263.幽世
「……はい。…………はい、そうですか」
「……ええ、はい」
自分以外、他には誰もいない暗がりで、黒髪の娘がぶつぶつと独り言を言っている。
「……ありがとうございます」
彼女は誰かに対して丁寧に頭を下げ、礼を言った。しかしやはり、そこには彼女以外に誰もいない。
ここは、帝都の大聖堂にほど近い区画の、奥まった路地だ。時刻は昼過ぎだが、その一帯は薄暗い。今日は空が曇っているから……ではない。太陽は出ているし、日の光はその路地裏にも差しているはずだ。だが、その娘の周りだけはどうしてか、太陽の光が一段弱くなり、急に空気が冷えたように感じられるのだ。
「【常夜の影よ……】」
黒髪の娘は路地の石畳に杖を突き、呪文を唱えた。すると、石畳の隙間から、貌の無い人のような形の影が、どろりと這い出て来た。
影は無言で立ち、その場に留まっている。娘が歩いてそこから遠ざかると、路地裏に光が戻り、影は見えなくなった。
彼女は大聖堂の周辺で、こういった作業をもう何度か繰り返している。
娘の名前は、メルヴィナという。
彼女は、死霊術士だ。
メルヴィナが身に着けている衣装は、神聖教会の関係者が着る白いローブである。彼女は、世間にとって、いや、自身にとっても忌まわしいものである己の黒髪を、そのローブに付いたフードで覆い隠している。
メルヴィナの肌は白い。だがそれは、美しいという意味での白さを通り越し、一種病的な印象を与える白さだった。その姿勢は、常に何かに怯えているように縮こまっていて、粗末な木の杖を持っている事から、遠目に彼女を見た者は、少し腰が曲がった老婆なのだろうかと思ってもおかしくない。
彼女の黒い瞳には、他の人間の目には映らないものが見える。彼女の耳には、他の人間には聞こえない声が聞こえる。それは死者の残像であり、死者が遺した声であった。
死霊術は、現代の帝国では厳しい迫害の対象だ。と言うよりも、死霊術を当たり前に受け入れている地域の方が、人間の世界では珍しい。
死霊術は死者の魂を弄び、術者の好きなように操る。地中から死者の軍勢を喚び出して、生きる者を蹂躙する。死霊術に対するこういった印象は、どの国にも拭いがたく存在する。実際、良くあるおとぎ話や物語でも、死霊術士は大抵敵役だ。教会も、許しがたい異端の一つとして、死霊術の行使を挙げている。
メルヴィナは今、その死霊術を使って、大聖堂の周辺に網を張っていた。正確に言うと、大聖堂に付属する治癒院に近付く怪しい者を、事前に感知するために、影の見張りを立たせていた。
影は死霊と言うよりも、そこで死んだ者が遺した、負の情念のようなものだ。普通の人間がその近くを通っても何も無いが、死者の怨念にまみれた者が近付けば、影はその者の後を追う。
治癒院に運ばれた、通り魔に襲われたという女性患者。そして、その患者を見舞いに来た、彼女の夫だと自称する人物。メルヴィナの目には、そのどちらにも死者の怨念がこびりついているように見えた。
メルヴィナが、男を大聖堂の近くで見かけ、その後ろに付いて行ったたのは偶然だった。意識の無い女を除けば、あの病室でステラと二人きりになっていたあの男が、メルヴィナが割って入らなければ、ステラに何をしていたか分からない。
「【常世の影よ……】」
先ほどまでと同じ調子で、メルヴィナはもう何カ所かに影を立たせた。
そして、十分に魔術を張り巡らせ終わると、メルヴィナは大聖堂の治癒院に足を向けた。
「ど、どうでしたか、メルヴィナさん」
治癒院では、ステラがメルヴィナを待っていた。ステラは例の女性患者の病室で、患者のベッドの側に座り、長柄のほうきを手に握っていた。護身用のつもりだろうか。
「……ご心配なく」
「ほ、本当ですか? 一応、上の人にも報告したんですけど、皇帝選挙が近付いて、街には衛兵が増えてるから大丈夫だろうって……。ていうか、身元が分からない怪我人を勝手に引き受けるなって、怒られちゃって……」
たかが平民一人のために面倒ごとを背負い込むのを、教会は望むまい。しょげているステラを、メルヴィナは薄く微笑んだままで励ました。
「……ステラさんは、何も間違っていません」
メルヴィナは動じていない。その声を聞いたステラは、そう言えば、自分よりもメルヴィナの方がいくつか年上なのだと、今さらながらに気付いたような顔をした。
