1.d3 …デレ
そのまま昼休みも何事もなく終わった。午後の授業も、何のことはない、いつもの平和な日常だった。
ひょっとしたら滝沢は、僕の返事を律儀に待ち続けているのかもしれない。僕があの時、「考えておくよ。」なんて言ったから、答えが出るまで僕に干渉しないようにしようと配慮してくれているのかもしれない。
などと授業が終わった後、一人勝手に感傷に浸っていたわけだが、彼女は僕に猶予を与えてはくれなかった。それはいつもより一時間早い帰りのホームルームが終わった後の出来事だった。
教室の掃除が始まって、机がすべて前の方へ運びこまれると、僕は声をかけられた。
「エイくん。」
……今回は恐ろしいほど明るい声で、滝沢が背後から僕を呼び掛けてきた。
教室にいた全員が僕の方にふり返る。クラスメイトからすれば、クラス一の美少女が僕を呼びつけるなど、考えられない大事件なわけだ。
そして僕の反応を待つ前に、彼女は僕に耳打ちをした。
「あなたの部活、見学させてよ。」
一瞬意味を理解しかねた。わざわざ僕の耳元に顔を近づけてくるものだから、どこかに呼び出されたりするのかなと思っていたからだ。
そしてこの意味深長で意味のない行為に、教室内はざわついた。ひそひそ声の中身をいちいち聞き探るつもりはないが、だいだい「なんであいつが……」とかそういうたぐいの話だろう。
僕は「分かった。」とだけ言った。しかしそれだけでは言葉が足りないことに気付いた。そもそも彼女は僕の部活を知っているのか?部活をやっている場所とか時間帯は?という疑問が湧いたわけだが、いちいち説明するのも確認をとるのも面倒である。僕はただ一言
「ついてこい。」
とだけ言った。
そうして僕が滝沢を連れて向かったのは理化棟のとある部屋だった。
道中滝沢が「もの分かりが良い男、加点対象ね。」なんて戯言を口にしていたが、気にしないことにした。
そして部屋の扉が開く。するとこんな挨拶が飛んでくる。
「おはようございます!英雄先生!」
そう、ここは県内でも有数のレア部活、「桜坂東高校チェスサークル」である。
二、三年合わせて十人程度の小さなサークルだが、これでも県内最大規模である。一応学校内では部活として認知されているが、「語感が良いから」という理由で正式名称は「サークル」となっている。そして僕はこの部活で最も強い部員である。ついでに僕はこの部活の最高権力者である。
別にこの部活に道場破りをかけたつもりはなかったのだが、気がつけば三年までもが僕を「先生」と慕うようになった。実力主義の典型例である。
そしてこの部員たちは僕の連れの美少女に一切触れなかった。触れてはいけないと分かっているのだろう。僕としても非常に助かる限りだ。
理化棟の空き教室であるこの部室は、十人が使うにはもったいない広さである。その一角にチェスボードを出して、彼女を座らせた。
そして僕は滝沢がチェスのルールを知っているのかどうか確認しないまま、席につかせてしまったことに気づくが、彼女はどうやらノリノリで駒を並べているようだから気にしない。
冷静に考えれば、自分は突拍子もないことをしているわけだが、この場にいる僕はもはや誰にも止められない。僕はチェスのことになると少々人が変わるのだ。
滝沢が駒を並べ置いたのを確認して、僕はいつものように対局相手に手を差し出した。チェスのお決まりの挨拶である。
すると、彼女は僕から目を逸らして頬を赤らめた。そこで僕は正気に戻った。
そういえば目の前のこの女の子は僕のことが好きだと言っていた。
そして彼女が躊躇しながら差し出してきた手を、僕は強めに握り返してやった。すると彼女はまた照れていた。滝沢のデレるタイミングはいまいち分からない。
チェスの盤面の方は、白番の滝沢が1.d3とマイナーな手を指してきたので、おそらく初心者なのだろうと思い、気を緩めた。そこで僕はいくつか質問をぶつけた。
「どうして部活なんて見たいと思ったの?」
「なんとなく」
「僕の部活は知ってたの?そもそも帰宅部だったらどうするつもりだったのさ。」
「知ってた。あなたのことはリサーチ済みだから。」
さらっとストーカーじみた発言をしてきた。
「それじゃあ、最初からチェスサークルに来るつもりだったんだ。」
