第三三章 「兵士の景色 将軍の景色――ソロモンの悪夢 後編」
ノドコール国内基準表示時刻1月13日 午前6時12分 ベース-ソロモン飛行場北西
ノドコール共和国軍 「ジョルフス軍団」攻撃目標地点到達まで距離40リーク
攻勢発起からすでに七時間が過ぎた。
ノドコール共和国軍少尉 通信士 ミロス-カ-ナ-フスは、半装軌式指揮通信車の荷台に設けられた通信室から頭を上げ、灰色の天を仰いだ。先夜、日が替わる頃からぱらつき出した風雪の勢いが増していた。密閉式では無い天蓋のみの通信室にも、冷気は容赦なく忍び込んできた。この寒さでは自身に防寒衣を重ね着するだけではなく、師団用通信機や蓄電池にもフェルトを張り、厳重に防寒する必要がある。かつて母国ローリダで軍務に就いていた頃にも体験したことだ。
元々無線技士の養成学校を卒業して兵役に就いたフスが、長じて移住した新国家ノドコール共和国では、軍志願と同時に瞬く間に通信科下士官から少尉へと階級を駆け昇ったのは、歴史の転換点とでも言うべき現在にあっては、有り触れた事象とでも言うべきかもしれなかった。ただし、その後すぐにニホン人がノドコールに攻め寄せて来た。
フスは座席から腰を上げた。悪路に揺れる指揮通信車の上では直立も覚束ないが、外界の監視には支障は無かった。車はいま、雪原と化した平地を走っている。平地にあっては車列を散開させるのが事前の取り決めであった。当然、攻撃の被害を分散させる意図だ。ただし指揮通信車だけは、司令官の座乗する幕僚専用車の傍を離れるわけにはいかない。こちらの車長が、幕僚専用車の位置を把握しているかが気掛かりだった。
「ミロス、どうした?」
「はあ、閣下の車が健在か確認したく……」
背後から呼び掛けられ、フスは不安げに応じた。軍用コートの上に毛布を被った首席参謀 大佐 ゲゼフス-ル-ザ-ザラスが不安げに声を震わせていた。幕僚専用車に座乗する元帥 エイギル-ルカ-ジョルフスとの連絡役である。もしくは体のいい追放と言えるかもしれない。双眼鏡を一巡させ、装甲車を従えた幕僚専用車を見出して安堵する。頭を下げたフスに、ザラス大佐は身を乗り出す様にして聞いた。
「どうだ? 外は?」
「閣下は大丈夫です……ただ、もうじき完全に夜が明けます」
「そうか……」
ザラスは俯いた。嘆息が白い息となって儚げに漂う。不安の発露であった。
現状、ジョルフス軍団の「進撃」は順調に推移している。
先日夜の攻勢開始以来、把握しているだけでも突破したニホンの防衛線は四つ。以後は一時間に亘り敵との接触はない。だがその間に戦力を喪失した大隊は多く、特に火力支援を提供した砲兵部隊もその多くが壊滅の憂き目を見た。
損害の多くが優勢なニホン空軍による空爆の被害であったが、何より砲撃を始めるや、即座に野砲陣地の所在を把握され、反撃されて沈黙した砲座も多かったのである……ニホン軍は列国の保有しない「対砲探知機」を保有しているという、開戦前から流れていた風聞を証明する現実でもあった。首都キビルとその近傍防衛のために配置されていた旧型砲までかき集め、決戦に投入した結果は惨憺たるものだ。偵察や観測による効果の把握など、彼らの希望を補強する材料はその質量ともに決して十分なものとは言えなかった。
それでも、ニホン軍に対する効果はあったとザラスをはじめジョルフス軍団司令部の幹部たちは信じていた。当然砲撃の効果……言い換えれば敵に与えた損害の大きさを、である。現に砲撃により敵の防衛線を崩し、突撃した結果として、此処までアリファまで迫れているではないか? 敵は……ニホン人は、実はアリファ方面に兵力を割けないでいるのではないか? つまりは西方軍とイェリカド守備軍は、ニホン軍の別働隊を前に善戦しているのではないか?
その西方軍とは、四時間近くに亘り連絡が途絶している。烈しい通信妨害のせいであった。ニホン軍は南部戦線の劣勢を挽回し、ロギノールとの連絡線を維持するためにアリファ方面の防衛線から兵力を引き抜き、南部戦線に回している。その結果としてアリファ防衛線が手薄になっている――ジョルフスをはじめ、情勢をそう見ている幕僚は多いのだ。そこから更に展望を述べれば、アリファのニホン軍最終防衛線を突破した勢いを借りてイェリカドの包囲網を破り、さらには西方軍と呼応してニホンの南部方面軍を挟撃することも可能になろう。だが――
抵抗が微弱に過ぎないか?――ザラスをはじめ、幕僚たちの中にはそう考えた者もいる。そこから更に飛躍してニホン軍は、我が方をアリファ方向に誘引してはいないか? 何故?――進撃によって伸びきった戦列を後背乃至は側面から叩き、ゆくゆくは包囲殲滅を企図しているが故だ……敵の抵抗が微弱に見えるのは、包囲網形成の一環ではないのか?
