第12話 月鏡院 その2
「あ――!」
正面玄関に差し掛かり、そこを横切ろうとすると、二人仲良く座っている後ろ姿を発見する。一人は、私の服を着た女の子、イルミネーニャ。もう一人は、大きな卵のような体をした巨漢だ。金色の刺繍で縁取られた薄い緑色の外套を羽織っている。その背中には、月鏡院の首飾りと同じような模様が描かれていた。
そして、その二人の間には、湯呑が二つに土瓶とお皿が一つずつ置かれており、そのお皿の上にはあああ――!
「焼きおにぎりだああ!」
そこには、何と何と焼きおにぎりちゃん。食欲しか湧かせない、薄く焦げたようなあの色。人の温かみを感じさせる、あの丸っこい三角。それが、十個くらいのお山になって、微かな湯気を上げながら、お皿に乗せられていた。正油の正体はやっぱりこれだああ! 私は、二人の所まで走っていくと、しゃがみ込んで目が釘付けになる。
「――あ。姫姉」
ゼニシエンタが来ていると知ってから、この予感はあったがやはりあの子は期待を裏切らない! あ、胡麻油の匂いもするうう! うえっへっへっへ! 涎が、涎が口の中から、あふ――! おっとっと、これ以上ははしたない。
私は、焼きおにぎりちゃんに手を伸ばす。はああ……。美味しそうだよおおお……。ちょっとお焦げもあるし、最高じゃあないくわあ……。あのカリッと感が、少しあるぐらいが好きなのだ。このおにぎりは、まさに私が思い描く理想そのもの。しかし、あろう事かこの手が届く前に、そのお皿が宙へと逃げていく。
「姫様! はしたないですぞ!」
「ああ!?」
私の焼きおにぎりちゃんがあああん! あまりにも突然な出来事に、遠のいていくそれを、呆然と目で追いかける事しかできなかった。そして、はっと我に返ると伸ばした手を握りしめ、非道な犯人であるこの中年のおっさんを見上げ、ねめつける。
月鏡院副長ヒミンツ。後進の育成に力を入れているミストランテに代わって、この院を実質取り仕切っているのがこの男だ。
茶色掛かった黄色の髪は、綺麗にすき上げ整えられている。そして、口の上には小さめのお髭。特徴的なそれは、手入れをきちんとしているのか、毛先がくるりと巻かれていた。
しかし、それよりも特徴的なのが、その白いお肌。このおっさんは、女性も羨む美肌の持ち主なのである。真ん丸に太ってはいるが、つやつやできめ細かい。その体型と相まって、本当の卵のように見えてくる。
「おい! 何するんだよ、ヒミンツ!」
おにぎりを取り上げた事に、怒りを込めた非難の声を上げると、ヒミンツはゆっくりと腰を上げた。そして、
「姫様、おはようございます。ご機嫌麗しゅう――」
お皿片手に丁寧なお辞儀を披露。改めて挨拶をする。しかし、その礼儀正しく格式ばった挨拶は、この感情を逆撫でするものでしかない。
お前は、私のどこをどう見てそう言ってんの? 全然、麗しゅうないんですけど! むしろ、最悪なんですけど! ふざけるんじゃないよ。私の焼きおにぎりちゃんを、質にとって何言ってんだ。この――、極悪卵肌が!
本当に皺一つない。中年のおっさんのくせに。そして、たるみらしいたるみは、その二重顎ぐらい。後は、ぱつんぱつんのぷるんぷるんだ。いや、そんな事は心の底からどうでもいい。それよりも今はおにぎり!
「ヒミンツ! そんな挨拶などいらん! それよりも、そのおにぎりを――!」
その手に持った、おにぎりよこせやああ! 私が素早く手を伸ばすと、またお皿が逃げていく。ヒミンツが、ひょいっと自分の頭の上に持ち上げた。それ目掛けて飛び上がると、今度は右手に持ち替え、腕を横へと伸ばして躱す。
私が手を出す度に、ひょいひょいひょいっと、どんどん躱していく。そんな追いかけっこが何度も繰り返された。こ、こいつ!? 素早い動きでちょこまかと! 真ん丸太っちょさんのくせにい!
