3.死にたくない
帝国南部に位置するベルダンの町は、北側を川が流れ、周辺に農地が広がっている。そして市壁の南側には、すぐそばに深い森があり、それは遙かにそびえる大山脈まで続いている。
貴重な薬草の類は、その南の森で採れるらしい。町の北側では、自生しているものはずっと昔に採りつくされてしまったそうだ。
ではどうして、南の森にはそれがほとんど手つかずで残っているのか。その理由は単純だ。
南の森は、この領邦の「結界」の外にある。即ち、そこには魔物が出るのだ。
魔物が跋扈するこの世界において、人間が安穏と生活できるのは結界の中だけだ。この町はその結界のちょうど南端に位置しており、そこを一歩出れば、いつ魔物に襲われてもおかしくなかった。
それでも南門から伸びる太い街道には、道の脇に等間隔に石の柱――魔物よけの入った簡易結界が設置されている。従って、街道沿いに進めば滅多なことがない限り、魔物に襲われることはない。
町に近い場所ならば、現れるのは下等な魔物ばかりで、強力な魔物が出現するのは、森の更に奥地。とは言っても、そこは既に人間の領域外だ。だからこそ、南の森には、薬草の群生地が豊富に存在している――というのは、アルフェが組合の素材課で受けた説明である。
本来その森は、間違っても、自衛の手段を持たない少女が一人で踏み入ってよい場所ではない。あるいは完全に無知ならば、アルフェも自重しただろう。しかし、なまじ城からの逃避生活で、森での経験があったことが、彼女を無謀にさせていた。
――クラウスと二人でここを抜けてきたときは、特に危険はなかったんだもの。少し行って戻ってくるだけなら、私一人でも……。
この領邦の隣にある自領から、街道を使わず森を抜けて来たときには、魔物らしい魔物には遭遇しなかった。森にいた数ヶ月の間、アルフェが不自由に感じたのは、粗末な食事と寝床だけだった。
実際それは、隣にいた従者の手により、危険は目に触れる前に排除されてきたからこその結果だったが、彼女には知る由も無い。
南の街道を逸れ、がさりと落ち葉を踏みしめて、アルフェは森の中に入った。
――すごい木の匂い……。
あまりにも濃い緑の空気にむせ返りそうだ。アルフェの故郷の城の周囲にも、森があった。それすらも彼女は外から眺めた経験しかなかったが、この森の雰囲気は、明らかに彼女の知っている森と違う。きっとここに人間が足を踏み入れること自体、稀なのだろう。そこは混沌とした生命力と魔力に満ち溢れ、自ずから自然に対する畏怖を感じさせる。
振り返れば、まだ木々の隙間からベルダンの市壁が見える。が、それも徐々に遠くなる。黙っていると妙に不安になるので、アルフェの独り言はだんだんと大きくなっていった。
「え~と、シムの花は森の中、日の差し込む場所に群生している……」
目当ての薬草の特徴を口にしながら、彼女は初めての冒険を始めた。
シムの花は、一般に薬草と呼ばれる植物の中でも、最もありふれた品だ。効果は低いが、それ故に安価で、道具屋に行けばたいてい並んでいるという。アルフェが冒険者組合で閲覧した薬草辞典の中でも、最も採集難度が低く設定されていた。
森に入って三十分も歩いたころ、アルフェは少し開けた草地に出た。そこだけぽっかりと木が生えておらず、上には青い空が覗いている。草地の中央には大きな倒木があり、その周囲一面には白い花が生えていた。
「これですね!」
やりましたと、たいした苦労も無く目当ての薬草を見つけ出したことに、少女は歓喜の声を上げた。
「カゴいっぱいに取ってくれば、銀貨二枚で買い取ってくれるということですし……、案外簡単でしたね!」
少女はうきうきとした気分で採取にかかった。慣れない作業だったが、これが自分の初めての稼ぎになるのだ。疲労すらも心地よく、アルフェは花を摘んでいった。
――薬になるのは花びらだけ……。採り尽くさなければ、一月程度でまた採れる……。これだけたくさんあるんだから、私が暮らしていく分は、簡単にお金を稼ぐことができるんじゃないでしょうか。
シムの花は簡便な傷薬の材料になる。人里での需要は常に絶えない。
先行きが全く見えなかった暮らしに目途が立ったことで、アルフェの想像は一挙に膨らんだ。
「そうしたら、飢え死にする心配はないし、お腹いっぱい食べられるようになるかもしれないし――」
彼女の頭の中には、独りで立派に生活する自分の姿が浮かんでいる。
そして夢中で採取すること一時間。花びらが籠一杯になり、そろそろ帰ろうかかと彼女が腰を浮かせた時だった。
「…………え?」
アルフェは異変に気がついた。
木々の隙間から、何かが彼女の様子をうかがっている。
「……誰?」
こんなところに人間がいるはずもないのに、アルフェはそう問いかけてしまった。その声を受けたからか、隠れていたものが、彼女の方に飛び出してきた。
「あ……。ま、もの?」
ゴブリン――。見るのは初めてでも、知識はある。かつて城で読んだ物語に、絵姿が載っていた。小鬼とも呼ばれる亜人種だ。
実際には地域や種類によって様々だが、一般的にゴブリンは最下級の魔物とされる。一対一で剣を持てば、訓練を受けていない平民でも対処はできるだろう。だがアルフェは今、まったくの丸腰だった。ナイフの一本すら、彼女は身に帯びていない。
――……もしかして、私のことを、狙っているの……?