やはりこれは誘引だ――会議の席上、ザラスが吐露した不安を、「元帥」ジョルフスは一笑に付した。前述の通り、「進撃」が順調であるというのが、彼の根拠であった。
「――閣下には四年前の戦闘で、ニホン軍の強さは経験済みかと思いますが」
「――経験したからこそだ。貴公は戦を知らぬ。四年前の本官の劣勢と敗退は、経験に乏しい他師団との要らぬ連携を強いられたが故に、自由な運動と攻勢を掣肘された結果である。今次の会戦にはそれがない、だからこそ本官の指揮の下我が軍は快速を生かして突進し、敵は混乱しておるのだ」
「――はあ……」
内心で困惑しつつ、ザラスは同席した幕僚たちを見回した。今次の開戦に当たり、本国ローリダより軍事顧問宜しく派遣されてきた高級士官がいれば、入植者としてこの地ノドコールに骨を埋める覚悟でいる退役、予備役の士官もまたいる。それらの別なく満面の笑みでジョルフスに同意を示す者がいる。表情を変えない者、ザラスと同じく、困惑を隠さない者もまた見える。
「――……?」
会議の周囲、不意に焚かれたフラッシュの眩しさに、ザラスは思わず表情を歪めた。ジョルフスが従軍にあたり、本国から来た従軍記者をも引き連れていたことを今更の様に意識する。地位では民間人たる彼らからして、仕事というよりも、ちょっとした辺境への観光旅行に来たかのような能天気さを時折見せている。「我が軍優勢」という、作戦発起前に自分で書いた何の根拠もない報道記事を、頭から信じ込んでしまったかのような滑稽さだ。この戦はザラス達入植者にとっては、新国家ノドコール共和国の存亡が掛かった戦だが、軍の全権を握るジョルフスと彼の取り巻きたちからすれば、四年以上前の「完全武装の狩猟」――非文明国家や蛮族の掃討戦――と変わらない積りでいるようにザラス個人には思われた。
「……?」
静かすぎる――変化の予兆が、会議で抱いた困惑と不安の記憶を打ち消した。それまで昼夜を問わず散発的に来襲して来た敵機ですら、ここ二時間、晴れ渡った雲間にはその翼の影すら見せていない。
「通信士、先行させた偵察隊からの報告はまだか?」
「報告まだ」
指揮用通信機の周波数調整ダイヤルを弄くりつつ、フス少尉は応じた。幕僚から問われ、どう周波数の調整を行ったところで、有効な無線通信の手段はとうの昔に失われていた。通信妨害が烈しくなっている。ニホン軍の通信妨害能力は高い。その能力はローリダ軍をはじめ列国のそれを優に引き離していると言っても過言ではない。現状ではニホン軍の無線通信の内容を探ることなど夢のまた夢だ。ザラスからして四年前の「スロリア戦役」でそのことは聞き知っていた筈だが、実戦でそれに直面しては敵に対する印象の強さは質量ともに遥かに違った。何せ実戦では生命が掛かっている。我々がいま戦っているのが軍隊ではなく、何か常識では量れない異次元の生命体であるかのような感触すら、ザラスは抱き始めていた。安っぽい空想科学小説で描かれていた様な、人類と外惑星生物との戦いだ。
もしや、偵察隊は壊滅したのではないか?――不意の懸念が、ザラス大佐をして伝令を出す必要を抱かせた。随伴する軽量自動車をして伝令に仕立て、前方へ送り出すのと同時、異変が同様の軍用自動車の姿を借りて急追して来る。隊列の後衛部隊の方角だ。伝令だと察した。
「報告――ッ! 至急です!」
「どうした!?」
天蓋から頭を出し、ザラスは声を上げた。車が酷く汚れている。硝煙と銃痕のせいだと一見で直感する。同じく酷く汚れた伝令士官が、枯れた声を張り上げようとする。
「後衛部隊、現在交戦中! 敵の大規模な襲撃を受けつつあり! 大攻勢です!」
「しまった!」
伝令を取次ぐより先に、驚愕が先に出る。前方のみに懸念を集中させたのは過ちであった。このままでは退路が絶たれる。全力を以て後尾の憂いを除くか、あるいは――
「閣下の車はあっちだ! 急げ!」
ジョルフスの幕僚専用車を指差し、ザラスは報告を促した。血相を欠いたまま車が転回する。それを見送ったところで、ザラスは前方に向き直る。たのむ……早く決心てくれ!
