笑う門には
「あら、こんにちはー」
「こんにちは」
にっこりと挨拶してくれた、白い服の女性.......ここ数日よく顔を会わせる看護師さんに微笑みを返した。
紺の夏物の着物を着て、包帯と絆創膏だらけで大きな果物籠を持って院内を歩く俺を、何人かが振り返って見ていた。
「果物持ってきましたー」
がらりと、とある大部屋の扉を開ける。そのまま4つあるベッドを素通りして、部屋の奥にある窓の前の棚に果物籠を置いた。少しだけ開いている窓から吹き込む夏の風を受けながら、棚の横にある丸椅子に腰掛けた。
「りんご剥きますねー」
返事はない。もう慣れた。
「そう言えば、昨日やっとトカゲが目を合わせてくれました。でもまだアイスはアイス専門店の1番高いやつじゃないと食べてくれません」
りんごをうさぎに剥いて、持ち込んだ皿の上に並べる。メロンも切ろうか迷ったが、止めた。これは、少し大きすぎる。
手の中で、くるくると果物ナイフを弄びながら口を開く。
「あの旅館は、一条さんと管理部が合同で調査と掃除をしました。女将さんは隠し部屋のことも何にも知らなかったので、いくつかの軽い処罰だけで終わったそうです。でもこれからしばらくあの宿は監視付きになります。あぁ、あの座敷わらしは、もう違う家に住み着いたらしいですよ」
あの旅館の隠し部屋にあった『呪い』は、とても古いものだった。100年や200年ではなく、もっと古いもの。あの旅館が創業した当時のものだろうとのことだった。
「一条さんが来てくれて本当に良かった。対人最強は本当ですね。でも、なんで刀持って来てくれたのかは全く答えてくれないんですけど.......」
人を害するためだけに人が作った『呪い』。それに対して、言わば強制キャンセルを可能とする絶対の一刀を持っていた「一条」は、本当に対人最強だった。あの宝刀に斬られたはずの座敷わらしには傷ひとつなく、それどころか呪いの痕跡が跡形もなくなくなっていた。お手玉をしよう、と誘ってくるレベルには、愛らしい座敷わらしの本質を取り戻していたようだった。
「.......」
ずっと鼻をすすった。絆創膏で覆いきれていない部分の頬が染みて、着物の袖でぐいっと拭おうとした所で。
「いや!! 真面目な話し出す前に、ノックして入りなさいよ!! あんた全然学習しないわね!?」
「このままだとお父様が悲しむわ.......。3年前からずっと成長してないもの」
「た、隊長! どうなさいましたか!? 傷が痛みますか!?」
「和臣隊長っ! 擦っちゃダメですよっ! 痕になったら大変です!」
今まで黙っていたベッドの上の4人が、わっと騒ぎ出した。それを見てぼたぼた涙が零れた。
「はぁ!? なんでまた泣いてんのーー!?!? 大体七条和臣、あんたが1番派手に怪我してるでしょ!? 肉ごっそり噛みちぎられたって聞いたけど!? っていうか、毎日毎日来ては泣いているのに飽きないの!?」
「私達は.......診断はただの疲労と衰弱よ。5日も入院なんて大げさなのよ。町田さんは体力が有り余って逆にイライラしていて、和臣と話して発散しないと爆発しちゃいそうなぐらいの」
「ちょっと葉月、人を脳筋みたいにいうの止めてよね。私はね、病院食が少なくてイライラしてんのよ。まあ食堂美味しいからいいけど!」
俺が医者に、念には念を入れてしっかりと全員入院させて診てくれと言ったことは黙っておこう。ついでに大掛かりな健康診断までやってもらったのは後で言う。
「隊長、大丈夫ですか? 医者をお呼びましょうか。やはりその怪我で2日で退院は早すぎです、お休みください」
「和臣隊長っ! 私、りんごうさぎ欲しいです!」
止まらない涙は一旦無視して中田さんにりんごを渡しに行くと、あーん、と口を開けられた。黙ってその口にりんごを入れると、満面の笑みを浮かべた中田さんがお返しにとりんごを俺の口に押し込んできた。しょっぱさがりんごの甘さを引きたてている。余計に涙が出た。
「.......みんな、ごめんなさい」
「そんなに毎日謝られても困るわ。.......あ、あと。.......私も、りんご.......欲しい、わ」
真っ赤になった葉月の口にりんごを入れる。真っ赤になってもぐもぐしていた。涙が止まらなくなって、その場にしゃがんで顔を伏せた。すぐにゆかりんに無理やり立たされて、ベッドの端に座らされる。
「和臣、何をそんなに泣いてるのよ。全員元気だし、あなたは隊長のままだし、何も悪いことはないじゃない」
