19.Fly High
――飛んだ!? あの大きさで……!!
背中から生白い翅を出したジャイアントビートルが、すさまじい勢いで羽ばたき始めた。甲高い、耳障りな羽音が空洞に響き渡る。
手で顔を覆わなければ、目を開けていられないほどの風圧が発生し、洞窟内の水面に波紋が広がる。そしてふわりと浮き上がった魔物は、アルフェの周囲を旋回し始めた。
「くっ!」
――いったい、何を……!?
魔物はアルフェの手が届かないところを飛び回っている。それでもアルフェが構えを崩さず虫の動きを見守っていると。高度を落とし、高速で角の先から突っ込んできた。
「――!」
地面に脚を付けていた時とは、比較にならない速度の突進だ。アルフェは真横に跳び、すんでのところでそれをかわした。
「このッ! ――!?」
間髪を入れず、再び魔物が突っ込んでくる。回避しなければと思ったアルフェは、自分と魔物を結ぶ線の先に、リアナがいることに気がついた。自分が避ければ、魔物はそのままリアナの方に向かう。
「――フッ!」
アルフェは足を止め、もう一度突進の方向を逸らすため、グリーブでビートルの角を蹴り上げる。グリーブの金具が破損する音が響き、岩にぶつかったようなすさまじい衝撃がアルフェを襲った。コマのように回ったアルフェの身体は、再び地面に叩き付けられて水しぶきを上げる。
「きゃあああ!」
幼い少女の、抑えきれない叫び声が響く。ビートルは、リアナのすぐ側の壁に突き刺さったようだ。それが薄れかかるアルフェの意識を、現実に引き戻した。
――まだ、だめ!
今自分が死ぬわけにはいかない。アルフェは己を奮い立たせる。
よろりと立ち上がったが、全身にズキリと痛みが走る。リアナは――、無事だ。
彼女はどうにか飛散した岩のかけらを避け、這うようにしながらもビートルから距離を取っている。
魔物はまた上空を旋回し始めた。今度はさっきよりも高く。
あの高度、あの速度で飛び回られては、アルフェの方からは手が出ない。では、どうするか。
次に食らえば命はないだろう。かといって、満足に避けるだけの力も残されていない。
――でも。
アルフェはちらりとリアナを見やった。
自分が倒れる前に、少なくともあの魔物に痛撃を加える。少女が独りで逃げられるだけのダメージを、あの怪物に与えなければならない。
アルフェは目を閉じ、細長い息をする。下腹にありったけの力を込めた。
「呼おおおォォォォ!!」
アルフェの体内に、周囲から魔力が集まってくる。
集気法。
通常、アルフェの流派は体内のオドを用いて敵と戦う。しかしこの技は、自然界にあふれるマナを取り込むことによって、一時的に普段よりも大きな魔力を攻撃に込めることができるのだ。
その代償として、長い「溜め」が必要になるが、今この時、残された魔力であの魔物に対するにはこの方法しか無かった。
魔力を吸われ、アルフェの周囲を流れる水の光が明滅を始めた。
その場に留まって、逃げようともしないアルフェに不審なものを感じたのか、虫はまだ、高高度を旋回し続けている。そして何かを確かめるように、一撃離脱の軽い攻撃を仕掛けてきた。
「ああ!」
リアナが両手で顔を覆う。魔物の攻撃を、アルフェはかわさなかった。彼女は魔物の動きをじっと見据えながら、致命傷だけを回避して攻撃に耐えている。
獲物はもう、動けなくなった。ジャイアントビートルはそれを確信すると、高度を下げた。完全に相手の息の根を止めるため、再び角による突進を敢行する。今までで最も速度を乗せた、必殺の一撃。
――……今だ!
