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第三四章 「パラソルの下で」


 デルバリア同盟内基準表示時刻1月12日 午前10時23分 デルバリア同盟領デルエベ藩王国


 諏訪内 佐那子にとって、誰かに見られているという気配を感じる様になったのは、デルエベに着いて二日が過ぎてからのことだ。人質に対する厳格な監視の目ではなく、彼女自身に対する別の誰かの、監視とは趣の異なる視線。それが佐那子のいる場所から距離を置き、時折注がれるようになっている。


 そのような状況の下で、人質の彼女は医師としての仕事に就いていた。


 人質のひとりとして、新日空368便の日本人35名の健康問題をひと段落させた今となっては、同じく奴隷としてデルエベに留め置かれた人々が、医師である佐那子をして関心と救済の対象となった。行動は佐那子自身が医師としての使命感から望んだことでもあるが、奴隷を商うデルバリア人たちが、目ざとく佐那子の職業に着目した結果でもある。

 デルバリア人からして人質はある意味「賓客」だが、奴隷は「商品」でしかない。「商品価値」を落とさないための努力を払う必要性を、彼らは商人として認めていた。その「管理」の手段として、佐那子は彼らに見出されたのである。「家畜小屋」にも、家畜の健康状態を把握する獣医が必要――デルバリアの奴隷商人からすれば、おそらくはそういう意図なのだろう。


 丁度いいときに、自分はデルバリア(ここ)に連れて来られたというわけだ――36人の日本人が軟禁されている「もと倉庫」と、その敷地と同じ広さの空間に生じた奴隷の海を目の当たりにして、佐那子は絶句と同時に世の不条理を感じた。数だけでも日本人人質の十倍では効かない。襤褸同然の衣服を纏った、半裸同然の痩せこけた人々の群。中には異種族であろうか、自分と同じ人間と言い切っていいのか躊躇う程の体躯と顔の造形を有する者も少なからずいる。奴隷たちは半壊した小さな格納庫を仮の収容所に暮らし、あるいはあまりの格納庫の狭さ故、そこからもあぶれて炎天下を放置同然に囲われている。彼らに買い手が見つかるまで。或いは――


「――先が無いと思ったら、遠慮なく言っていいぞニホン人」

 銃を持ったデルバリア兵が、案内がてらにやけ顔をそのままに言い、佐那子は芯から背筋を震わせた。この奴隷商人どもが、ニホン人医師に「商品」の「品質管理(メンテナンス)」ではなく、「見極め」を期待していることを、彼女はその瞬間に悟ったのである。そして彼らがあらゆる手段で確保し此処に集積している「商品」の健康状態は、日を追うごとに悪化し続けていた。奴隷の集積期間は短日時。注文が入り次第すぐ出荷するのが建前であるから、そこに家畜小屋以上の居住空間を設ける必要を、デルバリア人は認めていなかったのだ。佐那子には、そのようなデルバリア人の態度を容認する気は無かった。

 奴隷とデルバリア兵の診察を引き受ける代わりに、佐那子は自分が解放されるまで奴隷の殺傷を止めることを条件にした。「見極め」役たるを拒否したニホン人医師を、デルバリア兵の指揮官は舌打ちを以て報いた。「勝手にすればいい。だが奴隷にやる薬はないからな」


 デルバリア人の非協力的な対応は、結果として子供騙しの処置となり、佐那子はまる半日をそれに費やした。日本人人質の体調に不安はなかった。日本人には朝夕二食であるが毎日食事が出、水の配給もある。

 それに乗客の中に看護師と看護助手が一人ずついた。これは機内でグナドス人に暴行された乗客を救護する過程で明らかになったことだ。佐那子と同じく国外の人道支援活動で移動中の看護師 高嶋 未緒と、海外旅行中の看護助手 杉井 慶のふたり。そこに乗客を守るためにデルバリア行きを志願した日本人客室乗務員(CA)もいる。佐那子の応急処置を手伝った彼らの手際に、短日時の人生の交差ではあるが佐那子は高い信頼を寄せている。乗客に重傷者も病人も今のところ発生していない。当面、乗客の健康問題は彼らに任せればいいだろう――もちろん、事態急変の際にはすぐに声をかけるよう言い含めてはあるのだが……



 ……佐那子にとって、誰かに見られているという気配を感じる様になったのは、まさにその時からであった。遠く、兵士たちの監視からさらに開いた間合いを置いて、自分はデリバリア人でもグナドス人でもない「誰か」に監視――否、「観察」されている。そうだ……観察なのだと、佐那子はその「誰か」の意図を悟っていた。


 その日、昼が過ぎるのと同時に、佐那子は奴隷たちの「処置」――結局はデリバリア人が言う通りの「見極め」――を終えた。「処置」の結果、おそらくは今夜までに奴隷二人が衰弱の末に死に、翌日には三人がこの地獄で不毛な生涯を終えることになるという確信を、佐那子は抱いていた。薬と適切な設備があれば助かるかもしれぬ命も、当然その中には含まれていた。それらが此処に無い以上、用意し得る最良の環境で彼らの生を終わらせてやるしかできないだろう。

 治療活動の傍らで、佐那子は奴隷たちの体調を把握し、僅かでも回復の見込める者には可能な処置を施すことに努めた。どんなに悲惨な環境でも、生きられる時間が延びるだけ、幸運と遭遇する確率は上がる筈であった。奴隷商人が彼らを買い上げて連れていくか、或いは――


 機内の薬品のストックは、すぐに尽きた。その薬は、見張りのデルバリア兵の間でも充足しているとは言い難かった。何処かで瀕死の重傷を負ったデルバリア兵が、兵舎の陰に連れ出されて消えた瞬間、数発の銃声とともにそのまま陰から出てこなかったという光景を、彼女は治療の傍らで目にしている。助かる見込みのない同胞に躊躇なく止めを刺せるのだから、弱った奴隷にも容易に銃口が向くのだ。




