241.好きにどうぞ?
アルフェは、本と書類の山に埋もれていた。
廃都市への旅からバルトムンクに戻ってきて数日、彼女は宿の部屋に運ばせた様々な資料を、飽く事なく読みあさっている。それらの資料は、ゲートルードが保管していた数々の情報だ。
自分にとって必要と思われるものをフロイドに運ばせ、彼女は今、読書の日々を送っていた。
「ゲートルードと、何か有りましたか。あの地下で」
「さあ?」
フロイドに尋ねられて、アルフェはとぼけた。だが、アルフェに結界の真実を突きつけられて、ゲートルードは知識の代わりに、何か大切なものを失ってしまった。その隙を突いて、アルフェは彼が自分の言う事を聞くように唆したのだ。
ゲートルードは、アルフェに知識の対価を求めなくなった。彼女が知りたいと求めれば、ゲートルードはその言葉通りにするだろう。アルフェの部屋に積まれた資料は、その成果と言える。
「強いて言うなら……」
「ん?」
食事は、宿の食堂ではなく部屋で取るようにした。読む時間が欲しいからだ。今は昼食を取りながら、アルフェはフロイドと会話していた。
「ちょっと言えないような、卑劣な事をしました」
「は?」
「……冗談です」
冗談では無かった。本当に卑劣で卑怯な行いをしたのに、まるでそれを冗談のように伝えたのは、アルフェの中に、目の前の男に知られたくないという気持ちと、知っておいて欲しいという気持ちが同居していたためだろうか。
フロイドは、貴女が卑劣な真似をしたところで、今さら驚かないと言って肩をすくめた。
「それで、今は何を読んでいたんです」
「皇帝選挙の仕組みとか……、帝国の貴族についてです」
「帝都に乗り込む前の情報収集か」
「ん」
フォークで野菜を口に運びながら、アルフェはフロイドに一束の書類を差し出した。
「行儀が悪いぞ。いや、それを言うなら、読みながら食べること自体どうかと思うが。あの従業員が見たら嘆く」
「あなたに行儀の事を言われたくありません。いいから読みなさい」
「全く……。ん? 何だこりゃ」
「皇帝の候補になりそうな人物のリストだそうです。あなたが前に聞いたものより、更に詳細な」
「あの爺さんは、そんなものも持ってたのか。……アルフェ、一応確認しておきたいんだが」
「……?」
フロイドが真面目な声を出したので、アルフェは食べる手を止めた。
「貴女は、ゲートルードを意のままにして、情報屋組合を手中に収めるつもりか?」
「……そうだと言ったら?」
「貴女の決定に、俺は従うと決めた。ただ確認したいだけだ」
アルフェはナイフとフォークも置いて、手を膝に乗せた。真っ直ぐにフロイドの目を見つめ、彼女は言った。
「改めて、クラウスが信用ならない人間だと分かりました」
「クラウス……、貴女をラトリアから脱出させた、大公家の従者か」
「はい」
かつてはそうだったが、今のクラウスはドニエステ王に仕えていて、アルフェの師の仇であるハインツという魔術士の動向も知っている。アルフェに定期的に情報を送ると言って、実際に何度か手紙を寄越してきたが、頻度は少ない。
「何より、博士が言っていました」
――あの結界の封印は、つい最近に解かれた気配があります。
アルフェたちは、廃都市の大聖堂に施された封印を、ゲートルードの魔術によって解いた訳だが、ゲートルードはその時に一つの違和感を覚えたそうだ。
彼らが来る少し前、少しと言っても一年以内の間に、封印が一度解かれた形跡がある。七百年前から閉ざされていたはずの封印を、一体誰が解いたのだろうか。
「クラウスに決まっています」
アルフェが以前、あそこでクラウスに再会した時、クラウスもまた、結界の真実について知らないようだった。しかし今思えば、あれはやはり演技だったのかもしれない。だから、あの男と、そこからもたらされる情報だけを信用するのは危険だった。
「なるほど……」
フロイドは唸った。アルフェは言う。
「あなたが心配している事は、何となく分かります、フロイド。あなたは、私が権力に近付く事に、違和感を覚えているのではないですか?」
「別にそんな事は……。いや、そうなのかもしれない」
「権力に興味は有りません。私が帝都に行くのは、あくまでテオドールさんが心配だからです。情報屋組合についても、組織を博士から取り上げる気は有りません。ただ、私の知りたい情報を円滑に提供して欲しいだけです」
フロイドは、黙ってアルフェの話を聞いている。
「私は、始めから抱いている目標を変えていません。私はお師匠様の仇を討ちたい。記憶が戻っても戻らなくても、それは変わりません」
「……では、ご家族は?」
「……会いたいです」
アルフェは素直に言った。
「お姉様にも、お母様にも。でも、一番はお師匠様の仇を討つ事です。しかし、テオドールさんの事も気になります。どちらにしても変わらないのは……、それらの目的のためにならない限り……私が地位や権力を求める事は、今後も無いです。今は、必要だから情報屋組合を使っている。そういう事です」
