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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第二章 第八節
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97.愚か者たちの兵営

 ――畜生! 畜生!


 後ろから迫る何かを振り切ろうと、泥まみれの男が走っている。


 闇が深い。さっきまであれほど瞬いていた星は、一体どこに消えたのか。

 夜が、こんなに長かったことは初めてだ。

 きっと朝は、もう来ない。そんな思いすら芽生える。


 暗い、怖い。


 死にたくない。


「あの娘だ! 畜生ッ! あの娘のせいで――! ――うわっ!」


 男は何かにつまづいて、もんどり打って転がった。

 彼は頭からぬかるみに突っ込み、手に持った松明を、地面に取り落としてしまった。


「……がッ、ぺッ! 畜生、このやろ――、ひっ!」


 体を起こしながら口に入った泥を吐き出し、悪態をつこうとした男の目に、自分が躓いたものの正体が入ってきた。

 死体だ。ここにも死体が転がっている。


「ッ!」


 運悪く水たまりに落ちた松明は、じわじわとその炎を弱めていく。涙目になった男は、すがりつくように素早くそれを拾い上げ、再び走り出した。

 夜の暗闇は深い。自分は果たして、正しい方向に逃げているのだろうか。確かめる方法は無いが、足を止めることはできない。


光がほしい。男は切実にそう思った。


 戦いの音は、もう聞こえない。それと引き換えに、より闇が濃い方へと逃げてきてしまった。

あの場所に戻れば、まだ抵抗を続けている者がいるかもしれない。あそこならまだ、灯りが残っているかもしれない。だが――、だが、あんなものがいる場所に、戻りたくない。


 迷いながらも足を動かす男の耳に、ジリジリという小さな音が聞こえた。


「あああ! くそッ!」


 松明の炎が消えていく。どうにか保たせられないかと苦心したが、無駄なあがきだった。

 火が消えると、男の周囲は完全な暗闇に包まれた。


 移動することも困難になった闇の中で、男は短剣を構え、五感を研ぎ澄まして周囲を警戒する。


「――! カイルか……!? ジェイスか!?」


 左手に、何かが動く気配がした。男は反射的にそちらを振り向き、仲間の傭兵の名前を呼ぶ。

 呼んでも無駄だと、知っているのに。


「……リグス団長!?」


 返事はない。


「……誰だ!? おい! 何とか言え!」


 そう、頼むから何か言ってくれ。

 四方の暗闇から、何かが迫ってくる。夜はまだ、明けそうになかった。



 見渡す限りの緑の草原。そこには、所々に小さな林が点在している。草原のそこかしこに突き出した白い岩は、この地方特有の景観だ。

 境目は見えないが、この草原のどこかから、結界が途切れる。その見えない線を一歩越えれば、そこは人間の世界ではなく、魔物の世界だ。

ここから一番近い村や町までは、かなりの距離がある。


 それ以外に、普段、ここに特筆すべき眺めはない。そう、普段ならば。


「意外に集めたな」


 雲一つなく晴れ渡った夏空の下、小高い丘の上に立ったリグスは、草原に作られた兵営を一望した。


「地方領主たちが百、二百と兵を出して、三千くらいは集まったそうです。人夫も合わせたら、この陣中に四千くらいはいるんじゃないでしょうか」


 その報告を聞いて、傭兵の一人がそりゃすげぇと口笛を吹いた。他の者も同意するように、二度三度とうなずいている。

 兵営の中には大小のテントが張られ、その間を人や馬が行き交っていた。これだけの人間が集まった陣は、まるで一つの町のようにも見える。そしてこの陣は、ある一つの建造物を中心に広がっているのだ。


「確かに、それくらいはいるな……。俺も少し、あの坊ちゃんを見くびってたかな?」


 彼にとっても、これだけ大規模で本格的な兵営を見るのは久しぶりだった。彼は五十人に満たない傭兵団で、ずっとあのクルツを護衛してきた身である。ここにいる四千の人間が、全て味方ということならば、心強さは言うまでもない。


「でも、こんなに人を集めてどうするんすか? 俺たちも、あれを作るのを手伝えってこと?」

「いや、さすがに違うだろ。まさかあの坊ちゃんも、俺たちに大工のまねごとをしろとは言わんだろ。――そうっすよね、団長」

「ん? ああ、そうだな……」


 部下の言葉に生返事をするリグス。その目は兵営の中央にある、大きな白い建造物に奪われている。


「あれが、新しい聖堂ってやつか……」


 リグスの声には、圧倒された響きがこもっていた。

 そう、聖堂だ。まだ完成にはほど遠い。しかしその特徴的な構造から、一目でそれと分かる宗教的な様式の建築。そんなものの工事が、結界の端に近い、荒野のただ中で進められている。


「何か、妙な気分だな……」


 かつては戦場でならしたリグスにとって、四千の陣は久しぶりだが、圧倒されるほどの大きさではない。

だがその中央にあるものが、城でも砦でもなく、神の御座所だということが、この異質な感覚を生み出すのだろうか。


「団長、そろそろ行きましょうよ」

「そうだな……。いつまでも、観光してる暇はねぇか。それじゃあ、俺たちも陣に入るぞ」


 リグスの号令を受けて、ぞろぞろと傭兵たちが動き出す。

一度、全体を見渡せる場所から見てみたかったので、少しだけ回り道をしたが、その甲斐はあった。ああした光景は、滅多に見られるものではない。リグスのような無骨な男でも、そう思えた。