俺は、『呪い』の知識所持で罰則を受けた。内容は書類提出と罰金、しばらく常に監視が付くこと、それから一条さんに首を斬られることと、零様との契約を結ぶことだ。先日それを全て終えた俺は、未だ特別隊隊長という席に座っている。
「.......隊長、もしや一条のアレがトラウマに?」
こそっと花田さんが聞いてきた。ゆるく首を振って否定する。
確かに真剣で首を思い切り薙ぎ払われた時のぬらりと冷えた感覚は未だ忘れられないが、なぜか俺の首には傷一つないし血も一滴も出なかったので気にしていない。嘘だ、死ぬほどトラウマだ。絶対に逆らえないと、総能に反すれば誰を敵に回しどうなるのか、しっかりと体に刻み込まれた。俺はこれから総能の言うことは絶対に聞く。
ちなみに零様との契約もトラウマだ。俺は『呪い』について物理的に声に出せなくなったと同時に、総能からの離脱、つまりフリーになることを禁じられた。別にそれはいい。元々フリーになるつもりは無い。普通に白い人と1対1の話が怖かっただけだ。指切りをさせられた時は失神するかと思った。
「.......では、どうなさいましたか? 水瀬さんの言う通り、現状悪いことは何一つありませんよ」
そう、全員生きている。一緒に笑い、食事ができる。素晴らしいことだ、本当に良かったと心から思う。でもだから、だからこそ。
「.......俺は、こんな、大事な人達が、し、死ぬのを、1回受け入れたんだって、思って」
俺は『呪い』相手に、生き延びることを諦めた。それも1人で、勝手に諦めて。葉月に励まされて。1番それをしてはいけない立場だったはずなのに。1番、認めたくないことだったのに。
本当に、死にたくなる。
「.......俺、隊長辞めようかと思ってて」
「「「「はぁ!?」」」」
はっとしたように俺の紺の着物を見た花田さんの顔から、さっと血の気が引く。あとに続いて3人の顔色も悪くなった。
「お、お待ちください.......隊長、まさか、まさかとは思いますが、既に.......? 移動願を、ご、ご提出なさって.......!!」
「いや、これから出してこようと思ってて」
胸元に入れた移動願の封筒を、葉月がばっと奪い取った。まず何故そこにあると分かったのか、それからいきなり他人の胸元に手を突っ込むのはどうなのか。
「う、嘘.......!? マジ!? あんたバカなの!?」
「うん.......バカなんだ。どうしようもない、バカなんだよ」
「え、ちょっと本気で落ち込まないでよ。だーーーもうっ! 調子狂うわね!!」
はあ、と震えるため息が出た。片手で顔を覆い、目を瞑る。俺は本当にダメなやつだ。消えてくれ。
「.......今回の、呪い。俺達を殺そうとしたものだったんだ」
「どういうこと? あれが作られたのは何百年も前なんでしょう? 私達はその頃姿かたちも存在しないわ」
違う、と首を振った。俺達というのは、葉月達のことではない。
「一条から九条までの、9つの家の人間が標的だったんだ。そのために、座敷わらしまで用意してあった。だから、俺がいたからみんな巻き込まれて」
「和臣隊長、まさかその事で責任を感じてらっしゃるんですか? 大体、驚くほど謂れのない恨みですし、現在全ての部隊の隊長は9つの家出身ですよ? 隊長に限って悪いなどということは絶対にありません。絶対に、ないんです」
中田さんが真剣な顔で俺の肩に手を置き、顔を覗き込んでくる。
花田さんが、そっと葉月の手から移動願を取った。そして、にこやかに俺に笑いかけて、予備動作ゼロでびりっと2つに割いた。
「あぁ.......一生懸命書いたのに.......」
「俺は、七条和臣って人間が好きで、尊敬してるから、ついて行ってんだよ。今回頼ってもらえて、嬉しかったんだよ」
花田さんが、破いた移動願を投げ捨てながら言った。中田さんが嫌そうな顔でそれを拾い集める。険しい顔で俺に詰め寄った花田さんは。
「.......もう、待つのは疲れましたよ、隊長」
ぎゅっと女子組に抱きつかれた。中田さんはよしよしと頭を撫でてきた。今日は首や脇などには触れられない。
なんだかくすぐったくて、ちょっと笑ってしまった。
途端にみんな騒がしくなって、楽しそうに笑い出す。気がつけば夏の日が傾いていた。
「ねえ、和臣」
「ん?」
「私も、あなたの笑った顔が大好きよ」
また、あの柔らかい表情をした葉月を見て。
そっと、みんなに気づかれないように、その手に指を絡めた。