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契約

 ヌシを殺す。


 俺は、そうすると決めた。あの美しい生き物を、この手で手折ると決めた。この世界を、この山を。俺の大事なもののためだけに殺すと、決めたのだ。

 だが、人にヌシは殺せない。

 殺せないからヌシで、殺せないから人なのだ。これはどうあがいても変わらない。


 人は神に敵わない。



「隊長!」

「早く行け! 近くにいられると俺が本気を出せない!」


 背後の花田さんがぐっとおしだまる。


「……大丈夫です。勝算があります。だから、早く。俺は帰り道がわからないんで、先に行ってくれないと困るんですよ」


 何かを言いかけた花田さんは口を引き結び、みんなを連れて走り去った。葉月は抵抗していたが、花田さんに引きずられるようにして連れられて行った。

 視界から全員が消えたのを確認して、糸を出した。俺の一番の武器である糸は、その量が強さになる。出せば出すだけ、この空間に張り詰めれば張り詰めるだけ、相手は動きを絡め取られて刻まれる。

 だが、これではヌシは殺せない。おそらくなんの傷もつかず、糸ごと俺を引き裂いて終わりだろう。


 人は神に敵わない。


『……つけあがるなよ、人間』


 人は神に敵わない。


『誰が、お前たちが生きることを許してやっていると、思っているーーー!』


 人は、神に敵わない。


 呼吸ができなくなった。心臓の動きが許されなくなった。人が、許されなくなった。


『和臣―――!!』


 目を閉じた。心臓も止まった。息もできない。

 そんな静かな自分を、見つめた。

 見たくないと目を逸らしたもの。知りたくないから気づかないようにしていたもの。自分のこと。


 ぷつん、と糸が切れる音がした。


『!?』


 俺の首に手をかけていたヌシが動きを止める。


 人は神に敵わない。

 では、どうすれば神を殺せるか。


 白い子供の顔が見えた。いつの間にか、目を開けていた。


『お前……!』


 ぷつん、ぷつん、と、糸が切れていく。

 ヌシの顔が歪む。嫌悪に、憎悪に。ただ、俺を潰さんばかりの大声で、こう言った。


『……人を、辞める気かーーー!!!』


 ぷつん。糸が、切れていく。


 人は神に敵わない。

 では、どうすれば神を殺せるか。


 単純な話だ。

 人ではどうしようもないのなら、人でなくなればいい。人であるかぎり敵わないのなら、そんな形は捨ててしまえ。


 俺には、それができるのだから。


 踏み出せ。踏み出せ。上がれがれ。

 何を捨てれば上がれるか。俺が人たる所以は何か。


 変態は、人魚を食って人をやめたと言った。人とは違う死ねない体になったから、上に行ったのだと。

 では、この肉と骨か。脆いこの手と、この口があるから俺は人間か。

 いや。そんなものを捨てても仕方ない。こんなものが、俺が人である理由じゃない。


 ぷつん、と糸が切れる。俺の身体中に絡まった、俺を縛る細い糸が切れていく。


 何を捨てれば上がれるか。俺が人たる所以は何か。

 俺は、葉月が好きだ。ゆかりんも好きだ。花田さんも中田さんも監視の人も、みんな好きだ。家族だって好きだし、友達も同級生も、駅にいる人も夜更かししている人も、みんな好きだ。人が、好きだ。

 隣にいたいと思う。隣にいさせてほしいと思う。

 だから、この体に絡む糸、俺と出会ってくれた人たちとの繋がりが、何より大切で。


 必死に、掴んでいた。解けないように、隣にいられるように。

 だって、これがなければ俺は、きっとみんなの隣にはいられない。俺は元々、みんなの隣にいられるようにはできていなかった。誰も俺の隣にはいない。居られない。生まれた時から俺は、術者七条和臣は、他の誰にも並び立てないところにいると、絶望的なまでに決まっていた。

 だから必死に、掴んで絡めて。


 そう。俺が人であるのは、この糸が、人と繋がっているからだ。ただ、それだけだった。



「さよならだ、ガキんちょ」


 ガッと白い子供の首に手をかけた。子供の顔が苦痛に歪む。その顔に自分の喉から笑い声が漏れた。なんて滑稽だ、なんて小さく哀れで(かな)しい生き物だ。もがく子供を見下ろしながら、手に力をこめた。これでこの子供は死ぬ。おそらく、この子供が生きてきて一度も感じたことがない恐怖と共に、この山は終わりを迎える。