「何で意地悪すんのさ! おにぎり頂戴よ!」
「駄目でございます。まず、そのお手を綺麗に洗ってからですぞ」
「何いい!?」
そういう事か! このおっさんは、こういう所がうるさい。今みたいな、物を食べる前には絶対に手を洗えとかは、子供の頃から嫌というほど聞いてきた。他にも、箸や匙の持ち方やら椅子の座り方とか、食の作法や礼儀に関することを、がんがん注意してくる。ふふん! だがな!
「それなら、問題ない! さっき洗ったばっかりだからな! 大丈夫だ!」
さっき水浴びしたもんね! それでいいじゃんか! そう、嘘は言っていない。私は頭から水を被ったのだ。しかし、ヒミンツはゆっくりと首を横に振った。
「先程のあれは、水浴びですな」
げ!?
「まあ、確かに手を洗ったと、言えなくはないですが。しかし、どのみち時間が経っておりますので、またお洗いになるのがよろしいでしょう。ほぉっほぉっほぉっ」
「ふんぐううう!」
おのれえええ! 流石は、月鏡院の副長! すでにその情報を入手しているとは――! ふっ。いいだろう。こうなったら、こちらも本気を出してくれるわ! 私は、ゆっくりと構え始め、じわりじわりと滲み寄る。しかしそこで、はたっと気付く。
――くっ、落ち着け知的美人。ここで最後の力を振り絞り、力尽くでお皿を奪い取ったら駄目なのだ。この力は、別の事に使うため、取って置かなければならない。そう。ここに来て私は思い出していた。どうしても、けじめを付ければいけない相手がいる事を。そのために、力を温存しておく必要があるのだ。
しかし、やはり私は知的美人。さらにはたっと気付く。――ああ、そうか。ならば、それを先に終わらせておけば、良いではないか。そして、余力を残すように調整し、心置きなくおにぎり奪取に専念しよう。くくくく……。
「シドー様との話、終わったの、姫姉?」
標的変更。もぐもぐと多少籠った声で、側に座って呑気におにぎりを食べている我が侍従官へ、ぎろりと目を向けた。
「イ、ル、ミ、ネーニャああああ!」
こん裏切り者がー! あれだけ念を押したのに、さっさと約束を反故して、その挙句美味しそうに焼きおにぎりちゃんを頬張りやがるたあ、どういう了見だ!
罪には罰を――。今からお前には、この最後の力を振り絞って、お尻すぱんすぱんの刑に処す。覚悟しろ! 私は、手をワキワキしながら、イルミネーニャに近づいていく。すると、
「な、何!? ――んぐう!?」
怒りの声に、体をびくうっと震わせるせ、喉につまらせたのか胸をどんどんと叩き始めた。
「イルミネーニャ君!?」
ヒミンツが、その様子を見て慌て始める。ああ! もう何やってんのよ! 私は、傍にある湯呑を急いで手に取って、渡そうとする。しかし、中身が空。この子には、よくある事だ。もう一つの方は、まだ入っている。だが、これはヒミンツの傍にあった湯呑だ。最悪、飲んでもらうことになるが、それは最終手段。
イルミネーニャは、顔を青くして胸を激しく叩き始めた。私はすぐに気を取り直して、土瓶を持ち上げる。良かった。まだ入っている。そう安堵して、土瓶の中のお茶を、湯呑に注いでいく。
「ほら」
お茶の入った湯呑を、苦しそうで今にも倒れそうなこの子に渡す。すると、それを手に取って勢いよく飲み始めた。今飲んでいるお茶は、熱くはない。それは、湯呑を持った時に、すぐに熱くならなかったのと、湯気が出なかったのを確認して分かっていた。
この子、あんまり熱いの飲めないのよ。それで、その舌が何度火傷したことか……。まあ、こういう場合は、あんまり関係ないとは思うけど。でも、熱さを見るのって、ちょっと癖になってんだよね。
「ぷふー……。はあ、はあ――。し、死ぬかと思った……」
