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第三章  「上陸作戦」 (2)




ローリダ共和国基準表示時刻11月03日 午前17時14分 首都アダロネス 元老院


 雨――


 冬空の下で首都を濡らすそれは冷たく、その降り始めからやがては勢いを付け、国政の牙城たる元老院議事堂すら容赦なく打ちすえていた。

コトステノンとの会話、そして研究会後に予定されていた打ち合わせを終え、ナードラはおそらくは研究会の運営者の中で最後に元老院を出た人物となった。

 正面玄関を出、差回しの公用車の客となる間際、彼女の緑の瞳は、今やすっかり鉛色の分厚い雲が支配するところとなった空の一点へと向けられ、そして眼光もまた険しさを増す。眼差しの遥か彼方には、あのニホンの「衛星」が、搭載するであろう鉄と電子の目を以て、今でも絶えず彼女の母国の何処かへ監視の光を注いでいる筈だった。


 天を仰ぎ、眼差しを細めつつ、ナードラは言った。

「お前たちは、その蒼空遥か彼方に在って我々の全てを掴んでいる積りなのであろう?……自らを神の位置に置き続けることが、如何(いか)に我らが神に対する冒涜であり、如何(いか)に空虚な慢心の成せる業であるのか、お前たちが思い知る時は何れ来よう、覚悟しておくことだ……」


 乗り込んだ公用車の行き先に、ナードラは自邸を指定しなかった。その代わりに指定された別の行き先に向かい公用車は道を走り、そして市街地を貫く幹線道路の一角に躍り出る――

「……」

 首都アダロネス……否、ローリダ共和国でも最大の商業街たるルイタール区。四車線の車道の、両脇を固める高級品雑貨店ビルディングの一階を占めるショーウインドウには淡い光が籠り、中に飾られたドレスや装飾品を、鮮やかに飾り立てていた。それを背景に忙しく歩道を行き交う人影は、恐らくはその日の仕事を終えて家路を急ぐ庶民層なのであろう。ここ三年の内に、時を追うごとに彼らの影が細く、その背中が寂しげに見えるのは気のせいだろうか……?

 トーキョーなるニホンの首都にも、ルイタールと同じ商業区が五つもあり、その一つ々々がルイタール以上の規模を持つ上に、客の階層と嗜好に合わせた特性を有するという話を、ナードラはロルメスより聞いたことがあった。


 トーキョーの夜景――トーキョーに「捕囚」されたロルメスが個人用フィルムで撮影したそれを、彼自身の邸宅を帰国祝いがてらに訪れた際目の当たりにした時の驚きを、ナードラは黄昏に支配されつつある街路を横目にしつつ思い出していた。


 圧倒的なまでに巨大で、長大な高層建築物の連なり――

 歓楽街を行き交う、各々に着飾り、笑顔を浮かべる老若男女の波――

 豊富な商品に満ち満ちたニホンの百貨店――

 画質の粗いフィルムからでもその眩しさが嫌という程に伝わってくる高層建築物の灯と、電光板の輝き――

 その場に居ないことを自覚しながらも、ナードラはトーキョーに圧倒された――


 公用車はルイタール区を抜け、アダロネス市内でも一際真新しさの目立つビルディングの前で止まる。ルーガ家がその庇護下にある気鋭の若手建築家に設計させたこの商業用ビルの最上階に、「ルーガ総研」はあった。


「お帰りなさい。代表」

 先に戻っていたミヒェール‐ルス‐ミレス少佐が、彼女の主人を微笑とともに迎える。ニホン関係の書物や資料が、彼女の机の上、あるいはその周囲で山を作っているのは、「ルーガ総研」開設以来の何時もの風景だった。そしてナードラの緑の瞳は、二人しか人間のいない広いオフィスの一角を埋め尽くすニホン製のテレビ受像機で留まる。それは衛星回線を通じ、24時間態勢で世界中の報道番組、そして市場の動静を垂れ流し続けていた。この世界で衛星回線が、誰の手によって「支配」されているか、もはや他言を要するまでもないであろうが……

 

 キッチンで手ずからミルクティーを淹れ、ナードラはそれを資料の山に向かい合っているミヒェールの机の上に、さり気無く置いた。そのままナードラの足はバーカウンターへと向かい、彼女は慣れた手付きで作ったトマトジュースと香料と古酒のカクテルを手に、ミヒェールの許へ歩み寄る――テレビ受像機に埋め尽くされた一隅、その中でニホン本国ではいつも通りに、夕方のニュースが始まっていた。東京の夜景を背にデスクを占めるシンドウ‐ミズキなる女性司会者を、二人は受像機を室内に入れて以来毎日のように目にしている。気品ある容姿と明快な口調で一日の出来事を告げ、その表裏を詳らかにする彼女の番組が、それが始まってから二時間ほどで終わるかと思えば、次にはニホンの高級料理店の美食から市井のいち食堂の献立までを取り揃え、それらを出演者が美味そうに食するだけの番組、またその次には過剰なまでに肌の露出の目立つ女や、一見では性別すら判然としない容姿の誰か、あるいは間の抜けた顔をした男どもが雛段に座り、観衆の女性たちから嬌声を浴びつつ内輪の話に興じるだけの番組が始まる。ナードラも、そしてミヒェールも思う……はたしてニホン人は、このような訳の判らない番組を、心から面白いと思って見ているのだろうか?……と。だが、ニホンは我が国よりも遥かに物質的に恵まれ、人々の服装もずっと華美で個性的だということは判る。それでもニホンのテレビ番組を目にする限り、これを祖国ローリダよりずっと進んだ文明の有り様だと言われても、何か納得しかねる光景であるように二人には思われる。そう、何処か釈然としないような……