 狂騒と絶望に満ちた昼を過ぎた。

 黄土色の地平線が、熱波に揺らぐ。それを背景に、奴隷の子供たちが自分たちの境遇を忘れたかのように嬌声を上げ、大地を裸足で走り回る。彼らも近い将来は此処で得た友達と、ひいては行動を共にした親兄弟と引き離される運命を持っている。佐那子にできるのは、彼らがこの不毛に過ぎる日々を生き延びられる手筈を、貧弱な環境と知識を生かして可能な限り整えてやるぐらいなことであった。

 

 その佐那子はといえば、その場凌ぎにすらならぬ程破れた日傘(パラソル)の下で、長椅子に背を委ねて暫しの休息……否、当直を決め込んでいる。

 先刻、自分を観察する「誰か」の白い影を一瞬見た地平線に、佐那子は疲労でまどろみ掛けた眼差しを流した。白い影は、とうの昔に消え去っていた。環境の変化が生む抑圧感(ストレス)か、日射病の前兆としての幻覚か――不安よりもむしろ医師としての義務感から自分で脈を取る。脈拍に熱中症の前兆は無かった。それでも佐那子は熱い水筒の水を口に含む……喉が乾いてなくとも水を飲め。この灼熱に在っては、自覚症状はなくとも進行する脱水症状、という線もある。


 長椅子の傍ら、やはりみすぼらしい卓上、無造作に置いた大学ノートに佐那子は眠気で濁った眼を流した。自分が診た奴隷の名と病状、必要な対処法を、日本語と覚えたての新世界公用語で殴り書きした紙片だ。彼らが買われて此処を離れる際、奴隷商人に紙片を握らせて絶対に実施する様に直言する積りであった。此処でできる精一杯の処置のひとつ、言い換えれば医師としての義務感のなせる業だ。



「……?」

 卓を挟んだ隣から伸びた白い手もまた、佐那子には疲労の生む幻影と思われた。


 その白い手が大学ノートを取り上げるのを呆然と見送った後に、初めて驚愕が生じた。目を開けて顔を上げ、佐那子は白い手の主を見遣った。肌にも負けず白い長衣の女が、目を細めて大学ノートをパラパラと捲るのを見る。長い黒髪、その艶やかさにも劣らず美しい横顔も然ることながら、愉しむ様にノートを眺める緑の瞳に、佐那子の目は性別を忘れて捕われた。奴隷でもデルバリア人でもないことは、一瞬で判った……おそらくは、グナドス人でもない。確か何処かで見た顔だ、それもごく最近――先刻までの多忙でショートしかけた記憶をフル稼働させようと、佐那子は務めた。


 大学ノートの日本語に目を落としながら、白い女が言った。

「我が本国ローリダのキズラサ教会に、医療組織を派遣してくれる様取り計らっておいた。貴方には辛いだろうが今しばらく耐えて欲しい」

「キズラサ教会? 毒でも撒こうっていうの?」

「……?」

「……」

 女が、佐那子を見た。やや切れ長の、緑の瞳に一瞬、敵意ではなく別の光が宿るのを佐那子は見た。気圧されると思った。悪い眼ではないが、怖い眼だ。修羅場――具体的に言えば戦場――を潜った眼だと確信した。佐那子が見守る前でその女は、半ば当然の様に、あるいは悠然とテーブルを挟んだ長椅子に腰掛ける。


「四年前のニホン人はもう少し素直であった。今のニホン人は我らに対し平然と無形有形の毒を撒く」

「まったく……誰のせいでこんなことになったと思っているのよ」

 ローリダ人だと思うと、自然、口調が荒くなる。それを自覚して軽い自己嫌悪を佐那子は覚えた。険しい佐那子の眼差しを感じ取ったのだろう。目を細め、ローリダの女は口を開く。


「……この際聞いておくが、ローリダ人の私のことも、何かあれば診てくれるのだろう?」

「……」

 困惑の次に、苛立ちが生まれた。真顔で揶揄(からか)われている――その佐那子の目前で、ローリダの女の眦が柔らいだ。戯れ同然にぱらぱらと捲られていた大学ノートが、白く美しい手で閉じられ、卓上に戻る。周囲が静かであることに、このとき初めて気づく。

 もはやこの地の環境音とでも言うべき奴隷の悲鳴や怒声が、いつの間にか聞こえない。佐那子の制止にも拘わらず、何かトラブルがある度に奴隷に棒を振り上げ鞭を奮っていたデルバリア兵が、奴隷に手を出さなくなっている。それが襤褸(ぼろ)けたパラソルの下で座るふたりを、遠巻きにする武装兵の一団の、静謐を伴った威圧の効果であることに気付き、同時に佐那子はローリダ人の素性を思い出した。


「たしか……交渉に来たんだっけ? 何の交渉か知らないけど」

「お前たちと一緒に、この監獄から出るための交渉だ」

「政府に頼まれたの? どっちかの」

「それもあるが、此処に来たのは私の意思だ。これで私はニホンの政府に恩を売る」

「買うはずないよ。こんな恩……」


 頭を振る。思わず声が荒くなる。それをやや見開いた緑の瞳が受け止める。「では、どうなると思う?」

「助けに……来る……と思う」

「ニホンの軍隊がか?」

 躊躇った回答を、怪訝が受け止める。現実は自衛隊が飛んでくるには遠過ぎる上に、いまの自衛隊は――佐那子に回答を躊躇わせた現実を、隣のローリダ人は嘲弄する風でもなかった。