 丘を降りて陣に近づくと、聖堂の全体像はうかがえなくなった。代わりに独特の、男たちのすえた汗と、鉄の匂いが混じり合った空気が漂ってくる。リグスにとっては、嗅ぎ慣れた懐かしい匂いだ。


 ここからだと、この陣も普通の兵営にしか見えない。


 地方領主たちの手勢をかき集めたというだけあり、兵の質も装備の質もまちまちだ。しかしまちまちではあるが、質自体は悪くないとリグスは思った。少なくとも、この前の農園での仕事で一緒になった民兵などとは、雲泥の差だ。下手をするとこの中では、リグスの傭兵団がもっとも貧相な装備をしているかもしれない。

 歩きながら、それぞれを率いている指揮官の顔も見た。それなりに“まとも”な人間が送られてきている。紋章付き――貴族らしい姿の者も多かった。


 ――気合いが入っているのは、坊ちゃんだけじゃねぇってことか。


 その理由は分からないでもない。この事業は、クルツが打ってきた手の中では、まさに切り札と言える計画だ。成功すれば――あくまでも成功すれば、本当にクルツとユリアンの立場を入れ替えることができるかもしれないほどの。


 半信半疑の者は多いだろう。他ならぬリグス自身がそうであるように。

 しかし、ここは兵の出しどころだと、多くの領主に思わせる力はあったということだ。ここで兵を出し、恩を売っておかなければ、万が一クルツが逆転したときに、大きな顔ができないと。


「グレンたちはどこだ? 坊ちゃんと先に着いてるはずなんだが」


 リグスは兵営の中に、先行した副長と雇い主の姿を探す。しかしすぐに、当てもなく探しても無意味だと思い直した。

 彼の雇い主のクルツは、戦で言うならこの陣の総大将だ。ならばきっと、それらしいところにいるだろう。部下たちに待機を命じて、リグスは聖堂の方向に歩きはじめた。


「やあ! 来たな団長」


 果たしてクルツは、陣の中央――聖堂の足下に設営された、一番大きなテントの中にいた。

 リグスが入り口をくぐると、クルツはすぐにその姿をみとめ、意気揚々と声をかけてくる。


「待ちかねたぞ」


 テントの中には数人がいて、クルツを中心に会議を行っていたようだ。身なりからすると、どの顔も貴族であることは間違いなかった。


「ええ、すみません。ちょっと遅れましたか」

「そんなことはないとも。――どうだ、感想は」

「なんの感想です?」

「はっはっは、とぼけなくていい。――我々の聖堂だよ!」


 たいした上機嫌である。

 しかしそれも仕方がないか。あの聖堂の建設はこの坊やにとって、乾坤一擲の一大事業だ。その目の前で、この数の手兵に囲まれていれば、気が大きくなるのは当然だ。


「素晴らしいもんですな。たまげましたよ」


 雇い主を持ち上げなければという気持ちが半分、本当にたまげたという気持ちが半分、リグスがそう答えると、クルツは満足そうにうなずいた。


「我々がいない間、何か問題はありませんでしたか?」

「いや? 全くもって順調だとも。なあ、ヘルムート」

「はい、クルツ様のおっしゃるとおりです」


 にこやかに返事をしたヘルムートという男の顔を、リグスは憶えていた。護衛としてクルツについて行ったいくつかの夜会で、その姿を目にしたことがある。

 どれくらいの領民の血と汗を吸ったのだろうか。いかにも裕福そうに肥え太ったその男の言葉は、常に本音とは違うことを喋っているかのように聞こえる。――つまり、リグスが最も苦手なタイプの貴族だ。


「それはよかったです。……で、我々はこれからどうすれば?」


 テントの中央には机が置かれ、その上に大きな布が広げられている。そこに書かれているのは、例の聖堂の設計図だろうか。

 クルツはあごをさすりながら、満足げにその図面を見下ろしている。


「そう気負うことはない。見ての通り、今回はこれだけの兵がいる」


 私の人望のたまものだ。クルツはそう言って鼻をうごめかし、テントの中にいる貴族たちが迎合する笑いを見せた。


「君たちにかける負担も、少なく済むさ」


 リグスは無言で、小さく頭を下げた。


「……団長、君たちの功績は理解している。ここまでよく、私に仕えてくれた」


 机を回ってリグスの横に立ったクルツは、感慨深そうにつぶやきながら、リグスの肩をたたいた。まるで、もう計画が成功したかのような口ぶりだ。


「傭兵ながら、君は忠義というものを理解している、数少ない人間だ。今回の計画が成功すれば、君にも大きく報いることができる。失望はさせない」


 期待はするまい。自分が求めるのは、あくまで事前に契約した通りの報酬を、確実にいただくことだ。心中でそう思いつつも、リグスはありがとうございますと、丁寧に感謝の言葉を述べた。


「もうすぐだ。もうすぐ教会の者たちも来る。そうすれば、秘蹟はすぐにでも始められる」


 そわそわと歩き回りながら話すクルツの顔は、熱に浮かされたように上気している。


「秘蹟、ですか」

「そうだ!」


 結界の秘蹟――。長い間頓挫していたクルツの計画が、この荒野において、いよいよ本格的に動き出していた。

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― 新着の感想 ―
冒頭のから逆転があるのかどうか あるよね? あの人なら?
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