プロローグ
「あのね、おはなのそばにね、ちっちゃいひとがね、いるよ。」
おかっぱ頭の娘が話すちっちゃい人が母には見えず、困惑した。
「いっぱいいるよ。むしみたいなはねがね、せなかについてるよ。」
娘はそのまま、道の脇に咲く菫を見つめた。
娘に着せた赤いワンピースが、草の緑によく映えている。
「ほら、そろそろ行くわよ。お婆ちゃんの家にいつまでも着かないわよ。」
娘の手を引いて、母はまた歩き始めた。
草が生い茂る森の中を5歳の子供が歩くのは大変だ。
木々が陽を遮って昼間でも薄暗い。
ぬかるみで滑ることもあれば、石につまづくこともある。
母は自分の娘がそのような目に遭わないように、娘に合わせて慎重にゆっくりと歩いていた。
途中に咲く花、蝶や鳥のことを話しながら、母は歩いていた。
二人の真上をひばりが陽気に歌っていた時のことだった。
「ほら、鳥さんよ。雲雀みたいね。」
母は指さして言った。
娘も母と同じものを見て、こう言った。
「あのね、とりみたいなはねのはえてるひともとんでるよ。」
「お、お母さんには見えないな、彩。」
「うん、でもねぇ、いたよ。」
ある日突然、娘はおかしなことを言い出した。小さいおじさんが苺をひとつ持って行った、白い服を着た髪の長い女の人が庭に座っている、だの。
幻覚なのか、本当にみえているのか、自分では判断かつかず、魔女である自分の母に相談した。
母は、すぐに連れて来い、と言ったため、今こうして二人は森の中を歩いている。
「ほら、あそこに茶色い家が見えるでしょう?あれがお婆ちゃんの家よ。彩は初めて来るわね。」
母は彩の隣にしゃがみ、娘の目の高さに指をさしていった。
娘の目には、別のものもみえていた。
「あのおうち、ひかってるよ。」
娘の言葉に、母は困った表情をした。
母は3年前から、この森にログハウスを建てて暮らしている。
それ以前は、イギリスの農村で今と同様に、魔女として過ごしていた。
イギリスの家を引き払って、いきなり娘の近くに越してきたのだ。
その理由は、日本に行け、という声をある日聞いたからだという。
「ああ、いたいた。ハーブを摘んでるわ。」
母子に背を向けてしゃがみ、家の前に生えるハーブを摘んでは籠に入れていた。
「母さん。」
声をかけられた人物は、籠を地面に置き、よっこらしょ、と重い腰を上げて振り返った。
「久しぶりね、エリカ。彩ちゃんを連れてきてくれたのね。」
年の割には若く見える。これは昔から変わらない。祖母の双眸が、澄んだ緑色をしていることも、昔と同じだ。
どうやって若さを保っているのか、娘はいつも不思議だった。
白髪を後ろでまとめてお団子にしている彼女は、にっこりと笑った。
「ほら、彩、こんにちは、と言いなさい。」
母親に促され、娘はか細い声で挨拶した。
「こんにちは、彩ちゃん。」
祖母は彩の前で正座してあいさつすると、紫の綿の布地に銀の刺繍が施されたスカートのポケットから水晶のかけらを取り出し、彩の前に差し出した。
彩はそれを右手でつまんだ。
「受け取ったわね。今から彩ちゃんは、このダイアン・フォーチュンの弟子よ。」
祖母は緑の両目で彩の双眸をしっかりと見た。
エリカは突然のことに言葉がすぐに出なかった。ショックが大きすぎたのだ。数回の深呼吸の後、やっと声を出した。
「母さん。」
娘は、怒りを抑えて言った。
「私に何も話さずにいきなり魔女にするなんて!私はこの子に、普通に育ってほしいのよ。」
エリカが3年間、彩を祖母に会わせなかったのは、会わせたら娘がどうなるのかわからなかったからだ。
「魔女にするとかじゃなくて、みえないようにするとか、そういうふうにしてほしかったのに。あーもー、会いに来るには早すぎたんだわ。どうしよう。」
彼女は両手で頭を抱え、オロオロした。
「エリカ。彩を私に会わせなくても、あなたはしばらくは悩むわよ。」
ダイアンは立ち上がり、エリカの表情を見つめて言った。
「みえないようにするなんて、備わった才能を封じ込めるのは良くないわ。ここまで目覚めているのだから、生かしたほうが良いわ。私は弟子にしようとは最初から思ってなかったわ。どういうわけか、体が勝手に動いたんだもの。仕方ないじゃない。」
自分に責任はない、という態度の母親にエリカはあっけにとられた。
「そこまで心配なら、そうねぇ、こうしましょうか。私は彩に、私が知るすべての魔術を教えるわ。でも、それを使うかどうかは、この子が決めれば良いわ。魔女として生きるか、普通の人間として生きるかはこの子に任せるわ。」
「わかったわ。」
エリカは母親の提案に納得した。
「ここでずっと話すのもなんだし、中に入ってお茶にしましょう。」
ダイアンに促されて、二人は、家の中へ入って行った。