「四年前のお前たちの奇襲を予期できなかった私の母国(くに)が否定できた義理ではないが、此処まであまりに遠過ぎはしないかな?」

「むかしパパが言ってた……遠すぎる……ハワイのアメリカ人もそう言ってたって……」

「……?」

「昔、太平洋という広い海の真ん中に、ハワイという島があったの。日本とデルバリアと同じくらい離れてる場所。ハワイのアメリカ人は日本軍が海を渡って攻めてくるとは思わなかった。でも日本軍はある日突然攻めて来て、ハワイにいたアメリカの戦艦はみんな沈められた。パパの曾御爺ちゃんも、その時の攻撃隊にいたって……」

「戦士の家系か? ニホンにはそういうものがあると聞いた」

「……」佐那子には、答えられない。自分の一族の遍歴をそう総括されたことに、佐那子は意表を突かれた気分がした。佐那子の困惑を、ローリダの女は微かに嘲笑(わら)った。


「成功例があれば、どんな暴挙でも壮挙と見做されるであろうな……」

「次は成功するかどうかはわからないけどね……」

「自分から話を振っておきながら、そんな締め方をするのか医師(ドクテル)?」

「あなたがそう言いたそうに見えたから……」


「……」

「……?」

 そのとき、ふたりは初めてお互いの顔を凝視した。困惑する佐那子の前で、緑の瞳もまた困惑に揺れていた。誰からが足早に近づく気配がする。武装したローリダ人がひとりパラソルの前で背を正し、無感情に要件を告げた。

「特使、ザミン将軍とグナドスの特使がデデリバル宮殿でお待ちです。予定を繰り上げて会談したいと」

「無作法な……」

 内嵌めした腕時計の盤面を無感動に眺め、突き放す。白く長い腕に嵌めている時計が、自分のそれと同じチープカシオであることに、佐那子はそのとき初めて気付いた。出立するべく腰を上げた間際、ローリダの女は佐那子に言った。


「不愉快な土地だ。だから先生(ドクテル)、これから毎日、こうやって話そう」

「確か、ナードラさんと言いましたっけ……」彼女の素性を思い出すや、思わず口に出た。部下の口から会談を求められたときの、塵でも見るような目尻が優しく変貌(かわ)る。

「ルーガ‐ラ‐ナードラ。ナードラでいい。そういえば貴方の名前を未だ聞いていなかったな。聞かせてほしい」

「佐那子……諏訪内 佐那子」

「ではサナコ先生(ドクテル・サナコ)、そういうことで頼む」


 微笑――そして、天使が地上から離れるかのような足取りで、ルーガ‐ラ‐ナードラは日傘(パラソル)の下から進み出た。均整の取れた女の白い後姿が、衛兵に守られて遠ざかる。砂埃と蜃気楼に視界を遮られるまで、佐那子は何時しかナードラの去った方向に意識を囚われてしまっていた。





「――ノドコールの戦況は、思わしくないと見えますな」

 グナドス王国外務省特使クラトアン‐カテラが細い顎をにやけさせながらに言った。着座したナードラから、円卓を挟んだ対面であった。「ニホン人は、未だ戦争を止めると言ってきませんか?」


「彼らに文明化種族の作法は理解(わか)らないようです」

 微笑を作ってナードラは応じた。デルバリア、グナドス双方と人質解放の交渉をする間、ノドコールにおける停戦を求めるローリダ政府の試みは頓挫しているように見える。外信に接する限り、ローリダ側も日本側もそれを隠していない。だからこそこの会談の場で平然とノドコールの話が出る。日本側から対価を引き出すまで、人質の長期拘留も厭わないザミン及びグナドス人と、人質の早期解放を実施した上での、日本政府との交渉を企図するナードラとの見解の相違が、この辺りに存在した。彼らハイジャック犯をして、人質の早期解放に方針を転換させることに、当面のナードラの目標はある。表向きは……であるが。


「……今朝、本国より訓令を受けました」カテラが言った。

「ノドコールにおける停戦を交換条件に加える件については、わがグナドス王政府国務尚書はじめ、閣僚の全員も同意するところであります」

「確認させて頂きますが、それはノドコール、ニホン双方ともに銃火を収めるという形を考えておられるのですか?」

「いいえ、ローリダとニホン双方ともに……という形で、です」

「……」


 呆気に取られた表情を、ナードラは(わざ)と見せ、見せられたグナドスの特使は我が意を得たりと再び口元を綻ばせた。本人は自覚していないが、そう遠くない将来、弄した策に溺れて沈む貌だとナードラは思った。それを援ける義理も必要も、ナードラはこのグナドス人に認めていない。


「ノドコール共和国の住民はローリダ人ですが、貴国政府の統治下にあるローリダ人ではありません。ですがニホン人はこれで双方が銃火を収めると思い込むでしょう。複雑な分析のできぬ彼らに、ローリダ政府とノドコールのローリダ人の区別は付きません。ローリダ政府は停戦に従いますが、植民地のローリダ人住民がそれに囚われる義務は無いのです」

「……でしょうね」

 そう言うと思った――ナードラは、自身の予測の正しさを確信する一方で、特使の見解の浅薄さに込み上げてくる哄笑を、平然を装いつつ耐える。その背後にローリダ政府の関与が有ろうが無かろうが、ニホン人は、ノドコール共和国の背信を停戦協定違反と見なして即座に反撃するだろう。カテラ特使の言は、ニホンがローリダに対し著しい劣勢にある場合に限り、効力を発揮する手である。現在のニホン人は、共和国ローリダに膝を屈する立場にはない。


「……ですから、ニホン人に対する妥協の必要は、我々は認めていませんわナードラ特使」

 カテラの隣席、ユニ‐ゼテクが言った。犯罪者がどういう根拠で自国政府の公僕と同席できているのか、ナードラには内心では甚だ疑問であったが、それを敢えて口に出す必要もまた、今の彼女は認めていない。

「清浄なる世界を完成させるためにも、ニホンの勢力拡大は抑制されねばなりません。聖地母神(ガレイア)の営みに抵触しない、均衡ある人類種の発展を援けることこそに、我らがこの世界に舞い降りた意味があるのですから」