しかし魔物の角が触れる瞬間、アルフェは目をかっと見開いた。
「でやあああああぁああ!!」
衝き出されてきた角をかいくぐると、彼女はそのまま両腕で角を抱えた。そのまま相手の勢いを利用して、敵を遠くに放り投げる。
きりもみになって飛んでいくジャイアントビートル。体勢を滅茶苦茶に崩された魔物は、速度を殺すこともできず、そのまま洞窟の壁に叩きつけられた。
もうもうと砂煙が立ち込める。魔物の背中の外骨格がちぎれとび、柔らかく、生々しい羽がむき出しになっている。鳴き声から伝わってくるのは、明確な苦痛の感覚だ。
だが、アルフェはそれで済まさなかった。それでも起き上がる巨大甲虫の足元に、彼女は瞬発的に距離を詰める。リアナからは、アルフェが元の位置から消えたとしか見えなかった。
アルフェが踏み込んだ右足を中心に、大きな水の柱が立つ。洞窟の床にひび割れが走り、地面が鳴動したようにさえ思えた。
――拳では弱い。両掌を使ってもまだ足りない。全てを、己の中の、ありったけを込めて。
アルフェは全身をひねりこみ、背中から魔物にぶち当たった。溜め込んだ魔力を全開で、全てを敵の腹部にたたき付けた。
洞窟内に、星が破裂したような轟音が響き渡る。
静止して動かないアルフェと魔物。数瞬後、虫の背中がむごたらしくはじけとび、内臓が後方の壁にぶちまけられた。
――……終わった。
殆ど中身を失った、魔物の外殻が力なく崩れ落ちた。それでもまだしばらく、虫の足はわさわさと動いていたが、もうこの身体に生命は宿っていない。
戦いは終わったのだ。
「――お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
リアナがアルフェに駆け寄ってくる。虫の体液と彼女自身の血で、アルフェはどろどろに汚れていたが、それにもかまわず飛びついてきた。リアナはアルフェの胸に顔をうずめて、力の限り抱きすがる。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん! ……おねぇ、ちゃん」
最後は完全に涙声で、ろれつが回っていなかった。アルフェはリアナの背に手を回し、優しく抱きしめ返した。正直もう立っているのも辛いが、この子を家に送り届けるまでが今回の仕事だ。
「……行きましょう。ここはまだ危険です。……お姉ちゃんが、あなたを必ず家につれて帰りますから、安心してください」
リアナが少し落ち着いてから、アルフェは言った。力強く、一言一言、言い聞かせるように。
リアナは両手でぐしぐしと涙をぬぐい、うなずいた。泣きはらした目だが、それでも初めての笑顔を見せた。
「強い子ですね」
アルフェも少女に微笑み返し、同時に思った。――なぜこんな小さな娘が、こんな怖い思いをしなければならないのか。
アルフェは少女に対する愛おしさと同時に、彼女をこのような目に合わせた理不尽に対して怒りを感じた。
「さあ、一緒に……、あら?」
立ち上がったが、くらりとめまいがし、膝からかくんと力が抜ける。
この感覚は覚えている。魔力の枯渇だ。緊張が解けたせいか、膨大な魔力を放出した反動が一度にやってきた。猛烈な脱力感と眠気が襲ってくる。このまま目を閉じたら、しばらくは起き上がれなくなるだろう。
必死にまぶたを開こうとするが、身体が言うことを聞かない。
「お姉ちゃん? ど、どうしたの?」
「いえ、何でも――」
リアナが不安気な声を掛けてくる。大丈夫だと言おうとして、アルフェの顔は蒼白になった。
――……しまった!
いつの間にか、完全に魔物に包囲されている。群れリーダーの死を察知して、あちらこちらの通路から、小型のビートルたちが集まってきたのだ。
「ッ、逃げなさい!」
膝を突いていたアルフェがふらつきながら立ち上がる。残った力でも、足止めくらいはできるだろう。リアナはアルフェの意図を感じたのか、彼女の腕にすがりつき、いやいやと首を振った。
「逃げなさい! 私が道を開きます! その間に早く!」
その手を引き剥がして、アルフェは現れた敵の群れに向かって踏み込んでいった。リアナが自分を呼び止める声がする。だが、その声に振り向くわけにはいかない。残された最後の力で、一匹、また一匹と魔物を屠っていくが、徐々に目の前が暗くなる。
「――逃げなさいッ!」
そうしていつしか、彼女は意識を手放した。
◇
身体が宙に浮いているような感じがする。いや、これは誰かの背中におぶられているのか。人に背負われるなど、いつ以来だろう。いつか母に――、いや、姉におぶってもらったのが、最後だったろうか。
金属の鎧の冷たい感触が、頬に当たっている。アルフェは、はっと目を覚ました。
「……ん? おお、お目覚めみたいだぞ、テオドール」
徐々に視界が明瞭になる。横に見えるのはマキアスの顔だ。ということは、アルフェの目の前にあるこの背中は――
「……そうか、良かった。アルフェさん、まだ眠っていていい。ここからは私たちが引き受ける」
おぶられた背中を通して、テオドールの声が伝わってくる。そうか、これは彼の背中か。
「まあ、テオドールが疲れたら、俺が代わりにおぶってやってもいいぜ。……お前は頑張ったんだ。ゆっくり休みな」
アルフェは顔を起こして、周囲を見回した。
「リアナちゃんは!?」
「ちゃんと居るよ、心配するな」
マキアスの影になって、彼に手を引かれた少女がいる。リアナだ。その顔を確認すると、アルフェの上体からは再び力が抜けた。
「……そうですか。お二人が助けてくれたのですね。……ありがとうございました」
「この身に代えてもなんて、思うなって言ったのにな。強情な娘だな、お前は」
呆れたようにつぶやいたマキアスの顔は笑っている。
そう言う二人の青年の格好だって、ひどいものだ。あちこちに切り傷や、打ち身の跡が見える。彼らもアルフェとは別の道で、それぞれに必死に戦ってきたのだろう。
「とにかくこれで依頼は完遂、だ。町に着くまでくらい、おぶられてな」
「そういうわけには……。あの、すみません、もう自分で歩けます。降ろして下さい」
アルフェはテオドールに声を掛けた。だが、思ったよりもがっしりしている背中の主は、珍しく冗談めかしてこう言った。
「私も君を降ろしたくないな……。君みたいなお転婆な子は、捕まえていないと、どこに行ってしまうか分からないから」
それが可笑しかったらしく、マキアスが声を上げて笑う。リアナはきょとんと、よく分からないような表情をしている。
アルフェはみんなにからかわれているような気がして、赤くなった頬を目の前の背中にうずめた。