『――後衛部隊より司令部へ!……司令部応答してくれ!……ニホン軍大部隊の運動を確認! 我が軍の進行路後方に展開!……砲列を敷きつつあり!』
「……!?」
ザラスとフスは顔を見合わせた。不意に回復した通信に驚いたのではなく、その内容に彼らは驚愕し、恐怖する。
ノドコール国内基準表示時刻1月13日 午前7時04分 ベース-ソロモン飛行場北西
火竜騎兵師団 北方軍分遣部隊「ジョルフス機甲旅団」
「旅団」は編成上の単位であって、必ずしも実数を伴うものではない。戦争に負けているときは特にそうだ。
ノドコール共和国軍 ジョルフス軍団隷下、火竜騎兵師団 北方軍分遣部隊 別名「ジョルフス機甲旅団」は作戦発起以来順当な前進こそ続けていたが、実態として作戦の始まりから、人員と装備に於いてローリダ共和国陸軍旅団としての定数を大きく割り込んでいた。何より作戦の前日、ノドコール独立軍を僭称せる現地人反乱勢力の掃討作戦支援のために差し向けた三個中隊相当数の戦車を、僅か一夜の内に喪失せしめた失態を、旅団は未だ引き摺っていた。現地人の「駆除」にこそ成功したが、直後にニホン軍の空爆を受けてガルダ―ンより成る三個戦車中隊は壊滅した。ジョルフス軍団において唯一の機甲戦力の、それが実相であった。
作戦に先立ち、戦車の補充こそは実施された。ただし補充された戦車は「ジョルフス機甲旅団」の中核を為すガルダ―ンではない。ガルドやソミュといった、共和国国防軍機甲軍団においては二線級の戦車だ。それでも戦車を引き抜く前の各大隊においては貴重な機甲戦力であった。結果として失われた戦力は回復せず、他の大隊は戦う前からその戦力を減衰させた。そればかりか「ジョルフス機甲旅団」の場合、性能の異なる戦車同士の連携という、容易ならざる課題を作戦の直前に抱え込むこととなったのである。
「ジョルフス機甲旅団」隷下 第265戦車連隊「D」中隊長 ノドコール共和国軍大尉 ヨルバネス-ル-レイスは、専用のガルダ―ン重戦車改「エリス-ド-ナ-キュレス夫人号」の車上に在って、白銀に覆われた大地の地平に警戒の目を凝らし、思案を続けていた。四年前の「スロリア戦役」時には本国ローリダに在って戦車学校の操縦教官であった彼が、遠くノドコールに渡ってガルダ―ン戦車一個中隊を与るに至ったのは、愛国心でも同胞愛故でも無い。上官たる戦車学校校長より、義勇兵の参加という「命令」を受けたが故だ。「命令」を受けたのは彼だけでは無かった。戦車兵、砲兵、工兵、通信兵、そして戦闘機操縦士……凡そ専門技術を有する士官、下士官の多くが義勇兵の名目でノドコール独立戦争に参加している。出征と言ってもいい。四年前の対ニホン戦で蕩尽した人材が、更に少なくなる。
砲塔から上半身を出した状態で、レイスは停止を命じた。ギアを抜いたガルダ―ンが惰性で進み、そして前のめりに停まる。作動させた油圧ブレーキが効果を発揮するまでには時差がある。いわば「クセ」というやつだ。「前進するガルダ―ンの前には絶対に出るな」と、性質の悪い冗談が国防軍将兵の間で言われる所以である。完全に停止したガルダ―ンの砲塔に立ち、レイスは双眼鏡を廻らせた。車内の砲手が止める暇もない。実戦の経験もあるが、遮るものに乏しい平原と演習場で何度も繰り返したレイスのやり方であった。手近な高所を占め、地平線の彼方の敵より早くその所在を察知する。危険だが、やる価値があることをレイスはこれまでの経験から知っている――周囲に散開し、前進するガルダ―ンとその他の中戦車しか見えない雪原。傍目から見れば、理想的な機甲戦力の集中運用である様にも見える。砲塔に潜り、再度前進を命じる。
「――機甲戦力の集中運用は、ニホン陸軍もその教本に於いて重視するところであります」
と、作戦開始に先立ち、ジョルフス元帥配下の参謀は言ったものであった。義勇兵という体を取っているが、彼もまたレイスと同じく本国から派遣された軍事顧問であることは初年兵でもわかる。その参謀が司令部の実施した戦力再編の根拠としてニホン軍の教本を持ち出すあたり、共和国国防軍を取り巻く時流と意識の変化を感じさせた。
レイスがいち兵卒として共和国国防軍に入隊したとき、この世界での機甲戦術教育の最高峰はローリダ群島北東部リガスの「装甲兵大学校」――「リガス戦車学校」と言う名称の方が内外には有名だ――であったが、今となってはニホンのフジ学校にその座を譲っている。レイスは当然ニホンに行ったことはないが、かつての同僚が行った。レイスと同じく戦車兵だった彼は、スロリア戦に従軍し激戦の末ニホン軍の捕虜になったのである。「――機甲戦の学校というよりは、諸兵科連合戦術の研究施設の様だった。ただし教育内容と設備は我が共和国を含め列国のそれを遥に凌駕している。装備も我々の有するものより遥かに高性能だった」とは、当の同僚が捕虜の身でフジ学校を見学したときに抱いた感想であった。
「――ただ……」
「――……彼我の距離が如何に離れていようと、ニホン軍に発見されたら即座に攻撃されると思え」
同僚の言葉が、レイスからすれば身を呈しての観測に真剣さを与えていた。ニホン軍に先に発見されてはならない。少なくとも、これまで戦闘に参画した三度の防衛線突破では、敵の発見という点でニホン人に後れは取っていないと彼は信じていた。