「そのためには無関係の民間人を誘拐し、辺境に拘束することも厭わない……と?」

「ニホン人は障害です。ガレイア理論に基づく新世界建設のためにも、速やかな絶滅を以て最終的な解決とするのが望ましいのですが、そうしないのは文明人たる我々の慈悲ですわ」


「……これは、貴国の公式見解なのですか特使」

 平然を装い、ナードラはカテラに向き直った。正直、正気とは思えぬ持論を笑顔で披瀝するグナドスの女に、辟易にも似た感情を抱き始めていたこともある……同胞のハイジャック犯の言に、苦慮した様子はカテラの顔には見えなかった。


「我がグナドスでは、国法により言論の自由が保障されております。それに……」

「……?」

「……これも我が政府からの訓令のひとつなのですが、我がグナドスは従来商業面に限定された貴国との交流を、相互防衛条約にまで拡大させる方針であります。この場を借り、ナードラ特使には我らの打診を貴国に持ち帰り検討して頂きたいのです」

「……」

 ナードラの沈黙を、興味の発露と受け取ったのか、カテラの言は続いた。

「ニホンのみならず、貴国は多くの紛争を抱えておいでです。昨今はノルラントとの係争もお有りでしょう? これは我がグナドスも同じです。ですから――」


「……それで、貴国の見解は何処にありや?」

「……?」

 話題をユニ‐ゼテクの見解まで引き戻したナードラを、グナドスの特使は目を丸くして凝視した。正視したナードラの眼つきが変わっていることに気付き、目を逸らそうとして失敗する。翠玉(エメラルド)にも比する程の眼光が、言質を逃すまいと容赦なく特使に向いていた。


「先ずは貴国の真意を此処で聞いておきませんと……」

「貴国ローリダもそうであるように、目下我がグナドスは貿易市場のあらゆる分野でニホンと競合する状況にあります。かかる事態に乗じてニホンの勢いを削ぎ、優位に立つ好機と見做す者は、我がグナドスの中枢にいることを私は否定するものではありません。国務尚書の外交方針にも彼らの意向は盛り込まれているものと、ナードラ特使にはお考え頂いてもらって結構です」


「ふむ……」

 ユニ‐ゼテクの思想を一千倍位希釈した様な対ニホン観だと、ナードラはカテラの言を解釈した。ただし解釈によってはハイジャック犯どもとの共闘を企図するものではないとも思える。現状そうした方が有利だから、付き合っているだけだとも――成り行きによっては切り捨てる積りかと――ナードラはカテラとその背後にいる者たちの真意を、そう推し量る。


「はっきりとした見解ではないように思われますが、ゼテク博士はこれで宜しいのですか?」

 純粋な興味を装い、ナードラは話をユニ‐ゼテクに向けた。

「我々『新世界清浄化同盟』への賛同者及び支援者は、グナドスの上位層には数多居ます。この世界の清浄化を願う彼らの支援と熱意を、私は疑うものではありませんわ」

「……」

 平静――そこに微笑を加えて応じる様が、彼女をして祖国の政府に対する疑念を抱いている風にはナードラには見えない。そこに国籍を問わず「お高く留まった」人間に対する軽い反感が、ナードラをして立場を逸脱した稚気を喚起させた。


「……成り行きによっては、切り捨てられる可能性があるとは、お考えにならないのですか博士?」

「……?」

 目を見開き、カテラがナードラを見遣った。何かを言いだそうとして口ごもるカテラの表情を流し目で愉しみつつ、ナードラは眼前のユニ‐ゼテクに向き直る。博士の顔に浮かんでいたのは、驚愕ではなくむしろ苛立ちであった。

「ニホンや他の列強が為すような、『神無き年代』の古代人の如きどす黒い工作とは、文明国たる我がグナドスは無縁であると私は信じています」

「……これはご無礼致しました」

 (わざ)と大仰に驚いて見せ、ナードラは陳謝した。ローリダ人の態度を自分の発言に対する感服と見たのか、ユニ‐ゼテクは満足したように見える。単純……否、純粋な人なのだなとナードラは思う。その「どす黒い工作」を、彼女にとっての同胞であるはずのカテラが弄さないという保証は全くない様だが。


「博士の信念の程、遺漏なく本国に報告させていただきます。ユニ‐ゼテク博士。ただ……」

「ただ?」

「今までこの話が出なかったのが不思議でならなかったのだが、ニホン人が人質を奪回に来る可能性は、お考えにはならないのか?」

「……!」

 ナードラの発言は、カテラとユニ‐ゼテクの頭上に無形の雷を落とした。ただし外ではなく屋内で体感する類の落雷だ。相手の抱いた感慨が他人事のそれに近いことを、ナードラは二人の表情から即座に悟った。カテラが苦笑し、頭を振るのをナードラは見る。


「奪回と簡単に仰るが、成功しますまい。スロリアの戦場から此処デルバリアまで、広大な海を隔てております。兵力を投じるには時間がかかり過ぎ、それは程なくしてデルバリアの察知するところとなるでしょう。現状、デルバリアに対するニホンの実力行使は、距離の防壁に阻まれております」

「デルバリアに偵察と監視の能力はありますか?」

「我が国のみならず、今次戦役におけるニホン軍の動向を注視する国及び勢力は少なからずあります。我らグナドスはそれらの勢力とも密接に情報を交換しています。何故なら、平和的な交渉に影を差す動きは、その予兆が見え次第排除されねばならないからです。万が一、ニホンに奪回作戦を企図する兆候が見えれば、それは程なくしてデルバリア側の知る処となるでしょうな」

