161.小都市コトブス
「はぁー……」
低い男の声が、湯煙の立ちこめる浴場内に反響する。
「いい湯だ……」
誰に聞かせるつもりもなく、フロイドはつぶやいた。それ程に気分が良い。冬に浸かる湯というものは、どうしてこうも心地の良いものなのだろう。
己の筋肉の一筋一筋にしみこむかのような、滑らかな湯だ。フロイドは湯で顔を洗うと、顔の前で右手を握ったり開いたりした。
幾度も豆を潰しながら剣を振り続けた手のひらは、ごつごつと節くれ立っている。鍛え抜いた男の肌は、まるでなめされた革のようだ。全身の傷痕は数えきれず、それでもその肉体には、長年かけて積み上げられた塔を見た時に感じられるような、ある種の美しさが備わっていた。
剣士のフロイドは今、雇い主であるアルフェの命令で、都市まで情報収集に降りてきていた。
このように温泉宿で湯に浸かるのは命令に含まれていないが、生来の温泉好きであるフロイドは、湯とみれば浸からずにいられない。彼の故郷も山がちで、温泉が多く湧く土地柄だった。この浴場の少し白く濁った湯は、故郷の透明な湯とは泉質が違うが、それもまたいい。
それに時間も良かった。今、この広々とした浴場にいるのは彼一人だ。この世の中に、これに勝る快楽があるだろうかと、目をつぶり、フロイドは湯を心から堪能している。
「まったく……、この程度の役得が無いとやってられん……」
そうしながら彼が思い浮かべたのは、やはり己の雇い主のことだ。
いつも突飛なことを思いつくあの娘は、今はノイマルク伯領の北にある山で、修行のための山ごもりをしている。
――少し山ごもりをします。
――ああ、了解。…………は?
山ごもりとは、今日びなかなか耳にしない単語だ。フロイドのような剣術狂いでもそうなのだから、若い娘が、まるで公園に散策に行こうとでもいう風に、軽い調子で口にする類いのものではなかったはずだ。
さすがのフロイドも、あの時は雇い主を二度見した。
聞いてみると、例のアルフェの“お師匠様”も、修業時代に山ごもりをしたことがあるそうなのだ。それで思いついたのだという。“お師匠様”の話題となるとやけに饒舌になるあの娘は、得意げな顔で理由を説明していた。
――お師匠様があれほどの力を身につけたのは、やはりそうした修行の積み重ねがあったからこそだと思うのです。普段は少し、ほんのちょっとだらしなく振る舞っていらっしゃいましたが……、あんなに強大な力を持ちながら微塵も驕る様子が無かったのは、やっぱりお師匠様が凄い人だからなのだと、私も最近分かってきました。それから――
お師匠様について、フロイドは聞いてもいないことを延々と聞かされた。
嘘か誠か、その男は大山脈まで行って、伝説の魔獣を倒して帰ってきた事もあるのだという。そんな事が人間に可能なはずが無い。フロイドがそう反論すると、なんとアルフェは鼻で笑った。お前のような小人に、私の偉大なお師匠様の凄さは理解できないか。まるでそう言いたげな小憎らしい表情をして。
小突いてやろうかとフロイドは思ったが、素手だと間違い無く自分が負けるので、やめておいた。
――だから、山ごもりをします。
師の真似をすれば間違い無く強くなれる。フロイドには、アルフェがどうしてそこまで信じ込めるのかは分からないが、ともかくそういうことになった。
そのやり取りがあったのはバルトムンクを発つ時で、それから既に二ヶ月が経過した。アルフェは今日も、元気に山で魔物をぶちのめしているだろう。
あの娘の強さへの執心は凄まじいものがある。下手をすればフロイドも、あっという間に置き去りにされかねない。役に立つと言って無理矢理雇われた手前、そんな情けない事態になるのだけは避けたかった。
今はちょっと休憩しているが、ここを上がったら、主に置いて行かれないよう、自分は自分なりに研鑽を続けなければならない。
「上がるか……」
立ち上がったフロイドは、首と肩を回して気合いを入れた。
裸の彼が浴場を出ようとする時、二人連れの老人とすれ違った。老人たちは浴場から出てきた筋骨隆々で古傷だらけの男を、目をむいて見送った。
「イコ、待たせたな」
フロイドが声をかけると、温泉宿の厩に繋がれている黒馬が、いなないて返事をした。ふんふんと鼻を鳴らして自分の匂いを嗅ごうとしているのは、もしやこいつも風呂に入りたかったからだろうかと、フロイドは少し片頬を緩めた。
「さっさと我らがお姫様のところに戻るぞ」
そう言うとフロイドは黒馬にまたがり、馬腹を蹴った。
並足で市門に向かうフロイドの目には、町の様子が映っている。