「タナは先に帰しましたが、宜しかったのでしょうか?」

「初めからそういう契約だもの……家庭に尽くすのはローリダの女性の神聖なる義務でしょう?」


 ナードラがミヒェールの椅子に手を掛け、身を委ねるのと同時に、ミヒェールは言った。

「『気象観測機』が収集した敵の布陣に関する情報は、すでに国防軍司令部に渡っている筈ですが、それ以降彼らの反応が無いのが気掛かりです」

「軍人は子供よ。何でも自分でやりたがる……」

 氷の揺れるグラスを(もてあそ)びつつ、ナードラは言った。国外各地に散るルーガ財閥の情報網、そして傘下の航空会社が運用している専用の「気象観測機」の活動成果……それらを流用しているだけあって、「ルーガ総研」の情報収集、分析能力は極めて高い。それが、情報戦に至るまで縄張り意識と自己完結性に拘る国防軍の上層部には目障りなのかもしれない。


 ミヒェールの机の傍――そこに置かれた長方形のテーブル。その上に広がる地図に、ナードラの瞳は注がれる。この世界の何処かに広がる海岸地帯の地図。海岸線に殺到する舟艇を表す青い標識、海岸線に在ってそれに対する赤い標識……それは現在、共和国ローリダが戦っている戦場の、現在進行形の情勢の略図であった。青が進攻する友軍を表し、赤が敵軍を表すのだ。

 先程と一変し、冷厳なまでの眼差しで地図を眺めながら、ナードラは言った。

「動きはどう?」

「上陸作戦は二時間前に始まりました。それ以降変化は何も……」

「……」

 沈黙――ナードラは込上げる義憤を押し殺しつつ、戦況表示板を凝視する。「スロリア戦役」以前より対立関係にある列強異人種勢力たるノルラント同盟との間で、最近になって再発したシレジナ地方の領有を巡る戦い……これもまた、「スロリア戦役」の結果によってもたらされた弊害の一つとも言えた。ローリダとほぼ同等の領域と人口を有し、軍事力も拮抗。さらにはローリダと同じく国外への拡大指向を有するが故に、この世界の方々でローリダと対立状態にある同盟。ローリダの「弱体化」に勝機を見出し――言い換えれば付け込み――彼らは海外のローリダ領を奪取せんと蠢動を始めている。そして共和国ローリダの対処は、ナードラに言わせれば「愚劣そのもの」としか考えようのないものであった。


 ナードラは言った。

「この舟の一隻々々に、スロリア戦より生還した歴戦の将兵らの生命が詰め込まれているのだ……それも塵芥(ちりあくた)同然に……!」

 資料を睨んでいたミヒェールが、初めて顔を上げた。ナードラの烈しい言葉は事実であった。そしてそれが元老院に(はか)られた時、彼女の席は既にそこには無かった。もし在ったとすれば――

 


『――議員諸氏に申し上げたい! 喩え虜囚の身に甘んじたとはいえ、彼ら兵士は身命を賭して共和国に対する義務を果たし、その結果として囚われの身となった者たちであります! 我々ローリダ国民は彼らの労苦に報いると同時に、彼らの経験もまた勝者の経験と同じく我々の子孫に語り伝えられねばなりません。敗北の糊塗と責任の転嫁は高等文明の旗手たる共和国の為すべきことに非ず。然るに今次の帰還兵に対する政府の処遇は、いかなる了見の下に決定されたのでありましょうや!?』


 捕虜の身より解放され、ニホンより帰還を果たしたばかりの国防軍将兵の退役と除隊を許さず、新たな前線への再配置を明記した案が、元老院内の閥族派の一翼から提出されたとき、真っ先に反対の意を表明したのはナードラの祖父ルーガ‐ダ‐カディスだった。病を理由にした数年間の空白期を置いていたにも拘らず、「雷神」とも称される舌鋒は健在であり、言葉はそれこそ雷鳴の如くに閥族派を打ち据え、彼らの内心を狼狽させる。だが―― 


「ヒョオッヒョオッヒョオッ……」

 特徴のある、だが陰険さに満ちた笑い声の主を、カディスは忌々しげに睨んだ。背の高く、それが明らかに目立つ線の細さに関わらず、外見より醸し出す空気は、さながら妖気となって元老院を浸食しつつあるかのようにカディスには思われた。カディスと期を同じくして元老院に一議席を占めるに至ったもう一人の男のの嗤い――


 セルデムス‐ディ‐ラ‐ナシカというのが、その男の名前であった。貴族の生まれで年の頃はカディスとほぼ同じ、キズラサ教会の高位聖職者たる神祇官より、政軍に跨る有力者たるカザルス‐ガーダ‐ドクグラムの推挙を得て元老院に転じた経歴は、神権的共和政とでも言うべきローリダ共和国の歴史の中では決して特異な例ではなかったが、彼の人となりの特異さは、むしろ元老院議員以前の、破格とも言える伝道活動においてその過半を語ることが出来るであろう。


 アダロネス郊外の私立神学校を卒業した後、下位聖職者に任ぜられたナシカは、身一つで各地の民衆を対象にした伝道事業に身を投じた。ここまではごく普通の、敬虔なキズラサ教聖職者ならば誰もが辿る道であったわけだが、その後が違った。ナシカは従来の伝道の場たる聖堂から飛び出し、外の世界に自らの行動の場を求めることとなったのである。具体的にはそれは競技場や集会場における、千単位の民衆を相手にした伝道行為であり、テレビ、ラジオ等と言った報道媒体を利用した、万単位の民衆を相手にした伝道行為であった。今まで誰かが為しているようで、その実誰も為し得なかったことを、若き日のナシカは成し遂げたのであった。ナシカ自身も、弁舌や扇動といった要素に関し、少なからぬ天賦の才を有していたことも彼の成功を後押しする形となった。少なくともローリダの公民権を持つ人々の間で、彼のことを知らない者は今では誰もいない。彼は聖職者として成功し、その後には労せずして集まる喜捨が生み出す破格の富、そして支援者の環が生み出す政財界を跨ぐ人脈が続いた。


