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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第六章 第一節
275/289

263.幽世

「……はい。…………はい、そうですか」


「……ええ、はい」


 自分以外、他には誰もいない暗がりで、黒髪の娘がぶつぶつと独り言を言っている。


「……ありがとうございます」


 彼女は誰かに対して丁寧に頭を下げ、礼を言った。しかしやはり、そこには彼女以外に誰もいない。

 ここは、帝都の大聖堂にほど近い区画の、奥まった路地だ。時刻は昼過ぎだが、その一帯は薄暗い。今日は空が曇っているから……ではない。太陽は出ているし、日の光はその路地裏にも差しているはずだ。だが、その娘の周りだけはどうしてか、太陽の光が一段弱くなり、急に空気が冷えたように感じられるのだ。


「【常夜の影よ……】」


 黒髪の娘は路地の石畳に杖を突き、呪文を唱えた。すると、石畳の隙間から、貌の無い人のような形の影が、どろりと這い出て来た。

 影は無言で立ち、その場に留まっている。娘が歩いてそこから遠ざかると、路地裏に光が戻り、影は見えなくなった。

 彼女は大聖堂の周辺で、こういった作業をもう何度か繰り返している。


 娘の名前は、メルヴィナという。

 彼女は、死霊術士だ。


 メルヴィナが身に着けている衣装は、神聖教会の関係者が着る白いローブである。彼女は、世間にとって、いや、自身にとっても忌まわしいものである己の黒髪を、そのローブに付いたフードで覆い隠している。

 メルヴィナの肌は白い。だがそれは、美しいという意味での白さを通り越し、一種病的な印象を与える白さだった。その姿勢は、常に何かに怯えているように縮こまっていて、粗末な木の杖を持っている事から、遠目に彼女を見た者は、少し腰が曲がった老婆なのだろうかと思ってもおかしくない。


 彼女の黒い瞳には、他の人間の目には映らないものが見える。彼女の耳には、他の人間には聞こえない声が聞こえる。それは死者の残像であり、死者が遺した声であった。

 死霊術は、現代の帝国では厳しい迫害の対象だ。と言うよりも、死霊術を当たり前に受け入れている地域の方が、人間の世界では珍しい。

 死霊術は死者の魂を弄び、術者の好きなように操る。地中から死者の軍勢を喚び出して、生きる者を蹂躙する。死霊術に対するこういった印象は、どの国にも拭いがたく存在する。実際、良くあるおとぎ話や物語でも、死霊術士は大抵敵役だ。教会も、許しがたい異端の一つとして、死霊術の行使を挙げている。


 メルヴィナは今、その死霊術を使って、大聖堂の周辺に網を張っていた。正確に言うと、大聖堂に付属する治癒院に近付く怪しい者を、事前に感知するために、影の見張りを立たせていた。

 影は死霊と言うよりも、そこで死んだ者が遺した、負の情念のようなものだ。普通の人間がその近くを通っても何も無いが、死者の怨念にまみれた者が近付けば、影はその者の後を追う。


 治癒院に運ばれた、通り魔に襲われたという女性患者。そして、その患者を見舞いに来た、彼女の夫だと自称する人物。メルヴィナの目には、そのどちらにも死者の怨念がこびりついているように見えた。

 メルヴィナが、男を大聖堂の近くで見かけ、その後ろに付いて行ったたのは偶然だった。意識の無い女を除けば、あの病室でステラと二人きりになっていたあの男が、メルヴィナが割って入らなければ、ステラに何をしていたか分からない。


「【常世の影よ……】」


 先ほどまでと同じ調子で、メルヴィナはもう何カ所かに影を立たせた。

 そして、十分に魔術を張り巡らせ終わると、メルヴィナは大聖堂の治癒院に足を向けた。


「ど、どうでしたか、メルヴィナさん」


 治癒院では、ステラがメルヴィナを待っていた。ステラは例の女性患者の病室で、患者のベッドの側に座り、長柄のほうきを手に握っていた。護身用のつもりだろうか。


「……ご心配なく」

「ほ、本当ですか? 一応、上の人にも報告したんですけど、皇帝選挙が近付いて、街には衛兵が増えてるから大丈夫だろうって……。ていうか、身元が分からない怪我人を勝手に引き受けるなって、怒られちゃって……」


 たかが平民一人のために面倒ごとを背負い込むのを、教会は望むまい。しょげているステラを、メルヴィナは薄く微笑んだままで励ました。


「……ステラさんは、何も間違っていません」


 メルヴィナは動じていない。その声を聞いたステラは、そう言えば、自分よりもメルヴィナの方がいくつか年上なのだと、今さらながらに気付いたような顔をした。

 メルヴィナはステラに対して、後は自分に任せて、家に帰って休むようにも言った。しかし、ステラは首を縦に振らなかった。彼女はこのまま、この病室で、いつ来るかも分からない不審者に備えて、患者を見守るつもりだ。


