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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第五章 第六節
251/289

240.従者と妹

 兄に用が有ると言って来たのに、台所を貸してくれと要求する。これは至極唐突で奇妙な願いだ。ステラには今ひとつその繋がりが分からなかったが、ここまでのやり取りによって、彼女は目の前に座っている男が不審者では無いと結論付けていた。


「ど、どうぞ」

「失礼します」


 ステラの許しを得ると、クラウスは立って客間から台所に向かった。ステラもその後に付いて行く。探すほど広い家ではない。クラウスは迷わず台所を見つけた。

 良くある、薪と炭で火をおこすかまどだ。王侯貴族の厨房のように、魔術で簡単に着火――というものではなかった。火は、ステラが湯を沸かすために付けた。それを再利用し、クラウスが湯を沸かすところから始める。


「どうしてああなったのかは、俺には分かりませんが――」


 言いながら、クラウスは湯を沸かすのと並行して、茶器や茶葉の用意をする。その手つきは、ステラよりもずっと慣れた様子だった。


「きちんと手順を踏めば、きっと改善されるはずです」

「は、はい」


 改善と、クラウスははっきり言った。それはステラの料理の腕の拙さを認めたようなものだが、ステラは相手の気迫に飲まれて、その事に気付かなかった。

 クラウスは、どこかのお城の教育係のような口調で、湯を沸かしてから茶を入れるまでの手順を、ステラに丁寧に説明した。


「そもそも、茶葉は普段から空気に触れないように保管して下さい」

「す、すみません」

「出来ればカップも温めておきましょうか」

「分かりました」


 クラウスはテキパキとステラに指示を飛ばす。茶を入れさせてくれと言ったのはクラウスなのに、いつの間にかステラがもう一度行う空気になっていた。


「どうですか?」

「あ、美味しい」


 そして、クラウスの指示に従って自分で入れた茶を、ステラは飲んだ。彼女にも、それが普段自分の入れる茶とは、大いに味が違うという事は分かった。

 狭い台所で立ったまま、ステラの隣にいるクラウスも、カップを傾けた。彼は、まあまあだという表情をしている。


「うん。これならまだ、幾らか救いようのある味です」

「救いよう?」

「あ、いえ」


 救いようが無かったステラの腕前は、この数十分の間に飛躍的に改善した。クラウスはばつが悪そうに目を逸らし、静かにカップを置いた。


「すみません。急に上がり込んできた輩の分際で、出過ぎた真似を致しました。……お許し下さい」

「え? 輩?」


 クラウスの言い様が余りに大げさだったので、ステラは少し戸惑った。

 だがしかし、確かに兄を訪ねてきた初対面の男が、その妹と茶を入れるなど、冷静に見れば奇妙である。ステラは改めて茶をすすってから、面白そうに笑った。


「お兄ちゃ――兄にも、変わったお友だちが居るんですね」

「申し訳ありません」

「そんな、怒ってませんよ?」


 深々と頭を下げられて、ステラは慌てた。この人は、余り冗談の通じない人のようだとステラは思った。


「それで、兄の事なんですけど。折角来てもらったのにすみませんが、今日は留守なんです」


 台所に立ったまま、ステラは言った。

 彼女の口調は、いつの間にか相手の男に対して、若干距離の近いものになっている。


「あ、今日って言うか……しばらくは。任務で帝都の外に出ていて。……本当に美味しいですね、このお茶」

「承知しています」

「はい、凄く美味しいです。クラウスさんが直接入れたら、もっと美味しくなるのかな……?」

「いや、茶の事では無く、お兄様の事です。お留守であるとは知っていました。俺が来たのは、それに関してです」


 そこからクラウスは、ようやく今日の訪問の理由を語りだした。

 彼は現在、マキアスの所属する神殿騎士団の世話になっている人間だが、マキアスの上司に頼まれて、兄が留守中に一人になってしまう、妹のステラの様子を見に来たのだという。


「じゃあ、私に用だったんですか? クラウスさんは」

「はい。ただお元気であるか確認するようにという言いつけでしたが……」


 そこまで言って、彼はやっと、自分がどこに立っているのかを思い出したようだ。初めて上がり込んだ家で、初対面の娘と、こんな近い距離で、クラウスの顔面は蒼白になり、繰り返し詫びの言葉を口にした。


「申し訳ありません。俺はこんな、一歩間違えれば取り返しの付かない事を」

「――??」


 再び茶をすすりながら、どこかずれた、変な感覚の人だとステラは思った。確かにステラは嫁入り前の若い娘だが、別に深窓のお姫様という訳では無い。少し近くに寄られたくらいで、傷物にしたかのように謝りだすのはおかしい。


