葛の葉猫
では、不思議な猫の物語を語るとしよう。信じる信じないは君次第、時は、七十年ほど遡る。あれは、東京で二度目のオリンピックが行われた年だったと思う。
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今、私は、天涯孤独だ。二年ほど前、大学入学直後に、両親が飛行機事故で亡くなった。そもそも兄弟はいない。
だが、実業家だった両親は十分過ぎる資産を残してくれていた。大学の授業料を払っても、当面の生活に困ることはないだろう。
当面、そう、当面分あれば十分、こんなお金、とてもとても使い切れない!
なぜなら私は、心臓に持病を抱えているからだ。臓器移植以外の手立てで、回復する見込みのない病、このままなら、数年内に私の心臓は止まる。
両親はこんな私になんとか移植手術をさせたいと考えてくれていた。膨大な資産は、そのためのものでもあった。しかし、世の中にはお金で買えないものもある。私の血液型だ。AB型RhD、Rh-という言い方の方が一般的だろうか。
血液型の一致だけなら二千五百人に一人と言われている。だが、他の要素も含めた適合ドナーが現れる確率なんて、サハラ砂漠に落とした一本の針を探すようなものだ。
大学には真面目に通い勉強はしている。だけど、頑張って得た知識を、いつ、どうやって使う? 先のない私に学問をする意味、意義なんてあるのか?
突然死だって十分にあり得る、私。借りているマンションのオーナーに迷惑をかけてしまいそうだ。もう、いっそのこと自殺でもしようか? 唯一支えてくれた両親も亡くした私は、絶望に打ちひしがれていた。
そんなある日、大学が冬休みに入ってしばらくした、寒い冬の朝のことだ。
トントントン!
誰かが包丁を使う音で目が覚めた。彼女なんていない、私。いや、こう見えて、そこそこイケメンなのだよ。だが、いつ死ぬか分からぬ身、お付き合いをしたところで、相手に悲しい思いをさせるだけだ。高校、大学を通じて二度、告られたことはあったが丁重にお断りした。
泥棒? それはないだろう。泥棒がわざわざ料理など作るはずもない。起きて、キッチンへ行ってみると、妙齢の女性が、味噌汁の味見をしていた。
「ご主人様、あ、違った。旦那様! おはようなのニャァ」
振り向いた彼女は、烏の濡羽色の髪、黒曜の瞳。美少女などという陳腐な表現は不敬に当たる。異世界から降臨した妖精もかくや。美しい女性が笑っていた。
私は、ただ、ただ、唖然として、不自然な猫言葉にツッコミを入れることすらできなかった。
「君、誰?」
その一言をやっと絞り出した、私。
「ひっどいニャァ。忘れちゃったの? 雪乃よ、鈴木雪乃。昔、一緒に遊んだ仲じゃない?」
私の姓は鈴木だ。だが、日本ではごくごく、ありふれた苗字。遠縁なのかもしれないが、こんな子と遊んだ記憶などない。オレオレ詐欺のようなもの? カルトの勧誘? もしや美人局?
「あたし、貴方のお嫁さんになるべく、本日、参りました! ま、ま、顔を洗って来てください。朝ご飯にしましょう」
お嫁さん? ああ、財産目当ての詐欺師と言ったところだろう。ま、だが、どうせまもなく死んでしまう、私。全ての財を失ったとして、特に困ることもなかろう。
断っておくが、彼女の容姿に絆されたのではない。どこか憎めない、暖かい笑顔、詐欺の手練手管だったとしても、それもよし、私は彼女の「嘘」に乗ってやる気になっていた。
久々に、和食の朝ご飯を食べた。焼き鮭、目刺し、しらす干し、煮干しの出しが効いた味噌汁、なぜか魚づくしのメニューだった。ま、魚が嫌いというわけでもないが。
温かい味噌汁を飲んだ瞬間、私の目から涙が溢れた。分からない、なぜだか、分からない。母が作った味噌汁とは、また違う味付け。だけど、とても懐かしい。
「旦那様、泣くほど美味しかったのかな? 感激ニャァ」
私は、涙がこぼれ落ちて、少し塩辛さの増した味噌汁を飲み干し、炊き立てのご飯もお魚も美味しく平らげた。
そんな私を、雪乃は優しい笑顔で見つめている。新婚の妻が、健啖な夫を愛おしむ、そんな顔だ。詐欺のプロは、人の心さえ弄べるのかもしれない。だけど、その瞳の輝き、とても作り物とは思えなくなってきた。
「ささ、旦那様、スーツに着替えてくださいな。これから、籍を入れて結婚式を挙げましょう!」
ええい! ままよ! 私は、リクルート用に買い求めた紺のスーツに着替え、彼女と、市の行政センターに向かった。婚姻届には、妻になる人はもちろんのこと、証人欄にも署名捺印があり、私がサインをして、窓口に出すばかりとなっていた。