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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第一章 第三節
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17.粘体

 発光する水の川が、アルフェが歩くすぐ傍を流れている。深さがどれくらいあるのかは分かりにくいが、相当な水量だ。淡い空色に光る水は、とても飲めそうには思えない。しかしそんな中にも、魚らしき生き物が泳いでいるのが見えた。

 この水のせいか、鍾乳洞の中はとてもじめじめとしている。いつの間にか濡れた服が体に張り付いて、動きづらい上に気持ちが悪い。

 アルフェが歩いている洞窟の床もわずかながら濡れていて、その上にうっすらとコケが生えている。つるりと滑らかな岩の質感と相まって、とても歩きづらかった。

 本当ならば、先ほど悲鳴が聞こえた方に向かって、今すぐにでも駆けて行きたい。だが、そうして転んで、まかり間違って川にでも落ちれば、二度と這い上がってこれないかもしれない。そう思うと、非常に焦れるが、慎重にならざるを得なかった。


 ――坂になってきた……。気を付けないと。


 脇を流れる川の勢いは、だんだんと強くなっていく。それもそのはず、洞窟の傾斜は、既にかなりきつくなっていた。奥に向かって下る坂のようになっている。壁に手を添えて歩かなければ、滑り落ちてしまいそうなほどだ。


 ――この道は間違いだったかも……。引き返すべきでしょうか。


 ますます急になる傾斜は、どこまで続いているか分からない。地面のコケにも足跡らしいものはなく、リアナがここを通った可能性は低そうだった。

 しかしここから、何か見えるものは無いか。

 目を凝らして奥を見ていたアルフェは、さすがに油断していたのだろう。


 ――ん?


 不意にざわざわという触感がして、彼女は壁に添えた自分の右手を見た。


「………………――ひっ!」


 数瞬の硬直の後、短い悲鳴が上がった。

 アルフェの手に、白っぽい多足の虫がわらわらと群がっている。さすがに彼女も年頃の乙女だ。反射的に身をそらした。


「――あっ」


 だからと言って、壁から手を離したのは失敗だった。彼女が思うより、その体は危ういバランスの上に支えられていたらしい。その瞬間にずるりと足を踏み外し、濡れた斜面を、アルフェの体が滑り始めた。


 ――しまった!


 何とか止めようとするが、一度勢いがついた滑走は止まらない。あっという間に速度を増して、アルフェは洞窟の奥に吸い込まれていった。


「――ぐぶっ!」


 空洞の上部から、光る水と共に吐き出された娘が、地面に叩きつけられる。かなりの高度から落ちたアルフェは、しばらく身をよじっていた。


 ――痛っっ……!


 体がきしむが、耐えられない苦痛ではない。四肢も動く。骨に深刻な損傷は無いようだ。

 咄嗟に受け身を取ることには成功した。だが、それを引いても致命的な高さだったはずなのに、彼女が五体満足で済んだのは奇跡的と言えた。


「――なっ」


 ――何っ!? これっ!


 その理由が今、彼女の全身にまとわりついている。アルフェを中心に辺り一面、どろどろした粘度の高い透明な液体が広がっていた。


「うえぇ……」


 さらにその周辺を見れば、その液体の正体が分かった。薄黄色がかった巨大な何かの卵のうが、この空洞の床や壁に、みっしりと産み付けられているのだ。

 アルフェが上から落ちてきた時、そのいくつかを踏み潰したらしい。それがクッションになったおかげで軽傷で済んだのは幸いだが、さすがにこれは、あまりにもな仕打ちであった。

 アルフェは腰を押さえながら、よろよろと立ち上がる。

 周囲にはそこかしこに、ふ化したばかりの幼虫がはい回っている。これは恐らく、ジャイアントビートルたちの幼虫なのだろう。生理的嫌悪感はどうしようもない。アルフェは胃の中の物を戻しそうになるのを、必死でこらえた。


 ――……そう言えば、森で同じようなものを食べさせられましたね……。


 その芋虫を見て、アルフェは突然あるものを連想した。これはまるで、城を追われた後、森でサバイバルをしていた時にクラウスに食べさせられた芋虫とそっくり――


「――うぐっ」


 およそ女性らしからぬ声を出して、アルフェは手で口を押さえた。そっくりなのではない。間違いなくこれはあの芋虫だ。


「――! ……!」


 しばし声にならない悲鳴を上げるアルフェだったが、冒険者稼業で鍛えられた彼女はたくましいもので、やがて目の前の光景にも慣れてきた。今更幼虫の百匹や二百匹、騒ぎ立てても仕方がない。今は幼い少女の命がかかっているのだ。


