18.白馬のお姫様
先ほどの戦いで負った傷は少し癒えた。自分の未熟な治癒術では完全な治療は無理だが、何とか戦うことはできるだろう。しかしこの右手はまだ、十分には使えないかもしれない。
右腕に左手をかばうように添えながら、アルフェは進んだ。
途中何度かジャイアントビートルに襲われたが、数匹程度ならアルフェ単独でも対処できる。全て蹴りつぶした。
しかし道中、彼女はかなり魔力を消費していた。修行を始めてから日の浅いアルフェが、それでも人並み以上の力を発揮できるのは、ほとんど魔力のお陰である。これが尽きたらどうなるのか。
「――!」
細い通路が終わり、再び広い空間に出た。天井がどれほどの高さにあるのか、暗くて見えないほどだ。
上からたれさがった巨大な石のつららから、光る水が滴り落ちている。何枚もの皿を階段状に積み重ねたような地形に、青白く光る水がいくつもの小さな滝を作って、非常に幻想的な光景だ。
――リアナちゃん!?
だが、アルフェの目を奪ったのはその光景ではない。空間の奥の奥、こちらに背を向けて、ひときわ大きなジャイアントビートルが立っている。その足元に這いつくばっているのは――女の子だ。
「――待ちなさい!」
ビートルは、今にも女の子に覆いかぶさろうとしている。それを見極めた瞬間、アルフェはすさまじい勢いで駆け出した。魔力を使った加速が、アルフェと魔物の間にあった数百歩近い距離を一気に詰めさせる。
「その子から――!」
そして魔物まであと十歩のところまで来ると、アルフェは地面を蹴り、高く高く跳躍した。
「――離れろッ!」
彼女は銀のグリーブを履いた両脚をそろえて、思い切りビートルの頭を蹴り飛ばした。モンスターの巨体が横っ飛びに吹き飛ぶ。石柱にぶち当たって、巨大な甲虫は動きを止めた。
宙で一回転して、アルフェはすとんと綺麗に着地した。床にへたり込んでいた少女が、目を見開いてその姿を見つめている。
「リアナちゃんですね?」
「…………おねえさん……、だれ?」
「私はアルフェといいます。冒険者です。弟さん――リオン君に頼まれて、リアナちゃんを探しに来ました。……もう、大丈夫ですよ」
かがみこみ、アルフェが優しく微笑みかける。リアナの瞳に、大粒の涙が盛り上がってきた。幼い少女は、顔をゆがめて泣き始める。
「怖い思いをしましたね。……もう大丈夫です。安心して下さい。他にも強いお兄さんが、一杯来てくれています。一緒にお家に帰りましょう?」
慈愛に満ちた声が、リアナの心に届く。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、リアナはうなずいた。
「――でもその前に、ちょっと待っていて下さいね」
そう言ってリアナの頭をそっとなでると、アルフェは立ち上がった。後ろを振り向いた彼女の瞳は、残酷なまでに冷たい。彼女はその目で、壁のそばにうずくまっている魔物を見つめた。
あれはまだ、死んではいない。
しばらくもぞもぞと動いていたが、ジャイアントビートルはあっけなく立ち上がってきた。先ほどのアルフェの渾身の蹴りを食らっても、特に損傷を受けた様子が無い。
この魔物は他のビートルと違い、頭に一本の巨大な角が生えている。角は先端で三股に枝分かれし、己の強さを誇示しているかのようだ。他の個体とは明らかに格が違う。
――この洞窟の群れの、主といったところでしょうか。
手でリアナに下がるように示しながら、アルフェは体内の魔力を整えた。
――全力で……、しかも不意を撃ったというのに、さして傷を負った様子も無い。……さあ、私で勝てる相手でしょうか。
一撃しただけだが、外皮の硬さと弾力も他のビートルとは段違いだった。それに加えて、あの角。アルフェの腕の、倍ほどの太さがある。あれで衝かれれば、きっと致命傷は免れない。
しかし、逃げることは出来ない。アルフェは努めて不安を表に出さないように、後ろで震えるリアナに向けて、花が咲いたような笑顔で言った。
「今からお姉ちゃんが、あの魔物を退治してあげます」
アルフェとジャイアントビートルが対峙する。魔物はアルフェからすると見上げるような体長だ。いったいどうやって攻めたものか。迷っていると、ビートルのほうから仕掛けてきた。
――速いっ!?
鈍重なはずの種族とは思えない速度で、ジャイアントビートルが接近する。相手は前方に角を衝き出して、アルフェを刺し貫く構えだ。
受け止めれば死ぬ。そう判断したアルフェはとっさに角を蹴り上げて、ビートルの突進の方向をそらした。鋼のグリーブが角に当たり、まるで金属をぶつけ合ったような音がした。
角はそのまま背後の岩壁に深く突き刺さる。空恐ろしい威力だ。
「リアナちゃん! 私から離れなさい! 早くッ!」
アルフェが大声で叱咤する。
いざとなれば、この子だけでも逃がさなければならない。そのために、出来る限りこの怪物の注意を引き、戦闘能力を削がなければ。
岩壁から角を引き抜き、ビートルがアルフェに向き直る。岩を貫いても、その黒光りする角には傷一つついていない。
「今度は、こっちの番です!」
意識的に大声を出して、アルフェは魔物の注意を己に向けようとした。
打撃が効かないのであればと、アルフェは貫き手を構える。懐に入り込み、魔力をまとわせた手刀を、ビートルの腹の節目に突き入れた。
――刺さるッ! けど浅いッ!
