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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第二章 第四節
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72.助祭長

 芝居の幕が上がった。楽団が演奏を始め、役者たちが歌うように語り出す。さっきまであれだけ騒いでいた客たちは、水を打ったように静まり返り、舞台という空間に作り出された一個の世界に見入っている。

 そしてそれは、アルフェも例外ではない。

 護衛としては不適切だが、初めて見る舞台で繰り広げられる幻想的な光景に、彼女はほんのひと時、心を奪われていた。


 演目は、良く言えば王道の、悪く言えばありきたりな物語だ。

 帝国の基となった王国を築いた英雄を主人公とした、建国の神話。この国に住む人間ならば、必ず一度は耳にしたことがあるストーリー。アルフェも本で読んだことがある。役者たちの力か、それとも舞台の魔力と言うべきか、よく知っているはずのその筋立てが、胸に迫って響いてくるのは。

姿勢を正したまま、アルフェはまばたきもせずに舞台上を見つめていた。


 しかし彼女の護衛対象であるクルツにとっては、舞台の上で行われていることは、見飽きる程に見た陳腐なものだ。老練な男優の演技も、魔術を用いた新しい演出も、彼に対して、さして感動を与えることはない。むしろあくびをかみ殺すので精一杯だ。

 クルツにとっては舞台よりも、隣に離れて座っている冒険者の少女の方が、遥かに興味深い存在だった。

 だが、彼は先ほどアルフェに手ひどくたしなめられたばかりである。クルツは露骨な口説き文句を口にすることを控えて、一応は舞台の方に目を向けていた。それでも時たま、ちらちらと横目で少女の様子をうかがっている。


「……」


 舞台の光に淡く照らされた、彼女の無言の横顔は、呆れるほどに美しい。お世辞ではなく、クルツはそう思う。大理石の様に滑らかな肌は、瞬きし、呼吸に胸が上下するのを見なければ、精巧な彫像と言われても納得する。こんな女性を、クルツはかつて見たことが無かった。

 同時に、本当にこれがリグスの言うような腕利きの冒険者の顔なのか、とも考える。

 冒険者というと、リグスやその配下の傭兵たちのように、むさくるしく礼儀も知らない、野卑な男たちばかりだと思っていた。しかしこの娘には、クルツが社交界で相手をしてきたどの令嬢にも引けをとらないだけの、ある種の気品が備わっている。

 先日の晩餐会に同行させた時も、彼女は完璧に場の作法を心得ていた。会場に向かう前、クルツの居館で、侍女に彼女のテーブルマナーの指導を申しつけたが、逆に侍女の方が恐縮し、引き下がってくる始末だった。


 さらに、それだけではない。それだけならば、彼女がここまでクルツの気を引くことは無かったはずだ。

 八大諸侯の一人であるエアハルト伯の第二子として、美貌を誇る婦女子は、これまで何人も目にしてきた。

 しかし彼女には、今までクルツがどの女性にも感じたことのない“何か”がある。

 初めて会った時から、クルツは彼女を見ると、胸の動悸が止まらなかった。

 さっきもだ。彼女のあの蒼い瞳で見つめられると、得体の知れない胸の高鳴りに襲われて、クルツの身体は動かなくなる。小刻みに手が震え、背中が汗で濡れる。これは未だかつて、彼が感じたことのない感覚だった。

 自分の中に湧き出すこの想いは、一体何なのだろう。


 ――ひょっとしたら、これが……。


 恋、というものなのだろうか。

 桟敷の外、廊下の扉の前で仁王立ちしているリグスがこれを聞いたら、即座に否定したに違いない。クルツはおそらく、それとは全く別の感情を、アルフェに対する興味とはき違えているだけだ。


「……何ですか?」


 その声に、クルツははっと我に返った。いつの間にか、アルフェが舞台から目を外し、クルツの方を見ている。どうやらまた、クルツは我知らず、アルフェの姿に見入っていたようだ。


「い、いや、何でもない。――そ、そう、客人はまだかと思ってね」

「幕間までは、いらっしゃらないのでしょう?」

「あ、ああ、そうだ。そうだが、待ちきれなくて」


 息苦しそうにシャツの胸元をいじりながら、クルツは慌てて、どぎまぎと言い訳をする。


「そうですか」


 それだけ言って、アルフェは視線を舞台に戻した。

 第一幕が終わるまで、桟敷の中で行われた会話は、それだけだった。


 王となる男が、大地を荒らす邪龍の討伐を決意し、天にその誓いを立てたところで、第一幕は終わった。

 幕間になり、休憩のために平民たちが平土間から出ていった。劇場内にこもった熱気が、人の群れと共に動いていく。

 桟敷席の客は、顔を出すべき別の桟敷へと移動を始めた。そこかしこの桟敷で、顔を寄せ合って囁き合う人々の姿が見える。リグスの言葉ではないが、貴族連中にとって、劇場は演劇を見に来るためのものではなく、社交が目的の場であるようだ。