ここは、ノイマルク伯領の北部にあるコトブスという小都市で、結界の境目まではそれなりに距離がある。魔物の心配をしなくて良いはずのこの町の住民が、そこかしこの辻に立って、不安そうな顔で話し合っているのは、やはり最近のノイマルクとトリールの関係悪化が原因なのだろう。
二つの領邦の仲が悪いのは、帝国民にとって常識だが、これほど酷い状況になったのは近年では珍しいはずだ。
これまで散発していた領境での小競り合いに留まらず、もしかしたらどちらかの軍が相手側の領地に侵攻し、領民を巻き込んでの本格的な戦いが繰り広げられるかもしれない。そんな噂を、フロイドはこの町の冒険者組合でも、飯を食った食堂でも耳にした。
実際、領境に配置された砦には、かなりの兵が動員されている気配がある。トリール側に行ってみれば、そこもきっと似たような状況のはずだ。
山にいるアルフェはこの情勢に対して、どういう反応を示すだろうか。興味が無いと言うとは思うが、どちらかの軍に肩入れするとか、突然そういう事を言い出しても不思議のない娘だ。彼女の命を聞いて働く者として、心構えだけはしておくべきだと、フロイドは考えている。
また、アルフェが望まぬとも戦争に巻き込まれる事態もありうる。
先日は、フロイドの忠告を聞かずに、アルフェが魔獣に喧嘩を売ったせいで、両軍の部隊が戦闘している所に突っ込んでしまった。言わずもがなの事であるが、戦争と無関係を貫くつもりであれば、あれは不味かった。
アルフェくらいの実力者が手近にいると判明すれば、軍の方から誘いがかかってもおかしくないのだ。どうもアルフェは世慣れしているようで、その辺りの常識や自制心が欠落している気配がある。フロイドには気苦労が多かった。
小都市の市門を出たフロイドは馬を走らせ、今度は領境ぎりぎりの所にある農村までやって来た。この村からは、彼らが根城にしている小さな山の姿を見ることができる。
農家の一つに立ち寄ると、フロイドは幾らかの食料を買い込んだ。こうしないと、野営地での食事はアルフェが採ってきた訳の分からない食材が中心になる。それらは食える事は食えるのだが、時には地面から掘り出してきた虫のような、普通の若い娘なら悲鳴を上げそうな素材まで混じっていた。
「ありがとうね。お兄ちゃん、最近良く見るねぇ」
こんな田舎の村を複数回訪れる旅人など、相当珍しいに違いない。野菜を売ってくれた農家の老婆は、フロイドの顔を覚えていた。
「やっぱり、領主様の兵隊になりにきたのかい?」
フロイドの顔色をうかがう老婆もまた、都市でひそひそ話をしていた市民たちと同じような、不安げな表情をしている。
「まあ、そんな感じだな。兵士なら、いくらでも雇ってくれると聞いた」
とりあえず適当にそう答えておけば、物盗りかと疑われることは無いだろう。フロイドは野菜の対価を払いながら言った。
「やっぱりそうかい……。この間も、軍がここを通っていったよ」
「ほう」
ひょっとしたら、フロイドたちが先日出くわした部隊も、この村を通過したのかもしれない。
「それで? 何かあったか」
「いいや、何も無いよ。……あ、でもね、あたしは兵隊さんに、あの山に住む魔物の話をしたよ」
「……ほう」
「お兄ちゃんも気をつけなよ。あそこには、怖い魔物が出るんだ」
ここまで来ると、老婆の言いたい事が、大体フロイドには予想できていた。だから彼は、あの娘に自重しろと言ったのだ。
「……婆さんの言う魔物を、俺も見た事があるかもしれん」
冬の山ごもりに付き合わされているフロイドは、主に対する腹いせがてら、そう言った。
「銀色の見た目をした、怖い奴だろう」
「見たのかい……!」
「ああ、あれは凶暴で危険な魔物だ。別の所で、俺も危うく殺されそうになったことがある」
「おお、なんて恐ろしいんだい……!」
「そうだな……、なりはかなり小さいが、鋭い爪と牙が生えていて、それを使って他の魔物も簡単に引き裂くんだ。毒を吐いたりもする」
「神様……!」
「婆さん、夜はしっかり戸締まりしろ。村の奴らにもそう言っとけ」
目をつぶって一心不乱に祈りを唱える老婆を置いて、フロイドは農家を出た。
「ほらよ」
表で利口らしく待っていた黒馬に、フロイドは今しがた購入した赤い根菜を、一本放り投げてやる。馬は空中で上手にそれを咥えると、すぐにむしゃむしゃと平らげてしまった。
「イコ、今の話はお姫様には黙ってろよ」
フロイドが冗談めかしてそう言うと、馬はまるでもう一本寄越せとでも言うように、不満そうにいなないた。