『――中隊各位、全中隊!……聞こえるか?……応答しろ!……』
「デロム1!」
不意に明瞭さを増した通信の主が、265連隊長 カナルドス-ゼ-ガ-キルガン中佐であることにレイスは驚いた。雑音に通信を邪魔されながらも、声が切迫しているのが聞こえた。「D」中隊を与るレイスが応答するのに続き、『……E!』と応答するのが聞こえる。キルガン中佐直卒の『A』中隊の他、BからDまでを数えた戦車中隊はレイスのD中隊とE中隊しか残っていない。「B」中隊、「C」中隊ともに作戦に先立つ反乱勢力掃討戦の過程で、保有車両全てを損失し壊滅した。「D」中隊も此処に到達するまでに二両のガルダ―ンを喪っている。A、E各中隊の喪失は三両だ。正直なところ、ニホン人の占領したアリファ飛行場蹂躙の望みは、その半ば以上を棄てていた。これが叶うのならば、四年前の戦闘で赤竜騎兵団は敗退していないだろう。
『――司令部より入電だ。我が軍の後背にニホン軍が展開しつつあり……敵の規模は不明……敵は我が軍とグザンゲイル間の交通を遮断する様に運動している模様!』
「……」
驚愕はしなかった。ニホン軍が退路を断ちに来るという予測は戦闘前からレイスの胸中にも在った。レイスならずとも前線の高級士官は誰もが持っていた懸念だ。だがジョルフス軍団に後背への備えは無い。兵団の部隊編成と陣計の全てが前進と突破に注がれていると言ってもいい。つまりは後背に喰いつかれても、前進しアリファに突入するのが彼らの作戦であった。
もっとも、敵手たるニホン軍に長駆ノドコール中部深奥まで機動し、自軍の後背を占める兵力の余裕、補給能力があるとは軍団の誰もが考えていなかった。より厳密に言えば、ニホン軍は少数の兵力で撹乱と威力偵察を兼ねて自軍の後背を攻撃するであろうという予測があった。それも最後尾の部隊で十分応戦が叶うであろう。だからこそ彼らは、ニホン軍への対処を半ば放置することができたのである。
『――ジョルフス司令官は応戦を命令された……D中隊に増援を頼みたい。支援車両も付ける……できるか?』
「命令とあれば従いますが、敵を追い払った後、速やかに追及するのですか?」
『――いや……現位置に残留し最後尾の防護に当たれ。予備兵力強化の必要がある』
「了解」
最後尾集団は予備兵力も兼ねている。最終攻撃目標たるアリファに先鋒が突入し、敵の本拠を蹂躙した際、戦果を拡大するための戦力だ。あるいは……
「……敵の包囲を突破する戦力は確保しておくべきだろうな」
「は……?」
傍らの部下が怪訝な顔をした。それには目もくれず、レイスは無線機を部下向けに切替えた。事実上の後退を命じた直後、先頭を行くガルダ―ン一両が道から出、原野に躍り出て元来た途を引き返し始める。戦車の一斉回頭――隊列の順番もまた変わる。左手に東進する全軍を見る位置であった。トラックがあり装甲車がある。その後ろや横に付いて、各々に大小の火器を担いだ兵士の列が歩く。ガルダ―ンも含めこれら車両の大半がローリダ本国からの「寄付」という形を取ったものだ。
レイス搭乗のガルダ―ン「エリス-ド-ナ-キュレス夫人号」からして、名を冠した本国の富裕な婦人の贈与品であった。ノドコールが「独立選挙前」の状態にある以上、表立って軍事支援を行えないから、政財官を占める上流階層が結託しこういう回りくどい手法を取っている。あるいは、純粋な信仰心――この世界はキズラサの神により、キズラサ者の支配と占有を約束された土地であるという信仰――に基づく寄付なのかもしれない。
「約束の地か……その割には試練が厳し過ぎやしないか神よ」
ぼやきが烈しい震動に掻き消される。加速したガルダ―ンが一気に戦車中隊の先頭に出る。ガルダ―ン重戦車改。書類上は従前のガルダ―ンと名称と型式で区別されてはいるが、その内実は「スロリア戦役」で露呈した装甲厚の不足を補うべく、車体と砲塔の要所を装甲板で覆う程度の、現地改修に等しい付け焼刃的な改良型であるのに過ぎない。
結果として著しく増加した装甲重量の分、加速と馬力、そして航続距離が減退した。「スロリア戦役」前に計画された高出力エンジンへの換装も、未だに始める兆候が見えないままだ。戦車学校という、最新の機材が配備される機会に恵まれた職場に在ったレイスにとって、これは深刻に受け止められるべき話であった。かつて、当時下士官の身であったレイスが初めてガルダ―ンの威容に接した頃よりガルダ―ンは鈍重に、そして虚弱になった。
「……?」
最後尾への移動の途上、トラックが一両スタックしているのをレイスは見た。軍団の方針として、自動車の類はなるべく道路や農道上を進撃させているが、前進を急ぐ必要もあり、時間を稼ぐべく道を外れた車が泥濘や窪地に嵌り、動けなくなることがあるのだ。
その運の悪い一両が後輪を虚しく回し、雪や泥の類を巻き上げてもがくのが見える。搭乗していた兵士もまた、後輪に資材や布を充てて支え、あるいは鈴生りになって後ろから車を押し、泥濘に塗れつつ復帰を図らんとする……ノドコールならずとも戦場では見慣れた光景である筈なのに、通り過ぎつつそれを見守るレイスの顔に、寂寥が募る。部隊の前進する周囲で、やはりレイスの部隊と同じ様に、転進し後背方向に向かう兵や車両が増え始めるのが見えた……無線に耳を欹てれば、ジョルフス元帥の転身命令に基づく移動であるのだと判る。眼前の展開が、レイスをして現状の命令に対する不信感を喚起させた。部隊の移動が慌ただしい。
