191話:アリス オブ ワンダーランド⑧
――アリスの胸を、刃が貫いた。
マエロの視界の奥、それはアリスの背の先。
息の荒くしたエルスターが立っている。
彼の手に握られているのは、剣だった。
その刃はアリスの心臓を貫いている。
『どうし、て…。』
アリスは知らない。
マエロとエルスターが出会った部屋は、ここの隣――と。
エルスターが剣を捨て置いたのは、まさしくその部屋――と。
二人は迷子の末に、この部屋に回り戻る道を知っていた――と。
マエロが投げ捨てられたのは、アリスだけを留めるため――と。
エルスターは全力疾走により、彼女の両親をまいた――と。
「くたばれ、クソガキ。」
そして、そんな殺意にまみれた言葉を、アリスは全く知らない。
「しかしまぁ、マエロは恐ろしい子ですねぇ。最高の作戦でしたよ。」
そもそもの話としてマエロからの声掛けがなければ、余裕のないエルスターでは思いつかなかった計画だろう。それどころかエルスターが彼女をベッドに投げ捨てるとき、自身から捨てられやすいように動いていたほど。
エルスターが動かされた、と言っても過言ではないのだ。
ただどこにでもいる、普通な少女の殺意によってである。
そんな中――
『やだ、やだよ、アリス、嫌われてるの? そんなの、いやだ。』
前と後ろ、挟まれる嫌悪感にアリスは恐怖していた。
だが、ここまで来ても彼女は自分の悪性を一切に信じていない。
彼女の思考の中では、悪逆非道な理不尽による暴力を『受け』たのだ。
「やだもクソもありませんよ。自業自得、ざまぁみろですねぇ。」
『アリス、いい子だよ。う、うぇ…ヒック……うぇぇぇん!』
「ハァ……もう泣きわめいても遅いのに。」
『許さない……絶対に、絶対に、悪い奴は許さないッ!』
「ですから、あなたの心臓には剣が……剣が――?」
アリスの心臓には剣が突き刺さっている。
それは間違いの無いことのはずなのだ。
だったらどうして――アリスは泣きわめくことができている?
そもそも『神隠し』という現象は百年以上も昔から観測されているのだから、アリスもまたそれだけの年数を存在しているということになる。なのに、目の前にいるのは生き死にどころか幼い子供のままである。どうしてこのことに疑問を抱けなかったのか、エルスターは自分の視野の狭さに怒りを覚えるのだった。
「ッ!?」
エルスターは刺している剣を振り上げ、アリスの胸から肩にかけてを切り裂く。だが、その感触はあまりに軽く、その景色はあまりに無だった。アリスの心臓の箇所に何かがある、おそらくはこの世界の核なのだろう――あまりにも非物質的だった。
答えは明白。
――肉体などすでに捨てていたのだ。
遊ぶために必要だからと肉体に似せた器こそ用意されているが、その器の破壊には何の意味もない。つまるところ、死者を殺すことができないエルスターにとって、初めから詰んでいた確定負け戦だったということなのだ。そんな事実に彼は全身に冷える感覚が巡り、もはや冷や汗すらも流れないほど渇いてしまう。
『パパ! ママ! 悪い人、やっつけて!』
エルスターの腹部と右前腕に激痛が走ったかと思うと、首の圧迫と共に体が壁に押さえつけられる。変形した屋敷の一部が変形して彼を貫き、そして拘束したのだと気付いたころにはアリスの両親が彼の目の前に立っていた。
『アリスはねぇ、可哀想な子なんだ! 虚弱であるということが、どれだけ不幸か! 人と違うということが、どれだけ不幸か! それを踏みにじるような行為を、あなたはしたのですぞ! この悪魔、人でなし、人間のクズめッ!』
魂の存在でなければ、口角泡を飛ばしていただろうと思えるほどの激怒。
ギリギリとさらに首は締まり、今にも殺さんとしていた。
「ククッ…ハハハ…ッ。」
そんな状況下でエルスターは笑った。
だがこれは諦めだとか絶望だとか、そういう類の笑いだった。どう足掻いたって覆すことのできない最悪に、彼はただ笑うということしかできなかった。もういい、終わりだ、すべてぶちまけてしまおう。自分の本音をすべて相手にぶつけて、気分をすっきりさせて終わらせてしまおうという、ヤケクソ交じりの笑いなのだ。
