呼声
正直、豪華だったはずの夕飯のことは何一つ覚えていない。
花田さんと早めに布団に入ったあとも、全く目を閉じられずただひたすらにトロトロ揺れる炎を見つめていた。
頭の後ろに残る、生々しい熱と肉感。風呂上がりで香り立つ石鹸と肌のにおい。少し濡れた髪からのぞく、柔らかな表情。
ごめんなさい無理。寝れない。俺は変態ですごめんなさい。
「いやむしろ健全なのでは? 逆にこれでなんも思わなかったら不健康じゃないか?」
このままだと花田さんを起こしそうだったので、トカゲだけ持って廊下に出た。
うっすらと明かりのついた廊下を歩く。ただひたすら歩いて邪念を払う。消えろ俺の中の変態、いや、笑う方の変態じゃなくて。もう少し健全な変態というか.......膝枕。
「だああああ!!」
唐突に浮かんだ言葉にのたうち回る。完全にドツボにハマってしまっていた。
『.......い』
「は?」
ばっと後ろを振り返った。すっと急激に体の熱が冷める。今、声がしなかったか?
『.......こい』
「っ!」
印を結んで腰を落とす。辺りを見回して、浴衣に手を突っ込んでから札も指環も無いことに気がついて舌打ちした。
『来い』
「.......」
小さな女の子の声だ。段々ハッキリ聞き取れるようになったそれを辿って、廊下を進んでいく。庭から聞こえる虫の音が、やけに大きく聞こえた。
『来い、来い』
「.......どこにだよ」
声の元と思われる場所は、ただの壁だった。壁の向こうに部屋でもあるのかと入り口を探すも、見当たらない。少し先の廊下の両端の方にそれぞれ部屋の入口が見えるのだが、そのちょうど真ん中にあたるここはどちらの部屋に繋がっているのだろうか。
「あらあら、七条様。こんな時間にどうかなさいましたか」
「あ、女将さん」
「申し訳ございません。大浴場は先程閉めてしまいまして」
「あ、それはいいんです。.......この壁の向こうって、どっちの部屋に繋がっているか分かりますか? 中から声がしたんです。心当たりはありませんか?」
こん、と壁を小突いてみる。壁が厚いのか、中がどうなっているのかは全く分からない。
「そちらですか? そこは、どちらの部屋でもなく壁だと思いますよ」
「え?」
「ちょうど中に太い柱があるのですよ」
女将さんが壁に手をついた。
「.......そう言えば昔、私がまだ10にもならない頃ですが、祖父が言っていました。この宿には座敷わらしがいるのだと。私は見たことが無いので、半信半疑ですが、この宿が繁盛するのはそれのおかげだと聞いています」
「え、めちゃくちゃ怪異使用じゃないですか」
なんだよやっぱりこのおもてなしは賄賂だったのかよ。危うく流されそうになっちゃったじゃないか。使われていない管狐よりも、住み着いている座敷わらしだ。勝手に住み着いているだけなら罰則は軽くすむはずだが、総能へ報告へしなかったのは問題になると思う。早く報告してくれれば良かったのに。
「そう思ったのか、父が何十年か前に総能に調査をお願いしたんです。そして、座敷わらしを含めこの建物内に妖怪も霊も居ないという結果でした。おそらく、私共の思い込みだろうと。もしかしたら私共の先祖は、そう思い込むことでこの宿を大きくしてきたのかも知れませんね」
「え?」
そんなはずはない。今、俺は確かに声を聞いたのだ。総能が調べたのなら絶対に何か見つかるはずだ。
何かがおかしい、そう思って壁を睨んだ。
「七条様?」
「.......すみません、俺が泊まってた部屋まで連れてってもらえませんか? 実は今どこにいるのか分かってなくて」
とりあえず花田さんに相談すべきだ。1人で、しかも丸腰で対処すべきではない。腰元のトカゲが、カタカタと騒がしかった。
女将さんに部屋の前まで送ってもらって、真っ暗な部屋に入る。申し訳ないが花田さんを起こそうとしたところで。
「え? 一条さんからメール?」
チラリと見えた自分の携帯画面には、新着メッセージの表示が。しかも、送り主は連絡先を交換したはいいものの1度もやり取りのない一条さんだった。何かあったのかと慌ててメッセージを見れば「待て」の2文字のみ。なんだ、どういう事だ。何を待てばいいんだ。
「.......隊長?」
「花田さん、起こしちゃってすいません。実は今色々あって」
「いえ。お聞きしても?」
メガネをかけた花田さんが、さっと部屋の電気をつけた。とりあえず、今聞いた声のこととこの宿の過去の総能の調査結果を報告する。花田さんは眉をぐっと寄せて黙り込んでしまった。
「あと、今一条さんからメールがきて」
「メール、ですか?」
「はい。待てって、2文字だけが」
また花田さんが黙り込む。なんだか嫌な空気の沈黙を、唐突にベルの音が切り裂いた。花田さんの携帯が、鋭い着信音を鳴らして光り出した。
「隊長、失礼します。本部からです」
花田さんが電話に出る間、もう一度自分だけで色々考えてみる。しかし、何がなんだかさっぱり分からない。落ち着かない様子のトカゲが入ったランプを撫でて、隣の女子組を起こすべきか悩んでいると。
「隊長、確認なのですが、一条当主からのメールは何時頃のものですか?」
「え? えーっと.......30分ぐらい前です。さっきどういうことですかって返信したんですけど、それに返事はまだありません」
「了解」
しばらくして電話を切った花田さんは。
「.......隊長。一条現当主が、昼頃から行方をくらましたそうです。連絡は一切ついていません」
「は?」
手元の携帯と花田さんを交互に見る。さっきメッセージきたんですけど。
「はい。隊長に届いたメールで、当主の安否は確認できました」
「.......あの、昼頃からって.......そんなに時間は経ってないですよね? あの一条さんですし、ふらっとどこかに行くぐらいありそうじゃないですか?」
そもそも一条さんを誘拐できる人間などいないだろう。いても返り討ちだ。
「.......隊長、私の妻が一条の分家出身なのはご存知ですよね? その関係で、少しだけ事情が知れました」
「はあ」
「一条当主は、一条の宝刀を持ってどこかへ消えたそうです」
一条の、宝刀。
名前は聞いたことがある。代々一条の家が厳重に保管している、とても美しいひと振りの刀だと。
何かを、切ることができる刀だと。
その刀を実際に見たことがある人間は、現在一条当主ただ1人。何が切れるのか、鋼の刀なのか、儀礼用の刀なのか、その一切が謎につつまれたひと振り。表にはめったに出てこない一条の家宝。
そんな刀を持って、当主が行方不明。これは一大事だ。一条の家は大混乱に違いない。
「俺、一条さんに電話してみます」
「ありがとうございます」
一条さんに電話をかける。何度もコール音がなるだけで、電話に出る気配はない。3回目にかけ直したところで、花田さんが首をふった。
「隊長、ありがとうございました。我々も現在余裕のある状況ではありません。この件は1度忘れて、女性陣を起こし声の調査に行きましょう」
「.......はい」
腰に括ったランプの中のトカゲは、ずっと慌ただしく動き回っていた。