メルヴィナはステラに対して、後は自分に任せて、家に帰って休むようにも言った。しかし、ステラは首を縦に振らなかった。彼女はこのまま、この病室で、いつ来るかも分からない不審者に備えて、患者を見守るつもりだ。
「あの男の人、本当に来るつもりでしょうか?」
病室内に無言のままで座り、しばらく経ってから、ステラがメルヴィナに尋ねた。
患者の夫を名乗った男は、本当にまたここに来るのだろうか。そう聞きながらも、ステラには、きっと来るに違いないという確信のようなものが有った。
「あの人、何だったんでしょうか」
思い返してみると、あの男には奇妙な点がいくつも有った。そもそも、あの男は患者がこの治癒院に運ばれたという事を、どこで聞きつけてきたのだろう。そして、患者の引き渡しを拒んだステラに対して、あの男が向けた目は、まるで作り物か何かのように、全く瞬きをしていなかった。それを思い出して、ステラの背中に改めて怖気が走った。
患者はまだ眠っている。この女性患者は、一体どういう素性の人物なのだろう。ずたずたに切り裂かれてはいたが、治癒院に運ばれた時、患者はあの男と同じく、特に珍しいところのない、ただの平民の服を着ていた。
しかし、患者の素性を詮索する頭は有っても、この患者を厄介に思う気持ちは、ステラには無かった。一度治癒院に運び込まれて来た以上、彼女にとって、患者は患者でしかない。即ち、傷を治して心を癒すべき対象だ。
「――ん、んん」
昼から夕方になり、夕方から夜になった。患者が来て以来、ステラはほんの短い時間しか眠っていない。緊張を維持しているつもりでも、身体が彼女の意志に反し、堪えがたい眠気を運んできた。
首を振り、頬を叩き、ステラは眠らないように懸命に耐えていたが、やがて座ったまま、かすかな寝息を立て始めた。
「…………」
その様子を横目でうかがっていたメルヴィナが、静かに立ち上がった。
ステラの額に指で触れ、メルヴィナが無音で唱えたのは、初歩的な眠りの呪文だ。完全にステラが眠った事を確認して、メルヴィナは病室の外に出た。
いつの間にか、完全なる深夜になっている。この治癒院には夜も起きている当番は居るが、それでも、暗い廊下に人気は無い。
暗い廊下に立ったメルヴィナの背後から、干からびた青白い腕が出て来て、彼女の肩を掴んだ。
「――、――――、――」
腕が伸びている背後の暗闇から、メルヴィナにしか聞こえない囁き声がする。彼女はじっと、その声に耳を傾けていた。
唐突に腕が消えると、メルヴィナはうつむき加減のまま歩き出した。彼女が通り過ぎたガラス窓の向こうには、瞳の無い女の顔のようなものが映っている。廊下の奥からは、居るはずのない幼児の泣き声や、笑い声が響いていた。
結界の中にも、いわゆるアンデッドのような強い力を持たない死霊は、そこかしこにいる。特に夜の治癒院は、ここで命を落とした者たちの気配で溢れていた。それらが、自分たちの声を聞ける者がここに居る事を敏感に察知して、徐々に集まって来ているのだ。
自身の周囲に増えていく気配をあしらって、メルヴィナがその足で向かっている先は、治癒院の裏口の一つである。膝を抱えてうずくまっている、骨と皮に痩せ細った老人の霊の横を抜けて、彼女はその裏口の扉を開くと、外に出た。
「…………」
明かりの無い裏通りの先に、男が立っている。それだけは死霊ではなく、実体を持った人間だ。今朝方この治癒院に、運ばれてきた怪我人の夫を名乗り、訪ねて来た男である。
「……夜に来てくれて、助かりました」
これなら目立つ心配が無いからと、メルヴィナは言った。
男は、メルヴィナが自分の進路を塞いでいる事を理解している。全く表情を変化させず、男は袖から、ぶら下げた己の手中にナイフを落とした。
そして、目深に被ったフードの下で、メルヴィナの口が、まるで三日月のように歪んだ。
それを合図のようにして、ナイフを握った男は、無言で前に出て来た。彼はメルヴィナの正体を測りきっていないはずだが、その目に恐れの色は見えない。恐怖どころか、感情の全てをそぎ落としてしまったような顔で、障害物を排除する事のみを考えている。
「【……影よ】」
しかし、男の前進は呆気なく止まった。メルヴィナが一言つぶやいた瞬間、彼の両脚が鉛のように重くなったのだ。相手は魔術士だ。男もそれは、ある程度読んでいたに違いない。しかし、詠唱の隙は全く見えなかった。