 それよりも、ここはいったい洞窟のどのあたりなのだろうか。彼女は完全に自分の位置を見失ってしまった。

 しかしここにビートルの卵があるということは、この空間は外部につながっているということだ。道を探して、何とか進むしかない。


 ――でも、その前に……。


 対処すべき魔物が、彼女の前に現れた。

 水の中から、巨大な青色の粘体が這い出てくる。


「スライム……!」


 そう、ヒュージスライムである。水の中に潜んで、獲物が通りかかるのを待っていたのだろうか。その大きさはアルフェの身体をすっぽりと覆えそうなくらいだ。不定形の透明の身体には、スライムの餌食になった生物の残骸らしきものが浮かんでいる。

 速度は遅い。走れば振り切れる。無視して逃げることも考えたが、スライムはちょうどアルフェの進路をふさいでいる。

 戦うしかない。真剣な表情になりアルフェが構える。構えた腕から、彼女にまとわりついた粘液がぼたぼたと落ちた。


 ――どう攻めるか。


 アルフェは最初の一手に迷った。見るからに打撃が通りにくそうな魔物である。


 ――でも、やってみなければ……!


 思うが早いか、アルフェはスライムに掌打を突き入れた。どぷんっと、粘度の高い泥に腕を突っ込んだような感触がした。次の瞬間、焼ける様な痛みがアルフェを襲う。


「きゃああっ!」


 反射的に手を引き後方へ跳び退る。スライムの身体に突き入れたアルフェの腕が、やけどをした様に赤くなっている。粘体に触れた肌がひりひりして、熱い。

 スライムは生息している地域によって様々な特性を持つが、彼女の目の前にいる個体はアシッドスライム《酸性の粘体》だ。強酸性の体は、飲み込んだ獲物を骨まで溶かす。この種のスライムは、時に大型の魔獣をもその体内に取り込み、捕食することがあるという。


 ――痛い……!


 アルフェが痛みで震える右腕を抱える。スライムに触れた服のすそは、ドロドロになって溶け落ちた。


 ぞぞぞっと全体を動かして、スライムが近寄ってくる。

 とても痛いが、このような敵に手間取っている時間は無い。少しずつ後退しながらも、アルフェは頭の中でスライムを倒す方法を考える。


 ――遠当てを使えば、触れずに倒せるでしょうか。でも、私の技にはお師匠様ほどの威力は無いし――。


 離れた場所から拳圧と魔力を飛ばして、攻撃できないことは無い。しかし、その技は武神流の中でも難度が高かった。鍛錬の足りないアルフェが使っても、このスライムを消し飛ばすだけの力は出せないだろう。

 そう、消し飛ばすほどの威力を与えなければならないのだ。多少切ったり穴を開けた程度では、特性上このモンスターは生命活動を止めない。火炎の魔術でも使えれば、スライムに致命傷を与えることが可能だろうが――。


 ――……リアナちゃんが。


 アルフェはしばし考えていたが、やがて心を決めたように、きっとスライムを見据えた。


 ――リアナちゃんが、きっと待っている。痛くても――、我慢しなさい!


「――つぁっ!」


 自らに言い聞かせながら、もう一度突きを繰り出す。アルフェの右腕は、先ほどと同じようにスライムに飲み込まれた。


「うああああぁぁあ!」


 しゅうしゅうと右腕が焼ける。背骨に電流が走ったような、大きな痛みが襲ってくる。だがアルフェは魔物から離れず、むしろ深く、スライムの中心部まで腕を突き入れた。


「ぐぅぅっ!」


 少女の肩に近いところまで、スライムは彼女の肉体を飲み込んだ。しかしアルフェは同時に、スライムの中に、流し込めるだけ己の魔力を流し込む。

 数秒の攻防の後、モンスターの全体が発光し始める。やがて魔力の奔流に耐え切れなくなったスライムは、最後にひと際大きく膨らみ、パンという軽い音を立てて破裂した。

 洞窟の壁や天井に、酸性の粘体の一部がかかり、白煙が上がる。


「――はあっ、はあっ……」


 洞窟内に、肉を焼いたような異臭が漂っている。


 ひどい痛みを感じる。右腕全体がさっきよりも赤くなり、引きつっている。何とか魔物は倒したが、大きな痛手を負ってしまった。

 しかし、ここで歩みを止めるわけには行かない。左手で、慣れない治癒術を施しながら、アルフェはさらに奥へと進んだ。

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