どうやら間に合ったみたい。そのほっと安心したような顔を見て、私たちも一安心。
「もう、気を付けなよ……」
そう言いながら、この子の背中をさする。
「ははは……。うん、ありがと。――って、姫姉が、いきなり私の名前を叫ぶからだろ!」
「ごめんごめん。悪かったって」
そう言えば、そうでした。
「もう――。で、何?」
イルミネーニャが不機嫌そうに溜息をつくと、こちらを睨む。
「――あ」
すっかり忘れてた。では気を取り直して――。
「こほん。イルミネーニャよ」
「なーに?」
「シビアナが来たら、ここに留めておくようにって、私言ったよなあ?」
再び、手をワキワキしながら、イルミネーニャに近づいていく。
「あ。やっぱり、シビ姉来てんの?」
あれ? ピタリとこの動きが止まる。この様子、もしかして――。
「ん? 知らなかったのか?」
「うん、ごめん。ずっとここにいたのに、気付かなかったんだよ。セイン姉たちは来たんだけど、その中にもいなくてさ。で、聞いたら別行動だって言われて――」
あいつ、ここへ一人で来たのか……。しかも正門からじゃない。別の場所から――。まあ、イルミネーニャが、ここに来る前に到着してたのかもしれないけど……。
「本当か?」
「うん、本当だよ」
私はイルミネーニャの瞳を見つめる。この子は嘘をついているのか? むむむむ――!
「そっか。なら仕方がないな」
分かんないや。なら、刑の執行は中止。
「姫姉、何があったの? 何かすっごい声が何度も聞こえてきてたけど……」
「そうでしたな。はしたない声が何度も――」
おい、ヒミンツ。はしたないって何回も言うんじゃないの。でもそっか。聞こえてたか。まあ、あれだけ泣き叫べばなあ……。
「もしかして、シビ姉にお仕置きされたとか」
とんでもない目に遭わされたわ。私は、研究室での出来事を思い出す。全ての元凶はあのアホだ。
「ふっ。似たようなもんだな……」
「うわあ……」
「何と……」
イルミネーニャたちは何を想像したかは知らんが、顔を顰めて憐れんだ目を向ける。止めなさいよ、その目……。
「さて、私も食べてこようかな」
ここにいても、そのおにぎりにはありつけない。ヒミンツに阻止される。ならば、いらぬ労力を必要としない食堂へと向かえばいいだけの事。しかも、それは目と鼻の先にある。冷静になった私は、これにも気付いた。
さらば、愛しの焼きおにぎりちゃん。君たちは、この二人に美味しく召し上がって頂くといい。
「イルミネーニャ。向こうの食堂でよかったよな?」
「うん、そう。皆いるよ。あたしは先に食べてていいって言われてさ。シトが持ってきてくれたんだ。あっ、取ってこようか?」
「いや、いいさ。自分で行くよ。手も洗わなくちゃいけないしな」
私がそう言うと、ヒミンツが満足そうに頷く。けっ!
「分かった。じゃあ、あたしここにいていい?」
「ああ。ただ、ヒミンツと一緒にいてくれ。一人で行動はすんなよ?」
「りょーかい」
単独行動は控えてもらわないとな。でも、ヒミンツがいれば安心できる。何故なら――。
「ほぉっほぉ。では、姫様のご許可も出たところで――。イルミネーニャ君。最近体得した、おにぎりを上品に食べるコツを、教えて差し上げましょう」
「はい! よろしくお願いします、師匠!」
「ほぉっほぉっほぉっ」
ヒミンツって、イルミネーニャの先生だったんだよね。だから、仲が良いんだ。この子が危ない目に遭ったら、いつもの様にその身を張って守ってくれるだろう。だって、先生だもの。私の先生と一緒。同じさ。
でも、おにぎりを上品に食べる方法って何? 手に取って口に運ぶだけでしょ? 私は、ちょっと気になった。




