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穏やかな恋

「デート場所、か」

僕は胸の高さほどの欄干に両肘を乗せた。

 眼下に広がる大きな川は、大自然の景色というよりは、むしろ都会の風情を漂わせているような気がする。

 川を遥か上から見下ろすような大きな橋。そして流れに沿って見える高層ビルや眩しいほどの街灯。ビルのてっぺんに見える赤い光をなんとなく見つめながら、僕は心の中を空っぽにしていた。

 空はもう、闇に包まれている。

 僕は目を閉じて、心の中から浮かび上がってくる景色に思いを馳せた。

 川に連想されたのだろうか。僕はふと、生まれ故郷の景色を思い浮かべた。

 そこは、今僕が立っている場所のような喧騒からは遠くはなれた、平和な町だった。

 こじんまりとした市街の横を流れる穏やかな川があった。時々川下りの小舟が上流の方から流れてくる。

 そして、僕が小さい頃、といっても小学校二年生くらいまで住んでいた上流の方は、居住地から数十分歩いたところに、とても美しい自然の風景が広がっていた。水量は決して多くない、優しい川の流れを美しい木々が取り囲み、時には小鳥のさえずりが聞こえてくるような、幻想的な風景だった。

 それだけ身近に綺麗な風景があったのだが、意外にも僕はあまり川下りをした記憶がない。おそらく小さい頃に一度か二度行ったきりだろう。

 それでも、おぼろげな記憶には色彩豊かな景色と、耳障りの良い音とが残っている。

 そうだ、そこに行こう。地元であれば、僕の緊張も少しは和らぐかもしれない。

 そうして今自分のいる世界にまた戻ってきて、アスファルトに新しい一歩を刻んだ。


 夕食を済ませ、お風呂にも早めに入って、一日も終わりかという頃。

 勉強のために真っ暗な部屋にスタンドライトだけを灯して、一人デスクの前に座っていた。

 筆記用具を取り出す前に、やはりやるべきことを先にならなければならないと思い、僕はスマホの画面を開いた。

 思考に取り残されて手持ち無沙汰になった指を、SNSの適当な画面で動かしながら僕は次に紡ぐ言葉を考えた。

「デートの場所、決めたよ」

 言葉を変に練ろうとして、逆に素っ気なくなってしまったメッセージを彼女に送ると、ものの数分で返信が来た。

「それは楽しみ!」

 既読にしないまま彼女の二の矢を待ってみたが、特に動きはなかったので、僕はメッセージ画面を開いてこう打ち込んだ。

「君のお目にかなうといいんだけど……正直あまり自信はないかな」

「こういうのは誰と一緒に行くかだから」

 愉快な音符と一緒に妙にドキドキする言葉を送ってくる。

「じゃあ場所は明日までのお楽しみってことで、どこ集合にすればいい?」

 その後僕は駅を集合場所にすることを伝えて、心なしか胸に数センチ近づけてから、スマホの画面を閉じた。


 朝八時は集合するには早すぎたかなと思いつつ、僕は駅の中央口の前で待っていた。これほどまでに集合時間が早いのも、仕方あるまい。目的地には電車で一時間弱もかかるのだ。

 八時まではまだ十分ちょっとある。あまり速く来すぎると相手にプレッシャーをかけてしまうかな、と考えたりもしたが、どうしても僕はこういう性分だった。

 これで「ごめんなさい、待った?」からの「いや、全然待ってない、いま来たところだよ」というデート定番の流れが出来るのかな、などと考えていたら、不意に声をかけられた。

 「おはよう、エイくん」

 突然の背後からの声がけに、僕は驚いた。

「うわっ!?」

「って、そうだよな、滝沢だよな」

「お、おはよう」

 当然この状況で僕に出会ってエイくんと呼んでくる異性なんて、滝沢しかいないわけだが、僕はあまりに不自然な返事をした。

「駅に誘うってことは、遠出するってことだよね」

「どんなところに行くのかな?ひょっとして海?水着なんか持ってきてないよ~」

 そういえばもうそんな季節だったかなと思いつつ、僕は内心では焦っていた。まさか出会った瞬間に彼女から不意打ちを喰らうとは。

「い、いやまさかそんなことはないと思うけど……」

 こうやってしどろもどろな返事を返す僕がいる一方、彼女はのっけから余裕綽々――いやテンションはあがっているようだけど、まあとにかく、いつも通りだ。

「電車の時間はいつ頃なの?まだ集合時間より十分くらい前だけど」

 そういえば彼女も今日はやたらと集合が早い。何か思うところがあったのだろうかと勝手に推察してみる。

「まだ二十分弱くらい時間があるね、駅の中にある店でも回ろうか」

「うん」


 と言っても、地元民がお土産屋の前で戯れるわけにもいかないし、まさかコンビニで時間を潰すなどという芸当はできないから、結局は駅の中をウォーキングした後、改札の前へ帰ってきた。

