ショパン
中学三年生の古井は独り、放課後の音楽室でたたずんでいた。目の前にあるグランドピアノの鍵盤に手を触れることはなく、降りしきる雨の音に身を包まれていた。
「鞠屋……」
古井は、クラスメイトだった男子の名を口にした。細身で色白ゆえ同級生からは病人呼ばわりされていたが、ときおり演奏するピアノの音色はきまって周囲を魅了した。
──もう聴けないのかよ。
ほんの一カ月前、親の転勤のため鞠屋は家族とともに引っ越した。古井とは今でもSNSでつながっているが、彼のピアノを直接聴けない寂しさを埋めることはできずにいた。
──そういえば、あの日……
古井が思い出したのは、鞠屋と一緒に音楽室にいた放課後のことだった。普段は誰にも話しかけない鞠屋が昼休みに、「ピアノの演奏を手伝ってほしい」と古井に声をかけたのである。
◇ ◇ ◇
「なんで俺に」
「古井君、ピアノ習ってたんですよね? ショパンの連弾曲を演奏してみたいのですが、誰に手伝ってもらおうかと迷ってたんです」
「もっと上手い奴がいるだろ、桃園とか3組の仙堂とか」
「いえ……古井君がいいんです」
「?」
真意を図りかねたものの、俺でいいならと古井は引き受けた。
鞠屋が演奏したいと言った「4手のための変奏曲」は、古井にとっては難題だった。本格的にピアノを弾くのが久しぶりだったこともあり、思うように手を動かせなかったのである。セコンドとして低音部を担当したもののミスを重ねてしまい、そのたびに古井は謝った。
「いえ、いいんです。元はといえば私が誘ったんですから」
鞠屋が嫌な表情を見せず淡々と返したので、場の雰囲気が険悪になることはなかった。それに何より、鞠屋の演奏が古井の心を躍らせた。プリモとして高音部を演奏する十本の細い指が時に軽やかに、時に静かに鍵盤の上を動くさまはまるで踊っているようであり、隣に座っている古井を魅了した。
「古井君」
「何?」
「……楽しいですね」
「『楽しい』?」
「いえ、……」
演奏が止まった拍子につぶやいた鞠屋に、思わず古井は言葉を返した。いつの間にか鞠屋の頬はほんのりと朱に染まっていて、はにかんだ笑みを見せていた。
「……」
古井もまた言葉を継ぐことができず、沈黙が二人を包んだ──。
◇ ◇ ◇
「鞠屋」
古井は独り変わらず、グランドピアノの前に立っていた。
「お前が『楽しい』っていった理由、今ならわかる気がするよ」
そう言っておもむろに座り、鍵盤に指を置いた。しかし演奏することなく、古井はそのまま動かずにいた。
「もう、一緒に弾けないのかな……ショパン」
いつ止むとも知れない雨の音が、古井の耳に間断なく飛び込んだ──。