『なにがおかしいッ!』
「いえいえ、確かに不幸だと、同意しただけですよ。」
お前らは間違っている。
アリスは可哀想でもなんでもない。
ただ幸せなだけの少女。
「周囲から可哀想な子だと認定されたことが、どれだけ不幸か…を。」
エルスターの考え方は、実はベルディゾと酷似している。
それは才能に嫉妬した者同士の終着点である。
――特別によってもたらされるのは、スタートの違い。
――才能によってもたらされるのは、道中の違い。
――努力によってもたらされるのは、ゴールの違い。
それでもベルディゾは『他人に』追い着こうとしたことで、『才能の不平等』という結論に至った。逆にエルスターは『ゴールに』辿り着こうとしたことで、『努力の平等』という結論に至っている。この違いは言ってしまえば、人の巡り合わせが良かったか悪かったか、たったそれだけのことである。
そして、『可哀想』という表現は、努力の否定である。
理不尽である平等から背を向ける言葉だ。
「あなたたちは彼女を甘やかして、幸せを提供してしまった。そのせいで、彼女は努力することを放棄してしまったのですよ。『平等』とは努力の果てにあるもので、誰かによってもたらされるのは『均等』なのです。」
『平等が努力だと!? だったらなんだ……貴様は! アリスに! 世間の悪意と闘えと言うのか! 鬼畜め! 均等のなにがいけない、それでもアリスは幸せだ!』
「努力することが正義とは思いませんよ。実際、その先に幸せがあるかなんて誰も分からないのですし、立ち向かい方が生物として正しいのかも分からないですからねぇ。だから理不尽から逃げたっていい。……ですが、今回は……立ち向かうかどうかの選択肢に入る前から、周囲が勝手に決定させていた。」
『平等』とは自然的で無情である。
だから困難。
『均等』とは人工的で有情である。
だから簡単。
だからと言って、平等じゃないと幸せになれないわけではない。
平等の道は高尚だとしても、正義であるとは限らない。
決して均等の道を選ぶことが間違いでもない。
大事なのは、誰が道を選び、どのように歩くかである。
道の選択は、個人の選択でなくてはならない。
人には、どの先にある幸せを求めるかを選ぶ権利がある。
選んだ道で失敗したとき、そこで初めて周囲の出番であるべきだ。
アリスという少女は性格からして『平等』の道で幸せになれる少女だったが、周囲が勝手に『均等』の道を進ませてしまったのだ。二つの道が交わることは基本的になく、ゆえに彼女は迷子の道に彷徨うことになってしまった。だがそれでも彼女の周囲は気付くことができず、『平等』の道で歩くことのできない――可哀想な子――と認識し続けた。
『黙れ…黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れェェェェェッ!』
「ぐぅぇ!」
喉がさらに絞まり、刺された箇所はさらに深くなる。呼吸はできず苦しくなり、痛みが思考を支配し、口からは泡が吐き出される。チカチカと光る視界はどんどん真っ白になっていき、誰も何もない景色へと変わっていく。死が近づいていた。もういい。言いたいことは言った。結局は理解してもらえなかったが、すっきりしたから構わない。
あぁ、誰かが脳裏に思い浮かぶ。愛する主人だろうか。
もしそうなら、今際の際、最後の最期、会えたのなら――
これほど幸せなことは――死ぬのも悪くない――
≪あら、仕方ない人ね。≫
否――その人物はデインではなかった。
エルスターが死に際に望んだ姿は、ネルカだった。
そして、彼は死にたくないと思った。
死にたくない。
だって、だって、だって――
「――愛しています、ネルカ。」
彼女に伝えたいことがたくさんあるのだから。。
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