「この時間も、レストランの方って意外と人がいるんだね」

「そうだね」

 なんて当たり前の会話を交わしつつ、電光掲示板の隣にある時計を見て、

改札の中に入った。

 二人並んで乗車口の前に立つ。考えてみれば、この駅の改札やらホームやらは通学で見慣れているが、こうして他の人と二人並んで立つのは新鮮だ。……しかも、その相手はなんと滝沢だ。

 日常であるような、非日常であるような光景を見て、僕は緊張した。

 電車のドアが開く。まばらに降りてくる人を全員見届けた後、僕は電車に乗り込んだ。

まるで滝沢に「着いてきな!」と胸を張るがごとく力強く車内に一歩踏み出すと、危うく入り口のステップでつまづいた。

「ほら、危ないよ、エイくん」

 笑いを堪えるような顔をしながら僕をおちょくってくる滝沢を見て、一瞬小馬鹿にされたような心持ちがした。でも、慎ましくも楽しそうに笑う彼女が頭に不思議と焼き付いて、僕は愛おしく思った。

 ボックスシートの席に二人並んで座る。いつものように他人と並んで座る時はあまり意識もしないが、意外と隣の席との距離感が近いのだなと感じた。

それにしても、さっきからお互いに肩がぶつかっているのはどうしてだろう。そう思って、僕は窓際の席に座った滝沢の方を一瞬見やると、心なしか僕の側に体を傾けていた。

 そして僕は滝沢の愛らしさに気づくとともに、自分もほんの少し体を彼女の方へ傾けていることを自覚した。でも触れている肩がなんだか互いの心の繋がりのような気がして、僕は気恥ずかしさと葛藤しながらも、そのまま体を彼女の方へほんの少しだけ添えていた。

 何か会話をしようかとも思った。でも、こうして静寂のまま二人の世界に入るのも悪くないことだなと思い、僕はしばらくそのままでいた。

 電車が動き出す。ブレーキの緩解音を聞いて、スピードに乗り始めたあたりで滝沢が口を開いた。

「ねぇ」

 少しだけ寄り添っている滝沢から、囁くような声が響く。

「うん」

「ちょっとしたことなんだけどさ」

「うん」

 僕は単調な相槌を打った。……この甘美な感覚に、ずっと酔いしれたままだった。

「私のこと、結衣って呼んでくれない?」

 僕は飛び上がりそうだった。さっきまでくっついていたお互いの肩が離れる。

「どっ……」 

「どうして?」と聞こうとしたが、それは聞いてはいけないような気がした。

 僕は恋愛に奥手だ。だけど、――もしかしたら勘違いなのかもしれないけど――この滝沢の発言は、僕のことを深く受け入れてくれているものなのだと捉えた。だから、その意図をいちいち聞くのはナンセンスだな、と思った。

 思えば、僕は彼女のことを、「滝沢」として捉えてきた。もしかしたら、意識的にそうしていたのかもしれない。

 「滝沢結衣」を、他人行儀な視点でみるために。

 つまり、

 彼女の魅力に、僕が魅了されてしまわないように。

 でも、もうそんな努力は手遅れだろう。


 「どっ……」で僕は少し固まってしまったのだろう。彼女が僕の顔を覗き込んでくる。

「ど?」

  彼女が聞き返してくる。

「い、いや……別に良いと思うけど」

 動揺が隠しきれていないちぐはぐな返事をした後、僕はなんとか執り成そうと、最後の一言を加えた。

「結……衣?」

 彼女……いや、結衣はパッと表情を明るくさせた。

「うん、なぁに?」

 さも何の脈絡もなく僕が話しかけたかのように結衣が応答する。そのアドリブに困惑しながらも、僕は頬を緩めながら、

 「ううん、君の顔が見たかっただけ」

 と言った。

 ひょっとしたら、人生で一番キザなセリフを言ったかもしれない。

 結衣は露骨に頬を赤らめながら、「うん」と頷いた。

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