第6話 対峙
走って走って角を曲がる。
すると、この前と同様、学校の目の前に水瀬の住むアパートがあった。
どこかでなにかを見落としている。
あたりを見回して違和感の原因を探す。
どこか、違和感はあるのだ。
何かがおかしい。この夜の空気も、爛々と輝く満月も。
「あ」
見つけた。
オレンジのカーブミラーの支柱から向かいの塀に、キラリと光を反射する糸がかかっていた。
ここではないどこかへの、意図的に張られた境目であるその糸を、躊躇うことなく潜り抜けた。
「大丈夫か?」
「七条くん!」
道路の端に座り込み、膝を抱えていた水瀬がばっと顔をあげた。少しだけ、形の良い眉が寄っていた。
「うん。いいか、今から絶対に名前を言うな。できれば楽しい事を考えて、声も出すな」
「ここはどこなの? どうして私の家だけがないのよ」
「後で教えるから、今は黙っててくれ」
水瀬を立ち上がらせて、静まり返ったあたりを見回す。
もう少し考えて入ればよかった。考えなしに、丸腰でこんな場所に入り込んでしまったのは失敗だったかもしれない。ここから見える景色は、全て作り物だ。実際にここは、そこまで広い空間ではないのだろう。しかし、月がないせいで、くぐってきた糸が見つからない。
兄貴が来れば何とかなるのだろうが、出られるのならこんな粗末な異空間からは、早く出てしまいたかった。
「あらぁ? こんな時間にどうしたの?」
突然だった。
いつの間にか背後にいた、スーツを着た若い女性。
咄嗟に水瀬を背中に隠して、軽く両足を開いた。
女性はにっこり笑って、優しい声で言う。
「ダメじゃない、子供がこんな時間に。お姉さんと交番行こうか」
「いえ、これから帰るところなので」
「だめよ。もう遅いもの。危ないから、お姉さんが送ってあげるわ」
「俺は男なので大丈夫です」
女性は、にっこりと、全く変わらない笑顔のまま。
「あら、頼もしいわね。お名前はなんて言うの?」
「名乗るほどでもないです」
「まあ、かっこいいわね。そっちの女の子は彼女?」
水瀬の前に出たまま、俺も笑顔を作って答えた。
「いや、友達ですよ」
「若いわね。妬けちゃうわ。ねえ、あなた名前は?」
背中に触れた水瀬の指先がビクッと震えた。少しだけ、強ばった水瀬の体を引き寄せる。
「すいません、この子人見知りで」
「あらあら、かわいいわね。ちゃんと守ってあげるのよ」
スーツ姿の女性は最後までにっこりと笑って去っていった。
姿が見えなくなるまで目を離さずに、しかし見えなくなればすぐに水瀬の腕を引っ張って早足で歩き出す。
ここで立ち止まっているのはまずい。今ので完全に、俺たちの居場所がバレた。早くここから動かなければ。
「君達、何してるんだ!」
自転車に乗ったお巡りさんが声をかけてきた。
「こんな時間に子供だけで!君達、名前は?家の連絡先を言いなさい!」
「今から帰るので」
それでも構わず進む。追いかけてきた警官が怒鳴り声を上げた。
「そんな言い訳が通用すると思ってるのか!いいから、名前と連絡先を言いなさい!」
「本当に帰るので!」
水瀬の白く細い腕を引っ張り走った。
途中、その腕が急にぐんっとスピードをあげる。水瀬は、前を走っていたはずの俺の横に並んで、そのまま俺にスピードに合わせて走っていた。
もしかしなくても、水瀬の方が足が早い。
地味にへこんだ。
「ああ、そこの君達。すまんが助けてくれんか。荷物が重くて持てなくてのぅ」
小柄なおじいさんが声をかけてくる。
「急いでるので!」
「なんて子らじゃ。名前を教えなさい!」
ただひたすら、走って走って走る。
「おい、待てやごらぁ!」
野太い男の声がする。
「ねえ、ちょっと寄っていかない?」
色っぽい女の声が。もう、声だけがする。
「うわぁーん、痛いよー。お母さーーん」
