40.幻の薬草
その夜、不覚にもアルフェは、城で生活していたころの夢を見てしまった。城には母と姉が居て、アルフェは二人と会話をしていた。会話の内容は覚えていない。何の変哲も無い、取り留めの無い会話だったように思う。しかしなぜか妙に、自分と話す母と姉の笑顔が印象に残っている。
三人で一つのテーブルを囲み、太陽の下で茶を飲む。これはいつの記憶だろう。こんな思い出が、自分にはあっただろうか。
――お姉様に――。
「……会いたいな」
朝目覚めた時、そんな言葉がアルフェの口をついて出た。言ってから、彼女はそんなことを言った自分に驚いた。城から逃げ延びてから今日まで、そんなことを考えた時があっただろうか。
そもそも自分は、姉とはあまり肌が合わなかった。いや、というよりも、剣ができて活動的な姉に対して、自分はずっと劣等感を抱いていた。だから城を放り出されてからも、特に会いたいなどとは思わなかった。それどころか、一人で生きていけることに、アルフェは喜びさえ感じていたのだ。
でもなぜだろう。一度会いたいと思うと、その気持ちが止められなくなった。目から涙が湧き上がってくる。アルフェは野営地の中で膝を抱えて、声を上げて泣いた。
「ふぅ……、すっきりした」
こんなに声を上げて泣いたのは、いつ以来だろう。しかし、しばらく大声で泣くと、妙に気分が晴れやかになった。
思っていたよりも、心が弱っていたのかもしれない。だが、これでまだ動くことができる。アルフェは大きく息を吸い込んで、吐いた。
――この仕事が終わったら……。
自分から、姉を探してみるのもいいかもしれない。どうしてかアルフェは、そんな気分になっていた。
その日の川の上流に、あの魔獣の姿は無かった。もう一頭との争いに敗れたのだろうか。それは分からないが、これでさらに奥を探索することができる。もしかしたら、奥に進んでいる間にあの魔獣が戻ってくるだろうか、だが、それを考えていては進めない。いっそ開き直って、少女は前に出ることにした。
そしてさらに川をさかのぼること数時間、アルフェはついに目的の薬草を発見した。
――あれが……、マンドレイク?
想像していたよりも、ずっと異形だ。前方に見えるマンドレイクは、薬草というよりも、魔物と表現したほうがいい。
まずそれは、通常の薬草のように引き抜くまでも無く、自ら地面の上に出ていた。
マンドレイクは確かに人型をしていた。人の手足の位置に、ねじれた根が生えている。しかもマンドレイクはその根を使って、人間のように歩いていた。
手にあたる部分の根は、地面に引きずるほど長い。良く見れば、顔の位置には苦しげな人間の表情のような模様が浮かんでいる。そして何より、その身体はアルフェよりも大きかった。
人の形をした根に、人間の顔。確かに字面だけならば、薬草辞典に記載されていた特徴と一致している。
――声を聞いたら死ぬというのは……、どういうことでしょうか。
そう思っていると、マンドレイクと思われる植物の魔物は、突如奇怪な叫びを上げ、前を走る小型の魔物に、自身の根を叩き付けた。根は鞭の様にしなり、標的の身体に巻きつく。小型の魔物はしばらくもがいていたが、やがて糸が切れたように息絶えた。
――そういうことですか。
なるほど、伝説の薬草は、想像していた以上に奇怪で攻撃的な生態を持っていたようだ。しかし――
――そういうことなら、話は早いのです。
アルフェは両手の指を鳴らす。
要はあれを殴り倒して、持って帰ればいいだけだ。それなら非常に分かりやすい。そう理解したとき、アルフェの心に迷いは無かった。
マンドレイクは、倒した獲物を根で締め上げたまま動かなくなった。遠目からも、捕らえられた獲物の体が生気を失って干からびていくのがわかる。これがあの魔物なりの捕食方法だろうか。という事は、マンドレイクは今まさに食事中ということになる。であれば、相手は油断していると見るべきか。