「Dより265へ、我が方後背部の戦況に変化はないか?」
『――265、司令部からは追加の情報なし。何かあったか?』
「後背へ向かう友軍の数が多く、少し不審に思えたもので……」
『――司令部に聞いてみる。追って連絡する』
「D」
『――交信終わり』
一度通信を切り、レイスは無線で隷下の二両を呼び出した。作戦前に増強として中隊に配備された未改修のガルダ―ン二両、だが改修型に比して軽装甲故に威力偵察に使うとレイスは決めていた。未だ少年のそれを思わせる若い声がイヤホンに応答する。増速しての前進と前路状況の報告をレイスは二両の車長に命じた。敵を見たら交戦せずに引き返せと命じるのも忘れなかった。二両ともに車長と乗員全て本国人で若い。皆未だ二十歳も出ていなかった筈だ。
『――交戦しないのですか?』
「ガルダ―ンはもはや無敵では無い。中隊の数を生かして敵と交戦する。それ位理解しろ」
『――……D9了解』
『――……D10!』
「交信終わり」
口調に毒を含めて、レイスは部下との交信を打ち切った。若い部下が憎いのではない。そこまで強く言わなければ、彼らを生きて祖国に還すことはできないだろう。贅肉の様な装甲が載っていない分、彼らは駿足だ。それ故素早く此方に逃げ込めるという計算もある――砲塔から半身を乗り出したままのレイスの傍を、二両のガルダ―ンが土埃を立てて前方へと疾駆し、離れていく。「早くガルダ―ンに乗れるから」と、本国の戦車操縦学校を中退同然に抜け出して地獄のノドコールに来た連中だ。犬死にはさせられない。
最後尾まであとどれ位だろうか――レイスは地図帳を捲り、方位磁針と天測器を使い位置の把握を試みた。この地図にしてからか戦前にニホン人が作ったものの写しだった。彼らは空より遥かに高い天球の涯に衛星を上げ、大地の写真を撮るという。その中には、つい三年前までこの地を支配していたローリダ人の未踏な土地も含まれていることだろう……戦うまでもなく、この地ノドコールの天はニホンに支配されているように思える。
「あと三十分といったところか……」レイスは呟いた。最後尾集団との合流に要する時間が、である。燃料を節約する意味で速度を落とし、前進を継続することに決めた。開きっ放しにしていた共通回線に雑音が生まれる。そこに、誰かの必死めいた言葉が紛れ込んで来るのをレイスは聞き逃さなかった。
『――……司令部、司令部!……聞こえるか? 敵が砲列を強いている!……ニホン軍に後背を遮断された! グザンゲイルに帰……!!』
「……っ!?」
雑音の酷さが、敵の電波妨害が始まったことに加え、発信元が妨害に弱い無線機故であることをレイスに悟らせた。軍払い下げの旧型無線機は、周辺警戒の任を負って軍団の周囲に散開している民兵大隊の装備だ。保有火器などニホン人に対抗するべくもない。警戒と言えば聞こえがいいが、体のいい身代わりも同じだ。その身代わりに、ニホン軍が喰らい付いた。運転手に増速を命じ、レイスは先行する二両を呼び出そうと努めた。
「D1よりD9、D10! 応答しろ! 後背の状況がおかしい! 応答しろ!」
『――D10……妨害が烈しい……指示願います……』
「D10! D9はどうした?」
『――前方……D9は前方を走行中……』
「D1、これより追及する。D9、10前進やめ! 現位置にて待機。待機せよ!」
『――D10……』
応答し掛けたところで、雑音が烈しくなる。舌打ちと同時に苛立ちが募る。装甲を纏ったガルダ―ン改の緩慢な加速が、今ほどもどかしく思えた事は無かった。
『――……こちら第602遊撃大隊!……ニホン軍が障害物を敷設中!……障害物だ!……やつら我が軍の退路を遮断!……』
もはや報告とは言えない絶叫が通信網を満たし、それは雑音の嵐に吹き消された。電波妨害とは違う、より物理的な何かが通報を「排除」し始めている――胸の鼓動が高鳴る。レイス自身、戦闘には生涯で幾度も参加しているが、海外植民地を戦場にした列国との小競り合いや現地反乱勢力の掃討戦がその全てであり、対等以上の戦力を有する敵との遭遇を彼は経験していない。その「接敵」の瞬間が、迫りつつあった。
『――……煙幕を展開しろ!……狙われるぞ!』
「……!?」
共通回線に流れた誰かの通信に愕然とし、そして地平の先に生じる煙に愕然とする。欺瞞用の煙幕が生物の様に蠢き、地上に拡がる光景だ。それは忽ちレイスの行先を遮る壁となった。ニホン軍はあの「悪魔の如き命中率」を誇る誘導弾を使う際、非可視の光線を使う。煙幕はその光線を遮るために編み出された対策だった。一両ならばまだしも複数台の装甲車両がそれを行えば、結果として味方の目を潰す。反撃など不可能になる。
「前進を続ける! 怯むな!」
レイスの断言は、恐慌を起こし掛けた部下を、現実に引き戻す効果を発揮した。敵味方の位置、さらには自己と友軍の位置が判らなくなるという状況は、経験の浅い将兵にとっては死と同様に恐ろしい。かと言って逃走を許せば、軍の統制は立ちどころに瓦解する――部下を生還させ、自身も生き残るために、レイスは前進が必要と信じた。
