6.食うために
「時にお前は、魔術を使うことはできるのか?」
「は、はい。いえ、基本的な教育は受けました。ごく簡単な治癒魔術は使うことができます。ですが、本格的な魔術の訓練は受けていませんし、使えません……」
「十分だ。むしろ下手に既存の魔術の訓練を受けていないほうが好ましいかも知れん。……俺以外にこの技を使える者はおらんから、お前が使えるようになるかは分からんのだが……」
コンラッドの最後のほうのつぶやきは小さく、アルフェには聞き取れなかった。彼女にはまだ、先ほどの技を見た興奮が残っている。にこにことコンラッドの指示に従っていた。
「とりあえずやって見ると良い。構えてみろ」
「はい、お師匠様!」
アルフェが元気よく返事をする。彼女は拳を前に突き出して、見よう見まねで構えをとった。
「拳は握りこまなくていい。武神流の基本は掌打だ。単純に接触面が多いほうが魔力が通しやすいからな。重心を落とせ。もう少し肩の力を抜くんだ。自然体だ。体内の魔力を感じるか? それを循環させ、身体中に張り巡らせるイメージだ。下腹に力を入れろ。そこを魔力が通るとき、さらに増幅させるんだ。そうして魔力を循環させつつ、徐々に高めていく……」
「ちょ、ちょっと待ってください! いきなりそんなに言われても、一度にできないです!」
滑らかにまくし立てるコンラッドをアルフェは制止した。乱暴な見た目だが、さっきの流派に関する説明といい、彼は理知的な話し方も、しようと思えばできるのかもしれない。
「……普通の魔術を使うときと、やってることは大して変わらない。違うのは、体外のマナに干渉しようとするのではなく、純粋に己の肉体に対して魔力を行き渡らせるということだけだ」
普通の魔術と同じ。そう言われて、アルフェは魔術を使うときのことを想像した。自分の中にある魔力の流れを外界に流れる魔力の流れに干渉させて、効果を引き出すイメージだ。しかし今はあえてマナを感じようとせず、体内の魔力にだけ意識を向ける。
「そうして高めた魔力を、相手に触れる瞬間だけ放出し、敵の体内に叩き込むのだ。干渉を受けた相手の魔力の流れは乱れ、身体に重大なダメージを与える。……と、言うのは簡単なんだが」
集中すると、確かに体内の魔力を感じる。普段は余り意識しないが、身体の中を駆け巡っている。この流れを速めてやればよいのだろうか。
魔力が身体の中を回転する速度が上がる。全身が何やら熱を持ってきたようだ。これがコンラッドの言う魔力の高まりだろうか。しかし――これはまずい。回転が止まらない。どんどん体が熱くなる。構えているだけなのに、アルフェの顔は赤くなり、額から汗がこぼれる。動悸が早まり、息も乱れてきた。この高まりを外に出さないと、体が破裂してしまいそうだ。
ふらつきそうになりながら、アルフェは目の前の藁束を見据える。よく分からないが、先ほどのコンラッドと同じようにやればいいのだ。
――相手に触れる瞬間に、魔力を相手に流し込む……!