「どうか、お許し下さい」


 だが、クラウスは真剣なようだ。


「別にいいですけど……。もし気になるなら、ちょっとお願いしてもいいですか?」


 本当に別にいい事ではある。しかし、償いをしなければ済まされないと、クラウスの方が言い出しそうな顔をしていたので、ステラは一つの提案を思いついた。


「騎士団での兄の話を、聞かせてもらえませんか。もうすぐ晩ご飯の時間ですから、そのついでに。あ、そうか、お料理の方もアドバイスしてもらえると嬉しいです」


 結局、一つではなく複数になってしまったが、その提案に対し、最終的にクラウスは同意した。



「じゃあクラウスさんは、北の大陸に住んでたんですか?」

「ええ。……生まれは、そこではありませんが」


 ステラは、訪ねて来たクラウスと一緒に、雑談をしながら夕飯を食べていた。

 テーブルの上には、いつものステラの食事よりも、数段豪華なメニューが並んでいる。別に食材を多く使った訳でもないのにこうなるのは、やはり作り手の腕が良いからなのだろうか。

 この食事を用意したのはステラではなく、ほとんどクラウス一人だった。


「北かぁ……。どんな場所なんですか? 私、帝国の外に出た事が無いんです」

「ここよりも熱いですし、乾燥しています。それ以外は、特に変わり有りません。町並みも似ています。木造の家を、余り見ないくらいでしょうか。もちろん、国や地域によって違うのでしょうが」


 狭い台所で初対面の男女が料理を一緒に作る事について、クラウスはやはり抵抗感を示していた。始めは特に気にしていなかったステラの方が、自分たちは後ろめたい事をしているのだろうかと、ちょっと不安になってしまったくらいだ。

 そんな訳で、クラウスは台所を一人で占領した。他人の家の台所をそうやって使う事には、特に疑問を覚えないのだろうか。ステラはクラウスの事を、やはりどこかずれた人だと思った。

 しかし、この男がどうしてそういう言動をするかについて、料理が完成した時になって、ステラは少し理解した。


 ――給仕を。


 ――え?


 普通、夕飯を一緒にと言ったら、一緒に食べようという提案だと受け取るはずだ。だが一瞬、クラウスは椅子に着いたステラの横に立って、食事の世話を始めようとした。その動作は、まるで長年染みついた慣習のように、彼にとって違和感の無いものだった。


 ――……あ。いや、違います。そうですね、一緒に食べましょう。


 ――……? はい、いただきます。


 クラウスは、自分がおかしな真似をした事に、すぐに気が付いた。だが、ステラはそこで、この人はどこか偉い貴族に仕えていた人なのではないだろうかと考えた。ステラが働いている大聖堂付きの治癒院でも、家柄の良い女子が使用人を伴っている事がある。クラウスの言動は、その人たちとどこか似ていた。

 だとしたら、ステラも一応は貴族の端くれである。さっきのクラウスの中には、そういう意識が働いていたのではないだろうか。別にそんな風に尊重されるような家柄では無いのにな、とステラは思った。


「クラウスさんは帝国語が上手ですけど、北でも帝国語は通じるんですか?」

「北でも、東方諸国でも、帝国の周辺にある国々では、大抵通じますね。帝国語だけで、暮らしに困る事はそう有りません」


 そういうものなのかとステラは思った。ステラが治癒術を施す旅をした時も、彼女は帝国の外には出なかった。しかしクラウスは若いのに、今まで色々な国を見てきた経験が有るようだ。彼の言葉の端々から、それが読み取れる。


「この皿は、北の郷土料理を真似て作ってみました」

「……美味しいけど、ちょっと辛いかも」

「本場はもっと辛いですよ」


 兄の話を聞かせて欲しいと言ったのに、ステラはクラウスについての質問を繰り返していた。一人旅も経験して、治癒院でも多くの患者に触れるステラは、人見知りという事をしない。特にクラウスは、ステラの知らない場所の事を多く知っていたので、色々と聞くのは面白かった。


「いいなあ、外国かあ。私もいつか行ってみたいです」

「そうですか……? 帝国外の方が厄介な魔物が多いですし、帝都よりも治安の良い、便利な場所は有りませんが」

「それはそうかもしれないですけど……」


 クラウスの言った事は、ステラも知っている事実だった。多くの領邦は、帝都よりもずっと、人も建物も、品物の数も少ない。それどころか、辺境の開拓村に住む人々は、魔物に怯えながら、明日の命も分からないような暮らしをしている。