煙幕の中で尚もアリファに向かい進む友軍の影。その中で行くべき途を見失い、四方八方に動き出す車の影が周囲を過って消える。或いは前進も後退も出来ず、その場に留まって視界が啓くのを待つ将兵の群、また群を横目にガルダ―ンの部隊は疾駆り続けた。雪原に生まれた巨大な幻燈の中を、ガルダ―ンは走る。煙幕を味方が展開した以上、敵からも我々の姿は見えない筈だ――それこそが敵中に向かうレイスの抱く勝利への希望であった。
「煙幕に紛れて敵前まで浸透する。奇襲も叶うぞ」
部下を励ます積りで、思わず口に出る。そのとき回線に自分を呼ぶ声を聞いた。265連隊本部だ。
「D!」
『――265よりDへ、状況報せ』
「依然会敵予想地点まで前進中。先行させた二両が通信途絶。誰かが煙幕を撒いた。視界が悪い」
『――二両は駄目そうか?』
「無事だと思う。何とか合流する。煙幕のせいで混乱が始まっている……まずいな」
『――こちらは先頭集団が敵と交戦開始。最終防衛線と思われる。もう一息だ』
交信を続けるうちに、煙幕が薄れていく。灰色の壁が消え、道を塞ぐように連なる炎の連なりを目にして、レイスは反射的に停止を命じた。かつて通った道、当然その道はグザンゲイルに通じている……
「前方に火炎複数を視認! 味方の車両だ!」
『――Dどうした?……聞こえ……』
イヤホンを打つ雑音が烈しくなる。回線が死ぬのを確信するのと同時に、レイスは撤甲弾の装填と発砲を命じた。車間通信はもはや使えない。だが長車が模範を示せば部下も倣う。敵愾心をそのままに睨んだ地平線の彼方が微かに、だが連続して瞬くのを見る。同時に心胆が凍りつく――敵に接近し過ぎた!? 発砲――届かない砲弾が、遥か先で白い土柱を上げた。
「弾種撤甲榴弾! 装填急げ!」
レイスはマイクに怒鳴った。僚車もまた発砲を始めていた。未だ拭えぬ煙幕を縫い、遠雷の如き砲声が各所から轟いて連なる。敵を見出したからではない。何処へでもいいから撃たなければ恐怖を掃えないのだ。投射される弾幕の光が連なり、地平線へと向かう。統制がバラバラながらも、包囲網突破の動きもまた始まっていた。レイスの眼前、前進するガルド中戦車が一両、前へ出るのを見る――
「あ……!」
声を上げようとして、レイスは失敗した。ガルドが赤く光る、直後にそれは炎の塊と化す。対戦車砲の威力では無かった。榴弾砲――あるいはそれ以上の火砲の直撃だ。乗員が飛び出す暇も、弾薬に引火する暇もまた無かった。ただ重い質量が、凄まじい加速で地平線を越えて装甲車両に、展開しかかった火砲に刺さる。槌で潰されたかのように吹き飛び、燃え上がる友軍――
「各車散開しろ! 急げ!」
僚車に向かい、砲塔から半身のみならず、腕すら出して振り上げレイスは叫んだ。ニホン軍の火砲が照準を終えて待ち構えている。射線から逃れるべきであった。煙幕の展開をレイスは命じた。煙幕弾を撒き散らしつつ、ガルダ―ンを全速で躍進させる。今となってはレイスも砲塔に潜り、監視照準鏡を睨むように覗く。
回避運動――全速で蛇行を繰り返すガルダ―ンが烈しく揺れる。照準線がぶれて、照準はおろか目標を捜索するどころではなかった。それでもこつを掴めば、ガルダ―ンでの躍進射も可能になる……ただし、装甲車両のような移動目標に対する躍進射は母国の戦車学校では推奨されていない。だが「敵国」ニホンの戦車は――
「……!?」
巨大な土柱が至近で上がる。弾着の衝撃が生む地面からの突き上げの烈しさに、重装甲のガルダ―ン改ですら挙動が乱れた。榴弾砲弾の着弾だとレイスは察した。直撃とは行かぬまでも、衝撃波に囚われた車両や兵が跳ね上がって四散する。それらの破片と巻き上げられた石礫が降り注ぎ、不穏な響きを立ててガルダ―ンの車体を打つのをレイスは感じた。狙いに無駄が無い。退路を遮断したニホン軍が、展開時――あるいは展開前――より弾着点を設定していたのは明らかだった……我々は、敵の罠に囚われた?
「ばか! 直進するな!」
監視鏡に捉えた僚車の姿に、レイスは顔色を失った。回避運動を無視した全速で直進する一両。それは忽ち指揮官のガルダ―ンを引き離し、遠ざからんとする。回避運動の軽視、それはスロリア生き残りの装甲兵が、真顔で戒めた禁忌であった。直上、落雷を思わせる光が烈しく、僚車をその天蓋から貫いて爆焔を生んだ。
「アルヴァスの戦車が!!」
同じく照準鏡を睨んでいた砲手のリゲルス軍曹が叫んだ。監視鏡の狭い視界の先で、車体から火花の滝が鮮血の様に吹き上がる。弾薬への誘爆が砲塔を吹き飛ばし、炎に取り巻かれた巨塊の疾走が止まった。雲間を突き降り注ぐ光の矢……否、それはレイスに古代世界の投槍を思わせた。槍は恐るべき精緻さと加速を以て鋼の巨象に刺さる。もはや現代戦ではなく、原始時代の狩りの光景であった。
「伍長! 回避を続けろ!」
乾いた声を張り上げてレイスは操縦手ベルキ伍長に命令した。何時の間にか浸透を果たしていた恐怖心が、レイスの喉から潤いを奪っていた。生きて回避を続ければ、ガルダ―ンはいずれ敵の防衛線に到達する――その信念のみが、レイスに前進を促していた。「敵の防衛線を突破する! でないと我々は破滅だ!」
防衛線?……いや、この火力密度はまるで要塞だ。