アルフェが腕を突き出す。先ほどと違い、拳ではなく掌打だ。そして手の平が標的に触れる瞬間、アルフェは体内の高まりを解き放った。
彼女の突き自体は弱々しいものだったが、しばらくするとパンッという小さく乾いた音がして、藁束の背中がはじけた。
アルフェの体内の高まりは消えている。師の技とは比べるべくもないが、どうやら成功したらしい。アルフェの中に小さな達成感が生まれた。
「やりました! 少しだけどできました!」
「そうか、やはりできないか……。無理もない。俺がこの原理を体得するまで、十年の歳月がかかった……。……ん? できたのか!? え、マジで!?」
「はい、やりました! ほんのちょっとだけど……、でも、これでいいんですよね!」
コンラッドはきょろきょろと、藁束とアルフェを見比べる。大分挙動不審になり、さっきまでの演技じみた口調も崩れてしまっていた。
「ほ、本当だ……、できてるよ……。マジか……」
そんなコンラッドの姿を見て、アルフェは思った。
どうしてそんなに驚くのだろう。流派の基本のはずなのに、お師匠様は私にはできないと思って教えていたのだろうか。少し心外な気がするが、無理もない。このような非力な小娘に、それほどの期待はかけないだろう。しかし、私はやったのだ。これで何とか失望されずにすむだろう。これで更に教えを請うことができる。
「やりました! すごいです! これで私も強くなれますよね!」
「う、うん、そうだな、すごいな」
「やりました! これで私も冒険者になることができますね! 依頼を受けることができますね! そうしたら、おなか一杯おいしいものを……、あ、あら?」
アルフェは嬉しさの余りぴょんぴょんと飛び跳ねていたが、急にめまいがして、ぐらりと横に倒れそうになった。
「あ、あれ、どうしたのでしょうか。体が、うまく、動きません」
とっさに片手を床についた彼女に、コンラッドが改まった表情で告げる。
「オホンッ。……当然だ。体内の魔力が尽きれば、人は死ぬ。おまえは今体内の魔力を放出しすぎて、魔力が枯渇寸前なのだ。魔術師たちができるだけオドを使わず、体外のマナを利用するのは、魔力の枯渇による死を防ぐためでもあるな。それだけに、世間ではオドを利用する技術は未発達なのだ。しかし、この技を高めていけばいずれ我が流派が世界標準になるだろう! 何、鍛錬していくうちに慣れる! ちょっとやそっとで死にはしない!」
コンラッドは何気に危険なことを言っている気がするが、それも耳に入らないほど、アルフェは消耗していた。
「しかしその様子では、今日はもう鍛錬を続けられないな。まあいい、今日は帰って休め、明日続きを行おう」
「は、はい……、お師匠様」
うまく動かない身体を無理やり動かして、アルフェは稽古着から、もとの服に着替えた。コンラッドに礼をして道場を跡にしようとしたところ、アルフェはコンラッドに思い出したように呼び止められた。
「言い忘れていたが、月謝は月に銀貨二枚だ。前払いでいいぞ!」
アルフェに向かって手のひらを突き出すコンラッドの微笑が、少女にはとても残酷なものに見えた。しかし、これは必要経費である。アルフェは残りの全財産から、泣く泣く銀貨二枚を差し出した。
◇
突然やってきた少女が出て行った後、コンラッドは一人、道場の中心で瞑目していた。その口は、笑みを隠しきれないといったように歪んでいる。
――家を出て、道場を立ち上げてからこっち、全く客が来なくて不安になって来たところだが……。どうやらようやく、俺の商売も軌道に乗っていきそうだ……!
コンラッドは平民の出自ではない。実家はさる貴族の家だが、悲しいかな彼は三男坊だった。家督を継げる身分ではない。冷飯喰らいになりたくなければ、後は婿に行くしかないが、コンラッドには婿になる口がなかった。
それは彼自身の大雑把な性格も原因だったかもしれないが、もっと大きな理由があった。彼が剣も魔術も、人並に使えなかったからだ。
――出来損ないだな。名誉ある武門の家に生まれて、それか。恥ずかしくはないのか?
「――ちっ」
いい気分だったコンラッドの脳裏に、突然苦い思い出がよぎり、彼は軽く舌を打った。
「まあいいさ。これで俺にも、弟子ができたんだ」
このままではわずかな貯えも底を突き、いよいよ食い詰めるかと悩んでいた矢先、ようやく冷やかしの類ではない、初めての客がやってきた。
――しかし……、あの娘、恐ろしい才能を持っているのかも知れん。あのように簡単にできる技術ではないはずなのだが……、生来の魔力量が尋常ではないのか?
