さようなら、ありがとう
真っ赤な花が咲き誇る場所。川を挟んだこちら側。
そこに、真っ白な着物を着て、立っていた。
「おい、七条和臣」
「あ、道満さんこの間ぶりですー」
「軽ーーーい! お前私がなんなのか知ったのに軽すぎだーー!!」
「あはは、どうもお世話になってます。ご主人様」
川の向こうで道満さんが項垂れた。俺たち術者のご主人様は、相変わらずのようで安心した。
「よく殺さなかったな」
かけられた声は、なんでもない世間話をするような、至って普通の声だった。
「私の忠告は聞こえなかっただろう。それでも、よく殺さなかった。殺せばお前は、変わってしまうからな」
「……あなたは、変わらなかったのに?」
「ああ。私は悲しいほど器が足りなかった。だから、アレを殺しても人のままだ。人のまま、アレを殺してしまったんだ」
道満さんはそう言うと、ぽつりとこぼした。
「お前は知らないだろう。私がお前をどれほど待っていたか」
またそれか、と思わず笑った。もう聞き飽きたからトカゲのことでも考えよう。今回のMVPだし。
「あいつを上に行かせない、線を引く者。ずっと待っていた。ずっと。子が、繋いで待っていた。……だが、そうか」
アイスも飽きただろうし、何か別の冷たい食べ物でも用意しよう。アイスどら焼きとか、いやこれアイスか。
「私の名は、もうダメか」
「……」
道満さんが、あまりに爽やかに笑ったので。俺はもう、表情を保てなかった。思わず下を向いた拍子に、涙が溢れて止まらない。
「……道満さん」
「いや、いい。泣くな。当たり前のことだ、千年あれば皆忘れる」
「道満さん!」
「本当に泣くな! 気にしていない、気にするはずがないだろう! 私はもう千年も昔の人間だ、覚えられていた方が怖いわ!」
「でも! あなたは、まだ俺たちを助けてくれる! あなたの子どもたちはまだ続く!」
道満さんが静かに微笑んだ。この人は。
千年待って、待ち続けて。すごい人なんだ。神を下し、俺たちに名をくれた。俺たちの、主になってくれた。俺の家が、兄弟揃ってゲラゲラ笑ってテレビを見れるのも、術者たちが恐れず妖怪退治をするのも。全部、この人のおかげなのに。
もう誰も、この人の名前で、この人を思い出さない。
「あんまりだ……俺たちはひ、ひどい。薄情だ。忘れちゃだめだろ、こんな大事なこと」
「いや……結構長らく覚えていた方だと思うぞ?」
ぼたぼた落ちる涙を拭って、道満さんの方へと顔を上げた。
「俺はもう忘れない! あなたが優しいって! すごい人だって!」
「……いい。若者はもっと面白いものを覚えていろ。それより、お前たちのこれからを考え」
「あなたのこれからだ! これからもずっとあなたと共に生きていくんだ、俺たちは!」
道満さんは、豆鉄砲でも食らったように目を丸くして。くしゃり、とシワばかりの笑顔になった。
「ははは! そうか、そうか! それは、命を張った甲斐があった! 貧乏くじばかりの私の人生、最後は大当たりだ!」
楽しそうに笑った道満さんが、スッと右手を上げた。
「悪いな。ただの人間の私が主で。そのせいでお前たちは、陰陽師たちよりずっと弱い」
「ストレートに言いますね」
「事実だ。だがまあ、なんだ。大丈夫だ。数が多いから、お前たち。質より量で大体勝てる」
「ええー……」
あまりの言い方に軽く引いている俺を見て、あの人は笑う。赤い花が舞う中、川の向こうから手を振られる。別れを惜しむのではなく、これからの旅を祝うように。どこかでまた会えると知っているように。
「じゃあな、遠い未来の友よ!」
赤い花弁が視界を覆う。風の音でもう声も聞こえない。そっと、目を閉じたとき。
「……あ、そうだ。すまんあいつ歩いて行ったわ。またしばらくそっちで頼む」
さようなら、遠く古い時の友よ。
「はっ!」
「和兄ーーーー!!」
起きた瞬間妹が抱きついてくる。一体何が。ここはどこ、俺はどこ条なに臣ですか。
「ご、」
頭上からの声に、目を向ければ。
「ごめんなさい……」
お盆で顔を隠した葉月が、小さくなって謝っていた。本当に何があった。
「和兄、葉月お姉ちゃんが作ったコロッケが喉に詰まって……!」
「ああ、臨死体験……」
思わず手を合わせて目を閉じた。道満さんすみません、コロッケで会いに行ってました。
「お正月のお餅が余ってたから……入れたのよ」
しおれた葉月。その後ろから、掃除機を抱えた姉が駆け込んできた。
「どきな! 吸い出すよ!」
「あ、待って姉貴、俺もう」
平気、の言葉を出す前に般若のような顔の姉に叩かれた。そこからはよく噛んで食べろだのゆっくり食べろだの説教続きの夕飯どきとなった。途中からやってきたゆかりんにも、餅を詰まらせたことを呆れられじじくさいとまで言われた。
泣いた。
「和臣」
「お、葉月どうした」
風呂上がり、廊下を歩いていたら葉月が顔を見せた。監視の人のいない生活は久しぶりで、なんだかすこし落ち着かない。
「ずっと、私ばかり、子供っぽく好きなんだと思っていたの」
「え。と、突然どうした……ってまさか! 別れ、」
「違うわよ!」
葉月に、肩にかけていたタオルを引かれる。そのままなだれ込むように、葉月の部屋に二人で入った。
「あなたがずっと、そんなに一生懸命掴んでいたなんて知らなかったの。あなたはたくさんお友達がいるし……なんでもないように私に言葉をくれるから。私ばかりが、手を差し伸べてくれるあなたに縋ってるんだと思っていたわ」
「どうしてそんな思考に? どう考えても俺の方がすがってるでしょ、常に」
葉月が正座したので、俺もつられて正座した。お互い膝を突き合わせて座る。葉月が、大きく深呼吸をした。
「印を、つけようと思うわ。あなたが私のだって、誰が見てもわかるように」
「え? ああ、今度はもう少し手加減してくださいね? やっぱ血出てましたよ、さっきの」
シャワーが沁みた肩を大人しく差し出す。しかし葉月は、俺の左手を取った。
「明日指輪を買いに行きましょう。こ、婚約の方よ、まだ。……まだ」
「は」
「も、もし指輪は嫌なら、ネックレスとかも、いいかもしれないわ」
耳を赤くした葉月。上目遣いで、睨むようにこちらを伺う葉月。
「……ダメ、かしら?」
「……指輪がいいなぁ」
思わず笑う。だってそうだろう。こんなのもう、どうすることもできない。
葉月は俺の顔を見て、すぐに目を瞑った。
「私たちの、これからは。きっと大丈夫よ」
「え?」
「大丈夫。あなたはただのおばかな人。私の隣では、ずっとそう。あなたは強いけど、別にそうじゃなくたってあなたよ」
ねえ。
小さな声が落ちる。
「一緒に生きましょう」
きっと大丈夫。
俺たちは、きっと大丈夫。いろんなことがあって、いろんなことができないと知った。きっとこれからも、できないことは増えていく。
それでも、きっと大丈夫。今のあなたと過去の君。みんな、一緒に行くのだから。