戦車が、装甲車が、火砲が、そして兵が火砲と誘導弾に薙がれて燃え、潰えていく。雪原の灰色の空が立ち昇る黒煙に穢され、冷気に熱いものが混じり始める。直撃を受け燃え上がった車両の出す焔だ。煙幕が晴れるにつれて、周囲を林の様に黒煙が立ち昇っているのが見えてくる。損害の拡大――退路を断たれた以上、ジョルフスの命令を待つまでもなく後衛集団は後背に敷かれた前線の突破を図るしかない。銀灰色の雲を背景に、光が空を此方へ延び、そして刺さりに来る。
『――「矢」だ!』
『「サムライの矢」だ!……』
空電音の充満する回線の中で、誰かが叫ぶ。「サムライの矢」――ニホン軍の対地誘導弾のことをスロリアから生還した同僚はそう呼んでいた。毛髪よりも細い配線で誘導されたが故に電波妨害も効かない、狙った者を逃さない必殺必中の矢。それは着弾したが最後、ガルダ―ン戦車すら消し飛ばす程の威力を有するとレイスは聞いた。対艦対地両用も兼ねた短距離誘導弾なのではないか? とは、本国の国防軍参謀たちの分析だ。共通回線を満たす絶叫もまた、徐々に消えていくのをレイスは耳と気配で感じ、死と隣り合わせの焦燥のみが募る。
「……ッ!」
火砲が瞬くのが見え、それが砲列だとレイスにはわかった。敵の戦線が近付く。「速度を落とすな!」と命じるのも忘れなかった。「榴弾装填!」装填手が初弾を薬室に押し込むのが気配で判る。
「装填完了!」
「砲手! 狙い次第撃て!」
射撃は早かった。発砲と同時に駐退装置が砲身を押し下げる。熱い空薬莢が薬室から排除されて零れ、所在無く床を転がる。監視鏡の視界から砲弾の赤い光が加速して伸び、硝煙の壁の中に吸い込まれて消えた。
次弾装填と射撃をレイスは命じた。烈しく奔るガルダ―ンの動揺に踏ん張って耐え、必死で監視鏡を廻らせる。その視界の中で、機関砲、それ以上に太く重い対戦車砲と思しき弾幕が前から後方へと抜け始めた。誘導弾を掻い潜った戦車や装甲車がそれらに捉えられてやはり四散し、炎上する。前方から押し寄せる黄白の弾幕と、直上から降る誘導弾に挟まれ、それらは突進を押し止める無形の柵となった。何発目かの射撃が赤い光となって敵に延びる――薄く広く拡がった敵の隊列、そのどこかで土柱を上げたのが見えた。直後――
「――っ!?」
一頭抜きん出る形で躍進したガルダ―ンが一両、不意に足許に生じた火柱に突き上げられる形で停まった。千切れた覆帯が跳ねるのが監視鏡の視界に映った。識別のため砲塔に描かれたギルタニア数字が、これまで合流を企図していた「D10」であることをレイスに気付かせた。D9は? D9はやられたというのか? そして――
「地雷だ! やつら地雷も撒いてやがった!」
リゲルス軍曹が叫ぶのが聞こえた。遅れてレイスの視界にも複数の火柱が上がるのが入る。弾着を思わせる太く烈しい火柱――それが地雷に絡め取られた戦闘車両の断末魔であることは、言われるまでも無かった。幾度も地面が揺れるのを足で感じる。それだけ牙を剥いた地雷の数が多い証であった。それらはまるで騎兵突撃を妨げる柵の様に、自軍の攻勢を妨げる。
まるで打上花火の如くに側上方から伸びた真白い放物線が、一瞬の後には各坐したD10の砲塔に刺さる。増加装甲すら食い破った鉄と火の矢が搭載弾薬に引火するのも一瞬だった。それ程至近距離では無かった筈なのに、爆発が生んだ衝撃波が此方まで届き、ガルダ―ン改の巨体を揺るがした。機関砲弾の着弾すら、軽装甲のトラックや兵を薙ぎ始めていた。攻める自軍に、恐慌が生じ始めていた。
恐慌を引き起こした元凶が、対戦車砲やロケットとは違う、知性を持った「矢」の仕業だということをレイスは知っていた。それを操る敵が、前方の防御線に拘束された我々の側面に廻り込んで来たのだ。このままでは壊滅する――恐れと愕然とともに、レイスは連隊本部を呼び出した。
「Dより265本部へ! 聞こえるか!?」
『――こちら本部!……状況は把握している……攻勢は継続……できるか?』
「不可だ! 不可能だ! 後退し部隊再編を具申する!」
『――……まずい! 敵の攻撃が始まった! くそっ!……これでは罠だ!』
『――……――』
「……!?」
無線が切れた。嫌な切れ方だと思えた。この期に及び別命など待つまでも無かった。全速での後退をレイスは命令した。攻勢の停滞は包囲される前段階である。下級士官のレイスにもそれぐらいは判る。残存部隊との合流とその後に再度攻勢か撤退かを決める機会を得るために、彼らはこの場から逃げなければならなかった。しかし――
「何処に逃げるってんだ……!」
後進から方向転換に入り掛けたガルダ―ンの砲塔で、呪詛を吐く様にレイスは呟いた。全軍後背部で退路を断たれるのとほぼ同時に、進攻方向たるアリファで敵の攻勢が始まった。ノドコール共和国軍は南北より挟撃され、磨り潰されようとしている。方向転換を終えるや全速で奔るガルダ―ンの車内で、監視鏡をそれこそ自身の首の様に廻らせつつレイスは発煙弾の発射を命じた。砲塔の焼け爛れた中戦車が同じ方向に逃げるのが見える。各坐したトラックを弾き飛ばし、全速で奔る戦車の姿だ。逃げ惑う兵士の影を見、レイスは声を張り上げた。
「ベルキ! 周囲に注意しろ! 兵士が飛び込んで来るぞ!」
「了解!」