「そういうこと。」
この僕が女子相手に会話の主導権を握っている。やはりチェスは偉大だ。
といった具合に二人の世界に入っていたわけだが、気づくと部員は誰もいなくなっていた。
……余計な気を遣われてしまったようだ。しかしこんなことで動揺していては彼女にペースを握られてしまう。――と思っていた矢先、
「私と二人きりのシチュエーションを作ってくれるなんて、結構積極的なのね、エイくん。」
……さっきまで意外ど物静かでかわいいなとか思っていた自分が恥ずかしくてたまらない。分かった。こいつの正体は悪魔だ。きっとそうに違いない。
「そ、そういうつもりじゃなかったんだが……」
「パッとしない人の考えるデートは退屈だと思ってたけど、なかなかおしゃれなことをするのね。しかも二人っきりで。」
よく分かった。滝沢は人目がなくなると本性を現すタイプの人間だ。間違いない。あとどうやら僕は、僕のことを好いてくれる人にもパッとしないと思われているらしい。ちょっと気に食わないのでチェスの方では打ち負かしておこう。
「ふふっ、これは結構ポイント高いかな~名前の割にパッとしないエイくん。」
さらっと人が気にしているところを突いてくるあたり、悪魔の素質ありといったところだろう。
でも一つ分からないことがある。
彼女……いや滝沢は、本当に僕のことが好きなのか。今の言葉を聞いてる限り、本当は僕の心を弄んでいるだけにも思える。
ふとそう思った僕は、彼女に真相を聞いてみたいという好奇心に駆られた。
胸が高鳴る。心臓の鼓動の目の前の相手にも聞かれてしまいそうだ。口にするのは簡単なようで、実際に尋ねようとすると、なんだか僕の運命を決める告知を待っているかのようなドキドキ感があった。
「それじゃ、滝沢はさ。」
駒を持とうとしていた滝沢の手が止まった。
僕は一度深い瞬きを間に挟んでから、言葉を発した。
「僕のことが、好きなのか?」
滝沢は一瞬僕に目を合わせてから、俯いた。一瞬だけ僕の視界の真正面にのぞいた顔は、驚いているようにも見えた。
すると彼女は、駒を動かしてこう囁いた。
「大好きよ。」
甘みがかったその声が、真実を語っているかどうか、僕は聞き分けることができなかった。
盤面はだいぶ進んで、僕の必勝形になった。それであっさりゲームは終わるかと思えば、滝沢の手は意外に粘り強かった。「センスあるなぁ」と思ったが、僕はその言葉を口にすることはなかった。
黙っていてもいいのだから、チェスは気楽だ。
「これは、チェックメイト……かな。」
「うん」
滝沢はまだ人目があったときのように、物静かな美少女に戻っているようだった。こういう終局のときは滝沢が僕に手を差し出すものだが、僕は今のかわいらしい滝沢にいじわるをしてやろうと、あえて何も言わずにいた。
すると彼女は真っ赤になった顔で僕を見ながら、手を差し出してきた。このときばかりは素直にかわいいなと、僕は思った。
改めて思う。この人のデレるタイミングは良く分からない。
対局が終わってまた無口になった滝沢に、僕は対局中に思ったことを話した。
「滝沢って、意外とチェスのセンスあるんだな。感心したわ。」
すると彼女もまた調子を取り戻したのか、
「初心者を負かすのは減点対象なんだからね!」
と言ってきた。
「はいはい、以後気をつけますよ。」
……滝沢って案外チョロいのかもしれない。
――滝沢がはじめ僕に言った言葉。
「私は、あなたのことが好きなの。もちろん恋愛的な意味で。」
――僕がいままで疑ってきた言葉。
でも、もし滝沢が僕のことを好きではないのなら、恋愛経験豊富な彼女があんなことで照れたりするのだろうか。ひょっしたら、あんな風に照れていると見せかける動作まで彼女の計算の内なのだろうか。
でも僕は、そうであってはほしくないと思った。滝沢が自分の感情に素直になれない、不器用な女の子であってほしいと思った。
僕は滝沢結衣の気持ちを理解することができるだろうか。もし彼女の気持ちが僕への好意だったとして、僕は一体どうすればいいのか。
なにもかもが分からない。僕の知る限りでは、どんな小説にもその答えは載っていない。
そして僕が彼女を理解してあげられる、「ふさわしい人間」であったら、と、そんなことを考えた。