 そして、ナシカ自身、やがては聖職者たる彼自身の終の目標をその先に見出すこととなった。つまりは政界――あるいは共和国開闢以来初の、聖職者出身の執政官の地位――である。それを可能にするために必要なものを、この時点で彼は全て手に入れており、従って、元老院議員の地位を「買う」ことなど、彼にとっては造作も無いことであった。買うだけに留まらず、元老院における自らの立ち位置を、その当初から盤石ならしめるための配慮もまた、ナシカは怠らなかった。選考段階の際、ナシカは自らの宗教家としての実績と経験を全面に押し立て、それ故に彼は保守派の有望株と見做され閥族派の一翼を担うこととなったのである。正式に元老院議員に叙せられる際に必要となる、先輩議員の推挙を与える役割は、カザルス‐ガーダ‐ドクグラムの勤めるところとなった。現在より遡ること僅か二年前、つまりは「スロリア戦役」停戦の翌年のことであった。


 多額の賄賂、そして提供された支持者の対価として、ナシカの元老院登院に推挙を与えたドクグラムとて、内心ではその初めからナシカの政界進出に全面的に賛同していたわけではない。その建国の経緯から政教合一の性格を有するに至ったローリダ共和国ではあったが、それでも政界と教会のそれぞれ異なった世界に身を置く者たちの間には、互いの領分を侵犯しないという暗黙の合意が存在する。でなければローリダの共和政は政教両勢力の主導権争いの場に堕し、建国からごく早い段階で瓦壊を見ることとなったであろう。政治家以前に軍人であり、政界における立ち位置では原理的とでも言える超保守派に属したドクグラムではあったが、むしろそれ故にナシカの見え透いた政界進出指向を、内心では警戒していた。ナシカの、彼の背後にいる数百万単位の支持層に与える影響力は、巧く取り込めば対立する平民派に対する牽制材料に使える一方で、使いようによってはドクグラムの属する、あるいは率いる派閥にすら痛撃を与えることも可能であろう。ナシカな聖職者であるがゆえに、神の威光を盾に、「貧しく、且つ素朴な」民衆をあらぬ方向に扇動しようと試みるかもしれない――政治家というよりも軍人としての数的力学に基づく判断力から、ドクグラムはナシカの勢力に警戒と脅威を抱くに至ったのである。


 少し逡巡した末、彼は決断した――そのような危険な人物は、突き放すよりも手元に置いて統御するに限る――そして現在、傍目にはナシカはドクグラムの近傍の一人として、「単なる」元老院議員と言う自らの立ち位置に安住しているように見えた。


 ――その、ナシカが言った。

「――カディス殿の発言、『雷神』とまで称される愛国者の言葉とは到底思えぬ。キズラサの神の威光に従わぬ蛮族の虜囚となった将兵は、この生を許さず、己が生命を以て汚辱を雪ぐというのが我が共和国の慣例でございますぞ?」

「そのような慣例は、共和国に存在するいかなる法令にも、条例にも存在しないし、建国以来300有余年に渡る共和政の歴史上そのような慣例が存在した事実もまた無い。憶測と思い込みだけで周囲の誤解を招き、あまつさえ虚偽を流布するがごとき発言は、これを慎まれたい!」

「――条例や条例には書いてなくとも、聖典には書いてある」

「何と……?」

「――聖典第11章オルバス記第27節に曰く、『異教徒の粟を食みし者、我が庇護の元より離れるべし。異教徒の水にて渇きを癒しし者、我を崇めざるべし。彼らは穢れを纏いし者たちなり』……キズラサ者にとって主からの絶縁はすなわち死なり。捕虜もまたキズラサ者なれば、聖典の法に殉ずるが道理にあらずや?」

 太い眉を険しく歪め、カディスは反論した。

「聖典は法ではない。この場合捕虜たちにとっての法とは共和国国防軍軍規である。軍規は諸条件を満たした上での投降を認めている。そして今次の戦役において我が軍捕虜はその全員が、敢闘の末に誇りを持って、敵陣に降るに足る働きをしたものと本職は信じるものである」

「――黙らっしゃい! 汝は聖典を愚弄するか!? 神を愚弄するか!?」

 ナシカの表情が一変した。只でさえ血色の悪い顔が、怒りで死人のような土色に染まる。菱のような三白眼を見開き、深い皺もかまわず論敵を罵る様は、あたかも我儘一杯に育った聞かん気の強い子供が、そのまま歳を重ねてしまったかのような不釣り合いさまで伴っていた。

 かと言って感情的な論難を前に怯むカディスではなかった。思えば先代ルーガ家当主たる父の死を受け30代半ばでルーガ家の家督を継ぎ、元老院に一席を占めるようになってからさらに30数年、あるいは元老院議員になる前の実業家時代の10数年間も、このような「融通の効かぬ輩」を相手に不毛な議論を応酬させ、論破と説得を重ねて来た先に、現在の「雷神」たるルーガ‐ダ‐カディスの真骨頂がある。それは彼を知る者は敵であろうと味方であろうと誰もが認めるところだった。

「本職の言葉が神に対する愚弄か否かは、本職が天寿を全うした後の天界の審判の席で、キズラサの神を前にした本職自身の弁明により明確にする所存であります。むしろ本職の愚弄の対象は神ではなく、この場にいない神の名を借り、国家に尽くした将兵の名誉を貶め、偉大なる共和国の国威を汚した眼前の小人であることを本職はここで明言しておきたい!!」