 ちょっと気付かない内に、自分も帝都の安全な暮らしに染まっていたのかもしれない。ステラは治癒士として反省した。

 しかし、その話題を続ける空気でも無くなったので、ステラは別の話をする事にした。クラウスに治安と言われて、思い出した事がある。


「帝都も、最近物騒だと思いませんか?」

「え?」

「何だか……色々と」


 自分の中にある感覚を伝えようと思っても、曖昧な言葉になってしまう。だが、とにかく最近の帝都は騒がしい。それは、ステラがずっと思っていた事だった。だからステラも、クラウスが家の前に立っていた時に、不審者ではないかと考えたのだ。


「……強盗などが、増えているようですね」

「そうそう」


 クラウスの言う通り、盗みの被害に遭ったという人が、この近所にも何人か居た。それだけでなく、隣の区画では人殺しが出たとかいう話もある。しかも殺されたのは、それなりに地位のある貴族だったはずだ。


「衛兵の人たちも大変ですよね」

「……本当に」


 ステラの感想に、クラウスも同意した。そして彼は言った。


「だからあの方も、あなたの様子を見に行くように、俺に命じられたのでしょう」

「あの方?」

「お兄様の上司に当たる方です」

「ああ」


 さっきもクラウスは、そんな事を言っていた。


「ステラさんは、お兄様の上司というのが、誰であるかはご存じなのですか?」

「知ってます。パラディン筆頭のヴァイスハイト卿……ですよね?」


 何しろそれは、マキアスにとっては自慢の種だ。兄が家で鼻高々に「団長」について語るのを、ステラは何度も聞かされた。数少ない友人であるテオドール共々、マキアスはパラディン筆頭直属の部下なのだ。――まあ、かなり下の方の部下ではあるが。

 自分は団長に目をかけられていると語る兄を、ステラは半信半疑で眺めていたのだが、わざわざこうして人を寄越してくれるという事は、あながち嘘でも無いのかもしれない。


「兄に聞いてはいたんですけど、雲の上の人だと思ってました」


 そうは言ったが、ステラも教会勤めだから、帝都にいるパラディンは何度も見た事がある。特に接する機会が多いのは、総主教クォンタヌスと聖女エウラリアを守護する役目を負った、第六席のケルドーン・グレイラントだ。彼ならば、総主教か聖女が出席する教会関連の儀式には、大抵同席している。

 それだけでなく、総長のカールも、パラディン筆頭のヴォルクスも、ステラはそれなりに顔を知っていた。


「でも、優しそうな人ですよね」


 ステラが微笑むと、クラウスの顔から表情が消えた。


「そうですね」


 彼が笑顔でその一言を口にするまでには、数瞬の奇妙な間が空いた。



「では、俺はこれで失礼します。本日は有り難うございました」

「はい、どういたしまして。私の方こそ、有り難うございました」


 通りまで見送りに出たステラに、クラウスは深々と礼をした。礼を言うべきなのはこっちの方なのにとステラは思ったが、この人はこういう人だと考える事にして、彼女も同じように、深々と礼をした。


「クラウスさん、危ないですから、気を付けて帰って下さいね」


 ステラは最後にそう言った。さっき話題に上がったような強盗や人殺しが、本当にクラウスを襲うと考えたのではない。ただ、外はもう暗かった。大通りまで出れば街灯があるが、灯りを持たなければ、この路地は歩く事もままならない。

 ステラは手持ちのランタンを貸そうとしたが、クラウスはそれを断った。


「問題ありません。ステラさんの方こそ、もう中にお入り下さい」


 そこでステラは、彼の喋り方が誰かに似ていると思った。この、やけに相手を敬った丁寧な喋り方は……。


 ――アルフェちゃん?


 しかし、その感覚は一瞬だった。この若者と、あの銀髪の少女の間には、共通する点は何も無い。

 クラウスはもう一度礼をして、ステラはそれに手を振った。

 歩き去るクラウスの後ろ姿は、やがて路地の闇に紛れて見えなくなった。


 ステラが家に入ってからも、クラウスは路地を一人で歩いていた。周囲は闇であるが、彼はそれを気にしていないようだ。クラウスの足が向いている先は、彼が間借りしているはずの騎士団本部ではない。


「…………さあ、次だ」


 クラウスの口から、短い言葉が漏れる。

 いつしか彼の姿は、路地のどこにも見えなくなった。

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