 白い子供の喉を締める力を強めるたび。俺の体に絡む糸、俺を人に縛る繋がり。その全てが。


 俺の存在に頭を垂れて、雪が溶けるように解けていった。


 頭の中が白くなる。何かが消えていく。なんの抵抗もなく、ただ静かに、繋がりを切った人間のことを忘れていく。

 ああ、やはり。

 俺を縛れる糸など、俺の意のままにならない糸など。存在しない。昔から、俺は糸を使うなんて思ったことがない。全ての糸は、何もせずとも自ら俺に付き従う。

 そう、俺は。生まれた時から人間とは、ズレているから。存在の位置が違うから。俺は。


 糸の、(あるじ)だ。


「待ちなさい!」


 がばり、と背後から何かに抱きつかれた。折り損ねた子供の首から、ぎいと苦しげな音が漏れる。俺の背中で苦しげな息を繰り返すナニカかは、言葉を紡ぐ余裕もないだろうに、なぜか必死に言葉をこぼした。


「私、あなたが、人間じゃなくなったって、いいわ」


 抱きつく力が強まって、俺の顔にナニカの口が寄せられる。哀れだ。愚かだ。こんなにも矮小で、こんなにも弱い生き物が苦しげな吐息をついて、また言葉を紡いでいる。


「別に、あなたが、何者でも、いいけれど」


 ナニカは、白い子供の首を締め上げている俺の手に、そっと自分の手を重ねてきた。俺の頬に、ナニカの頬が寄せられる。触れたそれが濡れていたのか、元々頬が濡れていたのか、気にもならなかった。


「あなたが、大事にしてるもの。好きなもの、一生懸命掴んでいたもの。捨ててほしくないの、悲しんでほしくないのよ。だから……だから、」


 ぴん、と右手に糸が張った。それを払い退けようとして、ふと思いとどまる。

 この糸のせいで、俺は下に縛り落とされそうになっているというのに。これさえ切れば、俺は上にいられるのに。


 ゆーびきーりげんまん。


 昔、白い人間と結んだ契約が、あの白い人間の元にいると約束したこの糸が、戻ってこいと叫んでいる。元に戻れと、契約だと叫んでいる。

 こんな(契約)。俺が願うだけで、切り捨てられというのに。

 ゆびきりを唄うあの声が、頭の中で鳴り響いて。

 右手の小指が、動かない。

 

「あなたには、人でいてほしい!」


 愚かな、おろかな、可愛い人間。

 その願いを、前にも聞いたことがある。

 矮小な、ひ弱な、小さな人間。

 すぐに消えるはずの存在が、ただ千年待ってみせたのを知っている。


「和臣! あなたの好きなもの、殺さないで!!」


 ゆーびきりげんまん。

 結ばれた糸が張って、子供の首にかけていた俺の手が弾かれる。白い子供が咳き込んで地面に倒れ伏し、その姿を見てゾッとした。

 殺すと決めたのに。今更、それが怖くて仕方ない。貴女に名前を呼ばれ、糸を結ばれて。みっともなくその糸に縋りついて手放せない、ただのちっぽけな人間に戻った俺は、自分の行動にさえ恐れをなして、ただ小さく震えていた。


「隊長!」

「あああ戻ってきちゃった、戻ってきちゃったわよ……!? でも周りも火の海だったし、どうすんのよこれ……!」

「帰り道がなかったなんて、困りましたねっ!」


 ダメだ。やっぱり殺さないと。殺さないと殺さないと殺さないと。

 みんなが帰ってきてしまった。この場で助かる方法なんて、もうこれしかない。殺される前に、殺さ、ないと。この、白く美しい、穢れなき生き物を。俺の愛する、自由なヌシを。


「大丈夫です。あなたたちは絶対に、暗いところに行かせない」


 監視の人が、俺の横に屈んだ。息を整えているヌシを見るその手にはもう、銃はなかった。


「……ヌシとは穢れなきもの。それゆえ純粋で強く、欠けないもの。ですが、その絶対性も揺らぐ時がある」


 監視の人が、いきなりシャツの胸元に手をやって、ボタンを引きちぎった。見てはいけないピンク色の下着が見えて、目を逸らそうとする前に葉月の両手が俺の目潰すほどの強さで塞いだ。一体何が起きている。