ここに流れてくるまでにも、ここに住み着いてからも、コンラッドが自分の習得した技術を他人に伝えてみようとしたことはあった。だが、どうやってみても上手くいかなかった。
たまたま相手に才能が無かったからだと、その度に彼は自分に言い聞かせていたが、ひょっとしたら、この技は己以外には扱えないのではないかと、不安に思い始めていたこともまた事実だ。
「あの娘が、俺の運を変えてくれるかも――。あの娘……。……あれ?」
そう言えば、あの娘はなんと言う名前なのだろうか。それを聞き忘れたコンラッドは、娘の出て行った扉を見て、首をひねった。
――お金の残りが、銅貨二十枚……。
家路につきながら、アルフェは何度も革袋の中身を数えた。しかしその数は、当然のことながら増えたりはしない。
コンラッドに月謝を払ったのは間違いではない――と思う。あれは将来の自活のために必要な先行投資だ。だがしかし、そのせいでアルフェに残された生活資金は、本当にあとわずかになってしまった。
――とことん節約しないと……。
アルフェとて、さすがに今日学んだことだけで薬草を採りに森に出かけるほど無謀ではない。せめて、ゴブリンに対処できるだけの技を身につけたかった。
――お師匠様は、十日で私を強くしてくれると言われました……。十日……。一日銅貨二枚で生活……、できるでしょうか?
できるできないではない。やらなければならないのだ。決意を込めて、アルフェは一人うなずいた。
――でも今日は、家に戻りましょう……。
今は体がガタガタだ。昨日からの筋肉痛もあったし、それに加えて、体の中身がまるごとどこかに抜けたような、初めての感覚もある。放っておくと、足ががくがくと震え出しそうだ。アルフェはよたよたとしながらも、家までの道のりを何とか歩いた。最後は半ば這うようになりながら家にたどり着くと、一階の床に倒れこみ、まだ日も高いというのに翌朝まで熟睡してしまった。
「あ、あれ? ここは……」
目覚めたアルフェは周囲を見回した。ここは家のリビングだ。一昨日はベッドにたどり着いたが、昨日は床に倒れたまま眠ってしまったのか。アルフェは伸びをして、体を動かした。半日以上寝たおかげか、疲労感は全く残っていない。その代わり、とても腹が減っている。
キッチンのテーブルの上に、細長いパンが乗っている。昨日の朝買ったものだ。疲労困憊していたが、あれを持ち帰ることだけは忘れなかったらしい。とても大きなそのパンを、アルフェは夢中で食べてしまった。副菜は何も無いが、水だけで腹に流し込んだ。
パンを食べきって、彼女はようやく人心地ついた。これを一度に食べてしまうと、早速今後の食料が危ぶまれるはずだが、どうしても我慢できなかったのだ。
気がつけば、数日前から身体もまともに洗っていない。年頃の乙女としては耐え難いものがあっただろうが、濡らした布巾で一通り身体を拭くと、アルフェは身支度を整えた。
「……よし」
その声は、少しだけ力強い、決意の籠っている声だった。昨日と違い、今日の彼女には行く当てがある。とにかく資金が尽きる前に戦い方を身につけ、冒険者として依頼を達成するのだ。
「よく来た。早速鍛錬を始めようか」
「はい、お師匠様!」
まだ早朝と言える時間だったが、幸いにしてコンラッドは道場にいた。
「とは言ってもな、やることは昨日と変わらん。十日でゴブリンと戦えるようになりたいのだったな? その期間で、お前に肉をつけろと言っても難しいだろうしな。なので当面は体内の魔力を高める訓練と、基本的な構え、打ち込みだけだ」
それからアルフェは、ひたすら昨日と同じ動作を続けさせられた。そのたびに少しずつ構えを修正される。さらにアルフェはコンラッドの助言に従って、打ち込む際の魔力の放出を、できる限り少なくするように心がけた。
そのおかげか、昨日と同じ技を使ってもそれほど疲労はしなかった。その代わり、打ち込みの威力は落ちているらしい。昨日は藁束の背中がはじけたが、今日はせいぜい若干背中が膨らむ程度だ。アルフェが目で問うと、コンラッドは首を縦に振った。