「……」

 柳眉を(しか)めて凝視するナードラの前で、カテラの笑顔には陰がこもり始めていた。それは悪意だとナードラには思えた。

「……しかも現状のニホンにはスロリア以外に大軍を投じる余裕はない。私もかつては軍人でしたので、その点自信を以て言えます。そのための決断もできないでしょう」

「可能か否かは別として、我が共和国政府内部には、その懸念を抱く者がいます」


 ナードラは言った。

「我が共和国の恥を晒すようですが、四年前のスロリア戦役の際にも、我が共和国では政府軍部ともにニホン軍反撃の可能性を嗤っていたものですよ」

「反撃ですか……トーキョーのニホン政府が同胞奪回をやるというのなら、やってみればいい。それは最悪の結果を招くこと必定でしょうな」

「成程……」


 誰にとっての最悪であろうな――浮かんだ疑念を押し殺し、ナードラは微笑でカテラの言を聞いた。




 熱射病の症状を呈した子供を、確保した日陰まで送った帰りで、諏訪内 佐那子の足は停まった。

 傾いたパラソルの長椅子で、ドレッドヘアの異邦人が椅子に長身を預けつつ、女医の帰りを待っている。その姿を認めるより先、熱く乾いた風に乗り、体臭が佐那子の鼻腔を擽った。強い匂い、薬味(スパイス)のそれに似た匂いがした。佐那子自身も劣悪な環境故、ここ二日シャワーも浴びていない。他人のことを言えた義理ではない。再び歩き出せば、荒漠たる大地で悠然と構える男の姿がアクション映画の主役――否、悪役の様によく映えているのが佐那子には判った。ただし、長椅子の傍に無造作に立て掛けられた彼の自動小銃は本物なのだ。


 内心で身構えつつ、声を掛けようか躊躇(ためら)う佐那子に、異邦人が言った。

「明日にも死ぬかもしれん奴隷に、無駄な世話を焼いてご苦労なことだ」

「奴隷になったこともない癖に……!」

「……」

「ん……?」

 自分を睨む細いサングラスの奥で、鋭い眼光が揺らいだと佐那子には思えた。怒りを買って殺されるかもしれないという恐れが立つより先に、気まずさを佐那子は覚えた。無形の銛で他人の過去を抉った様な手応え、それを否定したくて、佐那子は思わず聞いてしまう。


「ひょっとして……あるの?」

「……」

 何も答えず、異邦人は隣の長椅子を指示した。「座れよ。先生」

「ダキさん……でしたっけ?」勧められるがまま座りつつ、佐那子は聞いた。

「ダキでいい」

 

 それだけを言い、ダキという名の異邦人は滑走路を侵食する様に拡がる荒野を眺め続けている。ごく近くから見れば、首筋から上腕、背筋に至る筋肉が異常に発達しているのがよく判る。骨格の長さと、恐らくは苛烈なまでの鍛錬と節制が、彼をして豹のそれを思わせる肉体に変貌させ、ひいては常人離れした身体能力の持主たらしめているように佐那子には見えた。敵だが、過去の経験により作り上げられた人格は、決して歪んではいないとも見えた。


「おれは引率係のようなものだ」

「……」男の言葉を、佐那子は黙って聞くことに決めた。いきなり何を言い出すのかと戸惑ったこともある。

「信仰と正義に燃えるグナドス人を、何処か知らない場所まで引き連れていくよう申し付けられているってわけだ」

「申し付けられている? 誰に?……神様?」

 佐那子の疑念に、ダキは長椅子からゆっくりと向き直った。「神様」という単語が、この男をして反応させた様にも見えた。狭いテーブルを挟んで二人はしばらく対峙し、そしてダキが先に佐那子から目を逸らす。


「昔々、おれの故国の話だ。蝗害に悩む地上に、神は天使を遣わした。天使は一日で蝗を全て退治したが、些細な行き違いから、地上の人間は天使を悪魔の使いと見做してこれを殺そうとした。怒った神は地上の子供全てを親から取り上げ、それらを皆何処とも知れぬ場所に連れて行った……天使に笛を吹かせ、その音色で子供を誘き寄せたそうだ。足の悪い子供、目の見えない子供、耳の聞こえない子供だけがその地に残されたそうだ……子供たちはみな連れていかれた。天界でも地獄でもない、何処とも知れない『何処か』へ……それ以来、おれの故国では笛を吹くこと、笛を持つことは禁忌になった」


「ああ……」話に感服する振りをして、「前世界」のおとぎ話に似た話があることを佐那子は思い出す。

「だがおかしいとは思わないか?」

「……?」

 ダキの口調の変転、その真意を佐那子は察しかねた。怖いとも思えた少しの沈黙の後、ダキは再び口を開いた。


「この話で教訓にするべきは子供たちを連れて行った笛じゃない。神を怒らせた大人の無理解だ。理解できないものに対する無理解。自分より圧倒的に優れた者。圧倒的に善なる者に対する嫉妬……それらこそ、本当に教訓にするべきものじゃないのか、おれはそう思うね。そしておれが今、引率しているのは……」

「……?」

 ダキの口調が更に変わり始めているのを、佐那子は察した。同時に、背筋が寒く感じられた。彼の口調に、この場にいない誰か――否、何かに対する憎悪が首をもたげ始めていた。

「無垢な子供じゃない。大人だ。理解できないものを排斥し、自分より優れたものを拒否する頑迷な大人だ」

「……その大人たちを、何処に連れていくつもりなのあなたは」

「……」

 黙り込み、考え込む。佐那子は発言を待った。恐る恐るダキを顧みた佐那子を待ち構えていたシューティンググラスの奥で、彼の眼光が笑っていた。

「さあな……」


 そこから更に何か言いかけたダキを、背後からの気配が遮った。不機嫌そうに気配を顧みたダキに、武装した彼の配下が、聞き慣れない言葉で急用を告げた。立て掛けた銃を執り、ダキは長い脚を回して腰を浮かした。

