冷たいあの子と充実感
滝沢とのデートの次の日のことでてある。その日も、僕はいつものように学校に行った。桜はすっかり散りきって、外の世界は早くも夏のような様相を映し出していた。この頃はすっかり暖かくなった。僕は、冬場の時のように布団から出られなくなることがめっきりなくなった。
快晴の天気には、人の気持ちも晴れやかになる。高校二年にもなった僕には、とっくに目新しいことなんてなくなっているはずだ。それでも僕は、なんとなく明るい気分になった。
実際、僕の気持ちは明るくなっていた。充足感に満たされているような気がした。
滝沢との関わりは、初めの頃は火薬庫のように危険なものだと思っていたが、今は、僕の灰色に彩りを与えてくれているものに違いないと思えるようになった。
爽やかな空気を吸い込んで、僕は学校に向かう。昇降口にいたクラスメイトの女子に挨拶をすると、その人は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに明るく挨拶を返してくれた。
この上なく気分が明るい、そんな日だった。
僕がいつものように早めに学校に着くと、窓側の方に滝沢の姿を見かけた。どうやら彼女は本を読んでいるようだ。僕からすれば、いつもの何倍も話しかけやすい雰囲気だった。女子がたかっている席に割り込むほど難儀なことはなかなかない。
自分の席に荷物を置いた僕は、左斜め前にいる滝沢に向って、
「おはよう、滝沢。」
と声をかけた。
すると、滝沢は僕の方を一瞥した。そして、
「ああ。」
と言ってまた本を読みだした。
滝沢が「楽しかったよ。」と言ってくれたのはつい昨日の話だったのに。
滝沢は、「どうして私に話しかけるの。」というような声を、僕に放った。
僕は、そのときどうすれば良いのか分からなかった。もしこれが「女心」というものなのだとしたら、僕は一生理解できないだろう。
そうやって始まったいつもの日常は、僕にとっては大事なものが欠けたような日だった。
僕は、なんだかやりきれない気分になって、窓の外を眺めた。しかし、外の景色を捉える僕の視界には、どうしても滝沢が紛れ込んでしまった。そして僕は目を逸らした。
いよいよどうしたら良いのか分からなくなって、僕は自分の机に顔を突っ伏した。
僕の心には悲しみも苦しみも、寂しさもドキドキも、何一つないのに。一体何なのだろう。この心にすっぽりと穴が開いた気持ちは。
そうして僕は昨日のデートを思い出した。そして僕はこう思った。
「『リア充』とやらになれた気がしたのになぁ。」
僕が初めてリア充という単語を聞いたのは、いつのことだったか覚えていない。僕はその言葉が、「リアルが充実している人」の略だと聞いたときは、とても不思議に思った。それならどうして、世の人間達はこれを「カップル」という意味で使っているのだろう。と。
そういえば中学三年の時に、こんな作文を書いた覚えがある。国語の時間に書いたのか宿題で出されたものだったかは忘れたが、確か「若者言葉の功罪」というタイトルだった。
僕は中学校では成績優秀で、年齢の割には大人びていた方だったので、こんな文章を書いたのだと思う。少年の考えることなど変わりやすいものなので、今となってはこの文章の内容すらほとんど覚えていないのだが。
でも一つだけ覚えている。この文章の中に書いた一節である。
「『リア充』という若者言葉は、元はインターネット用語である。これは『リアルが充実している人』を指し、元々は友達が一人でもいれば『リア充』と呼ばれていたが、やがて『恋人がいる人』の意味で用いられるようになった。これは不思議なことである。……」
このことから何を導きだそうかは忘れたが、この文章の内容は、今でも感じていることである。どうして恋人がいなければリアルが充実していないことになるのか。という疑問である。
そんな風に思っていたので、僕は「充実している状態」とは何なのか、ずっと疑問に思っていた。
滝沢と一緒にデートした時の僕は、確かに充実しているように感じた。しかし、その滝沢は今この態度である。
僕は滝沢と恋人になりたいと、明確に思っているわけではない。ただ、なんとなく、この人と過ごしてみよう。というようなスタンスである。
でも、実際に滝沢と過ごした時はまさに充実そのものだった。
僕は目を閉じた。僕は静斗に話しかけられるまで、目を覚まさなかった。
「おい、エイ、寝てるのか?」
「ん、静斗、もうホームルームの時間か。」
「寝不足なのか?お前にしては珍しい。」
そう言えば、昨夜の僕は頭が妙に冴えて、眠れなかった。正直なところ僕には、昨日のデートは少し刺激的すぎた。
「どうした?徹夜でギャルゲでもやってたのか?」
「やってないしそもそもやったことがない、何度言ったら分かるんだ。」
……どうやら静斗は、スポーツをやらない人間は何かしらオタク趣味を持っていると思っているらしい。全く失礼な偏見だ。それで、僕の場合はギャルゲだと。そんなもの人生で一度も触れたことがないのだが、静斗はいつしか僕のことをギャルゲマスター呼ばわりし出すようになった。
まあギャルゲマスター呼ばわりされる根拠は、実は全くないわけではない。中学生の頃僕は静斗にたびたび
「恋愛ってなんだろう。」
とか聞いたりしていた。もちろん根っから「優しいバカ」の静斗はろくな答えをよこさなかった。
高校生になった今では、静斗にそんなことを言ってみたりすることはなくなった。
なぜ聞かなくなったかというと、彼がモテる男に変貌してしまったからだ。僕が中学校の頃欲していた答えは、「俺も分からない。」という共感でしかなかった。僕の問いかけは、ただ人の共感を集めるためだけの言動でしかなかったのだ。
今の彼はとてもモテる。中学までは、スポーツはできてもアホらしいことばかりしているキャラで通っていたが、高校になるとそんなイメージも消え、中学の間に身長は急激に伸びていて、男らしさを増した彼は突如モテ始めるようになったのである。
だから、彼はもう、その答えを知っているのかもしれない。そういう恐怖があって、僕は高校に入ってからは彼にこの問いかけをすることはなかったのだ。静斗の恋愛事情も、僕はあえて聞かないようにしていた。
まあとにかく、ギャルゲマスターにはこんな背景があったのだ。静斗の、恋愛からギャルゲに跳ぶ思考も中々だとは思うが。
「まあ寝不足なのは事実……かもしれない。」
朝起きた時にはそんな自覚はなかったのだが、一度目を閉じると死んだように僕は眠りに入ってしまったのだ。
そうして僕の、いつもの地味な日常は始まった。退屈な授業をうけ、休み時間には周りの喧騒を横目に暇を持て余し、いつものようにチェスサークルで部員の指導をして、一人帰った。
やはり僕の心には、何かが欠けていた。滝沢が僕を呼び止めることは、今日一度もなかった。