「――!!!?」

 騒然――それは必然の結果であった。議論の皮を被ったところで、カディスの発言が彼の対決者に対する辛辣な批判であることは誰の目にも明白であった。議場内のある者は喝采を叫び、またある者は議場中央の議論用講壇に佇むカディスを睨みつけ、あるいは呪いの言葉を吐いた。

「――この痴れ者! 共和国の敵! 神はお前をお許しにはならぬ! お前は地獄に落ちようぞ!」

 公衆――それも、権威ある元老院――で侮辱され、自らの立場すら忘れ口から泡を飛ばしつつ対論者に罵声を浴びせるナシカの眼には、すでに鬼気すら宿っていた。聖職者の変貌に気圧されたというより呆れ顔を隠さず、カディスはナシカの背後を占める雛壇状の席の一角を憐れむように見上げる。彼の視線の先で、この聖職者上がりの強硬論者を元老院に送り込んだ張本人が、国防軍制服の上に元老院議員たるを示す長衣を纏った姿のまま、険しい視線をカディスに注いでいた。だがドクグラムが決してナシカの対論者を疎んじている訳ではないことぐらい、当のカディスにはすぐに察せられた。


 ――この日、捕虜経験者の前線転用案は賛成多数により可決された。それでも賛成派と反対派の票差が僅か5票でしかなかったのは、法案を提出した閥族派の中にも、今回の捕虜に対する処遇に対し、倫理的に躊躇を覚えた者がいたことも作用したのかも知れなかった。



 電子音――反射的に振り向いたミヒェールの目が傍らのテレグラフ受信機に向き、彼女の白く細い手が打ち出される紙片を取り上げた。文面を一読し、それをナードラへと差し出す。

「ナードラ様……」

 ミヒェールの表情は、これまでになく曇っている。

『上陸第一波、全滅』

 一読し、そしてナードラは紙片を握り潰した。表情にこそ出さなかったものの、震える拳が、その主の内に抱く憤怒を沈黙の中に訴えかけている。厳重な防備を誇る海岸線の正面に、「ある意図」から事前に何の準備も無く行われた強襲上陸作戦。当然のことながら犠牲は大きく、その過半が海岸線に土足すら踏み込むことも儘ならずに生を散らしている。これはまともな作戦ではなく、作戦に名を借りた造反者に対する「公開処刑」的な観があった。そう……彼らは「処刑」されている。

「野蛮な……」

 ナードラはそう言い、内心ではっとした。野蛮――かつて彼女らがそう呼び、蔑んできたニホン人ならば、果たして自軍の捕虜にこういう過酷な処分を科すようなことをするだろうか?

 それまで沈黙を保ってきたテレグラフが、再び入電の自動キーを刻み始め、そして新たな報告を吐き出した。


『――上陸第二波、橋頭保確保。而して第二波の損耗率4割にして、至急増援の要あり』

「……」

 柳眉を潜め、ナードラは嘆息する。どう要請したところで、上陸部隊は第二波までしかないのだ。海岸線の敵陣に正面から吶喊し、そして死ぬこと――それが戦力の過半をスロリア戦経験者から成る上陸部隊に課せられた影の命令であり、運命であった。

「センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートがいれば、状況は少しは変わったかもしれぬが……」

「……」

 ナードラの言葉に、ミヒェールが顔を上げた。三年前の「スロリア戦役」において、総崩れになった自軍の最後尾を、その総退却が完遂する最後まで守り、その結果としてニホン軍の重囲に陥り投降した共和国の誇る智将――その彼は、元老院による弾劾を経た末に一切の官位を剥奪され、辺境の一地方に蟄居を強いられている筈であった。そして、ロートら帰還した上級指揮官らに対する謂れなき弾劾を主導したのもやはり――


『――かかる一切の責任は、元老院と国防軍最高司令部の決定を無視し、己が功名心の赴くがままに兵を動かした諸将らに帰せられるべきである』

 セルデムス‐ディ‐ラ‐ナシカは、元老院において開かれたスロリア戦役総括会議の場において、議場中心部の演台に立ちそう言った。文字通りの弾劾が始まった瞬間――そして弾劾は、それを主導する側と、実際に行う者との間で共有する利益が見事なまでに合致していた。前者は責任の回避を欲し、後者は元老院議員としての「功績」を欲したのである。


『――神は全てを見通しておられる。諸将の罪は共和国に対する反逆であり、元老院に対する背信である。我ら元老院は神の代理として彼らを弾劾し、相応の罰を与えねばならぬ……!』

 元老院議場に、裁判所の被告席宜しく設けられた一角。そこでは本来ならば軍法会議の主管するところの弾劾の場で、被告に祀り上げられたスロリア帰還の将官、高級士官らが神祇官の弾劾演説を見守っていた。その中には、前線視察の途上で海戦に巻き込まれた結果にニホン海軍の捕虜となったロルメス‐デロム‐ヴァフレムスの姿もあった。むしろ元老院議員が捕虜になったが故に、弾劾の席は軍法会議の手から離れたのだとも言える。


 被告席……ロルメスの他、被告席の住人となったのは2名の将官と3名の准将、そして12名に及ぶ少佐以上の高級士官だった。ロルメスと少将位たるロートを除き、彼らの何れもスロリア戦役のごく初期から一貫して前線に在り、ニホン軍の反撃に直面してきた指揮官たちだ。彼らの軍人としての才幹と前線における働きの程は兎も角、これは対ニホン戦を経験してきた人々に対する仕打ちではなかった。一方で、前線においても比較的安全な位置におり、ニホンの追撃からも逃れ得た側の将官らは未だに敗戦の責任を追及されることは無く、全てが不問に付されているというのに……