「心配するな。ゴブリン程度ならばこれで十分だ。この技は、無生物に対するよりも、生物に対するほうがより効果を発揮する。……と、もう昼だな。飯にするか」
「え……」
アルフェは愕然とした表情になった。彼女は弁当など持ってきていない。金に余裕が無いからだ。
「何だその目は……、なぜ涙目になる…………。お前も食うか?」
「――! はい、いただきます! ありがとうございます!」
「見た目よりも、食い意地の張った奴だな、お前は……」
やはりお師匠様は素晴らしい方だとばかりに、アルフェは即答した。
コンラッドの昼食も豪華とは言い難かったが、パン以外に食べるものがある食事はずいぶんと久しぶりな気がした。夜は食べられるかどうかも分からない。コンラッドは若干引いていたが、アルフェは食べられるだけ食べた。
「ありがとうございました」
「ああ、ではまたな」
その日の訓練が終わり挨拶をすると、アルフェは道場を出た。
坂を下って家に戻る途中、アルフェはふと足を止めた。
――きれい……。
丘から見える町が、夕焼けで染まってとても美しい。アルフェはつい今の悲惨な境遇を忘れ、しばらくの間景色に見入ってしまった。
この数日は、とても大変な日々だった。考えてみると、城を脱出してからこっち、彼女は悲惨な目にばかりあっている。しかし不思議と、アルフェが城に帰りたいと言い出したことは無かった。
なぜだろうか。それは多分、アルフェが今の自分に満足していたからだ。
今の生活は、確かに惨めだ。己の愚かな選択で、状況はより悪い方向に向かってしまった気がする。だが、これは自分が決めたことだ。その結果に後悔することはあるが、それさえも自分が選んだ結果だ。そんな風に彼女は考えていたのだ。
城でのアルフェは、自分では何も決められなかった。彼女の姉のように、自分の境遇に抵抗しようとも思わなかった。そう考えれば、今のアルフェは少なくとも自由であった。
結局上手くいかず、飢えて死ぬことになるかもしれない。魔物に殺され、無残な屍をさらすことになるかもしれない。それは確かに、辛くて、苦しいことだ。だが、それでもきっと、自分は満足することができるだろう。アルフェはしばらく景色を眺めてから、自由な足取りで坂を下った。
ちなみにその日の晩餐は、塩と豆だけのスープだった。道場でおなか一杯食べてきて良かったと、アルフェは心から思った。
◇
アルフェとコンラッドが出会ってから、あっという間に九日間が経過した。
今日も彼らは、二人で修行にいそしんでいる。
「この辺りのゴブリンの動きは鈍い。落ち着いてさえいれば、お前でも十分に見切れる。重要なことは、緊張しすぎないことだ。それに、ゴブリンに戦術というものは無い。手に持った武器を大振りしてくるだけだ。落ち着いて動きを見れば、必ずかわせる。そこに掌打を叩き込むのだ」
コンラッドはモンスターについても一通りの知識を持っていた。現在二人は、ゴブリンの動きを想定した訓練を行っているところだ。
「恐れるな。正面から一対一で戦えば、子供でも負けはしない」
アルフェはあれから、毎日朝早くから道場に出かけ、日が暮れるまで修行に励んだ。そのおかげか、少しは動きが様になってきた気がする。今ならば、あの時のゴブリンに遭っても対応できるだろうかと思えるほどに。
時間切れは迫っている。アルフェを取り巻く経済的な状況は、いよいよ切迫していた。昨日はついに灯りが尽きた。火をともす油も、ろうそくさえもない。陽が沈むと家の中は真っ暗闇だ。その中で豆スープをすする少女の姿は、なかなかに悲壮感が溢れている。
――今日くらいは夜に、パンを食べたいです。でも、残りのお金は銅貨二枚……。
その金がなくなれば、彼女は正真正銘の一文無しだ。ゆえに明日、アルフェはついに南の森に再挑戦する。コンラッドにもそのことは伝えてあるので、今日は午前中だけで稽古を切り上げる予定であった。
「今日はこんなところで止めておくか……。疲労をためてもいけない。早めに休んで、明日に備えるといい」
「はい、何から何までありがとうございます、お師匠様。きっと成し遂げてきてみせます。その時は真っ先に報告しに参りますので、どうか期待してお待ちください」