「穢れた人を食べるとき。いたづらに贄を食ったとき。汚れた私たちの色、赤黒い穢れのせいで、それは神の座から落ちる。……ふ。四国で、見ましたよね」

「……待って!」


 葉月の叫びと共に、目を塞いでいた手が離される。


「和臣様、あなたがいれば、落ちた神相手なら逃げ切れる。上にいなければ、全ては見ることはできないのだから。……ヌシ様、ヌシ様。この身を、」


 ―――捧げます。


 正座して、ヌシへ向かって恭しく頭を下げた監視の人。白い子供はそれに一瞬驚いたものの、正式な手順を経て捧げられた自分のものに、手を伸ばす。

 子供が、晒された女の柔い肌を見て、牙をむく。


「だめよ!!!」


 葉月の叫び。動けもしない、俺。ああ、もう。

 間に合わない。


「っだああああ!!」


 ごべぎ、と聞いたこともない音がしたと思ったら、目の前から監視の人が消えていた。かわりに見えたのは、振り抜かれたしなやかな右足。


「ご、ごめんごめんごめん!! 完全に折った! 骨は折ったしもしかしたら内臓もやっちゃったかも! 助走がついて手加減できなかった! 本当にごめん!」


 真っ青になったゆかりんが見ている方へ目を向ければ、なんと10メートルは先の茂みの前でひっくり返った中田さんの上に、監視の人が倒れ込んでいた。もぞりと、中田さんが身を起こす。


「うう、さすがに受け止め切れませんでした……。はあ、重いですねぇ。ちょっとあなた、生きてます? 町田さんに感謝してくださいよ、あんな状況で間に合わせるなんて、普通無理なんですからねっ!」

「……ぐ、ふ」

「あ、吐血」


 頭上でゆかりんが「ごめんなさーーーい!!」と泣いていた。一体、何が。


「隊長! すみません独断です! 生贄作戦を続行するなら年次的に自分からかと思いまして!」

「部長ー! その冗談つまらないですよっ!」


 背後に来ていた花田さんに腕を掴まれ立たされる。白い子供の頭頂部を見下ろしながら、もう何も考えが回らない頭で葉月を見た。


「あなたたちの作戦を、ことごとく邪魔してしまって申し訳ないわ」

「……あ、うん」

「ねえ、和臣。こんなことしておいて、図々しいとは思うのだけれど」


 ヌシが立ち上がる。なんの表情もない真っ白な子供の顔は、俺だけに向けられていた。


「誰も死なずに終わらせたいのよ。どうしたらいいか、教えてちょうだい。お師匠さん」


 そんなの俺だって知りたい。


 真っ白な、穢れなき貴きもの。そんな、自分より高位の存在は、今はじいとこちらを見て動かなかった。もう一瞬で俺たちを殺せるはずだが、なんの気まぐれか動かない。


『……お前』


 ヌシが動きを見せたことで、全員腰を落として臨戦体制となる。

 俺ももちろん札を構えたが、ヌシは怒りも敵意も出さないまま、夢でも見ているようにふらりとこちらへ一歩踏み出した。

 それに、ばっと花田さんとゆかりんが飛び退いて距離をとる。葉月と俺は、その場で札を構えたまま。


『お前……』


 おぼつかない足取りで、こちらへ近づいてくる白い子供。その異様な様子に、思わず構えていた札を少し下げたときだった。


『お前を待っていた!!!』


 目の前に子供の顔があった。いや、違う。しがみつかれている。頬擦りされている。子供の全身から、喜びと歓喜が匂い立った。


『千年! 千年待った! お前だけを待っていた!!』


 誰も動けない。吹き抜ける風に火の粉が混じって、木の焼け落ちる音がしているのに。自分の世界が焼け消えている最中なのに。この世で一番幸せそうに笑う子供の異様さに、誰も目が離せない。


『引け、引け、引いてくれ! 私たちの線を直してくれ! 人ごときに変えられたこの線引きを! お前なら直せるのだろう!!』

「は……?」


 白い子供が両腕と両足を使ってぎゅうと抱きついてきて、思わず人の子供にするように、その背中に手をやった。それに喜んだのか、ヌシはもうとろけるように頬を上気させ、ずいと俺の鼻先に触れそうなほどに顔を近づけた。