 そう――敗戦ではなく、ニホンに囚われたこと自体が、弾劾者側にとってはこの場合罪であった。敗北を糊塗し、軍と元老院の威信を維持しようと図る軍部と閥族派にとって、彼ら捕虜は体のいい生贄であったのだ。そして……閥族派にとっても彼らにとって最も不快な弾劾者たるロルメスを追い落とし、あまつさえはその命脈を完全に断てる機会はこの場に置いて無いのであった。


『――ここに本職は議員諸君に要求する! ヴァフレムス議員及び2名の少将はこれを死罪。以下の准将、高級士官は武人として然るべき責任を自らの身命により取るべきである!』

 それは死刑の要求であり、自裁の勧告であった。拳銃や毒薬による自決の強制は、国防軍軍規にも明記されている将官から高級士官を対象にした刑罰の一つであり、自決による被告当人の名誉回復を図るという性格を有していたが、死刑は被告に関する一切の完全なる否定である。騒然とする平民派と閥族派の一部を前に、ナシカの弾劾は続いた。まるでたちの悪い(・・・・・)薬に耽溺したかのような、浮かされた表情で神祇官は弁舌を振ったのだ。

『――我が共和国は、神に愛されし国である。神に愛されし国に敗北などあろう筈がない。蛮族との戦いはなおも続く。而して敗北はこれを許さず。我らは敗者の身命を以て蛮族掃滅の決意をキズラサの神に御前に示すべきである!!』

 

 公然と、これに反駁した者がいる。

『――感情論と精神論から成る弾劾は十分に拝聴させて頂いた。しかしここは聖堂ではない。我々がこの場で語らねばならないのは神の存在についてではなく、かかる戦役における責任の所在についてである。而して身を呈して責任に殉ずる気概を持たぬ輩ばかりなのはどういうことか? 被告席に囚われているのは皆。彼らには存在しない責任を被らされたが故にニホンの虜囚となり、あまつさえは弾劾所の虜囚に祭り上げられた者ばかりである!』

 ルーガ-ダ-カディスだった。閥族派、平民派、その他中立派が分立する元老院において、彼は基本的には中立派と目されている。従って彼の反論には対立する前二者間の垣根を超越した説得力があった。


『――神より護られし共和国に、あれ程も偉大なる貢献をし、無数の戦場を潜った人々が、民衆より感謝と尊敬を受けるべき人々が、いまこうして被告席において晒し物にされようとしている。弾劾なる猿芝居の席に引き据えられ、彼らに対する弾劾と非難を聞くよう強制され、心無い人々の悪罵さえ受けようとしている。賤しくも高等文明の旗手たる我がローリダ共和国において、このような事が許されてよいものか!? これは見世物である。この世に存在する中で最も破廉恥で、低俗なる見世物である。本職、元老院議員ルーガ‐ダ‐カディスは此処に弾劾する! かかる猿芝居の興業者と司会者は恥を知るべきである。彼らは自らの落ち度を隠蔽するために兵士を供出した民衆の血税を使い、弾劾裁判なる猿芝居を神聖なる元老院にて演出した。これは共和国の名誉と未来に対する犯罪である。我々が今為すべきは、これらの罪を犯した、かかる戦役敗勢の真犯人たる連中を探し出し、この元老院にて正当なる裁きを受けさせることである!』


 カディスの演説はその量感でも、そして中身でも神祇官を圧倒した。そして話が今次の戦役で事実上の殿(しんがり)を務め、その結果として国防軍総司令部の「玉砕命令」を無視してニホン軍に降伏したセンカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートにまで及んだ時、カディスの弾劾は絶頂に達する。


『――そもそも、問題とすべきはこの戦争における神の存在ではなく正義の存在である。本職は問う、スロリアの戦いに、果たして正義はあったか? 問われるべきはセンカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートという一個人の内面に存在する正義の有無ではなく。戦争における正義の有無である。而して元老院の一部勢力は、共和国の将来に関わる問題を一個人の内面の問題に矮小化しようとしている。彼らは共和国の運命を決する戦争を、街中の喧嘩騒ぎ程度の細事であるかのように摩り替え、戦局に影響を与えることあたわざるはずの、些末なる一個人にその責任を押し付けんとすることで自らの責任を免れんとしている。これは即ち、彼ら共和国の指導者が、国家の命運を決する戦争を、その実盤上の遊戯程度のものとしか捉えていないことの、何よりの証では無いのか? 本職は改めて問う。狂信者を引き入れてまで外交や戦争を遊戯の札の如く扱い、将兵の名誉を泡沫のごとくに毀損しこれを恥とも思わぬ輩、そのような有象無象に率いられている共和国が現在戦っている戦争に正義はあるか? そして将来に亘り起こり得る戦争に、我が共和国は正義を有する事はできるのか?』


 カディスの弾劾の度に、只でさえ線の細く、血の気の薄い神祇官の肌から血色が失われていった。彼の背後にいるドクグラムに至っては、二段高い元老院の議席から、肩肘を付いて彼らの弾劾者を見下ろしたまま平静を装っていた。だがその鷲のような眼差しは、決して眼前の弾劾者に気圧されている訳ではなかった。

『――黙れ黙れ! 彼らは共和国を危機に晒したのだ! 相応の罰を受けるべきであろうが!』

『――危機!?』

 カディスの太い眉が、再び険しさを増した。

『――危機に晒したのは誰か? それはキズラサの神ならずとも知っている。最大の戦犯は自軍の劣勢を隠蔽し、元老院の判断を誤らせた植民地軍司令部と、敵を侮り、無謀な攻勢に出てニホン艦隊に鏖殺された植民地艦隊司令部ではないか? 彼らの罪を裁かずしてロルメスらの罪を、どうして問うことが出来ようか? もはや貴公如きでは話にならぬ。国防軍の指揮に関し責任を有する者をここに連れて来い! 即ち、スロリア戦役における国防軍最高司令官と海軍総司令官の元老院召喚を本職はここに要求する!! それまで弾劾は無期限中止とするべきである!』