「旦――おほん。クルツ様、客人がお見えです」


 打ち合わせた通りの規則的なノックが響き、扉を開けたリグスが、桟敷内に声を掛ける。クルツは立ち上がり、入ってきた壮年の男を出迎えた。


「やあ、よく来てくれた」

「御無沙汰しております、クルツ様。お変わりないようで」


 そう挨拶した男は、見た目からは教会の人間だとは分からない。男は祭司服ではなく、普通の夜会服を身につけていた。


「シンゼイ殿も久しいな。――主教のお加減は?」

「余り、芳しくはありません」

「前よりもか?」

「……はい」

「……ふむ、そうか。君も、助祭長として忙しいことだな。まあ、掛けてくれ。立ち話もなんだ」

「はい、では遠慮なく。……おや、こちらの女性は?」


 薄暗い桟敷の中だ、クルツにシンゼイと呼ばれた男は、席に着こうとしてようやくアルフェの存在に気が付いた。

 アルフェはドレスの裾をつまみ、男に向かって辞儀をする。

 彼が少し眉をひそめているのは、密談の場に知らない女がいることを、とがめてでもいるようだ。


「ああ、気にしないでくれ。信頼できる女性だから。……ここのところ物騒でね。私の護衛だ」

「……護衛? これが? ……そうですか」


 密議の場に、ただ愛人を連れてきていると思われたのでは、流石に都合が悪いと考えたのだろう。クルツはアルフェの立場を説明したが、シンゼイは納得した様子ではない。それでも目上のクルツに対して、異を唱えることはできない様子だ。シンゼイはクルツの隣に席を取り、話を始めた。


「手配の方は、順調か?」

「はい。資金調達の折は、御迷惑をおかけしました」

「いいさ、我が領民のためだ。それで、いつ頃になる?」

「急がせてはおりますが……」

「早くしてもらわなくては困る。……父上の容体も、あまり良くない」


 夏を越えるのは難しいかもしれない。そう言った時のクルツの表情は苦しげだった。


「このままでは兄上――奴が伯を継ぐことになるぞ。あの男が、その時に君たち教会をどう扱うか、想像できるだろう」


 例によって、アルフェは何の興味もないという表情で、舞台の方を見つめている。

 だが、その耳は二人の会話を聞いていた。


「秘蹟に必要な遺物が、まだ帝都から届かないのです」

「……またそれか」


 クルツが何かを急かし、シンゼイは教会の代表として、その弁明をしている。

 先ほど、クルツは主教と言った。主教とは、各地の聖堂を管理する、それぞれの地域の教会の長だ。この男、シンゼイはその助祭長だという。となると彼は実質、このエアハルト領における、教会勢力の第二位の位置にいる人物だ。

 それがこんなところで、次代の伯を争う男と、何の密談をしているのか。


「申し訳ありません。しかし、新たな結界を張るには、遺物の存在が欠かせないのです」


 ――新しい、結界?


 シンゼイの放ったその単語が、特にアルフェの耳を引いた。


「だから、必要なものを教えてくれれば、こちらで調達すると言っているのだ。聖堂の外側だけでき上がっても、中身が無ければ無意味だろう」


 クルツの声色からは、彼の苛立ちが読み取れる。


「結界に関する秘蹟は、秘儀中の秘儀です。遺物について、教会外の方にお教えする訳には……。……実のところ、私も詳しい中身を存じ上げませんし」

「……もういい、分かった。その遺物が届けば、結界は完成するのだな?」

「それはもう、すぐにでも」

「では、私は引き続き聖堂の建設を続ける。だが、奴にこの動きを悟られるのは時間の問題だ。だから君は、その遺物とやらを一刻も早く調達してくれたまえ」

「はい、お任せ下さい」


 二人の密談は続いている。

 アルフェの中には、少なからぬ驚きがあった。いつの間にか再開している演劇の内容も、頭に入ってこない。


 新しい結界を作る。確かに彼らは、そのための話をしている。

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