232.記憶の扉
帝国元老院は、百年ぶりに皇帝を選出する事を決定した。それについては、いずれ正式な布告が出される。この決定が覆る事は無く、時期を見て選帝会議が開催される事は間違い無い。
ゲートルードは今の元老院議会の情勢について、そう説明した。
「準備は進んでいるようです。八大諸侯にも、既に通達が行っている。他にも帝国中の主立った諸侯が集まり、帝都で一堂に会する事になるのでしょう」
百年間行われて来なかったという選帝のしきたりについても、ゲートルードは詳しかった。八大諸侯は皇帝の玉座の前に集い、数週間に渡る儀式と会議を行う。その結果として、新しい皇帝が選ばれるのだ。
皇帝候補は何人か居るが、有力な者は限られる。ゲートルードが挙げた中には、やはりエアハルト伯ユリアンや、神殿騎士テオドール・ロートシュテルンの名前もあった。
「この選帝会議を一言で表せば、親教会派と反教会派の争い、という事になると思います。教会はまだ、候補の一本化を進めている最中のようですが、先帝の血を引くテオドール・ロートシュテルンは、亡父が教会と親しく、幼い頃から神殿騎士としての訓練を積んできました。教会が彼を推そうとするのは、ほぼ間違い無いでしょう。そうすれば、彼が最も皇帝の座に近いという事になる」
「選帝会議というのは、八大諸侯で多数決でもするのか?」
フロイドが質問し、そう単純ではありませんがと、ゲートルードは難しい表情をした。
「八大諸侯の支持をどの程度得るかは、選帝の大きな基準になります。これは、歴史を見ても明らかです。そもそも今の大空位時代が始まった理由は、先帝の死後、八大諸侯の支持を集める皇帝候補が居なかったからでもある」
「エアハルト伯ユリアンは八大諸侯の一人だが、自ら皇帝になりたいのだろう?」
「そう思います。諸侯の支持さえ集めれば、理論上、それは可能です」
エアハルト伯、ノイマルク伯、トリール伯、ハノーゼス伯、ゼスラント伯、神聖教会総主教、神殿騎士団総長、そしてラトリア大公。聖界と俗界を合わせた八人を、帝国の八大諸侯と呼ぶ。
八大諸侯の過半数を味方に付ければ皇帝になれる。事はそこまで単純では無いようだが、それは皇帝になるための第一歩と言っても良い。教会派は総主教と騎士団総長の票がある事で、自動的に二つの票を得る。そしてトリール伯は伝統的に親教会派だから、これで三票。
「ハノーゼスは、教会との関わりは薄いはずだ」
フロイドが口を出した。ハノーゼス伯とゼスラント伯は、どちらも親教会とは言えない。だが、彼らにはエアハルト伯ユリアンを支持する理由も無い。この二つの票は、中立と言って良さそうだ。
残る三票は、エアハルト、ノイマルク、ラトリアである。
「エアハルト伯は、先の戦争に乗じてノイマルクへの影響力を高めました。従って、ノイマルクがエアハルト伯を推す可能性は高い」
ここまでの内容を、ゲートルードがまとめた。八大諸侯が持つ八つの票のうち、三票を教会派、二票を中立派、そして二票を反教会派――エアハルト伯ユリアンが持っている。
「後は、ラトリア大公ですが」
ゲートルードは、アルフェに意味ありげな目を向けた。
「私は、確かにラトリア大公の娘です」
ゲートルードは知っている。その確信が有ったアルフェは、下手にためらわず、認めてしまう事を選んだ。
「しかし、私にはその席に座るつもりは有りません。――いえ、そもそも、私に座る資格など無いでしょう」
「……アルフェ?」
「なぜ、そう言えるのです。…………そうか、貴女は」
フロイドが不安な声を出し、ゲートルードは改めてアルフェの目を見た。そして、ゲートルードは何かに気が付いた。
「“枷”が……、あの時よりも、弱まっている?」
かつてゲートルード自身が見破った、アルフェに施された心術。記憶と感情の枷。それが、前会った時とは比べものにならないほど緩んでいる事に。
「貴女は、思い出したのですか?」
ゲートルードは問いかけたが、アルフェはそれに答えなかった。それよりも、話の続きをしろと、アルフェは彼に促した。
「……教会が皇帝を選ぶことに乗り気なのは、揺らいでいる教会の権威を高めるための、足がかりにしたいからでしょうか。エアハルト伯と方向性は違いますが、選帝会議を開くという点においては、両者の望みは一致した。今、水面下では、諸侯を自陣に引き入れるために、我々でも追い切れないほど活発な根回しが行われている」
