変わるもの
目の前にいる滝沢の顔は、まだ目新しいものに見える。
四月のあの日から、もっと言えば高校一年生のときから目にしているはずのその姿。
初めはどこか現実離れしていて、違う世界のものかとも思えた彼女の姿が、僕の目に馴染み切るにはまだ時間がかかるのかもしれない。
逆に言えば、彼女の背中を気にかけ始めたあの時から、少しは僕も滝沢のいる日常を当たり前のように感じることができるようになったのだろう。
でもまだ答えは出ていなかった。自分は一体何をしたいのか。取引への返事は依然はぐらかしたままだ。いつの間にか彼女の言うことを受け入れるようになった僕だが、本当に彼女に自分を売り込もうとはまだ決意していないのである。
「ふさわしい人間かどうか査定する」と彼女はあの時言った。僕は、本当に彼女に査定されたいと思っているのだろうか。
多分、口で答えを出すとしたら僕は「違う」と言うだろう。でも本心は――自分にも分からない。すべての行動が自分の意思の確信に基づいているわけではない。僕は、自分の行動の原動力が何か、分かりかねているのだ。
僕は、自分の意思も分からないままなされる行動を気に病んでいた。だけれども、次第にそれでいいのかもしれないと思い始めた。――行動の意味というのは、後付けでもいいのだ。きっと時間が何もかも解決してくれるのだと思う。
向こうの空で輝く夕日は僕たちを照らした。オレンジ色に頬を染めた滝沢に、僕は話しかける。
「やあ、滝沢。」
挨拶の言葉はもっと選ぶ余地があったのかもしれない。それでも、僕には「滝沢」という名を口にすることに意味があった。
「久しぶり、エイくん。」
本当は久しぶりでは無かった。一昨日は学校で会っていたし、顔を合わせていないのは昨日一日だけだった。
……僕は「久しぶり」でもいいと思った。それだけのときが、きっと僕には必要なのだ。
滝沢としっかり向き合うには、時間があまりに短すぎた。彼女が自分の心をこんなにも僕に開いても、僕はそれを受け止めきれなかった。
だから、もっと長い時間が僕には必要なのだ。まだ、今の僕には滝沢に何もしてあげられない。そんなことは分かりきっている。
現実に戻って、今目の前にいる滝沢にもどう話したらいいか分からなかった。こんなにも短い期間で、僕は滝沢の何を知れたのか。そんな疑問が頭の中に浮かんで、何かを語ってしまうのが申し訳なくなった。
そもそも、僕は何かの期限に追われているわけでもない。今すぐに、滝沢のことを理解しなければならないとか、何かアクションを起こさないといけないということはないのだ。
それでも、人というのは不思議なもので、一度意識してしまうとすぐにそんな行動を取らなければならない気がしてくる。
僕はそんな役割を委託されたわけでもないのに、勝手な使命感を抱いている自分がいる。滝沢のために何かしなくちゃいけないんだと、勝手な正義感に駆られる。
しばし沈黙が続いた。僕たち二人が見つめ合って立ち止まっている間にも、車道を走る車の往来が止むことはない。時間は着々と流れていた。
すると、
「ねえ」
「曇りの夜ってどう思う?」
僕は滝沢の発言の意図が分からなかった。でもこんな時に交わす会話に意味など求めても仕方がないことに気がついて、僕はただ滝沢が放った言葉そのもののことだけを考えた。
「曇りの夜……」
それにしても唐突な質問に、僕は答えに窮した。
「私はね」
「曇りの夜は閉塞感があってあまり好きじゃない。」
「だけど」
滝沢は続けた。
「夜なんてどうせ明けるものだから、まあいいかなと思えるの。」
月明かりもなく、星も浮かばない夜空に相対する心情は、閉塞感。確かに、それは普通の感情だろう。
でも、滝沢はどうせ明けてしまうものだと言っている。それも、確かにそうだろう。
「確かに、そうだね。」
「夜空の下を歩いていて、ただ雲しか見えなくて不愉快なだけならいいの。」
「でも、そんな夜がいつまでも明けないと、なんだか寂しくならない?」
僕にも寂しい夜はある。だけど曇りの夜を特別意識したことはなかった。特別月とか星が明るかろうと、僕には関係がなかった。
「眠れない夜に、人工の明かりしか照っていないのは、なんだか寂しいじゃない?」
僕は眠れなくても布団から出ようとは思わないタイプだった。ただ布団を被って、目を閉じて意識を薄らせることに集中するのだ。
滝沢は違った。外の明かりを見て、寂しさを紛らわせる。夜空に鎮座している星や月の光に、夜間欠けてしまう自然の明るさを見出して。
そんな滝沢の姿を想像して、僕はいたたまれない気持ちになった。
一人で寂しがっている滝沢を想像した。
「確かに寂しい夜は僕にもある。」
「本当?」
「どうしても分からないこととか、どうしようもないことで悩んでしまって、眠れない夜があるのは同じだよ。」
スマホという便利な通信手段ができてなお、夜は人との繋がりを絶たれてしまう。情けないようだが、気持ちはよく分かった。
「それじゃ私が寂しいときは、私を慰めてくれる?」
突然話が飛んで僕は驚いた。……よくよく考えてみれば絶対に無理な頼みである。滝沢が僕にテレパシーでも送って来ない限り、そんなのは分かる訳がない。
でもきっと滝沢もそんなことは分かっている。だとしたら、掛ける言葉は一つだろう。
「ああ、もちろん。」
すると、滝沢は僕の腕を掴んだ。そして彼女は俯いた。まるで何かを言いかけたかのように。
僕らはそのまま別れた。
彼女の言葉には、何らかの意味があるのだと思わずにはいられなかった。
それでも、僕には分からない。
時間が何かを変えるのだと思う。僕はいままで変わろうと思っても、すぐに変わることが出来なかった。無気力な僕が一瞬抱いた意志など続くわけもなくて、時間が経てばいつの間にか消えてしまっていた。僕は昔と比べれば確かに変わっている。でもそれは、僕の意図したところではなくて、気がついたら時間が僕を勝手に変えていたのだった。
今の僕が変わるべきなのかは、僕には分からない。でも僕は、今のままではだめなのかもしれないと思っていた。
取引への答えをはぐらかしている現状への不安、それ以上の何かがあった。僕はもしかしたら、変わるべきなのかもしれない。
僕は自分をコントロールすることなどできない。僕はどこへ向かうべきなのか分からないし、分かったとしても僕は無力だ。
そう、今までの出来事は僕にとっては突然過ぎた。僕には時間が足りなさすぎた。
彼女との出会いも、その後も、僕にとってはあまりに突然すぎて、判断がつかないのだ。
もう少しだけこのままでいてほしい。そしたらきっと答えが出せるから。
――きっと、君のことを考えつくすには、まだ時間が足りないのだから。