「先生、話に付き合ってくれて感謝する。お陰で少し楽になった」

「わたし……精神科は専門外なんだけど」

「おれは患者ってわけか」

 言うが早いが、ダキは白い歯を見せて鼻で笑った。長い、健康的な犬歯が印象的に映えた。自分の嫌味を、ダキは巧く受け流したと佐那子は思った。

「また来る」配下の数が増えていた。彼らを引き連れて歩くダキは、もはや佐那子を顧みない。



「わたし……何しに此処に来たんだろう……」

 パラソルの下、乾いた微風を頬に受ける。佐那子は思わず呟いた。嫌味を言う余裕がすでに失われていることを自覚する。言葉が熱風に晒されて乾き、風に乗って崩れ去る。



 それから、佐那子はしばらくの時間を多忙のうちに過ごした。

 事象の発生は天の采配でもなければ誰の差し金でもない。偶然の産物であった。恐らくはザミンの警備兵の口伝いであったのであろう。この一帯でたった一人の「まともな医師」の出現を、奴隷のみならず、辺縁の住民すら聞きつけてきたのだ。飛行場の境界を乗り越え、まるでゾンビの様に殺到し診療を求める現地の人々を、最初は暴徒と勘違いした警備兵は怒声と威嚇射撃で制止し、一種の騒乱状態までそこに現出させた。紛争地帯での経験が、佐那子に対処を促した。


「放っておくと暴動になるわよ!」

 何とかしろと、銃口を向けて迫ってきたデルバリア兵の指揮官を、佐那子は逆にそう怒鳴って彼らに決断を迫った。感情に任せてこの場で反抗したニホン人を傷つけることで生じる外交上の不都合は、最下層の民兵の間でも周知されていたようで、追い返された彼らが騒乱を力尽くで鎮めるよりも、むしろ妥協を示して群衆を制御する方向に舵を切り始めたのが佐那子にはわかった。その更に後には、佐那子の診療を待つ人々の列が生まれた。それまで日本人収容区にいた高嶋 美緒と杉井 慶のふたりを呼び戻す形で助力を借り、そこに数名の、救命措置の心得のある客室乗務員も加わる。


 やがて荒野に秩序が生まれた……それは、ひとつの屋外診療所の完成とも言えた。その段になって佐那子は医薬品の提供もザミン側に要求した。「何もせずに帰そうとすれば、本当に暴動になる」という再度の脅しは、やはり効果を発揮した。実際、似た状況は過去の医療活動でも散々経験している。常人ならば生をあきらめるような場所、そこにも人は住んでいて生を願う。だから誰もが、生きるために残る力を振り絞る。そこに抗争と暴力が生まれてしまう。


 それでも――

 診療――という名の、死の到来を引き延ばすための不毛なまでの模索――が始まって程なく、一台の軍用トラックが砂埃を立てて止まり、荷台の民兵が医薬品を下ろし始めたとき、佐那子は我が目を疑った。死を引き延ばす模索が、死中に生を繋ぐための医療活動に変わり、それは夜近くまで続いた。




 夜――その日も奴隷は幾人か死んだ。

 だが大多数の奴隷にとって、仲間の死を悲しむよりも明日の希望を喜ぶ感情の方が増していた。佐那子が診療から解放された直後、研修医時代の様に長椅子で暫しの眠りを貪り、その頃の悪夢に驚いて覚醒した後には、希望の到来を祝うかのように瞬く満天の星空が、彼女の目を驚かす。視点を移した地上に在っては、火を焚いて今日の生を悦ぶ群衆の環が見渡す限りの各所に生まれている。驚愕――最果ての地獄が、人間の世界へと一変している。そう思うと、疲れが潮が退く様に消えていく。


「よく眠れたか。先生(ドクテル)

「ひ……っ!?」

 傍から声を掛けられ、佐那子は隣を顧みた。長椅子からまるでリゾートを愉しむ様な体で、ルーガ‐ラ‐ナードラが佐那子に視線を流している。パラソルからかなり距離を置き、見張りと思しき人影が立っているのに今更の様に気付く。

 呆然とする佐那子の眼前で、ナードラは酒の小瓶を開けた。白い手に握られた小瓶が、佐那子の鼻先に向けられた。ナードラが持つもうひとつが、既に半分近く量を減らしている。小瓶を受け取り、ラベルからそれが日本では希少なフレイコット‐ワインであることに驚く。自分が目を覚ますまで、声を掛けず待っていてくれたのだと佐那子は悟る。


「ローリダのお酒?」

「ザミンの酒蔵から盗ってきた。あの田夫野人に相応しくない宝物だ。だから私たちが飲んでやる」

 ナードラは飲む様に促した。勧められるがまま瓶口から漂う芳香を嗅覚で愉しみ、そして舌で液体を転がして豊潤さを愉しむ……心地よい――疲れた躰に、アルコールが回るのは早かった。


「医薬品も……あなたがやったの?」

「わたしは金持ちだからな。手持ちを雑兵どもに掴ませることなど造作もない。此処では金銭があれば、ザミンを殺すこと以外は何でも叶う」

 戯れの積りで発した言葉ではない。しかしナードラの言葉に嫌味がないのに、佐那子は内心で驚愕した。富貴や才能の自慢が、嫌味に聞こえない人種は実在する。だがそういう人間とは早々に出逢えるものではない。


「買い上げたの? 薬を?」

 佐那子の問いに、心持ち柳眉を上げてナードラは頷いた。「感謝しろ」と言いたげな素振りに、初対面で受けた謹厳実直な印象が、もろくも崩れ去る。それは佐那子に悪い印象をもたらすものではなかった。むしろ、すぐ傍にいるローリダ人に対する興味が湧いてくる。親近感かもしれない。

「グナドス製の医薬品が、先生(ドクテル)のお気に召したかどうかはわからないが……」

「ああ……」

 思い当たり、佐那子は納得する。一時期グナドスにいたから取扱説明書は辛うじて読めた。ただ、グナドス製の医薬品など、今となっては日本の同業他社製品(OEM)がその半数近くを占め始めている……と同時に、過労で脇に追いやっていた疑念が、此処で再び頭をもたげてくる。


「此処は、グナドスの勢力圏なの?」

「そうだ……正直に言えば、南ランテア社の商圏でもある」

「……」

 医療活動の端々でも聞いたことがある名だ。いい響きではない。奴隷貿易とか武器取引に手を染めているローリダの貿易会社、それも国営企業と佐那子は聞いている……それらの多くは日本の民放に基づく情報ではあるのだが。決してオールドメディアにありがちな事実誤認ではないと佐那子には思えた。去年日本国内でヒットした自衛隊特殊部隊の映画にも、南ランテア社の名は悪役として出ていなかったっけ……?