考えても仕方ない、敵を監視していた崖上から飛び降りたアルフェは、マンドレイクの懐に一息で飛び込んだ。
「しぃッ!」
先手必勝、アルフェは渾身の掌打をマンドレイクの腹部にねじ込んだ。相手に触れた瞬間、ありったけの魔力を注入する。しかしマンドレイクの内部から、奇妙に弾かれるような感覚がして、攻撃が無効化された。
師であるコンラッドの編み出した技は、敵の体内に己の魔力を浸透させることで、相手を内部から破壊する絶技だが 、敵の魔力が大きい場合、思うように効果を発揮しない場合がある。さすがに伝説の薬草、内包する魔力は伊達ではないということか。今のアルフェの練度では、この敵の内部に攻撃を浸透させることは困難だろう。
「だったらッ!」
物理的に破壊する方法に切り替える。鋼のグリーブを付けた右足で、勢いを込めて中段の蹴りを放った。しかしこの攻撃も、マンドレイクに通じた様子が無い。文字通り木の繊維を束ねたようなその身体は、アルフェの蹴りの衝撃を、ほとんど受け流したように見えた。単純な打撃でも、効果が薄いか。
マンドレイクが反撃に転じた。鞭のようにしなる根が、アルフェに対して振り下ろされる。何とか見切ったアルフェは、大きく後ろに跳んでその攻撃をかわした。根の先端の速度は恐ろしい勢いに達し、そのままアルフェの立っていた地面を深くえぐる。
敵との距離が大きく開き、同時にアルフェは己の失敗を悟った。マンドレイクの根は、アルフェの腕の優に数倍の長さを持っている。この間合いは相手の方に利がある。
そのような考えに気をとられた一瞬の隙に、魔物の触手が大きく伸び、アルフェの左足首を捉えた。植物とは思えない力が根に込められ、軽い体重の少女を引きずり倒した。
「しまっ――あっ!」
しまったと言う間もなく、次の瞬間、アルフェの身体が宙に浮いた。マンドレイクはその腕を大きく振り回し、空中で少女を回転させる。そしてその勢いのまま、彼女の身体を大木の幹に叩き付けた。
「ぐぅッ!」
頭だけは両手で防御したが、全身にひびが入るような衝撃が走った。
マンドレイクの拘束は緩まない。アルフェも戒めを解こうと試みるが、根が巻きついた左足首から生命力を吸われているようだ。全身が微妙に脱力し、思うようにならない。マンドレイクは無慈悲に、二度三度とアルフェを地面に打ち据える。
「う……、ぐぁ……」
少女の肉体から力が抜け、ぐったりとする。アルフェを逆さ吊りにした魔物は、獲物を品定めするかのように、その顔の近くに少女の身体を引き寄せた。
さらにマンドレイクは、獲物からより効率よく生命力を奪おうと考えたのか、残る片方の触手を伸ばしアルフェの首筋に巻きつけようとした。
だがその時、少女の瞳に再び生気が宿り、その腕を渾身の力で振るった。
アルフェが手刀を一閃し、マンドレイクの腕が根元から斬り飛ばされる。硬体術によって強化され、皮膚の周りに薄く魔力をまとった彼女の手刀は、すでに魔化されていない鋼の剣よりも、鋭い切れ味を誇っていた。
左の触腕を失ったマンドレイクは、大きく身体の平衡を欠き、少女を捉えたまま地面に膝をつく。しかしそれでもう、彼女にとっては拘束から逃れるには十分だった。自分の足首に巻きつく根を両手で引きちぎったアルフェは、空中で一回転すると、久しぶりに両足で地面に立った。
植物でも痛みを感じるのだろうか。片腕の無いマンドレイクは、傷口をかばう様にしながらじたじたともがいている。
「手こずらせてくれましたね……」
この戦いでも、これを発見するまでの道程でもだ。
マンドレイクにとっては理不尽かも知れないが、アルフェの半ば八つ当たりのような暴力が彼を襲った。残った右の触腕も、彼女の手によってはね飛ばされる。
