エアコン
あれと思ったのは七月になりもうクーラーでも入れようか、などと思ったころである。
エアコンの下に黒い束のようなものがあった。
おかしいな、…おとといここは掃除をしたのだが。なんてことを考えひょいとそれを持ち上げる。
「うおっ!」
持った瞬間嫌悪感と言うか、手に絡みつくような感覚があり思わず手を離す。長い髪の毛であった。離した髪の毛は元の場所に戻るようにはらりと落ちていく。確認するようにもう一度見ると、どうやら見た感じ女の髪の毛のようにおもえた。なぜこんなものが落ちているのか?あんなに綺麗にしたのに。俺は髪の毛が短いし何より男だ。俺のものじゃない。よくみると所々赤黒く見え、余計に気持ち悪く思えた。
そのまま触るのもいやなのでビニール袋を持ってくることにした。確か流し台に残りのビニールがあったはずだと流し台へ向かう。流し台は赤に染まっていた。外にふと目をやるともう夕暮れ時に差し掛かったころであった。夕暮れの陽を見て、下に敷いてある畳にも目をやる。こちらも真っ赤であった。
下に放ってあった袋を取ろうとすると中に何かが入っている。取り出すと取っ手のついた小さな紙製の箱が入っていた。水分のようなものが出て箱はもうくたくたになっている。箱を開けてみると中身がぐちゃぐちゃになったショートケーキが見え、臭いからしてもう腐っているようだった。
腐ったケーキをゴミ箱に突っ込み、髪の毛があった場所に戻るともう暗がりになり、髪と床の区別がつかないほどであった。電気はつけたくなかった。あった場所の辺りをもぞもぞと探しているとそれらしき感触に当たったのが分かったので、可能な限り拾うことにした。
あらかた拾い終えじっと落ちていた場所を見る。畳に黒いしみのようなものが見えた。気のせいのように思い、考えることをやめにした。
もう二日も会社に行っていない。一昨日から携帯の着信音がずっと続いている。携帯を見つけ出し開くと着信の履歴が五つほどはいっていた。かけなおす気もないが。留守番がはいっていたのでそれを聞くと大方こんな感じの内容であった。
「…男君、きみはどういうつもりか。社会人としての自覚を持ちなさい…まったくどいつもこいつも…」
と、こうだ。会社の通知番号になっているがこのいやみな声は部長だろう。くそ、あいつの声を聞くと気分が悪くなる。声を聞くだけで殺意がふつふつと沸いてくる。どいつもこいつもだと?おまえのせいで…
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会社は家から車で45分くらい離れたところにある。交通の便がよいわけではなく、電車もバスも通ってはいなかった。免許は持っていたのでとくには不便ではなかったが。山の中にあり人目は無く、いつも会社は薄暗かった。まあ、そんな会社の場所も災いしてか、周りの人間も陰気なやつが多かった。会社と言ってもそこまで大きいものではなく零細企業のような極細々とやっているようなところで、社員も8人ぐらいしかいないようなところである。
「おはよう」
部長の言葉で一日は始まる。皆うつむき聞いているのか聞いていないのか分からないが、そんなことはお構いなしで言葉を続ける。
「えー今日は…」
とつらつらと言葉を連ねる。非常に長く退屈な話で学生時代の校長の話を聞いているような錯覚を受ける。ぴたっと言葉が止まった。皆何事かと上を見上げる。こちらも皆が向いている方を見ると部長がこちらを睨んでいるように見えた。
「きみ、またかね」
と眼鏡をくいと上げる。油でてかてかになった顔、ぶくぶく太った顔。見ただけで不愉快になる容姿だ。よれよれのスーツは恰幅のいい体に似合わずその姿はみすぼらしくみえた。
「きみ私の話は聞いていたのかね」
といやみに聞こえる声で私に尋ねた。話は聞いていなかった。
「すいません、考え事をしていたもので」
と適当に交わすことにしたが、これが裏目に出た。
「だからおまえは!!」
と口角泡を飛ばしこちらに寄ってくる。皆やれやれといった風で各自の席へと戻っていく。またこれから20分ほどの説教だ。
説教が終わり席に向かうと、皆の目が空を舞いこちらに向かうのが分かった。だが声をかけてくるものなどおらず、皆ニヤニヤとしてはまた目線を下に向け仕事にもどっていく。心に黒いものが回る。
席に着く、すると後ろのほうから
「大丈夫ですか」
と声をかけられた。若葉さんだ。彼女は小柄で長めの髪をしている。彼女はメイクののった大きなクリクリとした目でこちらを心配そうに覗き込んだ。彼女はいつも心配してくれて、こちらが申し訳なくなるほどだ。
「ああ、なんとか。ありがとう」
そう一言交わし席に着いた。彼女もそうですかとニコっと笑い席へと戻っていった。その後ろ姿を目で追う。若葉さん、彼女とずっと一緒にいれたらどんなにいいことか。ああそうだ、やはり…
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…どうやら携帯を開いてそのまま眠ってしまったようだ。クーラも点けずに寝てしまったので汗で服がべたべたと引っ付き気持ちが悪い。だが目覚めは悪くない。部屋にはまだ残り香のような甘い香りがある。もちろんあの香りだ。あの髪をかきあげたときのふわっとした香り、首筋に汗をかいたときのあの香水と汗が混じった香り、あの香りが部屋に漂っているだけで幸せを感じる。
汗だくになったシャツを脱ぎ捨てると体がひどくべたついていた。心なしか体が痒くとても不快だ。そうか、よく考えればあれから風呂に入っていないのか、それだと長いこと入っていない。