小さな、子供の声がした。
水瀬が、あまりにも自然に振り返ろうとして。
「見るな!目閉じてろ!」
水瀬の方に顔を向けて大声を出した俺を見て、驚いたように息を詰めた水瀬は。
「七条くん! 前!」
「っバカ!!」
『みぃつけた』
いきなり、後ろから。真っ白な女の手に、異常な力で肩を掴まれた。
咄嗟に隣にいた水瀬を突き飛ばし、距離をとったものの。
『しち、シ、しチじょ? しちシちしち、しちじょウ.......。七条!!!!』
俺の肩を掴んだ女は狂ったように叫び、細い首をキリキリと縦にまわす。
人間ではありえないほど首を回し、女の顎が真上になるまで回った時。
『七条、みぃつけた』
ニタリと笑った女は、みちみちと肉を裂く嫌な音を立て姿を変えた。
内側から膨らんだ胴体により伸び切った衣服と皮膚を突き破り、六本の毛深い黒い脚が突き出てくる。
そこからは決して目を離さず、先ほど突き飛ばした、道の端で震えている女の子に向かって叫んだ。
「いいか、黙ってろよ! 俺は大丈夫だから、携帯持って動くなよ!」
水瀬は尻もちをついて、顔を真っ青にして震えていた。
そしてとうとう、最後までギリギリと俺の肩を掴んでいた真白い女の手すらも、人の手の形を保てず崩れていく。
毛の生えた、節のある黒い脚に。
『七条七条七条七条七条七条七条七条!!!!』
通常なら苗字ぐらい知られたところでどうということはないが、今回は相手が悪い。
それに今、俺は全くなんの準備もない丸腰。つまり、コイツにとって格好のカモだ。
「兄貴ーーー!!! いたぞーー!!」
大声で叫んだ。
一瞬だけ、元女の化け物の動きが止まる。
その一瞬で、肩口に食い込みつつあった毛深い脚に向かってぴんと指を伸ばした手刀を振り下ろした。
『ぎいいぃぃイいいイイ!!』
耳に痛い絶叫と共に切り落とされた脚は、黒い煙を上げながら地に落ちた。その後に続くのは、憎悪を煮詰めた濁った音。
『七条ぉぉおおお゛!!』
もはや女の声ではない叫び声をあげ、7本脚の化け物は向かってくる。
ここで兄貴が助けに来てくれるのが理想だったが、助けはこない。
予想より俺たちがいる場所を見つけるのに手間取っているのかもしれなかった。
もう一度脇に目をやると、水瀬はもう可哀想なぐらい震えて、目に涙をためていた。
あんなに強気な水瀬がここまで怯えるのをみて、なんだか無性に腹が立ってきた。
たった一人で、人のためにがむしゃらに妖怪退治をしていた女の子にこんな顔をさせるなんて、世の中あんまりじゃないか。
水瀬だって本当は妖怪なんて気にせず、普通の高校生として過ごしたかったはずなのに。
『七条、七条、七条! おまエ、術シャかぁァァああ!』
化け物は7本の脚をガサガサ動かしながら、久しぶりに俺に向けられた言葉を叫んだ。しかし。
『じゃァ、女からタベヨ』
急にくるりと方向を変えて、道の端で座り込んでいる水瀬に向かって、圧倒的な質量と、暴力的な速度で動き出した。
「【律糸】」
張り上げるでも叫ぶでもなく、酷く淡々と俺が上げた声に、びたっと化け物の動きが止まる。いや、強制的に、止められる。
化け物の奥に見える水瀬はもう、泣いていた。
『七条っ!!!!』
「はーあーいー。俺が七条ですよー」
化け物はぎぎぎ、とぎこちなく頭をこちらに向け、たくさんの真っ赤な瞳でこちらを見る。
そして、もう人のものでは無いその口を、確かににたぁっと持ち上げた。
『七条、返ジ、しタァ』
ぶちんっ、と。糸が切れる音がして、化け物がこちらに向かってきた。
両足を軽くひろげる。右手の人差し指と中指を立て、親指は第一関節を曲げつつしっかりと立て、印を結んだ。自然に肺が広がるよう、すぅ、と息を吸って。
「相手してやるよ。バカ蜘蛛」
笑顔で、土蜘蛛相手に言い切った。