「分かりました。……どうして笑うんです」
「あなたがほっとした顔をするからです。普通、男の人は、主君に野心を持ってもらいたいと思うものでしょう?」
フロイドはそれに答えず、ちょっとはにかんだような顔で、アルフェから渡された資料に目を落とした。
――楽しいか。
ディヒラーの声だ。
――楽しいのか、こんなやり取りが。この男の忠誠を手玉に取って、お前の私欲に付き合わせて。
――黙りなさい。
アルフェは表情を変えずに、食事を再開した。
「帝国には貴族が多いな。ヴォートラン、ラスティニャック……知らない家名も結構ある」
フロイドは話題を逸らすように、資料に書かれた皇帝候補の名前を読み上げた。
「その辺りの人は、既に死んだそうです」
「何だそうか。じゃあ、覚えても意味無いな。…………何? 死んだって?」
「死因は色々だそうですが、帝国議会で、皇帝選挙の議題が出る前に」
自宅の浴室で溺死した者、朝になってベッドで眠るように死んでいた者。時期も死に方もそれぞれ違うが、帝都で、皇帝候補の人間が何人か死んでいる。これはゲートルードが、まだアルフェたちに明かしていなかった、皇帝選挙に関する秘密だ。
「やはり、テオドールさんが心配です。だから、今はこちらを優先します」
丁度食事を終えて、アルフェは言った。
以前にエアハルト伯の後継争いが行われた際にも、兄が弟を暗殺しようとするという後継が展開された。増して今回は皇帝である。帝位を本気で狙う者が、どれだけ居るのかは不明であるが、こうやって対立候補を除外する者は、確実に存在するという事だ。
死んだのは、比較的有力な候補たちだった。しかし、最有力とまでは言えない。暗殺を指示した者は、選帝会議の行方を見えやすくするくらいの気持ちで、これをやったのだろうか。神殿騎士団の保護下にあると思われるテオドールにまで、その手が及ぶ事はあるだろうか。テオドールの親友であるマキアスは、それに巻き込まれたりしないだろうか。
「では、帝都にはいつ?」
「準備は応分に調える必要があります」
フロイドの質問に、アルフェはそれだけ答えた。
アルフェ自身も、恐らく神殿騎士団に命を狙われているのだ。何の用意もせずに行って、状況を悪化させたくは無い。テオドールたちは心配だが、きちんと時間を費やして、対策を調えるのも勇気というものだ。
これらの資料を読みふけっているのも、その準備の一環である。時期はまだ、明言できなかった。
「本当に色々調べてるな、あの爺さんは」
別の資料の一つを手に取って、フロイドは呆れたようにつぶやいた。
資料は床や、ベッドの上にまで散乱していた。清掃のメイドが入ってくるのも、アルフェは断っている。だから必然、主人に食事を運んだりするのは、臣下のフロイドの役目という事になる。
「グラムが町に入れたなら、あいつに手伝わせるんだが……」
フロイドは愚痴をこぼした。
グラムと彼らは、都市に入る前に再び別れた。グラムは結界の外を移動して、自分を迎え入れてくれそうな、新しいオークの部族を探すつもりだという。
フロイドは、せめて床とベッドに散らばった資料を拾い集め、適当に重ねた。そこには、帝都の元老院で上がった最新の話題から、辺境の村で戦う新興の傭兵団の話まで、様々な情報があった。
これら全てに目を通すのは、一人の人間には難しいだろう。それでも集め続けていた辺り、ゲートルードの知識に対する執念は、凄まじいものがあるとフロイドは思った。アルフェやフロイドが強くなりたいと思うのと、別種ではあるが同じような感じだろうか。
「じゃあ、俺は隣で待機しています。何かあったらお呼び下さい」
「あ、待って下さい」
一通り書類を整理してから、フロイドは主の部屋を辞去しようとした。しかし、アルフェがそれを呼び止めた。
「まだ何か?」
「はい、重要な仕事を頼みたくて」
「ん?」
フロイドの目が鋭くなった。アルフェがわざわざ前置きして言うくらいだから、余程重大な仕事があるのだろう。筋肉が緊張するのを、フロイドは感じた。
「それは……?」
「宿のメイドに頼もうかとも思ったのですが、それだと意味が無いと思いました」
「……?」
フロイドは首を傾げた。メイドにも頼めそうで、しかし頼めない重要な仕事とは何だろうか。
「変装するのですから、自分たちで出来るようにならないと」
そう言って、アルフェが化粧台から取り出したのは、ハサミと櫛に、フロイドが知らない染料のようなものだ。
「やっぱり、この髪は目立つようですから、帝都に行く前に何とかしないといけません。敵に狙われているなら尚更です。ずっと前から、そうしようかとは思っていたのですが――」
だからやって下さいと、アルフェはそれらの道具をフロイドに手渡した。
「やれ……とは?」
「切るなりと染めるなりと、好きにどうぞ」
自身の長い銀髪を手に持って、事も無げにアルフェは言った。
ハサミを持ったまま、フロイドは憮然とした表情になった。