 弾劾者たちは、完全に退路を絶たれた。そして被告席の住人を弁護する者はカディスだけではなかった。


『――捕虜は敢闘の末に投降する場合、不測の事態にあって緊急避難的に投降する場合の二つがある。これらの要件において虜囚となった者を裁くことは現行の法では出来ぬ。私は、被告席に在る彼らの何れもがこれらの要件を満たしているものと考える』


 教え子を諭す教育者のような穏やかな口調の持主は、やはりかつては学者だった人物であり、そして今では共和国の実質上の首席たる立場に在った。共和国第二執政官たるボニフェアス‐ティアスが、閥族派の捕虜断罪に異を唱えたのである。首席たる第一執政官の補佐として滅多に政治の表舞台に出ることなく、消極的であれ、かねてから閥族派の一翼と見做されていたが故に、閥族派にとって彼の発言は事実上の奇襲に等しかった。


 やや太り気味の体躯と、突き出た腹は、高い身長とがっしりとした肩の肉付きにより相殺されていた。禿げあがった頭髪は年齢相応に白く。それでいて平民という出自に似合わぬ気品すら外見から漂わせている。市井の法学者から貴族の入り婿、それに続く元老院議員の秘書から身を起こし、その卓越した事務処理能力と物腰の柔らかさから本職の元老院議員を経て第二執政官という望外の地位に就いたのが、このボニフェアス‐ティアスであった。この時期、スロリア戦役敗勢の衝撃から、半ば政権を投げ出す形で政界から足を遠のかせていた当時の第一執政官ギリアクス‐レ‐カメシスに代わり、国政の一切は次席たる第二執政官の彼が取り仕切るところとなっている。政治家としての出自が閥族派に近いながらも、政治的にはまったく無色で、名誉や蓄財に対する執着も表に出すことなく、はたまた就任以来事実上の「予備執政官」として国政に積極的に関与することもなく、各勢力間の勢力的均衡の結果として幸運にもその地位を得たと噂されるこの男は、長い元老院生活の中でも十指に達するかどうかという登壇回数を久しぶりに更新するかのように、発言を求めて壇上に立ったものだ。


 ティアスは言った。一切の猛々しさの無い、たどたどしさすらその口調の端々に感じられる、相手を落ち着かせるかのような口調は相変わらずだった。

『――どうしても捕虜を断罪したいというのであれば、法を変えるか私を免職してからにして頂きたい。共和国第二執政官たる至高の職に在る者として、この度の一部議員の振る舞いは遺憾であり、到底看過できぬ。皆々にはどうか自重を求めたい』

『……』

 議場は、沈黙した。第二執政官たるこの人物の発言はおろか、登院もしくは存在すら、予想していなかったような反応であった。


『――共和国の次席たる第二執政官のお言葉とは思えませぬ! あなたは神の御意志を侮辱なさるのですか? あなたは共和国の危機を如何様に御考えでいらっしゃいますのか!?』

 気を取り直したかのように、ナシカは口角泡を飛ばして彼よりも遥かに出自も社会的地位も上の第二執政官に言った。まるで弾劾の対象を、被告席のロルメスたちからティアスに変えたかのような態度だった。

『――共和国は、我がローリダ共和国は、現在に至るまで東方の蛮族ニホンと交戦中である。聖戦は神の御意志であり、停戦交渉を経たとはいえ、これらの前提には微塵の揺るぎはない。そうですな? ドクグラム元帥』

 煩わしげに神祇官の質問に応じ、ティアスは議席のドクグラムを見遣った。ドクグラムは頷き、立ち上がった。

『――小官も、ティアス第二執政官の発言に同意するものです。ティアス第二執政官閣下』

 慇懃さを前面に押し立てたかのような態度で一礼し、ドクグラムは言った。だがティアスの肩書たる第二執政官の「第二」という単語を強調する無礼さも、彼は忘れなかった。

 ティアスは頷き、続けた。

『――これより先、ニホンとの戦争は続く。おそらくは我らがニホンの本土を征服し、ニホン族を服属せしめるまで続く。当然、ニホンの虜囚となる者は今だけではなく将来も、その数もまたずっと多く出よう。従って今ここで虜囚に、軽率にも過激な処断を下せば、我らはこれから先に出る虜囚に対しても、その事情の内に拠らず、同じ処断を以て遇せねばならぬことになる。ナシカ議員の追及は共和国を愛する者としては当然の行為なれど、性急の観は否めぬ。私としても重ねて自重を求めたい』


『――賛成、ティアス執政官の意見に賛成』

『――本職も、執政官の発言に賛同するものです』

『――被告にはどうか、寛大な処分を』

 ティアスに賛同を示す声が、議席の各所から上がる。喩え被告が有罪であれ無罪であれ、これ以上の対立は深刻な結果を生む。それは対ニホン戦争においても決して良い影響をもたらさないであろう――ティアスによって投じられた懸念が、平民派と閥族派の双方に共有された、これは劇的な瞬間だった。

 

 弾劾から一転した査問会は、その三日目に被告席の住人に処断を下した。

 元老院議員ロルメス‐デロム‐ヴァフレムスは無期限の登院停止。

 センカナス-アルヴァク‐デ‐ロート少将は退役。

 グラーフス‐フ‐ラ‐ティヴァリ少将は予備役に編入。

 准将以下の幹部は、全員が不問となった。



「――ミレス少佐、許せ。あれがおじじ様の為し得る最善の処置だったのだ」

「存じておりますわ。代表」

 その肩に延びたナードラの手をそのままに、ミヒェールは沈思する。査問の結果、センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートの生命は救われた。だが敵中に在って最後まで戦った彼の名誉は奪われたも同然だった。そしてミヒェールは、その最初から最後まで彼を救うことに関しては無力だった。

