1.腹を空かせた少女
少女は、城の中からじっと外の風景を見ていた。
彼女の部屋の窓からは、裏庭にある訓練場が見える。
そこには限られた人間しかやって来ない。
ただそれを待ちながら、彼女の一日は暮れていく。
それが、彼女の生活の全てだった。あの日、あの時が来るまでは。
●
――お腹が、すいた。
大きな腹の虫が鳴り、机でうつむいていた銀髪の少女が、驚いて顔を上げた。
まるで、その音が自分の体から発せられたとは信じられないような表情で、彼女は辺りを見回した。だが、机と椅子しか家具の置かれていない貧相な室内には、彼女しかいない。
「……はぁ」
ため息をつくのは何度目だろう。
彼女は由緒正しい貴族家の令嬢だ。いや、だったと言うべきか。名前をアルフェという。家名はもう名乗っても仕方あるまい。彼女の家も財産も何もかも、数か月前に全てはぎとられてしまったのだから。
――本当に、お腹が、すきました。
再びうつむいて、彼女は同じ思いを繰り返す。これが空腹という感覚。生れてから今まで、味わったことも想像したこともなかった感覚に、アルフェは全身を支配されていた。
故郷の城で不足なく暮らしていたはずの彼女が、どうしてこうなったのか。
今を去ること数か月前、隣国の王が突如として彼女の住む大公領に侵攻した。侵攻にはそれなりの予兆というものがあったらしいが、城の中で籠の鳥として育てられていた彼女には、そんなことは知る由もなかった。
ともあれ、アルフェにとって没落の時は突然に訪れた。近年、領土拡大政策を続けている隣国の精兵による奇襲を受け、大公家の軍は一日でほぼ壊滅し、彼女は一家離散の憂き目に会った。
幸いにしてというべきか、不幸にしてというべきか、アルフェは近衛の従士の手によって燃え盛る城から救い出され、この町まで落ち延びた。しかし母と姉、彼女の家族の消息は今もって不明のままだ。
――クラウスは、どこへ行ったのでしょう。
彼について、アルフェは余りよく知らなかったが、彼女を助けた近衛のクラウスという男はなかなか優秀だったらしい。彼は隠し通路を使って城を抜け出した後、追っ手の目をかいくぐり、ひとまずは隣国の影響力の及んでいないこの町まで彼女を連れてきたのだ。
どうやってかは知らないが、クラウスは隠れ家として、このみすぼらしい一軒家を手に入れてきた。だがしかし、そこで彼の資金は尽きたようだ。
資金調達のため、また、消息不明の母や姉の情報を得てお家再興の足がかりとするため、彼はこの家に世間知らずのお嬢様を一人残し情報収集に旅立っていった。
――……もしかしたら、もう戻ってこないつもりかもしれない。
彼女にとって恐ろしい想像が頭をよぎり、それを打ち消そうと頭を振る。
「必ず戻ってくる」と、従士は言ったのだ。その言葉を信じていなくては、きっと自分の心は折れてしまう。
だが、たとえ戻ってくるとしても、あの旅支度はとても一泊二泊程度には見えなかった。その間、彼は自分にどうやって生活していけというのか。
ここに逃げ延びてくるまで、野宿なども一通り経験してきたアルフェだ。城での生活ほど、市井での生活が簡単ではないのは理解している――つもりだ。だからこそ、生活の全てを侍女や従者に任せていた自分が、たとえ一週間でも一人で生きていけるかと考えると、暗澹とした気分に襲われるのだ。
「…………まずは、朝食を用意しないと」
アルフェはつぶやいて立ち上がる。
昨日の昼食はクラウスが用意してくれたものを食べたが、それから何も口にしていない。日が昇ってからだいぶ経っている。もう朝食というよりは、午餐といったほうがいい時間だ。
キッチンには残り物の硬いパンがある。が、これだけではどうしようもない。野菜がほしいし、肉がほしい。
城を出た彼女が一番最初に痛感したのは、食事の重要さだ。逃亡中、クラウスは人目を避けるためにできるだけ街道ではない森や荒野の中を通った。そのため彼と一緒にいた数ヶ月は、まともな食事にはほとんどありつけなかった。
クラウスが所持していた味も素っ気もない携帯食を食べ尽くすと、その後は彼が捕らえた獣の肉を食べた。獣だけではない。時には魔物や虫ですら口にしたのだ。
それでも食べるものがあるということは、それだけで素晴らしい。現在の彼女は、それを痛感していた。キッチンに立ったアルフェの手元にあるのは、昨日の残り物のパン。その他に食材になりそうなものは、ひとかけらもない。であれば、外に出て買ってくるしかないのだろうか。
そう思って彼女は、はたと気づく。
「お金……」
金が無い。いや、無いわけではない。クラウスは当面の生活費を残していった。しかし小さな革袋に入っているあの金は、一体どの程度の金額なのだろうか。
アルフェが城を出て二番目に知ったのは、金の大切さだった。
着の身着のままで城を斬り抜けてきた自分たちには、先立つものがほとんど無かった。しかし、町では何をするにしてもお金を要求される。そしてクラウスが城から持ち出した僅かな金は、逃亡生活の中でどんどん目減りしていった。
自慢ではないが、アルフェは買い物をしたことが無かった。その必要など無かったし、もし買い物をしたいと彼女がのたまっても、おそらくは周りの者に止められただろう。
欲しい物は欲しいと思う前に、彼女の周囲に用意されていた。自分の身に着けているドレスに宝石、部屋の中の調度品がどれくらいの値段かなど、アルフェは考えたことすら無かった。それどころか彼女は、貨幣というものを、城を出てから初めて目にしたくらいだったのだ。
アルフェには、臣下が手元に残してくれた資金がどの程度の価値を持つのか分からない。それだけに不安だった。
この家にあるのは、金貨と銀貨が合わせて何十枚か。
――実のところそれは、庶民が上手くやりくりすれば、優に二年は暮らせる金額であった。だが、家計と常識というものがわからない彼女は、思いもかけない行動を選択した。
――私も、お金を稼がないと……。
黙って家で待っていれば、クラウスが稼いで来てくれるかもしれない。
だがもし、彼が帰ってこなかったら?