「知らなかったのか?」

「……」

 ナードラの問いに俯き、そして表情を曇らせる。それに関心を払わないかのようにナードラの口が開く。

「お前にご執心の肌の黒い護衛がいただろう。背の高い異邦人だ」

「あっ……うん」

 ダキの顔を思い出しつつ、佐那子は頷いた。

「あれは南ランテア社の人間だ」

「あなた達の仲間なの?」思わず柳眉が険しくなる。

「まったく違う」と、ナードラは否定する。大きな声ではないが、断固とした否定にそれは聞こえた。

「……私は兎も角、大半の日本人にはローリダと南ランテア社の区別は付かないと思うよ」

「むしろ、区別されない方が好都合かもしれぬな。ニホン政府にとっては」

「……」

 佐那子は黙った。(はす)にものを語るローリダの女に、ともすれば反感も頭を擡げてくる。それでもナードラが言わんとすることが彼女には理解(わか)った。南ランテア社とローリダ本国は巷で言われているように決して一枚岩というわけではないらしい。むしろ――


「今回の事って……ノドコール云々よりも南ランテア社が関わってるから、ローリダはあなたを送った……?」

 ナードラは頭を振った。「特使を志願したのはわたし自身の意思でもある」

「南ランテア社は既に我が共和国政府の統制を離れている。人質を使い、ノドコールの軍事行動を停滞させてニホンに消耗を強いるのが南ランテア社を支配している者の意図だ」

「でもそれって……」

「共和国にとっても好都合の様に聞こえるだろうが、これを放置していては世界が地獄に変わる。ニホンがノドコールとデルエベに関わずらっている間に、黒幕はニホンとローリダの頭上に振り下ろす剣の刃を磨き上げていることだろう。彼はノドコールにおいても散々共和国とニホンとの間に対立の種を蒔いた。その結果がかかる戦乱だ。もはや我らが表立って共闘することは叶わぬ」

「ローリダのことも、滅ぼす気なの?」

 ナードラは頷いた。

「彼が求めるのは、世界の破滅だ。そして現在の共和国には、遺憾ながら彼を排除する(すべ)がない」

「……!」

 ユニ‐ゼテクたちは傀儡(くぐつ)ということか――ナードラの話は、佐那子から完全に気怠さを奪った。パラソルの下での対話が、今となっては対峙にその装いを変えつつあるのを佐那子は感じた。夜が深まり、冷気もまた肌を刺す。纏わりつく冷気を掃いたくて、小瓶の酒を口に含む。冷気?……違う、これは緊張感だ。何かそら恐ろしいものに、不用意に接しているかのような――


「……日本なら、その黒幕を倒せると?」

「私は、おまえの祖国(くに)なら彼を止められると思っているが?」

 佐那子を見遣るナードラの瞳が、微笑っていることに彼女は気付いた。他者に話題を振り、対話することで自分の考えをまとめる人間がいる。彼女が真相を(つまび)らかに語るのはそのためか? そういう意味で、自分は隣のローリダ人に良い様に使われてはいないか――


「……ナードラさん」

「……?」

「お薬の件、感謝しています。でも……」

「……」

 卓を挟んで正対する眼差しが細くなり、緑の光が険しさを増した。

「わたしは……同胞(みんな)と一緒に日本に帰れればそれでいいから」

「……」

 ナードラが立ち上がった。有無も言わせない、という表現が似合う素早さであった。彼女を失望させたかという恐れ――だが星明りの下でナードラの顔に、寂寥が浮かんでいるのに佐那子は気付く。


「寒くなったな。これ以上話しているとお互い風邪をひく」

「待って……」

「……?」

「これから、どうなるの?……世界は?」

「ここまでは語ることができた。ここから先は何も言えぬ」

 それだけを言い、ナードラは歩き出す。パラソルから出たところで、遠方に待たせていた車のヘッドライトが点くのが見えた。佐那子を顧みることは無い。三々五々と集まり始めた護衛がナードラを取り巻き、彼女の身は佐那子の手の届かない場所に離れていく――そのナードラを見送りつつ、不安を佐那子は覚えた。


 日本のごく近い将来に対してではなく、ナードラと再びこうやって話ができなくなることへの恐れが、今の彼女を困惑させている。




 夜が更に深まった。

 特使宿舎の主賓室、その奥の特使寝室に入ったところで、ナードラは据え付けのラジオ受信機のスイッチを入れた。随伴の共和国中央情報局(ナガル)要員の報告によれば、盗聴器の存在は確認できないそうだが、裏をかかれる恐れは否定できなかった……と同時に、将来起こり得る事態の到来を、携帯電話を操るナードラは考えた。いつの間にか、ケイタイの扱いに慣れ始めていた。馴れれば、鍵盤楽器(ピアグリカ)の様な指使いでキーを操れる。それが少し愉しくも思える。


 激しい雑音をそのままに携帯電話のスイッチを入れた。通信音(コール)が三度続き、そして回線が繋がる。

『――おれだ』

 聞き慣れた男の声で回線が開いたのを悟る。その背景、雑音に時折ザミンの演説が混じる。獣の様な馬鹿でかい声、雑音交じりでも彼と判る。聴き耳を立てる者がこの場にいれば、障害として有効に機能してくれるだろう。