 ――そのミヒェールの心中を察するかのように、ナードラは言った。

「ロート少将は今では、田舎で教師をしているとか……」

「よかったのではありませんか?……教師は、あの方の希望でしたから」

「週末にでも会いに行くといい。私が許す」

「有難うございます。ナードラ様」

 ミヒェールの顔に喜色が戻るのを察し、ナードラは話題を変えた。

「それにしても、第二執政官があれほどの狸だったとは……人は見掛けに拠らぬものだな」

「同感です。しかし……あれ程派閥の意に沿わぬ言動を為したからには……」

「……第二執政官は、私欲のない人間だ。それは私にも以前から判っていた。喩えこれ以上の前途が閉ざされたからとて、彼は自らの行いを呪うまい」

 順当に行けば、お飾りとはいえボニフェアス‐ティアスに第一執政官の地位が廻って来る可能性は十分にあった。だが、今回の捕虜弁護が、閥族派上位に位置する人々の反感を買ったことは推測するまでも無いことであろう。ティアス本人もまた、それは覚悟して上での弁護であったのに違いない。しかし、職を賭してまで弁護に回るとは……

「ティアス執政官は、ロルメスの教師だったからな。未だに情を宿しておいでだったのだろう。ロルメスもあれでよく助言を受けに彼の許を訪ねていたようであったしな」

 と、ナードラは事情を斟酌してみせた。騎士以上の上流階級が、その子弟に教育を与えるにあたり、専用の学校に通わせるのではなく専属の家庭教師を付ける場合は往々にしてある。ヴァフレムス家は教育熱心であったが故に息子に家庭教師を付けて学ばせるという途を択んだのであろう。その家庭教師が、今回はたまたま共和国の最高指導者であっただけのことだ……


 その時、テレグラフ受信機が再び動き出し、電文を取り上げたミヒェールは、複雑な表情をした。

「どうした? 少佐?」

「ナードラ様、これを……」

『――進攻軍主力、北方より渡河完了。シレジナ方面のノルラント軍潰走』

「……」

 ナードラは、無言のまま紙片を握り潰す。国防軍総司令部は、結局は「ルーガ総研」の情報を採った。作戦が始まるずっと前に、「気象観測機」により察知された海岸地帯で待ち構える敵の布陣の、空白部分を突いた後背からの大規模な奇襲作戦の成功。本来ならそれだけでシレジナ奪回は成る筈だった。それでも事前の作戦案通りに無用の作戦を強いられ、結果的に壮大な囮を演じた上陸部隊の損害は、決して無視してはならないであろう。

「上陸部隊の兵士たちには、気の毒であった」

「ナードラ様……」

 言葉を失うミヒェールを他所に、ナードラはオフィスの窓辺へと歩み寄る。街の灯は街灯を除き完全に周囲から消え去り、そこに働く者の影の消えた建物の連なりが、まるで遺跡を思わせる、厳粛なまでの佇まいを保ったままナードラを見返していた。

 緑の眼差しを外界へ向かって細めつつ、ナードラは言った。

「少佐……私の『独立(インデペンデンシカ)』計画の原案はもう読んだか?」

 ミヒェールは頷き、言った。

「素晴らしい作戦案ですわ。すぐに細部を詰め、情報部に実行を促すべきです」

「急いては事を仕損じる。近々、ノルラント情勢に関し、ニホンもまた動くであろう。実行の機会はその時に生じよう。時期を待つことだ」

「では、やはり……」

 ミヒェールの絶句に、ナードラは無言のまま頷くことで応じた。

「我らの計画の上では、国防軍もまた駒の一つであるに過ぎぬ……というより今回ばかりは彼らにも駒たるに徹してもらわねば困る」

「……」

 それでも、「計画」の中身の苛烈なることを思い、複雑な表情を隠さないミヒェールを察し、ナードラは緑の瞳を険しくした。

「共和国を、守るためだ少佐」

「はっ……!」




シレジナ方面基準表示時刻11月03日 午後17時50分 ローリダ政府直轄領シレジナ 


 戦場の生み出す絶叫と陰鬱は、もはや煙の如くに掻き消え、戦勝の余韻と戦場掃除の喧噪とが、海岸線一帯を包んでいた。

 戦闘は終わった。だがそれは、海岸線側から殺到し、敵の反撃を一手に引き受けた結果として兵力の半分近くを損耗した上陸部隊の労苦を、その根本から否定する形で――つまるところは、上陸部隊は囮だった。


 戦闘の勝敗を決したのはシレジナ北部のニーメ河を渡河し、薄手になっていた北部の防衛線を突破した機械化部隊だった。突破はそれ自体が防衛線全体の崩壊を意味するものではなかったが、奇襲にも等しい北部からの浸透は、それを予想だにしていなかったノルラント同盟軍司令部に衝撃を与え、兵力の再編成という名の下での総退却を決意させたのである。司令部は未だに前線を守る幾下兵力の過半を放棄して北西部へ退却し、その後には司令部を失い右往左往する防衛線が残された――


「…………」

 天井から崩れ、完全な廃墟と化したトーチカの床に座り込み、セオビム‐ル‐パノンは半ば放心状態で見渡す限りの荒涼と化した海岸線を見下ろしていた。ほんの一時間前まで弾丸が飛び交い、多くの敵味方将兵の血を吸っていた海岸線では、軍徴用の民間輸送船と組立式の艀によりすでに後続部隊の上陸と物資の荷揚げが始まっていた。ふと空を仰げば、金属製の骨組みを露わにした回転翼機が仮設の着陸地点に慌ただしく降り立ち、それは外装式の搬送台に負傷者を横たえた担架を幾つも固定すると、レシプロエンジンの爆音と排気煙を撒き散らしつつ再び上昇し、海の方向へと消えていった。

 その内、一台の軍用トラックがパノン達のいるトーチカの近くまで上って来るのがパノンには見えた。パノンを始め、生き残った兵士たちは群を為して休みを取り、何れ来るであろう命令を待っていた。

「ホラ、吸え」

 と、軍曹が煙草の包みを差し出した。未成年故に躊躇うパノンの鼻先に、カビ臭い煙草を突き出す素振りを見せる。遠慮をするな、ということか……?

