老人、赤子を抱く
その日、老人が目を覚ますと、彼の家はやけに騒がしかった。床は足の踏み場もないほど散らかっていた。それらは他の誰でもない、この不思議な生き物たちのせいである。
鉢植えの植物たちは、葉をせわしなくばたばたと動かし、窓に向かって自らの種子を投げつけている。白銀の体毛を持ったイタチのような小動物は、「キィキィ」と鳴きながら部屋中を走り回っていた。
体長一メートルほどもある大きな一羽の鳥だけが、止まり木で大人しくしていた。その鳥はいつものように、五色に輝く美しい翼を毛づくろいしている。
「やかましい!」
老人の怒号に、不思議な生き物たちは急に静まり返った。しかし一匹の昆虫のような小さな生き物だけは、主人の怒りを無視して部屋中の物にぶつかりながらあちこち飛び回っていた。頭の上に六枚ついているトンボのような羽が、大きな羽音を立てる。
「静かにせんか!」
目の前を通り過ぎる一瞬の隙を突き、昆虫型の生き物を捕えた。老人のその素早い動きは衰えを知らない。
彼は摘まみ上げたそれに片方の手をかざすと、一つ、イメージを頭の中で描く。すると、昆虫型の生き物は青白い光に包まれた。と思う間もなく、体を小さな泡にすっぽりと覆われてしまった。
「次騒ぐようなことがあれば、今度はお前そのものを泡に変えてしまうからな」
昆虫型の生き物は、フワフワと浮かぶ自分の体に驚き、大きな複眼をぱちくりさせた。
老人はこほんと一つ咳をして、辺りを見渡した。部屋の酷い散らかりように、呆れ気味にため息をついてから今度は部屋に向かって再び手をかざす。すると、倒れていた植木鉢も床に散乱している種子も、散らかっていたものはあるべき場所へ戻っていった。
他の生き物たちはと言えば、静かにはなったものの相変わらず落ち着かない様子で窓から外を見ている。
「一体何の騒ぎじゃ」
老人が窓に近寄ると、生き物たちは譲るように窓から離れた。
外は木々大きく揺らすほどの風邪が吹き荒れ、地面を抉るように激しく雨が降り続いている。この天候は特に物珍しいことではない、と他に目を向けると、この家に近づく三人分の人影が見えてきた。
ここは舗装された道もない森の奥である。人間が訪ねて来ることはほぼないに等しい。
敵の襲撃か、あるいは国に連れ戻しに来たか。しかしいくらこんな老いぼれとは言え、三人で来るとはずいぶんとなめられたものだ、と老人は自ら迎え撃つことにした。
様々な最悪の状況を想定しながら玄関の扉を開ける老人を待っていたのは、大事そうに赤子を抱えた男と二人の付き人だった。三人は外套のフードを目深にかぶっており、顔は見えない。
「貴方に大切な我が子を預かっていただきたい」
男はそう言うと、赤子を抱えたまま片膝をついた。後ろにいた付き人二人は、少しうろたえるような仕草を見せたが決して口は挟まなかった。
「こんな見ず知らずの老いぼれに。大切な我が子こそ自ら育てるべきではないのかね」
「否めません。しかし、この森の深部には、昔、民に“賢者”と敬い慕われた人物がいるとお聞きしました。貴方のことと存じます」
「ワシはお前のことなど知らん」
男は赤子を付き人へ手渡すと、目深にかぶっていたフードを注意深く外した。若干白髪交じりではあるが、今日では珍しくなってしまった漆のように黒い髪、落ち着きのある深いマリンブルーの瞳が現れた。
老人はその顔に見覚えがあるような気がしたが、敢えて口にはしない。
「失礼ながら今は名乗ることはできません。しかし、この子は強くあらねばならない。どうしても私たちの運命に巻き込みたくはないのです」
「……赤子の顔をよく見せてみよ」
老人は赤子が苦手だった。いくら赤子は泣くことが当然のこととは言えどもその泣き声は耳に障り頭に響く。そして老人の家にいる不思議な生き物たちとは違い、あやし方も知らない。もし泣かれてしまったらこの赤子共々三人を帰してしまおう。そのつもりだった。
慎重に付き人から赤子を受け取る。今まで大人しく寝ていた赤子だったが、老人の手に渡った瞬間、その大きな目が開く。男と同じ、深いマリンブルーの瞳と目が合った。しばし、時が止まったかのような静寂が流れる。赤子は泣くこともなく、老人をじっと見つめていた。
そして、老人は覚悟した。
「十五の誕生日、それまでじゃ。陽が沈むまでに必ず迎えに来なさい」
「……この御恩、決して忘れません」
十五歳はある国では人間にとって、人生の大きな分岐点である。その年齢まで世話をする、ということはつまり、それほどまでに老人は赤子に魅入られてしまったということでもあった。
男は片膝をついたまま、頭を垂れた。ゆっくりとした動作で立ち上がると最後に、赤子の額に口づけし小さく別れの言葉を告げた。
「そろそろお時間です」
「……そうだな」
男は再びフードを深くかぶり、付き人に支えられながら老人の家を後にした。あっさりとした別れに見えたが、その後ろ姿は少し寂しげだった。
「ほう、これは……」
ふと老人が赤子に目をやると、赤子の小さな手がきらきらと輝いていた。まだ生まれたばかりだというのに、赤子はその手に魔力を集めているのだ。未だかつて、生まれたばかりの体で魔法を使った人間なんて見たことも聞いたこともない。その事実は、彼を心底驚かせた。
「お前さんは、この世をかき乱す大変な悪戯者に成り得るやもしれんな」
手のひらに集められた魔力は徐々に形を成していき、やがて小さなベッドメリーになった。まだ魔法は未熟で実体こそないものの、ベッドメリーは淡い光を放ちながらくるくると回り続けている。
未来の偉大なる魔法使いを腕に抱き、老人は不思議な生き物たちの待つ家の中へと戻って行った。
赤子への期待と喜びに頬を緩ませながら――。