――いったい“これ”は、どうやったら大人しくなるんでしょう。
攻撃手段である両腕の根を失ったことで、マンドレイクの戦闘能力は半ば無効化したように思う。しかしそれでも、目の前の相手の生命力は、いささかも衰えたように見えない。
必死に助かろうともがく姿は、魔物とは言え、いささか哀れを誘う光景だ。だが、この程度で躊躇するくらいであれば、始めからこんな所にはやってこない。
「……さようなら」
そうつぶやいて、アルフェはマンドレイクの頭部を首から斬り落とした。
それで終わるかと思っていたのだが、マンドレイクの身体は、いまだに元気に動いている。他の魔物の様に、頭を落とせば息絶えると考えたのが間違いだったか。いや、そもそも根本的な問題として、この生物に死という概念はあるのだろうか。
――さすがに燃やせば死ぬかしら。
過激なことを考えるアルフェだったが、それで薬草としての効き目が変質しても問題だ。
しばらく思案してから、アルフェは斬り飛ばした根を拾って、それでマンドレイクをがんじがらめに縛った。簀巻きにされたマンドレイクは、さすがに諦めた様子で大人しくなった。
――これを持って帰るのは大変ですけど……。
アルフェの身長よりも大きなマンドレイクは、一人で運ぶには骨が折れそうだ。だが、これだけあればきっとローラの病気もよくなるだろう。
アルフェは背中にマンドレイクを背負って、野営地へと引き返した。
「後はここで、師匠を待つだけですね」
巨大マンドレイクを運び入れたアルフェは、野営地で篭城する構えを作った。こちらの目的は達成したのだ。後は下手に動かず、コンラッドの帰還を待てばいい。
コンラッドがヒュドラを討ち果たすということに関しては、アルフェはまったく疑っていなかった。彼よりも強い人間など、絶対にいない。あの人が勝てない相手など、想像も出来ない。それは例え伝説の魔獣が相手でも、同じことだ。
だから今は、ここで自分が生き延びることに集中する。人外魔境、魔物の跋扈する大森林に、自分はまだ独りでいるのだから。
ずっと森の中にいるせいか、時間の感覚が曖昧になっている。しかし今日までで、森に入ってから十日以上は経過した。来た時と同じ日数を要するとして、町に帰還するために必要なのは五日か六日。ここまで順調にこれているのかは分からないが、依頼の期限――ローラの命の期限である一か月が過ぎるまでには、まだ余裕はある。
コンラッドが現在どのような状況に置かれているかを知る術は無い。ここから大山脈までは、到達するだけでも数日は掛かるはずだが、常人の感覚で彼を考えてはいけないだろう。あるいは既にヒュドラを倒し、こちらへと向かっている最中かもしれないのだ。
とにかく後何日待つことになるかは不明だ。アルフェは一日かけて、燃料となる枯れ木や食料など、野営地に引き篭もるために必要な物を集めた。
食料は例によって弱い魔物を狩った。大ハリネズミは棘の処理が厄介だが、肉は意外に癖が無くて美味しい。
――改めて考えてみると……、魔物っていったい何なんでしょう。
かつては無条件に恐れる対象だったが、こうして狩る側に回ることもある今では、魔物というものが一体何を指すのか分からなくなる。これらに動物との明確な線引きはあるのだろうか。
今の彼女には、そんなどうでいいことを考える余裕すらあった。
魔物の肉だけでは身体を壊してしまいそうなので、食べられる野草も集めた。小川から汲めるだけの水を汲み、食料も運び込んでしまうと、ちょっとした冬眠気分だ。
全ての用意を終えたアルフェは、コンラッドの指定した集合地点に書置きを残した。毎日見に来るつもりではあるが、念のためだ。
――……御武運を。
改めて、師の去った方角に向かってアルフェは祈った。