期待
田園を背景に、穏やかな時間が流れた。ガタンゴトンと揺れる電車の振動が、体に馴染んで次第に心地よく感じる。
僕は、妙な緊張感と、不思議な安心感に包まれていた。緊張の方は、もちろん意識している異性と相対するドキドキ感から訪れて、安心の方は、不思議とコミュニケーションを通じて、距離感が縮まったように感じたことで現れた。「結衣」という呼び名が、呼ぶのは気恥ずかしくも愛らしい名前だと、しみじみと感じてきたからだ。
次第に見慣れた風景が近づいてくる。やがて電車はゆっくりとした動きになり、目的の駅に止まった。
僕は結衣を引っ張るかのような感覚で電車を降りた。僕の右手は、背後にいる結衣の方へ気持ち寄せられていた。
野ざらしの駅のホームに立つと、燦々と照る日差しが目元にまで差してきた。もうこんな季節なのだなとしみじみ感じつつ、僕は人気のない無人の改札を通った。
駅舎はこじんまりとしているが、洋風で目を引く建物だ。そしてこの近代的な建築と背後に広がる森林がミスマッチなようで趣深い。
「やっと着いたね」
結衣がようやく口を開いた。
見慣れた故郷の風景を言葉で表すのは、かえって難しいことだ。駅舎から数歩出て建物を眺めている彼女に、何か気の利いた言葉をかけてあげたいとも思ったが、僕はうまい言葉を紡ぐことができなかった。
駅から離れて数分歩いていると、ふと僕が結衣に行き先を一切告げていないことに気付いた。一方彼女の方はというと、目を輝かせてわくわくとした素振りで半歩下がって僕についてきているのであった。
そうやって「お楽しみ」を固持している彼女の姿を、もう少し見たいような気もしたが、さすがにそろそろ頃合いかと思って、僕は伝えることにした。
「ところで、今日行く場所なんだけど」
「待ってました!!」
電車を降りてからやけに静かだった結衣が食いついてきた。
「や、やけに上機嫌みたいだけど……」
「だって、こんなとこまで来るのって普通じゃないと思うな」
「何か特別なことがあると考えるのが自然じゃない?」
尤もな指摘だったが、そこまで驚きをもって迎えられることかどうかには、
確信が持てなかった。それでも、いずれは教えなければならないことなので、僕は言うことにした。
「僕たちが行くのはね、川下りだよ」
途端、彼女は突然平静な風になって、
「ふーん流石私の見込んだ男だけはあるのね、エイくん」
とおどけてみせた。
「『そっちの君』にも大分踊らされたものだよ……」
「そっちの君」とは、どこか僕のことを見定めるかのような立場の滝沢結衣のことだ。
僕は思わず本音を漏らした。そうして僕と彼女は刹那お互いを見合って、大きく笑った。
川岸が見える。真夏のように暑い日差しに照らされた二人の目に、涼しげでゆったりとした川の流れが鮮明に映った。
ちょっとした小屋のような建物で受付をする。意外にも中には駅で見かけるような時計な電光掲示板もどきがあった。
川下りも、一応は観光資源として使われているわけで、ここにもまばらに人は来るのだ。しかし、他の目ぼしいものもないせいか、バリバリ観光地と言えるほど騒がしい場所ではなく、静かな時間が流れている。
意外と大きい木製の漕船に、五、六人の乗客とともに乗り込む。空き席も随分ある。
「なんか、雰囲気あるね、大分テンションあがってきたかも」
「ああ、そうだね」
ライフジャケットを装着するほどの本格さに心を躍らせつつ、僕は木目の心地よい船に腰掛けた。
清流がゆったりと流れる。傍らには結衣を添えて、穏やかな心持ちになった。
「木々と川の調和……」
まともな文章に帰着できそうもないが、心から思ったことを口に出した。
そんな僕の様子を見て、結衣が静かに微笑んだ。
「やっぱり面白いことを言うのね、エイくん」
僕は一瞬きょとんとした顔に変わった。僕にとっては、自分の頭の中にありふれていた言葉を適当に拾っただけなのに、それに結衣は反応してくれたのだ。
そう考えると少し嬉しくなった。僕も頬を緩めた。
やはり他の客の目もあってか、概ね二人とも黙って景色を堪能していた。
そこに、若い船頭が
「揺れますよ~」
と声を掛ける。すると、船はガタンと段差を落ちた。船中から歓声があがる。
手を叩くような仕草を結衣はしている。
「なかなかスリリングだね」
僕は嬉しそうな結衣に声を掛けた。
「うん、なんかこう、ダイナミックだよね」
笑いかけてくる顔が眩しい。
すると、
ガタン、とまたも船が揺れた。
結衣の肩が、僕の肩とぶつかって、身を寄せるような感じになった。
照れくさそうに笑う結衣を横目に、僕はなんとも言い切れない感情に悶えた。
船は終着点に着いて、二人は船を降りた。
その終着点が、ちょっとした町中なのは粋なはからいだ。
「さて、ちょっと早いけど、昼食にしようか?」
「うん」
都会の方でも馴染み深いファミレスに入る。意外にも満席で少しだけ待たされた。
先に椅子側に僕が座ると、少し申し訳なさそうのペコペコしながら結衣がソファー側に座る。とても可愛らしい。
少し騒がしい店内は、積もる話をするにはちょうど良かった。
「さっきの川下り、迫力あったね~」
「うん、僕も小さい頃来たことがあるんだけど、そのときにもましてスリリングだった気がするよ」
「ところで、今回この場所を選んだのには、何か理由があるの?」
少し首をかしげながら滝沢が聞く。
「まあたいしたことじゃないんだけど」
上機嫌なのか、結衣は口で「うんうん」と小さく言いながら頷いている。
「故郷の景色を久しぶりに見てみたいなと」
「へぇ~エイくん、ここの出身だったんだ」
「まあね、僕はシティーボーイじゃないし」
冗談めかして言うと、滝沢はそれに呼応するかのごとくすぐ笑ってくれる。
心が通いあっている気がして、充足感に包まれた。
「はっ!!」
唐突に、僕の前の方に走り出していった結衣が、ギラギラと輝く太陽に手を伸ばす。
僕はシュールな光景に思わず吹き出しそうになった。
「どうしたんだい?」
「いやー、ちょっとテンション上がっちゃって」
上機嫌の発揚としては非常に興味深い行動と言えよう。
「なんか、こう、こうやったら太陽のパワーを貰えるかなって」
「まあ、暑さにぐったりしてるだけってのも、悔しいからな」
「ところで、クールな滝沢さんはどこに行ったんだ」
そう言うと、彼女は両手を後ろに組んで前かがみになりながら、僕の方を見据えてくる。
少しだけ間を置いた。
「あなたとなら……」
「エイくんになら、本当の自分が出せる気がする」
それは文字通り眩しく輝く、満面の笑みだった。
僕は心を打たれた。一つ、結衣が眩しい笑顔を見せてくれたこと。
二つ、結衣のまだ知らない一面が垣間見えたこと。
そして三つ、結衣が僕に心を許してくれているようであること。――それも、まるで僕だけにしているかのごとく。
「僕だけ」というのは、とんだ思い上がりなのかもしれない。でも、本当にそうあってほしいと思う。僕自身は、間違いなく結衣のことを特別な存在だとして接していると思う。
僕が彼女の中で、たった一人の特別な存在になっている。――そんな可能性の乏しい思い上がりに、揺さぶられるには、僕の心は十分だった。
僕の、恋という情動に狂う心は。