『私たちは、神に戻れる!』


 ぱちん、と何かがハマった。バラバラだったピースが、急速にハマり出す。

 ヌシ。神様。それを管理する俺たちの家。契約を交わしたご先祖様。

 零様にお仕えする俺たちの家。いつか聞いた八条隊長の声がリフレインする。


 ―――昔、私達の家は救われたそうですよ。現在、私達を含めた人間の管理者が主と契約を交わせるのは、零の家のおかげなんです


 ヌシ。神。人との契約。零と呼ばれるあの家は。

 千年前に、現れた。あの人が、始めた。今の管理を、ヌシとの契約を。


 人は神に敵わない。

 では。

 人に負けた神は、一体何か。


『ああ、和臣。お前さえいればいい。他はいらない、ここには私たちだけいれば事足りる』


 惚けたヌシが、隣に立った葉月に目をやった。ヌシは恐ろしい喜びの中、歓びのままに、邪魔な虫の行末を告げる。


『死、』

「契約を!」


 俺の唐突な大声に、しがみついていたヌシが飛び退る。その姿に、一歩足を進めた。


「私たちと共に生きる契約を!」

『……しないと言った。どうして、私が人と対等に決め事などしてやると思う』


 葉月が目を見開く。花田さんとゆかりんが、はっとしたように札を取り落とした。

 そう、みんなが思い出した通り。


「七条家が術者、七条和臣が!!」

『嫌だ、和臣』


 ヌシがまた一歩下がる。しかし、それ以上は下がれない。なぜなら、もう契約の糸はこの子供を縛りつつあるのだから。


『嫌だ! 私の方が上なのに! ()()()()のに!』

あなた()に打ち勝ちあなた(ヌシ)へと変えた、術者()あるじ! 蘆屋道満の名の下に!!」


 夢で会ったあの人。

 あの人は主だ。俺たちの、術者の主たる人だった。

 その名を借りて、俺たちは。


「契約の糸を、結ばせていただきます! 俺があなたの、管理者だーー!!!」


 我が主人が下ししこの生き物は。すでに、上《神》にあらず。


 白む視界の中。きぃぃん、と、澄んだ音が鳴った。

 契約は、結ばれる。ヌシと人との、あり得ざる逆転の不平等契約。我が主の名を持って、俺《術者》がヌシを下す。かつて、9つの家がしたのと同じように。


「はぁーーー……」


 視界が晴れる頃に、どっと疲れが出て、大きくため息をついた。目を向ければ、白い子供はもういなかった。だが、すぐ近くにいることは結んだ糸を通してわかる。

 唐突にびくん、と体を震わせたみんなは、慌てたように俺に駆け寄ってきた。ペタペタと俺の体を確認している中、花田さんが震える声で言った。


「隊長! 何が、何が起きたのですか! 隊長が名乗って、そこからが……」

「思い出せませんか?」

「……はい」


 混乱した様子の花田さんに、ゆかりんと葉月も頷く。それに、ふと笑いが溢れた。


「主の思し召しってやつでしょう。忘れてください」

「は、はい?」

「監視の人ー! 大丈夫ですかー!」

「あ、あ! どうしよう七条和臣、お願い助けてー!」


 ぐったりした監視の人に向かって走り出した後ろでは、泣いているゆかりんを葉月が慰めている。気絶していた監視の人は、幸い肋骨が綺麗に折れているだけのようで、俺でもなんとか繋げそうだった。繋ぎきった瞬間ゆかりんが俺を押しのけて監視の人に抱きついてギャン泣きし始める。

 いつの間にか山の炎は消えていて、トカゲがブスブスと黒い煙をあげて眠っていた。お前、なんかすごい疲れてないか。


「和臣」

「あ、待って。先に俺から言うことがある」


 葉月を手で制して、皆の前にたつ。監視の人はまだ気を失っているが、仕方ない。

 真剣に伝えたいからと、自然と緩く上がってしまった口角を隠すよう手をやった。それを見た皆が、目を開く。


「ありがとう。助けに来てくれて。……あと俺、結構ギリギリで人間やってたみたいなんだけど……これからもみんなの隣にいて、いいかな?」


 糸は結ばれる。

 糸が俺に従うより前に、この人たちの手によって。


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― 新着の感想 ―
ピンク! 下着!! 緊迫した場面なのに上記の単語で頭の中がピンクになってしもうた……。 ピンクの人が助かってヨカタ。思ったよりズタボロになってたけど、しでかした考えると溜飲も下がりました。
零様に、助けられたってことっすか。やっぱ道満一家はすごいっすね。変態復活も待ち遠しいすね
どうしようもないほどにずれていて、それでも人の隣にいたいから必死に自分を繋がりで縛っていた。だからそれを切れば人ではなくなってしまうのか 小指の糸が切れなかったのは和臣よりも糸の方が正しいからかな? …
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