途中にいた雑魚たちとは違って、彼女の手は指の根元くらいまでしか刺さらなかった。虫がギィィという鳴き声を上げる。ダメージはあるようだが、痛みよりは怒りの方が勝っているようだ。
怒ったビートルは、二本の右脚でアルフェをなぎ払った。
「くっ!」
かわして再度、左手で手刀を繰り出す。右手はまだ、思う様に動かない。
だがアルフェの攻撃は、無慈悲に甲殻に阻まれる。ビートルは体を少し動かし、節の位置をずらしてきた。アルフェの意図を読んだかに見える動きだ。戦い方さえ、他の個体とは違う。
「ぐはッ!」
左右四本の前脚と、角による連続攻撃。いつまでもかわし切れるものではなかった。脚の一本が、アルフェの胸に命中する。
アルフェの身体が宙を飛ぶ。そのまま床を転がるが、わずかに溜まっていた水のおかげで、激突は避けられた。すぐに起き上がり、構えを立て直す。
――お師匠様。
荒い息を吐きながら、アルフェは思った。
――やっぱり防具は、必要でしたね。
もし皮の胸当てを着用していなかったら、今の攻撃は、そのまま致命傷になったかもしれない。戻ることができたら、コンラッドに自分が正しかったと言ってやろう。心の中で、アルフェは精一杯に強がっていた。
しかし――
――これは――、勝てない?
アルフェには、目の前の化け物を倒す方法が思い浮かばなかった。
◇
リアナの眼前で、今、信じられない光景が展開されている。
あの巨大な虫の化け物に見つかったあと、リアナはただひたすらに逃げてきた。
彼女はもう自分の命を諦めた――虫の餌になることを覚悟したつもりだったのに、いざそれが目の前に迫ると、やはりどうしても死にたくないという思いが溢れてきた。
彼女自身にも、信じられない速さで足が動いた。ひたすらに奥へ奥へと、リアナは走り続けた。しかし虫の魔物は、森のゴブリンの時のようにはリアナを見逃してくれなかった。
この大きな空洞に出た時、少女はもう逃げ切れないことを悟った。膝を折り、上を見上げる。そこに空はなく、ただ、洞窟の暗い天井が広がっていただけだ。
彼女が最期に心の中で呼んだのは、弟の名前。
――……リオン、……ごめんなさい。
しかしそこに、その人物が現れたのだ。
その女性はリアナを狙う恐ろしい魔物を吹き飛ばし、もう大丈夫だと言ってくれた。ボロボロの服に、傷ついた体。きっとここに来るまでに、何度も、何度も戦いを潜り抜けてきたのだろう。
魔物はその人よりも、はるかに大きく、力強い。だが、リアナの目の前で揺れる銀の髪は、美しい光の線を描いて、魔物の嵐のような攻撃をかわし続けている。
――負けないで……。負けないで!
今の彼女はただ、その人の勝利だけを一心に願っていた。
「――ぬぁあああ!」
アルフェは振り下ろされる腕を寸前でかいくぐりながら、魔物の懐に飛び込んだ。敵は素早い。関節を狙うことを諦め、腹部に繰り返し打撃を加える。しかしその分厚い甲殻を砕くことはできない。
「ちぃッ!」
むしろダメージはアルフェの拳に蓄積されている。ここに来る途中の戦闘で、彼女は魔力を使い過ぎた。硬体術が弱まっているのだ。
拳の痛みに構わず、アルフェは右脚でビートルの胸を蹴り上げた。わずかに魔物が後方によろめく。その隙を見て双掌打を腹に打ち込んだが、魔物に堪えた様子はない。苦しい表情を浮かべる彼女の頭に、魔物の腕が振り下ろされた。
「――がッ!」
光る水しぶきを上げながら、アルフェが弾き飛ばされる。二、三度転がって、彼女の身体はようやく止まった。
「――お、お姉ちゃん!」
リアナの叫びが空洞に響く。それに反応して、ビートルはもう一つの獲物の存在を思い出した。
「待てッ!!」
そんな大声を上げる力が、どこに残っているのか。アルフェは痛みに顔をゆがめながらもゆっくりと起き上がり、再びリアナと魔物の間に立ちふさがった。
べっと口から血を吐き出し、鼻血を手の甲でぬぐう。満身創痍だが、それでもその姿は、リアナが見とれるほど美しかった。
「相手を、間違えるなッ!」
再びアルフェが魔物に詰め寄る。リアナには目で追うのがやっとの速さだ。それでも確実に、彼女の動きは少しずつ鈍ってきている。諦めずに攻撃を繰り返すその姿が、とても痛々しい。
「――あっ!」
リアナの口から、またしても声が漏れる。
魔物の甲殻にわずかな、ほんのわずかなヒビが入った。アルフェの口の端に笑みが浮かぶ。彼女は決して諦めていない。リアナの心に、何か熱いものが広がっていく。
ガチガチと、ビートルが激しくあごを鳴らす。抵抗を続ける目の前の生物に苛立ったのか、魔物は再び彼女を弾き飛ばすと意外な行動に出た。
空を飛んだのだ。