「あの男の人、本当に来るつもりでしょうか?」


 病室内に無言のままで座り、しばらく経ってから、ステラがメルヴィナに尋ねた。

 患者の夫を名乗った男は、本当にまたここに来るのだろうか。そう聞きながらも、ステラには、きっと来るに違いないという確信のようなものが有った。


「あの人、何だったんでしょうか」


 思い返してみると、あの男には奇妙な点がいくつも有った。そもそも、あの男は患者がこの治癒院に運ばれたという事を、どこで聞きつけてきたのだろう。そして、患者の引き渡しを拒んだステラに対して、あの男が向けた目は、まるで作り物か何かのように、全く瞬きをしていなかった。それを思い出して、ステラの背中に改めて怖気が走った。

 患者はまだ眠っている。この女性患者は、一体どういう素性の人物なのだろう。ずたずたに切り裂かれてはいたが、治癒院に運ばれた時、患者はあの男と同じく、特に珍しいところのない、ただの平民の服を着ていた。

 しかし、患者の素性を詮索する頭は有っても、この患者を厄介に思う気持ちは、ステラには無かった。一度治癒院に運び込まれて来た以上、彼女にとって、患者は患者でしかない。即ち、傷を治して心を癒すべき対象だ。


「――ん、んん」


 昼から夕方になり、夕方から夜になった。患者が来て以来、ステラはほんの短い時間しか眠っていない。緊張を維持しているつもりでも、身体が彼女の意志に反し、堪えがたい眠気を運んできた。

 首を振り、頬を叩き、ステラは眠らないように懸命に耐えていたが、やがて座ったまま、かすかな寝息を立て始めた。


「…………」


 その様子を横目でうかがっていたメルヴィナが、静かに立ち上がった。

 ステラの額に指で触れ、メルヴィナが無音で唱えたのは、初歩的な眠りの呪文だ。完全にステラが眠った事を確認して、メルヴィナは病室の外に出た。

 いつの間にか、完全なる深夜になっている。この治癒院には夜も起きている当番は居るが、それでも、暗い廊下に人気は無い。


 暗い廊下に立ったメルヴィナの背後から、干からびた青白い腕が出て来て、彼女の肩を掴んだ。


「――、――――、――」


 腕が伸びている背後の暗闇から、メルヴィナにしか聞こえない囁き声がする。彼女はじっと、その声に耳を傾けていた。

 唐突に腕が消えると、メルヴィナはうつむき加減のまま歩き出した。彼女が通り過ぎたガラス窓の向こうには、瞳の無い女の顔のようなものが映っている。廊下の奥からは、居るはずのない幼児の泣き声や、笑い声が響いていた。

 結界の中にも、いわゆるアンデッドのような強い力を持たない死霊は、そこかしこにいる。特に夜の治癒院は、ここで命を落とした者たちの気配で溢れていた。それらが、自分たちの声を聞ける者がここに居る事を敏感に察知して、徐々に集まって来ているのだ。

 自身の周囲に増えていく気配をあしらって、メルヴィナがその足で向かっている先は、治癒院の裏口の一つである。膝を抱えてうずくまっている、骨と皮に痩せ細った老人の霊の横を抜けて、彼女はその裏口の扉を開くと、外に出た。


「…………」


 明かりの無い裏通りの先に、男が立っている。それだけは死霊ではなく、実体を持った人間だ。今朝方この治癒院に、運ばれてきた怪我人の夫を名乗り、訪ねて来た男である。


「……夜に来てくれて、助かりました」


 これなら目立つ心配が無いからと、メルヴィナは言った。

 男は、メルヴィナが自分の進路を塞いでいる事を理解している。全く表情を変化させず、男は袖から、ぶら下げた己の手中にナイフを落とした。

 そして、目深に被ったフードの下で、メルヴィナの口が、まるで三日月のように歪んだ。

 それを合図のようにして、ナイフを握った男は、無言で前に出て来た。彼はメルヴィナの正体を測りきっていないはずだが、その目に恐れの色は見えない。恐怖どころか、感情の全てをそぎ落としてしまったような顔で、障害物を排除する事のみを考えている。


「【……影よ】」


 しかし、男の前進は呆気なく止まった。メルヴィナが一言つぶやいた瞬間、彼の両脚が鉛のように重くなったのだ。相手は魔術士だ。男もそれは、ある程度読んでいたに違いない。しかし、詠唱の隙は全く見えなかった。

 一方、メルヴィナの目には、男がもともと引き連れていた怨霊の群れに加えて、彼女自身が治癒院の周辺に配置した影が、男の脚に何体もすがり付いているのが見えていた。メルヴィナは、彼らに一言声をかけただけだ。