「…入るか」
ポツリとつぶやき手を横に置くと、何やら、がさっと音がした。見るとさっきの袋が手元の近くで倒れている。どうやら近くに置いたまま寝たらしかった。…これも後で処分しなくてはと考えていると、ある異変に気づいた。袋が生きているように脈打っているようなのだ。ずるずると手のひらでミミズが這うような感覚だろうか。
「っ!」
言葉にならない叫びを上げて袋から手を離す。頭が真っ白になり自分でも何をしていいか分からず、ただただ固まる。クーラもついていないというのにまとわり付くような冷たい風。まずいと言う感覚が身体を駆け巡る。寒いのになぜかたらっといやな汗が流れた。今の状況を理解するため、電気を点けようと思い立ちバッと立ち上がる、だが何かが足に絡みついたかと思うとものすごい力で引っ張られドスンと転げた。肉が削げ落ちるような激痛、よくみると袋の中の髪の毛が足の方に膨らみ、足の肉に食い込み、足を引きちぎらんとばかりに絡まっていた。穴という穴から脂汗が噴出する。
「いやだ…死にたくない…っ!」
這うように這うようにまるで赤ちゃんのように、電源にすこしでも近づくように向かう。男の下半身はもう髪の毛にすべて覆われていた。
しみがざわざわと蠢いた。
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帰り道。とうとう計画した日がやってきた。準備も万端だ。この日のために俺は誘拐の計画を立てた。彼女が帰る時間。彼女が帰る道。彼女が寄る店。すべてを調べて彼女を誘拐する計画を練った。俺はこの計画が絶対成功すると確信している、失敗するはずが無い。もう彼女は俺のものだ。誰にも邪魔はさせない。
彼女は木曜日絶対に残業をせずに定時で帰る。その日も残業があったが俺は体調が悪いと言って定時で帰った。そして彼女が帰る道を車で先回りし人目のつかないところで止める。やはり計画のとおりに彼女はいつものように歩き、いつもの店に寄った後、いつものようにこの道を通った。俺は強引に彼女を車に押し込もうとした。だが彼女は抵抗し、俺の手から離れると後ろの方向へと倒れていった。ゴッという鈍い音が響き彼女は人形のように動かなくなった。俺は焦った。殺すつもりは無かった。ただ俺の傍で笑ってくれればそれでいいのに、彼女は動かなくなってしまった。
俺は急いで彼女を車に詰め込み、その場から離れ、彼女を部屋に運び入れた。運び入れるときはいつもの香水の甘い香りがふわっと香り、もういつもの様に笑いかけてはくれないのか、と思うと俺は悲しくなった。アパートの一室にある部屋なので誰かに見つかるんじゃないかと気が気じゃなかったが、何とか誰にもばれずに部屋に戻れて安心した。が、突然動かないと思っていた手がぴくっと動いたんだ。そりゃ驚いた、死んでると思ったんだから。俺は気が動転してしまって部屋にあった置物で彼女に止めを刺してしまった。それからはもうよく覚えていない。流し台で彼女をばらばらにして、エアコン下の畳をはずし、その下の空洞に凶器と一緒に押し込んだことだけは覚えている。まあいい。これで彼女は俺のものになったんだから。これからずっと一緒だ…
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もう電源はすぐ近くだ。もうすぐそこだ。髪の毛は肩まで埋まりもう口をふさぐところまで迫っている。
ふっと後ろに気配を感じ後ろを振り返った。それと同時に男の手は電源を捉えパチリと言う音がなる。口に髪の毛が流れ込むと同時に彼が見たのは
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「警部!警部!!」
若い警察官が上司の下へと駆け寄る。警部は苦い顔をして手帳とにらめっこをしていたが、声が聞こえると
「おう」
と表情を崩し返事を返した。
「今回の事件ですが…」
「今回の事件はあまり考えすぎない方がいい。…長くこの仕事を続けようと思ってるなら尚更…だ」
若い警察官は後ろを振り返る。背中に冷たいものを感じブルっと体を震わせた。
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七月○日ある事件が起きた。よくある痴情のもつれから△△若葉さんが殺害されるという事件が起こった。夜中にドンドンうるさいと近隣の部屋から通報があり発覚した。容疑者は□□□男。△△若葉さんの遺体はバラバラにされて、見た目からは判別が不可能になるほどであった。容疑者宅のゴミ箱には当日被害者が弟のために買ったと思われるケーキが捨てられ、また近隣住民が当日近くを通りかかったところ不審な車を見たとの情報があり、調べたところ付近や車の中に被害者のものと思われる血痕が見つかった。これだけなら普通の事件なのだが不可解なことが多々あった。容疑者が変死していたのである。部屋の中にはところどころに肉片が飛び散り、部屋が血に染まるなど凄惨な状況だったようだ。容疑者の遺体は体中に大きな裂傷が見受けられ、内臓という内臓に髪の毛が詰まっていた。容疑者は壁に寄りかかった姿勢のままで被害者の埋まっていた方向を向いて死亡していた。偶然とはいえ、その顔は恐怖にゆがみ、骨格が変わるほどだったという。周りには空の袋が一つ落ちているだけで直接凶器になるようなものは特には見つからなかった。また、被害者の遺体は埋まっていたもののすぐに発見された。発見された状況は非常に奇妙なものであった。それは
遺体が埋まっていたところに「人の形をした」しみが浮き出ていたのである。