買物
こん、こんこん。
……こん、こん。
「はーい! 今でるよー!」
日も落ちかけの夕方。控えめに何度も戸を叩く音に、トカゲのランプと油揚げを持って玄関を開けると、そこには。
『……ぶぷぅ』
白黒で鼻の長い、不思議な生き物がいた。
いや、なんだコイツ。
「ええー……なにこれ、ていうかどちら様? キツネ君かと思ったのに……。でも可愛いな……」
『ぶぷぅ』
つぶらな黒い瞳でこちらを見上げる、小型犬ほどの大きさのずんぐりしたナニカ。空気が抜ける風船のような音を鳴らしながら、俺が外に出てからはヒクヒクと長い鼻の先を動かしサンダルの匂いを嗅いでくる。まったくこちらを警戒していない様子に、思わず屈んでその小さな耳がついた頭を撫で回した。
毛が短いからかその下の脂肪が多いからか不思議な感触で、生暖かい。あと獣くせえ。お腹に顔を埋めてみてもいいだろうか。
「ちょっと、外に出るなら上着を着てちょうだい。風邪がぶり返すわ」
俺の上着を持ってきた葉月が、玄関でぴたりと動きを止めた。その隣ではこちらを見ながらへたりこんでいる監視の人。どうしたんだ。
「あなた……まさか河童が飼えないからって、別のを拾って来たの? 結局なんでもいいってことなのね、節操がないわ」
「なっ!! じ、自身の立場を考えなさい! 監視付きの身でありながら、怪異の飼育など……!! 狐を餌付けしているのだって、上は良い顔をしていないのに!!」
汚らわしいものを見るような葉月と、髪を乱しお怒りの監視の人。そしてランプを軋ませるほど燃えだしたトカゲ。満場一致で俺が悪いことにされたが、待ってくれ。
「違う、誤解なんだ! 俺が拾ってきたんじゃなくて自分から尋ねてきたんだよ! あと俺は河童を諦めたわけじゃない! 絶対いつか抱きしめて一緒に寝るんだ! なあ白黒くん! そうだよな!」
『ぶぷぅ』
「ほら見ろ! 可愛いだろうが!!」
「意味が分からないわ。それからあなたはそろそろ河童に謝った方がいいわ」
泣いた。
俺と河童は仲良しだ、お互い毎日会いたいと思ってるに違いないんだ。俺一人で川に行っても全然出てきてくれないけど。
『ぶ、ぷぅ』
実らない友情に泣きながら白黒の謎生物を抱きしめたら、長い鼻でぺたぺたと顔面を探られた。鼻先で俺の涙をふんふんと嗅いだあとは、よーしよし、と言った具合に頭を撫でられた。鼻で。なんて優しい謎生物なんだ。でもお礼にと油揚げを差し出したらそっぽを向かれた。鼻に。
「みんな玄関先で何をしているんだ? 寒いから中に入りなさい、居間のコタツ電源入れたから」
父の登場に、監視の人の肩がびくんっと跳ねた。そのまま目線を床に向け固まってしまう。葉月はさっと父に俺が謎生物を拾ってきたと耳打ちしていた。いやだから俺が拾ってきたんじゃないんですよ。
「はあ……お前、妖怪拾っ、はあ……やめなさい、本当にもう……前にも距離を取りなさいと言ったのに……」
父は両手で顔を覆ってしまった。
「違うんだ父さん! 白黒くんは自分でウチを尋ねてきたんだ! ほら! 可愛いだろ!」
『ぶぷぅ』
白黒謎生物の脇を持ち上げ、ずいと家の中のみんなに見せつける。謎生物はどことなく嬉しそうに、前足と鼻を広げて鳴いた。
「む、獏か」
父が急に目を細めて、顎に手をやった。謎生物はまた嬉しそうに鳴く。そうか、お前獏だったのか。
獏は極たまに中国から渡ってくる妖怪らしく、日本ではとても珍しい。初めて見た。
「獏って、夢を食べるっていう妖怪ですか?」
「ああ。七条の蔵には夢がしまってあるから、それを嗅ぎつけてやってきたんだろう。しかし、術者の家を堂々と訪ねるとは……ウチは結界があるから入れもしないはずなんだがな」
『ぶ、ぷぅ』
家の中に入ろうと俺の手の中でじたばたともがき始めた獏。君、今の話聞いてたか。妖怪はウチの敷居をまたげないんだよ、物理的に。だから狐くんともいつも玄関先での立ち話になってしまう。
「父さん、結界解いてよ。白黒くんもコタツに入れてあげようよ」
「ダメだろう、中に入れるのは」
葉月が外に出てきて、俺に上着を着せてきた。そのまま無表情で獏を見つめるものだから、獏はだんだんと大人しくなった。わかるよ白黒くん、美人の無表情って怖いよね。でもそのうち可愛く見えてくるよ。可愛いからね。
「じゃあ夢あげようよ。お腹空いてるっぽいし、蔵にいっぱいあるじゃん」
「……あれは全て、ウチの名前で預かったり、引き取ったりしたものだ。我が家の名にかけて、丁重に扱わなければ。タダで妖怪に渡すことなどできない」
「えぇー、でも悪夢とか溜まっても正直困るだけって兄貴言ってたよ? この際食べてもらおうよ」
