優しいあの子
僕の目の前の横断歩道から、人が流れ始めた。信号が青であることを知らせる音が鳴っていた。
雑踏の中で、立ち止まる僕は見向きもされなかった。当たり前のことである。僕はそれで構わなかった。今の僕は一人で構わなかった。
これが真っ暗な夜の出来事だったなら、僕は涙を流していたかもしれない。そのくらい僕の喪失感は大きかった。
昔から僕は不器用な人間だった。僕は何度も後悔をしてきた。
それでも、この出来事は僕の経験したどんなことよりも悔しかった。
……初めて僕に想いを寄せてくれた人。僕はきっと、その人を傷つけてしまったのだろう。
初めて涙を流させてしまった女の子の涙が、僕の脳裏に焼き付いていた。
僕は家に帰った。駅のホームの列の先頭に立つと、僕はボックスシートの席に座ることができた。
車窓の先で流れる景色を、僕はしばらく眺めていた。思うことは色々あった。それでも、そんなことから目を背けてしまおうと、ただ目を凝らして外の景色を見ていた。
僕は自転車に乗り込んだ。走りながら、ずっと遠くを眺めていた。駅前にそびえ立つマンションから、見ていて心細くなるような街路樹まで、すべての光景を目に焼き付けた。
家に着いてしまった僕は、もう何もやることがなかった。正確には、何もかもやる気が起きなかった。
せめてもの罪滅ぼしにと、スマホを取り出して滝沢とのメッセージ画面を開いたが、取り繕ってくれるような言葉は見つからなかった。
僕はもう寝てしまいたかった。明日の朝になれば気分が晴れるかもしれない。だけど、空はまだ暗転したばかりだった。
僕は夕食をとってお風呂に入ると、早々に布団を被った。辛い夜である。僕は妙に頭が冴えてしまった。
僕は自分の気持ちに気付いた。当たり前の感情なのかもしれない。僕は滝沢を傷つけたくないと思ったのだ。
そういえば、僕はまだ厳密には滝沢の取引を受けるかどうかは言っていなかったはずである。
でもそんな取引とは関係なく、僕は滝沢を傷つけたくないと本心で思った。
不器用なのは滝沢じゃない。僕の方が、ずっと不器用なんだ。
気付けば夜は明けていた。その日は生憎の雨だった。学校に行くのは憂鬱だったが、ずっと続いている登校の習慣は、止むことはなかった。
電車の中は乗客の雨を含んだ傘で濡れていた。僕には、それは涙のように見えてしまった。
ガラガラの教室のドアを今日も開けて、朝から眩しい蛍光灯の光を浴びた。
やがて登校してきた翡翠の屈託のない笑顔も、僕には皮肉のようにしか感じられなかった。彼女に挨拶された僕は、いかにも弱々しい声で挨拶を返した。
「何かあったの?英雄くん。」
「いや、別に。」
「その割には少し元気がないね。」
「雨の日だから……っていう答えじゃダメかな。」
「はは、何それ、じゃあそんなに落ち込むようなことでもないのに。」
夜のように暗い空に嫌気が差していたのは事実だが、それは僕の悲しみが投影されているような気がしたからだ。
その日の滝沢は中々学校に来なかった。
滝沢が教室に入ってきたのは、ホームルームが始まるギリギリの時間だった。静斗よりも遅い登校だった。
クラス中が雨のストレスを発散しようとしているせいか、朝の教室はいつもより騒がしかったが、僕は少し俯きながら入ってくる滝沢の姿を見逃さなかった。
滝沢が僕の席の後ろを通りかかった時、僕は
「おはよう。」
と弱々しく挨拶をした。すると滝沢も弱々しい声を返してきた。
翡翠はその様子を見て、少し顔をしかめた。
「結衣と何かあったの?」
どうにかして隠そうと思ったが、僕と滝沢がお互いによそよそしい態度をとっているのは事実だった。
「まあ色々と。」
「もし私でよければ相談に乗ろうか?」
「でも……」
僕にとって翡翠にこのことを相談するのは二つ問題があった。
一つは僕と滝沢の秘密の関係がバレてしまうこと。もう一つは滝沢と僕が疑似的とは言え恋愛をしている中で、他の女の子と深い話をするのは申し訳ないということだ。