この会議の結果がどうなるかは、私にも見えません。そう言って、ゲートルードは口を閉じた。
「ユリアン・エアハルトという人は」
ゲートルードの代わりに口を開いたのは、アルフェだった。
「かつて伯の座を継ぐために、ご自分の弟を殺そうとしました」
ここに居るフロイドは、ユリアンに使われる暗殺者の一人だった。ユリアンはアルフェにも、自分に付かないかと誘いをかけた。それは、この選帝会議を見越した布石だったのだろうか。
あの時の誘いを断ったのは間違いでは無かった。ユリアンと自分は、見えているものが全く違う。アルフェはそんな風に思った。だが今、アルフェはユリアンと、違う形で接近しようとしている。
「ユリアン様――いえ、エアハルト伯が、そうやって対立候補を害そうとする可能性も、あるという事ですね」
やはり、自分は帝都に行きたいのか。アルフェは己の心に問いかけた。教会と神殿騎士団に狙われているかもしれない自分が、教会と神殿騎士団の庇護を受けるテオドールの事が気にかかるからと。師の敵を討つというアルフェの目的には、テオドールは何の関係も無いのに。ただ一時の、懐かしい思い出の中の友人だからと。
「……フロイド」
「何ですか」
「私は……、やっぱり、弱いのでしょうか」
悩んだ挙句、アルフェはそう口にした。
技や力ではなく、心が弱い。だがもうそろそろ、その自分の心の弱さを認めよう。アルフェはそう思った。
「……それは、弱さとは言わないと思う」
「……ふふ」
弱さで無ければ甘さだろう。フロイドの下手な慰めを、アルフェはか細く笑って受け流した。そして、アルフェは己の弱い心に従って、今の自分の想いを、はっきりと口にした。
「私は、帝都に行きたいです。テオドールさんの様子が、気になります」
アルフェの中では、それで今後の方針が定まった。テオドールが苦難に巻き込まれていないかを確かめるために、帝都に向かう。帝都には、アルフェの命を狙っているかもしれない神殿騎士団の本部があるが、それを承知した上でだ。
それに、忘れてはならない事がもう一つ。
――帝都には、クラウスも居る。
今はドニエステ王国に仕える、かつてのラトリアの家臣は、あそこで何かをしている。いざ帝都に乗り込む際は、彼にも気付かれないように、相応の準備を整えてから向かうべきだろう。
アルフェはそんなことを考えながら、非常に目立つ、自身の銀の髪を撫でた。
「……他に、私に聞きたい事は?」
すると、ゲートルードがアルフェに問いかけてきた。
「これで良いです。今は。またいずれ」
「……私への対価は?」
「あなたはそれに見合うだけ、私のために働きましたか?」
アルフェがその顔に、冷たい嗜虐的な笑みを浮かべたのを見て、ゲートルードはうなだれた。
「――ですが」
「……?」
「あなたの態度次第では、話してあげても構いません、ゲートルード博士」
情報屋組合とは、今後も上手く付き合っていきたい。あまりいじめて、ゲートルードが態度を硬化させても困る。この老人との今後の関係で、精神的優位に立てるギリギリのところをアルフェは模索し、相手を揺さぶっていた。
「……どうか、お願いします。どうか」
果たしてゲートルードは、アルフェに対して、頭を低くし懇願した。
アルフェが大聖堂の奥で目にした秘密は、ゲートルードのような人間に、それを知るため、そこまでさせるようなものなのだ。しかしそれも、アルフェには良く理解できない感覚だった。地面の下に大きな魔獣が眠っているから、それがどうしたというのだろうか。
「博士、私と一緒に、少し遠出をしませんか?」
「え?」
ここでアルフェには、一つ思いついた事があった。
全てを口頭で伝えただけでは、ゲートルードに十分な衝撃を与える事は出来ないだろう。全部を一度に語って、軽く見られるのも好ましくない。
「支度を調えて下さい。数日でいいです。私と一緒に、旅をしましょう」
「それは……どこへ?」
「実際に目で見るのが、最も早いですから」
大聖堂の奥に隠された結界の真実を知りたいのなら、この都市の近くにも、それに相応しい場所がある。アルフェもそこに、もう一度訪れてみたいと思っていた。真実がどうとか言う以前に、あの場所で、アルフェは従者クラウスに再会したのだ。
あの時は何も無かった。クラウスも何も無いと言った。あの、廃都市の大聖堂の奥で。
――あの時、やはりクラウスは、私に偽りを語っていた……?