緊張に、アルフェの喉がごくりと鳴る。
彼女は一瞬、魔物が自分のことを観察しているだけかもしれないと期待した。
「う……」
しかし、ゴブリンの顔に浮かんだ表情を見て、すぐにその考えを改めた。
ニチャリと音がしそうな、醜悪で、喜色に満ちた笑み。目の前の怪物は完全に、自分のことを、ただの柔らかそうな肉として見ている。
「あ……」
その笑みを目にして、アルフェは腰を落としたまま後ずさった。
――ど、どうしよう。
後悔が頭をよぎる。完全に甘く見ていた。
――助けを呼ばなきゃ! いえ、こんなところに人がいるはずなんて――!
先ほどまでの楽観的な想像が消し飛び、恐怖で叫び声をあげることもできない。それに、音を立てれば、無用に目の前の怪物を刺激するかもしれない。少しでも距離をとらなければ。そう考えた彼女は、じりじりと後ずさりを続ける。
「……え?」
すると、背中に何かが当たった。草地の中央にあった倒木だ。驚いてアルフェが後ろを確認した瞬間、ゴブリンが手斧を振り上げて少女に迫ってきた。奇声を発しながら、ゴブリンは見た目に反した速い動きで、アルフェのすぐ側まで近づいた。
「――きゃあ!」
アルフェはとっさに、唯一手に持っていた薬草籠をゴブリンめがけて投げつけた。ゴブリンの顔にカゴがぶつかり、白い花びらが舞い散る。
しかしそれが功を奏した。面食らったゴブリンは、手斧を背後の倒木に打ち込んでしまった。それは幹に深く食い込み、抜けなくなってしまったようだ。
その足元に腰を抜かしたようになりながら、アルフェは何とか、魔物の影の下から這いだした。
――ギャギャギャ!
手斧を諦めて、ゴブリンはアルフェの背中に馬乗りになってきた。片手で少女の首元を掴み、もう片方の手で服を掴む。食料にするためには、まず、動かないようにする必要がある。
「つぅ!?」
ゴブリンの尖った爪は、アルフェの皮膚に食い込み、上着を裂いた。アルフェは馬乗りになられたまま、地面を掻いて無我夢中で暴れる。
――嫌!
このままだと、殺される。
アルフェは初めて、己が、自身の命を対価にこの森に踏み込んだことを自覚した。
――いやだ!
恐怖。すぐ、そこにある死。
城を脱出した時ですら、それは感じたことの無いものだった。
「たす――」
助けてと叫びかけて、アルフェは口をつぐんだ。
私は独りだ。この森の中に、私は独り。いや、この世界を見渡しても、助けてくれる人はもう――。
「うああ!」
滅茶苦茶に叫んで、アルフェはうつ伏せの状態から、何とか仰向けになろうとした。
ゴブリンは、成体でも人間の子供並みの大きさだ。この個体も、アルフェより体重が軽い。ぎぎぃと声を出して、ゴブリンはアルフェから引きはがされた。
――殺される! 嫌だ! 逃げなきゃ! 逃げなきゃ!
