電話
俺はその女と別れてからしばらくして結婚した。
特に器量よしとも、料理が上手いとも言えないが、一番の理由は俺が仕事に入れ込んでいても不機嫌にならないということだった。
どこか朗らかで、いつも笑顔を絶やさない。
正直、俺は嫁の怒った顔を見たことがない。
別れた女は掴みどころがなく、不思議ちゃんと言っていいくらいだった。よく怒ったし、よく泣いた。
会えない日はよく手紙を寄越してきた。
その内容も漫画のセリフをそのまま引用したようなものばかりで、時には可愛いとも思ったが、疲れることの方が多かった。
ただ、俺は確かに女が好きだった。
いつも不安そうな横顔、クルクル変わる表情、喜ぶ時は身体中で喜び、悲しい時は身体中で悲しむような女で、特に俺が何かをするとその表現は過多されるようで、よく女をからかった。
何より女は俺の音楽への気持ちを否定しなかった。
才能があるとか、仕事をしてみないかと幾つか言われるほど俺はギターが好きで、それこ日がな一日ギターを弾いていたのだが、俺には勇気が無かった。
つまり、チャンスを掴めずバイトに力を注いでしまったのだ。
自分でも情けないと思ったが、誰にも言えなかった。
そんな時に、ふっと「あの女はどうしてるだろう」と思った、単にふっとだ。
そして電話を掛けてみた。
何度かのコール、その間に少しの後悔と、付き合っていた頃の女の顔、嫁の顔がフラッシュバックして呼吸が乱れた。
「もしもし」
懐かしい声だ、女は歌が好きでヴォーカルをしていた。特に上手くは無かったが、特徴のある声をしている。
「もしもし、久しぶりだな。」
「久しぶり、どしたの?何かあった?」
女は心配そうに様子を伺ってきた。
変わってない、どこか心配性なのだ。
「いやいや、特になんがあった訳じゃないんだけどな。」
「そう、奥さん元気?」
女の声は少しイタズラがかっていた。
俺が結婚してからというもの、嫁の話ばかり聞きたがる。
「ああ、元気してるよ。」
「お嫁さん自慢してよ。」
この話になると女が楽しそうにする度に俺は少し憂鬱になる、まるで昔の自分を責められてるみたいな気分になるのだ、それは俺の勝手なのだが。
「俺さ、またギターの仕事の声かかったんだ」
前置きを考えてる暇はない、本題に入る事にした。
「え!凄いじゃん!」
女は心底驚いて喜んでるようだった。
こういう所は昔から可愛いかった、少し郷愁に浸りながら次の言葉を発した。
「でも、俺は受けられなかった」
「え、なんで…?」
「俺よりすげぇヤツいっぱい居たから」
「そっか…」
「情けないと思ってる?」
「え、そんなことないよ…ただ私からしたら残念だなぁと思っただけ。私はギターが弾けないし、そこまで才能がある訳じゃないもん。」
「なぁ、」
「ん?」
「いつまで経っても夢って叶うのかな。」
自分の声が少し震えてるのが分かった。
「叶うよー、40になったって50になったって叶うよー。当たり前じゃん。」
途端に胸が苦しくなった、俺はなんでこの女を軽くあしらって来れたのだろう。
「そうだよな、うん、そうだよな。」
自分の口角が上がるのが分かった。
「お前今は何してんの?」
「えー私?映画館の受付してるよー。」
気付けばその日、女と何時間も喋っていた。