「話を聞きなさい。そういう問題じゃなくて、預かったからには我が家の責任がだな……」
『ぶ、ぷぅ。ぶぷぅ、ぶぷぅ』
急に身を捩り俺の手の中から抜けた獏は、いきなり地面の上でごろんと仰向けになった。思わずその腹に顔をうずめようとして、葉月に襟を掴まれ止められる。トカゲもべしべしと尻尾でランプを叩いていた。
「無防備にお腹を見せるなんて、野生動物としてどうかと思うわ」
「可愛いじゃん」
「可愛いさで弱肉強食を勝ち抜けるのとでも思っているのかしら? こんな態度じゃあ、どこへ行ってもなにも得られないわ。ほら、もう少し毅然としていなさいよ」
「可愛いさこそ強さでは? 葉月さんもお強いですよね」
ばしんと背中をぶたれた。はい、耳が赤くて可愛い強いあなたが優勝俺の負け。
『ぶぷぅ! ぶぷぅ!』
仰向けのまま、喜んだように鳴きながら鼻先を上下に動かす獏。その後ろ足の付け根に、ちらりとなにか白いものがのぞいた。毛の模様かと思ったが、違う。なにか紙が、透明な紐で括りつけてあった。
「なんだこれ?」
『ぶぷぅ』
取ってくれ、と言わんばかりに無抵抗に後ろ足を差し出してきた獏から紐を解き、挟んであった紙を開く。
小さく折られたそれを広げれば。
「なに? 「お代はこれにて」って……なに? どれ?」
やけに達筆な文字が書かれた紙をバサバサとふっても、お代らしきものは出てこない。そこで、ん? とこの紙を括っていた透明な紐に目を移す。随分とハリのある、ワイヤーのような透明な紐。
それを父がまさか、と言ったように口を開いた。
「もしかしてこの獏……ウチに夢を買いにきたのか?」
『ぶ、ぷぅ!』
正解だったのか、ばんざーいと手足鼻を伸ばす獏。可愛い。
「まあ、お代を払うと言うなら私もきちんと夢を売るが……そのお代は一体誰が持たせたんだい? この手紙も」
『ぶぷぅ、ぷぅぷぅ、ぶぷぅ』
「分からないな……しかし、今これだけのものを支払える術者などいたかな。それも獏のために」
『ぶぷぅ』
父はしゃがんで獏の鼻先を少し撫でてから、すくっと立ち上がった。
「待っていなさい、夢を持ってこよう。そのお代に見合うだけ」
『ぶぷぅ!』
「父さん、やっぱりこの紐……」
父は、難しい顔で頷いて。
「龍の髭だな。それも、かなり立派な」
ぴんと伸びた光を透かす龍の髭。
それをランプの光に当てて葉月と見入っていると、はたと気づいた。これ、本当に髭か?
「よ、妖怪と、取り引きなど……!! 確かに龍の髭は貴重な物ですが、だからといって軽々しく受け取るべきではありません!」
「いや、父さんならちゃんとお代分の夢を持ってくると思いますけど……さすがにぼったくりとかはしないですって」
「ん゛ーーー!! そういう話をしているのではありま」
「たとえ妖怪でも、お代を持ってきたのなら売らない理由はないからね。もちろんきちんと総能にも報告するから、心配しなくて良い」
数本の巻物を手に戻ってきた父に、またびくりと固まった監視の人が顔を伏せた。もしかして父が苦手なのだろうか、小声は聞き流しておけばいいのに。
「ほら、ウチにあるだけの悪夢と珍しい吉夢だ。持っていきなさい」
『ぶぷぅ!!』
長い鼻で父から巻物を受け取った獏は、その場にぽて、と腰を下ろして巻物を物色し始めた。鼻で。
『ぶぷぅ、ぶぷぅ、ぷぅ!』
多分大喜び。しかし獏はいきなり、巻物の端をずぞぞぞ、と吸い始めた。鼻で。
「ちょ、ちょっと、紙は食べられないわよ」
「ダメだ白黒くん! ヤギですら紙は本当は食べちゃいけないんだ! 腸が詰まるって!」
『ぶぷぅ』
しわしわになった巻物をぽい、と捨てて、また獏は巻物を吸い始めた。全部鼻で。
「夢を食べているんだろう。さあ、みんなもう中に入りなさい。私は少しこのことを本部に連絡してくるから」
『ぶ、ぶ、ぷぅ』
獏はばいばーい、と鼻をふって、残りの巻物を持って俺の脇をとたとた歩いて出ていった。四足歩行で。
「また来てくれよ白黒くーん!!」
『ぶぷぅ』
獏は振り向かずに鼻だけふってくれた。
俺も家の中に入って、父に龍の髭を渡そうとして。
「……父さん、これ本当に髭かな?」
「ん?」
父は、しげしげと透明な毛を見て。
「……まさか、まつ毛か? だとしたらどれだけ大きな龍のものなんだ。龍はタダでさえ気位も高くて、中々人に物を与ないのに」
「鼻毛だったらどうする?」
「はあ……まったくお前は、いつまで経っても……はあ、葉月ちゃんに嫌われるぞ」
龍の毛は蔵にしまわれた。
「ほれアッシー、この獏鼻毛で助けちゃるぞい。景気良くいかんとな!」
『……』
まつ毛になった。