それに、いつまでも他人に頼りきりでは情けない。我が家はもう没落し、自分はもう貴族令嬢でも何でもないのだ。いつまでも、お姫様気分ではいけないのではないだろうか。
「私だって……、やればできるんですから!」
あるいは、経験したことのなかった空腹が、精神を混乱させているのか。妙なやる気を見せた世間知らずの令嬢は、腹ごしらえを兼ねて、生活の道を探しに町へと繰り出すのだった。
◇
――すごい数の人……。
昼までにはまだ時間があったが、それでも市場には人があふれ、食べ物を売る屋台などもたくさん出ていた。とりあえず昆虫や魔獣が材料でなければ何でもいい。アルフェは近くの屋台の前に立ち、様子をうかがった。
どうやらパンに何かの肉を挟んだ料理らしい。少なくとも魔獣の肉ではなさそうだ。店番をしている少年に尋ねる。
「このお料理はおいくらですか?」
「え……あ! 銅貨六枚です!」
アルフェの問いかけに振り向いた少年は、数瞬固まったあと、やけに大声で答える。
「そうですか。では、おひとついただけますか?」
「あ、はい! 少々お待ちを!」
そう言いつつ少年は器用に料理を作っていく。肉以外にも何かの葉野菜がそえられている。かかっている濃いソースがおいしそうだ。
「お待たせしました!」
「ありがとうございます。いただきます」
少女が皮袋から代金を取り出していると、少年から声がかかった。
「あの、お嬢さん、この辺じゃ見ない人だね。この町の子?」
「…………いえ、最近兄と移ってきたのです」
誰かに素性を聞かれたら、とりあえずそう口にするようにと、彼女はクラウスに言い含められている。
「へぇ~、そうなんだ。良かったら案内しようか? この町じゃ結構顔が広いんだ、俺」
「……? いえ、結構です。あなたもお店の番をしなければならないのでしょう?」
やけに親切な少年だ。しかし彼にも仕事があるだろうと思ったアルフェは、丁寧に彼の提案を断った。
「いや、でもほら、何ならどこかでお茶だけでも……。あ、そうだ! 名前! 君の名前教えてくれない? 俺、ラウルって言うんだ。君は?」
だが、少年はなおも食い下がって尋ねてくる。
「……? アルフェです」
「アルフェさん! いい名前だね。俺はたいていココで屋台開いてるからさ、何かあったら声かけてよ!」
「ご親切に有難うございます」
そのように礼を言って、屋台を離れようとしたアルフェだったが、一つ知りたい事があったのを思い出した。
「……そういえば、私はお仕事を探しているのですが、ラウルさんには何か心当たりはありませんか?」
「え、仕事? 君が?」
「はい、そうです。……えと、少しでも兄の助けになれればと」
「う~ん。俺の屋台で雇ってあげられたらいいんだけど、そんな余裕無いしなぁ。この町で何か仕事を探すなら、冒険者組合か商会所だけど……、まさかアルフェさんが冒険者になるわけないし……。やっぱり、商会所に行ってみるといいと思うよ」
「商会所?」
初めて聞く言葉だ。
「うん、商会所。この町で商売するなら必ず登録するところで、町内の求人も取りまとめてたんじゃないかな。行ってみれば何か出てるかもしれない」
なるほど、街には便利なところがあるものだ。このまま自分で考えても何も思い浮かばないだろうし、とりあえずはそこに行ってみようか。そう結論した彼女は、商会所までの道のりを彼に聞いた。
「商会所は大通りをこのまま北に行けばあるから。大きな建物だよ。すぐにわかると思う」
「重ね重ね有難うございます。では、そちらを訪ねてみることにします」
そうしてラウルに丁寧に別れを告げて、アルフェは歩き出した。
「お前にしちゃあ露骨だったな。あんな誘いじゃあ、若い娘は釣れねぇな」
アルフェが去った後、彼らのやり取りを見ていた隣の屋台の男が、ラウルに話しかけてきた。
「いや、俺はそんなつもりじゃ……」
怫然とした表情でラウルは答えるが、隣の男は取り合わずに言った。
「えらい別嬪だったな。――まあ、ちょっと若すぎるが。あんなかわいい娘はそういねぇ。帝都あたりの都会から来たと見たね。何だか垢抜けてたよ」
「だから俺はそんなんじゃ――」
男のからかいを否定しながら、ラウルは思った。
確かにあの娘は美しかった。そうはいないと男は言ったが、それどころではない。あんなかわいい娘は初めて見た。柔らかな色の銀髪に、零れ落ちそうな碧玉の瞳。整った顔立ちに、歩く姿すら美しかったように思う。
服装は平民のものだったが、立ち居振る舞いはとてもそうは思えない。できることならもう一度会いたい。あわよくばお近づきになりたいななどと思いつつ、少年は次の客の応対を始めた。