 一本を慎重に、パノンは潰れかけた包装から引き抜いた。傍らにいた古参兵が、すでに火の点いた一本を、咥えながらにパノンに向けてくれた。貰い火――

「――」

 慣れぬ、濃い煙が喉を(くすぐ)るのを覚える。だが不思議と不快だとは思わなかった。海水と汗に湿り、砂に汚れた軍服に包まれた身体が、煙を吸い込む内にじんわりと温まるのをパノンは覚えた。

 今更ながら、生き残ったという実感――

 丘を登り切ったトラックが、パノンたちの鼻先を通り過ぎていく――


「けっ敬礼っ!!」

 悲鳴にも似た兵士の声に、パノン達は鞭打たれたかのように一斉に立ち上がった。アスズ‐ギラス曹長を従えたグラノス‐ディリ‐ハーレン中尉が、パノン達の前に現れたのだ。一斉に敬礼する他部隊の兵士に丁寧に答礼し、ハーレン中尉は言った。

「エイラ中隊のハーレンだ。これより貴官らは、本官の指揮下に入る。これは連隊司令部もすでに了承済みのことだ」

「あのう……中隊長は? カレス中尉は?」

「カレス中尉は戦死された。追って布告があるだろう。それまで貴官らの身柄はエイラ中隊で預かる。不服かね?」

「……いえ」

「では部隊はこれより移動。宿営地設営を行う。糧食の配給は1900を予定している。それまで終わらせておくように。かかれ!」

 不思議と、悲しいとは思わなかった。むしろ新たな命令を与えられたことで、生残りの兵士たちには連帯感が生まれていた。司令部に報告へ戻るハーレン中尉らと別れ、宿営予定地まで歩く途上、パノンは後送を待つ負傷者の一団と行き合った。その全てが歩ける者。歩けない者の全員が、この戦闘で既に命を落としていた。

「パノン? パノン!」

「クリム……!」

 肩から包帯を吊ったクリム‐デ‐グースは、黄ばんだ歯を見せて笑い掛けた。包帯をパノンに見せびらかす様にして、彼は満面の笑みを隠さなかった。

「俺たちは母船に後送さ。噂によれば、負傷兵は本国に帰されるそうだ」

「それは……よかったな」

「此処を()ってしまえば戦争はもう終わったようなものさ。パノンも近いうちに帰れるんじゃないか?」

「だといいけど……」

 パノンは顔を曇らせた。あれ程死ぬ思いをしながら、何故か全てがうまく行き過ぎているように思えてならなかった。パノンの心配を察し、クリムは言った。

「帰れるさ。帰れるって」

 そのとき、引率の下士官がクリムを怒鳴り付けた。負傷兵の隊列はすでに遠くに在った。軽い狼狽をそのままに、クリムはパノンの肩を叩いた。

「じゃあな。先にアダロネスで待ってるぜ!」

「はははは……」

 力無く手を振り、遠ざかりゆく戦友を見送る。負傷したにも関わらず、戦友の歩調と背中には躍動が宿っていた。その後には、落胆が待っていた。取り残されたという落胆――


「――!」

 ふと、視線を巡らせた先で、パノンは表情を凍らせる。逃げ遅れ、戦場に取り残された敵軍の兵士たち、武器を失い、後ろ手に縛られ、人間としての尊厳さえ失い掛けた彼らを取り囲み見下ろす、戦闘服も真新しい後続部隊の兵士たち……

 パンッ!!

 銃声と共に起きた眼前の出来事を、パノンは一瞬理解しかねた。至近距離からの発砲。にやけ顔もそのままに、あたかも射的でもするかのように捕虜を撃ち殺した友軍兵士――銃声の連鎖の度に、それは少年の眼前で虐殺へと姿を変えていく。

「どうした? 新兵」

 立ち尽くしたまま一向に動こうとしないパノンに、軍曹が近付いてきた。そして彼すら、眼前の光景に目を奪われた。

「無理もない……だが、これが戦争なんだ」

「……」

「行くぞ。このことは忘れろ。いいな」

 軍曹はパノンの袖をやや強引に引いた。宿営地への道すがら、軍曹は言った。

「そう言えば新兵、未だ名前を聞いていなかったな」

「パノン……セオビム‐ル‐パノン二等兵であります……!」

「ほう……お前アイルジニアンなのか? 俺はスニフ。デオゲル‐ゼム‐ガ‐スニフだ。宜しくな」

「じゃあ、軍曹も……」

「同族同士、仲良くやろうぜ」

 スニフ軍曹は笑い掛け、パノンの肩を叩いた。足を速め歩きつつ、パノンは肩越しに海岸線の方向を振り返る――赤みを増した太陽は、その下弦の先端を、水平線彼方へと没しようとしていた。


 不意に沸き起こる戦慄――パノンは思った。

 太陽ですら、その輝きに人間の血を欲していたのだろうか?……と。



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[気になる点] スキピオ弾劾裁判のグラックスみたいな事言ってるな
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