「くっ」


 初めて、男の口から焦りの声が漏れた。この娘が使用したのは、男が知っているありきたりの拘束魔術とは、何かが違う。移動を阻害する魔術に抵抗する術は、男もいくつか身に付けている。だが、今の彼を縛っているものは、そのどれもが通用しないのだ。

 ナイフを投擲しようにも、既に腕も動かなかった。何かが男の身体のあちこちを掴み、地面に向かって引き寄せている。


「な、何を――」


 男はわめいたが、メルヴィナは特に何もしていない。男の殺意に反応して、彼に恨みを持つ死霊たちが、男を自分たちと同じ場所に引き込もうとしているのだ。

 裏通りに漂う死の気配は徐々に濃くなり、やがて男の目にも、メルヴィナが見ている風景と同じものが見えた。


「――――!?」


 何十本もの死者の腕が、地面に開いた黒い孔から、男を冥界に招き寄せている。

 それをじっと眺めている娘の目、その黒い瞳の中にも、幽世の亡者たちがうごめいている。


 孔に呑まれる直前、哀れな男は叫び声を上げようとしたが、その口も、死者たちの手が塞いでしまった。



 メルヴィナが病室に戻ると、ステラはまだぐっすりと眠っていた。

 その寝顔を見て、メルヴィナはさっき男に見せたものとは違う、慈しむような微笑みをその顔に浮かべた。ここにやって来たあの男に何があったかを、この少女が知る必要は無い。そう考えていたからこそ、メルヴィナはさっきのような行動をとった。

 しかし、問題はまだ解決していない。ベッドで眠っている女。この存在がある限り、似たような事が再び起きる可能性は高い。簡単な方法としては、ステラが眠っている間に、この女にもあの男と同じ場所に行ってもらう事なのだが……。


「……う、ん」


 寝ているステラが声を出し、女に顔を向けていたメルヴィナは、ステラの方を見た。この女が消えた時のステラの反応を考えると、他の方法を考えた方が良さそうである。


「…………!」


 ふと、メルヴィナは顔を上げた。死霊たちがほんの少し、ざわめいたのだ。


 ――まだ、誰か……?


 今夜の内に、第二弾の襲撃があるとは考えていなかった。しかし、この近辺に何者か……それも、死霊がざわめくような、死者の恨みを多く買っている者が居る。もしくは、余程の力を持つ者か。

 メルヴィナは再び、病室の扉を開けて外に出た。


 ――誰も、居ない……?


 廊下に人間が居ないという意味ではない。死霊の気配がしないのだ。さっきまでは、夜の治癒院の空気の中で、騒がしいほどの気配を放っていたのに、なぜだろうか。また裏口か、それとも正面から来るのか。死霊の囁きという情報の供給源を失って、メルヴィナは戸惑った。

 より強い術を使えば、治癒院の中で幽鬼を喚び出したりする事も可能だ。しかし、余りやり過ぎると死霊術の痕跡が残る。それ故に、メルヴィナは躊躇した。


 その時、ぱたん、と、廊下の奥でかすかな音がした。


 メルヴィナは誘われるように、そちらの様子を見に行った。

 角を曲がると、その先にも病室の扉が並んでいた。メルヴィナの目は、他人よりも闇を見通す。並んでいる扉の一つが、かすかに開いているのが見えた。

 瞬時に魔術を発動できる体勢を調えて、メルヴィナはその部屋の中を観察した。ステラが居る病室よりも少し広く、左右の壁に二つずつベッドが据え付けられている、四人用の病室だ。ベッドは空で、この部屋を使っている病人は居ない。


 気のせいだったのかと、メルヴィナは振り返った。


「あっ――」


 彼女が大声を立てる間もなく、扉の裏に隠れていた人影が、扉を閉めると同時に、メルヴィナを強引にベッドまで運んだ。ベッドに押し倒されたと同時に、メルヴィナが被っていたフードが外れ、彼女の長い黒髪が広がった。


「む――!」


 そして、メルヴィナを押し倒した人影は、彼女の口を手のひらで塞ぎ、動けないように上から四肢を拘束した。


「貴女は……、貴女が、どうしてここにいるの――!!」


 人影はそう言って、困惑と怒りの混じった碧い瞳を、至近からメルヴィナに向けている。

 その人物の銀色の髪が落ちかかり、メルヴィナの黒い髪と混じり合った。


 アルフィミア様。


 驚愕に満ちた表情のまま、塞がれた口で、メルヴィナはその娘の本名を呼んだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 込み入って来ましたね……
[一言] あー!! そーいう流れは予測してなかった!! ……失礼いたしました……個人的に大好きなメルヴィナさんが、活躍していて嬉しかったんですが……控え目で思慮深くて慎ましやかで……えっ、違う? う…
[気になる点] メルヴィナは相性次第で相手を圧倒出来るけど大魔力で死霊を散らされてしまうアルフェには最悪の相性なのかな 相変わらずどこの勢力の人なのかさっぱりな人 [一言] ついに逃げようのない展開…
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