「聴き辛いな」と、ナードラは言った。回線の間に、何か「壁」が挟まっているように彼女には聞こえた。

『――お互いにな』

 回線の向こう側で、男が苦笑するのを聞いた。ラジオ雑音の理由を、彼は詮索しなかった。詮索するまでもないということか……と、ナードラは自身を納得させた。

『――盗聴を懸念し、より厳重な秘匿回線に切り替えた。あんたでも聞こえるようゆっくりと話す。安心しろ』

「誰が盗聴()くと思うのだ?」

『――ザミンではないな。ハイジャック犯に付いて来た南ランテア社の人間……と言ったところか」

「……」

 そこまで掴んでいたか――言葉を嘆息に替えて、ナードラは無言を貫いた。おそらくは、それが回線の向こうにいるニホン人をして、話題を変える必要を感じさせたのかもしれない。


『――本題だ。まずはザミン側の兵力及びその配置を教えてほしい』

「ザミンの宮殿には現在約800名の警備兵がいる。デルエベ空港……いや飛行場には500名だ。宮殿の敷地内に兵営があり、兵の大半はそこで起居し持ち場まで出勤する。空港の周辺に哨所がある。こちらが把握した限りでは北に二箇所、東と南にそれぞれ一箇所。対空機関砲も配置されている」

『――人質の環境に変化はないか? 人質に危害は加えられたか?』

「そのような情報は、当方には入っていない。当方の人間がニホン人医師と接触している。彼女も含めて全員今のところ全員無事だ」

『――何だと?』回線の先で、口調が困惑に濁るのを聞く。

『――医師の名前は?』

「スワナイ‐サナコ」

『――……』

 相手の言葉を、ナードラは暫し待つ。自分とニホン人の接触が、彼らにとっては想定外であったのかもしれない。だが、自分と接触したニホン人人質がいるのを彼らが知るのは、全てが終わってからの話だ。

 

『――情報提供感謝する。あと――』

「……」何を言い出すか、ナードラは内心で身構えた。

『――戦闘機が、デルエベ空港に展開しているな。おたくらの最新鋭機ゼラ‐ラーガだ。そいつが西方の山岳地帯に設けられた秘匿飛行場と行ったり来たりを繰り返している』

「ザルビギナの試験部門の所属だ。わが共和国とは関係ない」

『――ザルビギナ?……グナドス側か。南ランテア社とも取引があるようだが?』

「共和国政府は関知していない」

 否定する脳裏で、ギリアクス‐レ‐カメシス前第一執政官の顔が過って消える。『――……』回線の向こう側が何時しか沈黙する。それを、ナードラは黙って見守った。


『――気になる情報を掴んでいる。グナドス本国の「世界清浄化同盟」支援者が南ランテア社に接触している。過去二年間に亘り定期的にだ。そして彼はザルビギナの幹部だ』

「アルミオ……アドン‐アルミオか……?」

『――知っているのか?』

「……」

 沈黙で、ナードラは「是」と答えた。アドン‐アルゼテク‐アリア‐アルミオ。グナドス王国 アルミオ国務尚書の兄で、先年にローリダの首都アダロネスで開かれたパーティーの席上、祖父に付き添って参加したナードラは彼と挨拶を交わしたことがある。その頃のアドンの肩書は新設されたザルビギナ アダロネス事業所の代表であり、その後のザルビギナにおける出世も順調であった筈だ。


 ただ、幼少時の「適性試験」の成績で政治分野に「不適」と判断された結果、名門貴族アルミオ家の長子たる彼をして、グナドスの支配層では傍流たる企業経営の道を歩ませるに至ったとも聞いている。当然、代々王政府の閣僚職を歴任してきた生家の惣領の座を得ることも叶わず、それは弟のアルミオ国務尚書の得るところとなったとも――


「付け入る隙は、あると思えるな」

『――あんたもそう思うか』

「ところで……」

『――?』

「ガーライルの動静は掴めたか?」

『――君の言うアルミオを抑えれば掴めるかもしれない』

「……」

 ナードラは内心で失望を覚えた。ニホンの高い諜報能力を以てしても、未だあの男、ミステルス‐ル‐ヴァン‐ガーライルの影さえ踏めていない。質問に対する返答は、却って手詰まり感を示してはいないか? もっとも、回線の向こうのニホン人が、ガーライルに関する「何か」を知っていて、それを彼女と共有する意思がないだけなのかもしれないが……『――また連絡しろ』電話が切れる。ザミンの不快な演説は、ラジオの向こうで尚も続いていた。


 寝台から立ち上がり、ナードラはヴェールの下りた窓辺に歩く。薄い生地に遮られてはいても、遠方の空港周辺に配された照明の光は、地平線の輪郭を浮かび上がらせる程に烈しかった。此処から臨む世界の何処かに、あのニホン人(おんな)はいて、自分の為すべきを為している。


「サナコ……」ふと口にした瞬間、眦から険しさが退くのがナードラには自覚(わか)った。日傘(パラソル)の下、言葉と人生を交差させた女がふたり。スワナイ‐サナコの全てが、他人事(ひとごと)とは感じられないでいる。それが何故かは、彼女には未だ理解(わか)らない。


 何故か胸が騒ぐ――希望を胸に荒野で生きるニホンの女の姿が、何故か自分の過去と現在に重なる。


 過去と現在、ではその先は――




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― 新着の感想 ―
kapan update
[一言] 更新ありがとうございます。 続きも楽しみに待っております
[良い点] グドナス、何をそんなに日本敵視するんだ?と思ってたんですけど、なんか変な学問と商業的な関係が根本に有るのかと初めて知りましたね。 でもまぁアレですね、グドナスって全然日本の事知らないんだな…
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