ウエディングベールを被った猫
マンションを出た二人。空は晴れ渡り、頬に当たる寒風に清々しさすら感じる日だった。
「まだ、気が付かないのですか? 旦那様は、ニブチンですねぇ。スノウと言えば分かりますか?」
「スノウ? そんな、ことが……」
スノウは、私が両親を事故で亡くした直後に拾った猫だ。確か、あれもちょうど今頃、寒い冬の日だった。朝から降っていた雨が雪に変わった午後、微かなニャーという鳴き声が聞こえた気がした。
マンションと隣のアパートの狭い隙間に、冷たくなってしまった子猫が四匹。死んだと判断した親猫は、どこかに行ってしまったのだろう。最後の力を振り絞って鳴いた一匹、真っ白い雌の子猫にだけ息があった。
急ぎ、マフラーで子猫を包む。動物病院に駆け込んだ。
「回復するか否か、なんとも言えませんが、ひとまず、当院で預かりましょう。アレ? この子、目が赤い。アルビノですねぇ。たとえ一命を取り留めても、そう長くは生きられないかもしれません」
獣医師の心配をよそに、スノウはすくすくと育ってくれた。私にもよく慣れて、家に帰ると、いつも私の後ろを付いて歩く。猫なのに、ずいぶんと愛嬌がある、犬のような愛情を私に注いでくれた。
そうそう、スノウ命名の由来。ま、雪の日に拾ったことと、真っ白い毛並みから安易に付けた名前だ。だけど、ふと、あるファンタジー小説を思い出した。その物語の登場人物である、ジョン・スノウ。Bastard、非嫡出子の姓はスノウに決められているという設定だ。
ああ、身寄りのない、私、親猫に見捨てられた、彼女、なんだか似た物同士じゃないか! そう思うと、この猫が愛おしくて愛おしくて仕方がなくなってきた。
彼女は、学校から帰った私を玄関まで迎えに出て、夜は一緒の布団で寝る。全てを無くしたと思っていた、私の元に舞い降りた天使、夢のような一年だった。そう、たったの一年だった。
私のミスだ、悔やんでも悔やみきれない。これも、冬の寒い日だったが、換気が必要と判断して、ベランダ側のサッシを少し開けていた。そのまま、閉め忘れて外出してしまった、私。
随分と大きくなった、スノウは自分で網戸を開けて、外出してしまったようだ。マンションの部屋が一階だったのも間が悪かった。
スノウの不在に気付いた私は、近所を探し回ったが、とうとう彼女を見つけることはできなかった。
「あの日のことに旦那様が責任を感じる必要はありません。あたしが、世間知らずのバカ猫だったからですよ。散歩していて、あっさり車に轢かれたのです」
「え? どうして? それを、そんなことを知っている」
「もぅ、嫌ですよぉ〜 あたしがスノウ本人だからじゃないですか! 神様に人としての姿をいただいたのです」
「うーーん。でも、なぜ?」
「猫が人に恋をしてはいけませんか?」
彼女は、頬を染めてそう言った。トップアイドルですら裸足で逃げそうな表情だ。
こんな超常的なこと、あり得ない! だが、どうしても彼女が嘘をついているとも思えない。言われるがまま、行政センターの窓口に婚姻届を出す。「鈴木雪乃」なんて偽名くさい、大丈夫なのか?
「おめでとうございます」
市の職員は、何事もなかったかのように、婚姻届を受理してくれた。
続いて、地元の写真館へ。ちゃんと予約がされていたようで、私が着るタキシードも準備されていた。着替えをして二時間ほど待たされた。
純白のウエディングドレスを纏う雪乃、白銀のオーラが彼女の周りに見えた気がした。もはや百万言を弄しても言い尽くせぬ美しさだ。しばし、言葉を失う、私。
「アハハ 似合ってる?」
伏し目がちに問う、彼女。水飲み鳥の玩具のように、ただただ首を上下に振る、私。
「旦那様、旦那様、旦那様……、だ・ん・な・さ・ま!! 雪乃はスノウは、幸せだニャァ♪」
私たちは腕を組み、カメラマンに言われるまま、いくつものポーズで写真を撮った。
随分とお昼を回ってしまった。ファーストフードでの昼食、彼女はやはりフィッシュバーガーを食した。そして、新婚のごとく、いや、新婚だ。二人は寄り添うようにしてスーパーで夕餉の買い物をした。
彼女は洋食も得意なようだった。魚介類のパエリア、鯛のカルパッチョ、蛤のコンソメスープ。スープは和洋折衷、煮干しの出汁が効いていた。
夕食を終え、軽くブランデーを飲んだ。蛍光灯を消して、蝋燭の灯りの中、見つめ合う二人。今夜は新月、キッチンの窓越しに満天の星。
「ここからじゃ、よく見えないね。ちょっと寒いけど……」
一本しかないマフラーを二人で巻いてベランダに出た。新妻の細い肩を抱き、冴ゆる星を見上げる。南西の空には、街の灯りに抗いオレンジに輝くベテルギウス、青き金剛石シリウス、雪白の煌めきプロキオン。
「ああ、アレが、大猫座と、子猫座かな?」
「いやいや、おおいぬ座と、こいぬ座だろう?」
「猫でいいのっ! アッ、流れ星!」
「ああ、願い事してる余裕なかったなぁ」
「雪乃、三回確かにお願いしましたニャァ!」
「て、何を?」
「内緒です。じゃ、シャワー、浴びてくるね」
彼女の髪はお日様の匂い、初めてのキスは煮干しの味がした。