一方、メルヴィナの目には、男がもともと引き連れていた怨霊の群れに加えて、彼女自身が治癒院の周辺に配置した影が、男の脚に何体もすがり付いているのが見えていた。メルヴィナは、彼らに一言声をかけただけだ。
「くっ」
初めて、男の口から焦りの声が漏れた。この娘が使用したのは、男が知っているありきたりの拘束魔術とは、何かが違う。移動を阻害する魔術に抵抗する術は、男もいくつか身に付けている。だが、今の彼を縛っているものは、そのどれもが通用しないのだ。
ナイフを投擲しようにも、既に腕も動かなかった。何かが男の身体のあちこちを掴み、地面に向かって引き寄せている。
「な、何を――」
男はわめいたが、メルヴィナは特に何もしていない。男の殺意に反応して、彼に恨みを持つ死霊たちが、男を自分たちと同じ場所に引き込もうとしているのだ。
裏通りに漂う死の気配は徐々に濃くなり、やがて男の目にも、メルヴィナが見ている風景と同じものが見えた。
「――――!?」
何十本もの死者の腕が、地面に開いた黒い孔から、男を冥界に招き寄せている。
それをじっと眺めている娘の目、その黒い瞳の中にも、幽世の亡者たちがうごめいている。
孔に呑まれる直前、哀れな男は叫び声を上げようとしたが、その口も、死者たちの手が塞いでしまった。
◇
メルヴィナが病室に戻ると、ステラはまだぐっすりと眠っていた。
その寝顔を見て、メルヴィナはさっき男に見せたものとは違う、慈しむような微笑みをその顔に浮かべた。ここにやって来たあの男に何があったかを、この少女が知る必要は無い。そう考えていたからこそ、メルヴィナはさっきのような行動をとった。
しかし、問題はまだ解決していない。ベッドで眠っている女。この存在がある限り、似たような事が再び起きる可能性は高い。簡単な方法としては、ステラが眠っている間に、この女にもあの男と同じ場所に行ってもらう事なのだが……。
「……う、ん」
寝ているステラが声を出し、女に顔を向けていたメルヴィナは、ステラの方を見た。この女が消えた時のステラの反応を考えると、他の方法を考えた方が良さそうである。
「…………!」
ふと、メルヴィナは顔を上げた。死霊たちがほんの少し、ざわめいたのだ。
――まだ、誰か……?
今夜の内に、第二弾の襲撃があるとは考えていなかった。しかし、この近辺に何者か……それも、死霊がざわめくような、死者の恨みを多く買っている者が居る。もしくは、余程の力を持つ者か。
メルヴィナは再び、病室の扉を開けて外に出た。
――誰も、居ない……?
廊下に人間が居ないという意味ではない。死霊の気配がしないのだ。さっきまでは、夜の治癒院の空気の中で、騒がしいほどの気配を放っていたのに、なぜだろうか。また裏口か、それとも正面から来るのか。死霊の囁きという情報の供給源を失って、メルヴィナは戸惑った。
より強い術を使えば、治癒院の中で幽鬼を喚び出したりする事も可能だ。しかし、余りやり過ぎると死霊術の痕跡が残る。それ故に、メルヴィナは躊躇した。
その時、ぱたん、と、廊下の奥でかすかな音がした。
メルヴィナは誘われるように、そちらの様子を見に行った。
角を曲がると、その先にも病室の扉が並んでいた。メルヴィナの目は、他人よりも闇を見通す。並んでいる扉の一つが、かすかに開いているのが見えた。
瞬時に魔術を発動できる体勢を調えて、メルヴィナはその部屋の中を観察した。ステラが居る病室よりも少し広く、左右の壁に二つずつベッドが据え付けられている、四人用の病室だ。ベッドは空で、この部屋を使っている病人は居ない。
気のせいだったのかと、メルヴィナは振り返った。
「あっ――」
彼女が大声を立てる間もなく、扉の裏に隠れていた人影が、扉を閉めると同時に、メルヴィナを強引にベッドまで運んだ。ベッドに押し倒されたと同時に、メルヴィナが被っていたフードが外れ、彼女の長い黒髪が広がった。
「む――!」
そして、メルヴィナを押し倒した人影は、彼女の口を手のひらで塞ぎ、動けないように上から四肢を拘束した。
「貴女は……、貴女が、どうしてここにいるの――!!」
人影はそう言って、困惑と怒りの混じった碧い瞳を、至近からメルヴィナに向けている。
その人物の銀色の髪が落ちかかり、メルヴィナの黒い髪と混じり合った。
アルフィミア様。
驚愕に満ちた表情のまま、塞がれた口で、メルヴィナはその娘の本名を呼んだ。