二つ目の問題は、僕が気にしすぎているだけなのかもしれない。いや、間違いなくそうだ。別に滝沢と僕がこういう関係でも、クラスメイトの女子と話してはいけないわけではないだろう。
でも、女友達というものがいなかった僕には女子との距離感は分からないのだった。
「やっぱり、他人には言えないことなの?」
「うん。」
「それじゃあ、秘密にしたいことは言わなくても良い。」
「とにかく、話せる範囲で良いから私に話してみて欲しいの。」
「え……?」
「英雄くん、普段人とあまり話さない方でしょ。」
悔しいが、事実である。
「だから、こういう悩みも抱えこんじゃうのかなって。」
「でも……どうして僕なんかのために?」
「それが結衣のためになるから。それに、私たちが隣の席になったのも、何かの縁でしょ?」
僕は胸がじんとなった。
僕なら、クラスメイトの女子にこんな優しさを向けることができないと思う。
僕は、そんな翡翠の優しい一面を羨ましく思った。
昼もあいにくの曇りではあったが、雨はあがっていた。
僕と翡翠は、休憩スペースにもなっている中庭に行った。タイルが敷かれた地面は、まだ少し湿っていた。
そこには、白色の六角形の屋根と木で出来た柱のガゼボがいくつかあった。どこかミスマッチな気もしたが、高校には十分すぎるほどおしゃれだった。
僕と翡翠はそこのテーブルに向いあって座って弁当箱を開いた。雨が上がったばかりであることもあってか、いつも人気なこの場所は人が少なかった。
「さて、早速なんだけど。」
「うん。」
「英雄くんは結衣と何かあったの?」
「まあ、そうだね。」
「具体的には?言える範囲で良いけど。」
「まあ何て言うだろう。気持ちのすれ違い……?かな?」
「そう。」
彼女は佇まいを直した。
「私から言うのもなんだけど、結衣って結構不器用でさ。」
……その言葉は、僕の傷を抉った。
「ああ見えて意外と人に気持ちを伝えるのが苦手っていうか、素直じゃないっていうか。」
……違う、不器用なのは僕なんだ。
「男の子にはモテるのにね、いざ付き合い始めたら結構へなちょこというか。」
「まあ、だから色々すれ違いはあるかもしれないけどよろしく頼むよ、彼氏さん。」
いつもの僕なら「彼氏さん」に突っ込むところだが、それよりも僕は「不器用な滝沢」のことを考えていた。
「僕も実は、自分の気持ちを伝えるのが苦手で……あの時滝沢を引きとめていれば。」
「後悔後に立たずだよ。」
「多分だけど結衣は英雄くんに悪い気持ちは抱いてないと思うよ。」
「本当?」
「うん、なんとなくだけど。」
「多分二人とも、お互いが傷ついていないか心配しすぎているんだよ。」
「英雄くんも気持ちを伝えるのが苦手な人なら尚更。」
「自分のせいで相手に嫌な思いをさせてないか、気になっちゃうけどこういうのって話合ってみると案外、簡単に解決しちゃうものだと思うよ?」
「そうかなぁ。」
「きっとそう、だから勇気を出して話かけてみて。」
「あの子、そう簡単に人を嫌いになれるような人じゃないから。」
翡翠の言葉に、僕は勇気づけられた。
僕の悩みがくだらないことだっていうのは、自分でも分かっている。
だけど、一人で抱え込んでみると、それがとても重く感じられてしまった。
「ありがとう、すごく元気が出たよ。」
「うん、私で良ければこのくらい、いつでも相談に乗ってあげる。」
「君はすごいね。」
「え?」
「こんなに人を勇気づけられるなんて。」
「全然大したことじゃないよ。」
「いや、僕にはできない。だからすごいと思う。」
僕の褒め言葉は、とても安いものだった。でも翡翠は、とびきりの笑顔を見せてくれた。
いつも僕をおちょくってくる翡翠が、少しだけ大人びているように見えた。
あの時滝沢を引きとめる勇気は出なかったけれど。
きっとまだまだやり直しは効くはずだ。
……もう少し、滝沢のそばにいたい。いや、もっと滝沢のそばにいたい。