「そ、そうか。……俺は明日は付いて行くことはできない。これはお前の仕事だからな。……しかし、少しでも無理だと感じたらすぐに逃げろ。命を粗末にするな。いいな?」
コンラッドがそうやって念を押すのは、これで数回目だ。しかしもとより彼に頼り切りになるつもりなどなかったアルフェは、理解しているという風にうなずいた。
「承知しております。……それでは、私はこれで失礼します。どうかお元気で」
「……今生の別れのようなセリフを抜かすな。……本来、ゴブリンは駆け出しの冒険者でも何とかなる相手だ。わずか十日とはいえ、俺の指導を受けたおまえだ。後れを取ることはない。もう一度言うが、自信を持て」
優しい声を掛けられ、アルフェの胸は、思わずじわりと暖かくなる。それを抑えるように胸に手を当て、彼女は言った。
「はい、大丈夫です。……依頼を達成したら、そのお金でお師匠様にお食事をご馳走します。楽しみにしていてくださいね」
「だから、そういう不吉なことを言うのはやめろと……。……それはそうと、アルフェ、最後にお前に言っておくことがある」
しばらく何かに思い悩んだような表情を見せてから、コンラッドが口を開いた。そう言えば、アルフェが彼から名前を呼ばれたのは初めてではなかったろうか。
「何ですか?」
「……俺がお前に仕込んだ技は、おそらくは、お前が思うよりもずっと強力な術だ。ゴブリン程度、たやすく葬れる」
「はい」
「だが……、剣や魔法と違って、素手で相手を倒すということは、お前が想像しているよりずっと心に堪えるかもしれん。それ以前に、魔物とはいえ、お前が生き物の命を奪えるのかどうか。……実のところ、俺はそれを一番心配している」
ゆっくりと、諭すようにコンラッドが語る。それに対し、彼の言っている意味が分かっているのかいないのか、アルフェは優しく微笑んだ。
「大丈夫です。覚悟はしております。……ですがなぜ、お師匠様は今になって、そのようなことを仰るのですか?」
「こんな技を教えておいてから言うのは何だが……、言わないのも、卑怯な気がしたんだ」
アルフェから目をそらしながら、ぶっきらぼうにコンラッドが言った。
それを見て、アルフェは何を思ったのだろう。少し目を丸くしてから再び微笑み、丁寧にお辞儀をすると、彼女は道場から出て行った。
――お師匠様は、私を気遣ってああ言ってくださった……。
その夜、寝台の上で、アルフェはコンラッドの言葉を反芻していた。
――でも大丈夫、私は、できる。
アルフェは目を閉じ、故郷を追われた日のことを思い出している。
あの日彼女は、自ら命を絶つつもりだった。
城が陥落した後、押し入ってきた敵に辱めを受ける前に、自ら懐剣をのどに突き立てる。それは、貴族の娘としては当然の作法だった。
遠くから、兵士の怒号や女の悲鳴が聞こえる。そしてそれは、だんだんと、少しずつ近づいている。抵抗を続ける兵の数は少ない、彼らも長くは持ちこたえられないだろう。侍女がそう言ったので、アルフェは言われるがままに首筋に剣を当てた。その時の刃の冷たい感覚を、彼女は今も憶えている。
しかしその時、大きな音を立てて部屋の扉を蹴破り入ってきた青年の顔を見て、アルフェはつい、首に当てていた懐剣を下ろしてしまった。
――間に合った。
アルフェも見知った顔だった。城を守る衛兵の一人だ。名前は知らないが、彼はいつもアルフェの部屋の前に立っていた。これで助かると思ったのではない。ただそれが覚えのある顔だったので、アルフェはつい、懐剣を下ろしてしまったのだ。
だがその青年は何を思ったか、扉の側に立っていた侍女に、持っていた槍を突き出したのだ。
――ずっとあんたのことを、こうしてやりたいと思ってたんだ。
アルフェに対して抱えていた、下卑た想いを吐き出しながら、顔をゆがめて男が迫る。覆いかかってきた青年と寝台の上でもみ合いになっている内に、気がつくと、アルフェの懐剣は青年の胸に突き刺さっていた。
――そう、魔物の一匹や二匹、どうということもありません。
あの時の光景を思い出しながら、アルフェは闇の中で、独り暗い笑みを浮かべた。