておくれ!』
『その女をここに連れてくるから、ね?』
『うん! ありがとうパパ、ママ!』
そう言うとアリスの父親の姿は消え、彼女を一人にしないように母親と白塗人間が留まる。変わらずエルスターは拘束された状態で、マエロは何か琴線に触れないようにと沈黙を維持している。
そんな中、アリスはエルスターの顔を覗き込んでいた。
彼からこぼれる言葉を期待している。
だから、彼はその期待に応えることにした。
「知っていますか? 悪い子の元に来る、恐ろしい存在の話。」
『え?』
会いたいと言ったのだから、望み通り会わせてあげよう。
美しく、カッコよく、恐く、畏れられし存在と。
「その名も――死神鴉。」
次の瞬間、アリスの背後で世界が割れた。
窓が割れるように、破壊され、穴が開いたのだ。
振り返った彼女の視界に映るのは、大鎌を持った漆黒の怪物。
そして、霧散していく自身の父親の姿。
「エル! 迎えに来たわよ!」
アリスの世界に――異物混入。
― ― ― ― ― ―
死神はね、鎌を持っているんだよ。
斬られるとね、肉体と魂を分離させれるんだって。
だけどね、死神は鎌を使わないって知ってる?
だって人間には寿命があるんだから、死神が何もしなくてもいつか必ず魂だけになっちゃうもん。そして、拾った魂を洗って綺麗にして、記憶も記録も一切なくした状態にしたあと、またこの世界で利用するんだ。
そんな死神には、ペットがいるの。
世界中から魂を集める役割の【鴉】がいるの。
【鴉】たちは皆、主である死神が大好き。
** * * *
ある日――一匹の【鴉】が死神に言ったんだって。
「世の中には生きていてはいけない存在がいるはずです。どうして貴方様はその鎌を振るわないのですか? どうして貴方様は穢れた魂を優先して綺麗にしないのですか? どうして貴方様は神なのですか?」
その【鴉】は死神が大好きだけど、だからこそ理想を抱いていました。
崇高で高尚で尊敬に値する存在、それが神なのだと思っていました。
だけど、死神は黙って苦笑するだけ。
だけど、死神は生者の死を待つだけ。
だけど、死神は神であるだけ。
そういうものだから、そうなのでした。
「もういい! やってやる!」
その【鴉】はことあろうか鎌を盗み出すと、どこかへ飛び去ってしまいました。そして、穢れた魂を見つけては刈り取り、綺麗な魂にするために魂を磨き続ける毎日が始まります。しかし、どれだけ磨いても一向に奇麗にならない魂に、【鴉】は段々と怒りが募ってきたのです。どうやったら死神のように魂を綺麗にすることができるのか。
そこで【鴉】は気付いてしまったのです。
――死神が綺麗にした魂は、透明の魂ではない。
――死神が綺麗にした魂は、無色の魂であったと。
死神は――ただ【始まり】に戻していただけ。
「だけど! 私なら! できる!」
【鴉】はただひたすらに魂を刈り続けた。
【鴉】はただひたすらに磨き続けた。
決して無色で妥協せず、透明を求め続けた。
だって【鴉】は、綺麗に光る物が大好きだから。
だけどね、それはね、記憶と記録が残ってるってことなんだ。
死んでもね、死んでいないってことなんだよ。
意識がなくとも死の恐怖は残り続ける。
謝罪する体もなければ、泣き叫ぶ体もない。
――永遠の罰が訪れる。
だから気を付けて。
悪い子の元には――【死神鴉】がやって来る。
『死よりも恐ろしい死』がやって来る――。