大聖堂の奥に何があるのかを、あの男は知っていたのだろうか。知っていて、アルフェに黙っていたのだろうか。行って確かめられるならば、帝都に向かう前に見ておきたい。
廃都市ダルマキアの大聖堂。今は失われた結界の中心。その下にも、アルフェがキルケル大聖堂で見たのと同じようなものが、眠っているのだろうか。
◇
バルトムンクの西にある、旧ダルマキアの廃聖堂。そこに行こうというアルフェの誘いを、ゲートルードは了承した。出発の日時を取り決めて、アルフェたちはゲートルードの家を出た。
「別に、一人でお酒を飲んで来ても構いませんよ」
少し歩いたところで、アルフェはフロイドにそう言った。大人の男が酒を飲むのが好きだという事を、アルフェは知っている。フロイドもそれは例外ではない。フロイドはアルフェを護衛する責任を考えているようだったが、臣下の行動をそこまで制限するつもりは、アルフェには無かった。
この島には飲み屋が集中している。自分は宿に一人で帰れる。だから、たまに羽目を外したければ外すと良い。そんなアルフェの提案に対して、フロイドは無言で首を横に振った。
「そうですか」
混雑した通りに来ると、来た時と同じように、アルフェに男たちの視線が集まった。アルフェはほとんど息を止めて目をつぶり、その場所を通り過ぎた。
「ゲートルードは、気になる事を言っていましたが」
「え?」
宿のある岸まで戻る橋の上で、フロイドがアルフェに聞いた。
「貴女にかけられた魔術が、弱まっているとかいう」
「ああ、その話ですか。――はい、そうみたいです」
アルフェはあっさりと肯定した。ゲートルードに指摘されるまでも無く、アルフェはしばらく前から、その事を認識していた。それを聞いて、フロイドの表情が少し変わった。
「気を悪くしないで下さい。別に、秘密にしようと思った訳ではありません」
「いや、そんな事は……。臣下に秘密を持つのは、貴女の自由なのだし」
「じゃあ、心配してくれているのですか?」
「……からかうのは止めてくれ」
そこでアルフェは足を止めた。彼女は欄干越しに川の水面に目を向けたが、水面までは遠く、闇に遮られて、水の流れの音しか届かない。
「最近、ラトリアの城に居た頃の事を、思い出す事があります。これが、私にかけられた術が弱まっている結果だというのなら、そうなのかもしれません」
以前は記憶を探ろうとしても、心の中に「声」が響き、頭痛がアルフェの思考を遮った。だがここ最近、何となく過ごしている時間などに、アルフェの頭の中には、城に居た頃の風景が普通に思い浮かぶ。
それでもまだ、思い出せない事は多い。
しかし――
「何も無かったという事だけは、思い出せました……」
「……」
「思い出すほどの記憶など、私には始めから無かった」
アルフェはずっと、自分の部屋の中に居た。部屋の中から、ずっと出る事が出来ずにいた。
分厚い扉の前には、常に衛兵が立っていた。アルフェを守るためではなく、アルフェを部屋から出さないために。時折、部屋に侍女がやって来る。アルフェに入浴させ、食事を与えるために。厳しい態度で言葉と礼法を教える家庭教師がいた事は、誰かの最低限の慈悲だったのだろうか。
アルフェの言葉に、ほとんどの人間は耳を貸さない。何かを聞いても答えない。
それでもたまにこっそりと、アルフェの相手をしてくれる人はいた。アルフェに踊りを教えてくれた侍女。アルフェに物語を語ってくれた衛兵。しかしそういう人たちは、いつの間にかアルフェの部屋に来なくなった。
「あの家にとって、私は、居てはいけないものだった……?」
どうしてそうする必要があったのか、それはアルフェには分からない。
ただアルフェは、自分が幼い頃から、ずっと部屋の中に閉じ込められていた事を、ようやく自覚する事が出来たのだ。