その隙に、アルフェは何とか立ち上がった。上着が破れた所から、肩と下着が露出している。それに気を取られる余裕すら、彼女には無かった。
とにかくここを離れなければ。アルフェはゴブリンがどうなったかも見ず、一心に足を動かす。薬草の群生地を出て、木々の間に走りこむ。森の地面は起伏が激しく、足が取られる。枝が肌をかすり、血がにじむ。
少し走っただけで、心臓と肺が破裂しそうになった。それでも走らなければ、あの魔物に捕まる。
捕まったら、どうなるのだろうか。
殺されて、食べられるのだろうか。
殺される前に、食べられるのだろうか。
食べられるのは、痛いのだろうか。
それとも、もっとひどいことをされてしまうのだろうか。
どこをどう走ったのかわからない。魔物が追いかけてきているかどうか、アルフェには振り返って見ることもできない。
ただ、気がつくと彼女は森を抜け、街道沿いに出てきていた。しかし街道に出てからも足を止められず、さらにもうしばらく走って、彼女はようやく足を止めた。
「はぁッ、はぁッ、はぁッ――」
いや、止めたというよりは、止まってしまった。もうこれ以上、走ることはできない。アルフェは倒れこみ、激しく息をついた。彼女の整った顔からは、大粒の汗が次々と地面に滴り落ちている。
息が収まっても、彼女はしばらく後ろを確認する勇気が持てなかった。まるで背後に、あのゴブリンが彼女を見下ろして立っているとでもいうように。
「……っ! …………ああ」
ようやく振り向く勇気がわいたアルフェは、背後の森に目を向けた。しかし、彼女を追ってきているものは何もいなかった。
生き延びたのだ。アルフェの心に少しの安堵が浮かぶ。だが、それはすぐに大きな失望に変わった。
――薬草が……。
冒険者としての初仕事は、失敗である。それは誰の目にも明らかだった。それどころか、アルフェは組合で借りた薬草籠もなくしてしまった。弁償しなければならないのだろうか。とはいえ今からあれを取りに戻る勇気はない。徒労感を感じながら、それでもアルフェはとぼとぼと町に向かった。
「お嬢ちゃん――、あんた、本当に森に入ったのかい!?」
アルフェが組合に着くなり、いきなり立ち上がったタルボットが、彼女に声をかけてきた。
破れた衣服。血のにじんだ首元。顔を泥まみれにした少女が、どういう思いをしてきたのか。問わずとも、そんなことは見ればわかった。
「……その様子だと、大分ひどい目にあったみたいだな……。悪かった。まさか本当に、一人で森に行くとは思わなかったんだ。なんにしても、命があってよかった」
タルボットは殊勝な顔をして謝ってくる。彼は真実、少女の安否を気にかけていたのだろう。
「いえ……、私が軽率だったのがいけないのです……。すみません、お借りした籠、失くしてしまいました……。弁償しなければなりませんよね……?」
アルフェは今にも消え入りそうな声で言う。
「本当なら損料をもらうんだが……、今回はいいよ。な? とりあえず今日は帰って休め。ひでぇ顔してるよ、お嬢ちゃん。悪いことは言わないから、な?」
アルフェが軽率だった事は間違いないのに、タルボットは優しい言葉をかけてくる。それが逆に情けなく、アルフェは目頭が熱くなるのを感じた。
「はい……。そう、させていただきます。でも、これで二度と、依頼を受けられないということには、ならないんですよね?」
しかし彼女は涙を飲み込み、顔を上げて聞いた。
「あ、ああ。常設の依頼は失敗扱いにならない。でも本気か? もうやめとけ……! 良く分かっただろうが……!」
「私なら、大丈夫です」
頑なな声。タルボットは、アルフェの次の言葉に耳を疑った。
「後日、また参ります。そのときは、改めてよろしくお願いします」
「な……、おい!」
また泣きたくなる前にと、アルフェは踵を返し組合の建物を出た。
外に出ると、空はすっかり紅く染まっている。ひとまず今日は家に帰ろう。彼女は足早に家への道をたどった。
――今夜は、自分で稼いだお金でご飯を食べるはずだったのに。
その途中、我慢しきれなくなって、少し涙がこぼれてしまった。
「……あれ?」
そして彼女が誰も居ない我が家に帰り着き、玄関のドアの取っ手に触れると、違和感を覚えた。
――鍵が……?
かかっていない。出るときにかけ忘れたのだろうか。
そんなはずは無いと思う。もしかしたら、クラウスが帰ってきたのだろうか。アルフェは不安になりつつも、ゆっくりと扉を開いた。
「…………どろぼう?」
一目で分かった。家の中が荒らされている。わずかな家財道具が床に散乱し、目も当てられないありさまだ。でも、家には盗るようなものは無いのに……。そう考えて、アルフェははっと気が付いた。二階に駆け上がり、彼女は化粧台の引き出しを開けた。
「……そんな」
絶望した声を出したきり、彼女の口から言葉は出なかった。
何ということだろうか。そこにあったはずの、クラウスがアルフェのために残した生活資金が、全てきれいに無くなっていたのだ。