転輪レバーを握るベルキ伍長が上ずった声で応じた。統制を失って逃走に転じ、不用意に進路上に出た友軍の兵をガルダ―ンが挽き潰す可能性が高まっていた。車内にあってはガルダ―ンの転輪を握る彼がそれは最も痛感するところであった。再度地面が震え、それはガルダ―ンの硬いサスペンションを易々と揺さぶる。榴弾砲クラスの着弾が始まっていることの、何よりの証明であった。曳火榴弾の炸裂が、破片の豪雨となってその下で無数の兵と車両を吹き飛ばす。飛んできた破片はガルダ―ンの装甲をも打ち、あるいは抉る。増加装甲が破れる音が砲塔内に反響し、車内の誰かが悲鳴を上げた。
「もう少しだ! もう少しで離脱できる!」
本気では言っていない。だが怯える部下を励ます必要があった。着弾の頻度が上がるのを体感する。炸裂弾の破片が、今となってはまるで石礫の様に車体を叩き始める。砲塔ごと向けた監視鏡の視界には、逃げ遅れた友軍の残骸が発する黒煙が無数、灰色の平原に昇るのが見えた。逃げ遅れた同胞たちの墓標だ――
もう少し、もう少しで――急くレイスの睨む監視鏡の視界の中で、地平線の彼方から延びる軌道が一条。天使の放った矢の様に真白く輝くそれと、レイスの怯えた眼が合った様に彼には思われた。
終わりだ――レイスはそう思った。
目を合わせてはならない超自然的な「何か」、それに比肩する存在を迫り来る破局に彼は重ね合わせた。
逃げられない!――光が迫り、当たると思った瞬間に物体も意識もまた漂白され、そして消失する。
ノドコール国内基準表示時刻1月13日 午前8時56分 ベース-ソロモン飛行場傍 PKF統合指揮所近傍
日本から持ち込んだ配信用ノートパソコンの画面に、誘導弾の直撃を受けて四散するローリダの戦車の姿が映る。此処よりずっと北の戦線で、友軍の展開させたドローンが捉えた映像だ。それに反応し、瀑布の様に文字の羅列が流れる。味方の優位を誇り、敵の殲滅を喜ぶ歓喜の羅列だ。
画面を埋め尽くすそれらは熱狂の度合いで、プロサッカー公式戦の得点シーンと変わり映えする処が無い。ただしサッカーと違い、現在装甲車の外で繰り広げられている光景には人の生き死にが掛かっている。それも指揮通信車仕様の軽量戦闘車の車内で、夜が明けてからこのかた続いている風景だ。戦局の大勢が一気に自軍に傾いた瞬間――だがそれが従軍から一週間を越えた間宮 真弓に与えた感慨は、決して晴れやかなものでは無かった。
本土の「ヌコヌコ動画」では、開戦と同時に実況動画閲覧者が急増した結果、配信枠を四つに増やして対応しているという。今となっては「伝説」とも呼ばれた「転移完了」の瞬間実況企画以来の、異例の対応であった。それだけ実況班を率いる真弓の責任も重大になるわけで、動画の編集やら機材の調整やら、ひいては前線部隊との折衝に要する時間と責任の占める、業務に対する比重は、日を追うごとに増していくこととなった。とにかく忙しい。これでは戦場でお決まりの死の恐怖など、立ち処に忘却の彼方へと向かう。
尤も、死の恐怖など三年前のスロリアに置いて来たようなものであった。そこに先年、同じくノドコールで報道陣としての義務に殉じた先達の横死が真弓に一種の使命感を与えていた。動画だけでは伝えきれない前線の空気、作戦に従事する自衛官の言動、配信作業環境などを、真弓は折を見てサブウインドウに記事として書き込んでいる。それに対するコメントもとうに1,000を越えていた。日本の本社からは、帰国の暁には複数の主要メディアから、彼女個人への取材依頼も来ていることを真弓は後に知った。日本での未来に思いを馳せるには、未だ早すぎた。
車内で警報が鳴る。決して大きくはないが、心霊スポットで名状し難い怪異が迫るのにも似た、不安を掻き立てる音色だ。銃座に付いていた陸士が敵の接近を告げた。ノートパソコンの編集画面を睨んでいたADの肩を叩き、真弓は言った。「打ち合わせ通りよ。あとをお願い!」
無線機能でノートパソコンと連接させたタブレットを手に、真弓は軽量戦闘車の外に飛び出した。待避陣地に嵌った軽量戦闘車から、鉄帽とボディーアーマーを纏って歪になった短躯が飛び出して走る。警戒配置に付く普通科部隊と行き合い、あるいは擦違いながら、真弓はその全容をもはやベース・ソロモンの地下に埋めた統合指揮所まで駆けた。報道要員の腕章を嵌めていながら、統制に沿わない民間人女性の行動を見咎め、声を張り上げる陸曹もいる。それにも構わず、真弓は足許の悪い交通壕を走り続けた。固定が甘いのか、揺れるボディーアーマーのせいで走り辛い。
「――ッ!?」
目指す人物が、指揮所から離れた場所、それも見晴らしのいい高台に幹部を従えて登っていることに、真弓は半ば驚愕して足を停めた。見上げた先、平和維持軍 ノドコール派遣統合作戦部隊司令官 江角 垰 陸将の、気取らない歩みが淡々と高所に向かう。その高所では既に第一空挺団の隊員により銃座と監視装置が敷設されていて、そこからさらに距離を空けて配置された狙撃兵が、彼の最高司令官を敵の狙撃から護っている筈であった。
声を掛けようとして真弓は踏み止まる。呼ばれて歩みを停めた江角陸将が、不時の狙撃に斃れる光景を想像したからであった。追従すべく、息を切らしつつもなお登り始めた真弓と、登り終えた江角陸将の目が、この時初めて合った。
「早く上りなさいな! 狙撃れるわよ!」
大きな声であった。教師が生徒を鼓舞する様に真弓には聞こえた。鼓舞されるがまま、真弓は高台を一気に駆け昇る。不意に中高時代の記憶、バスケットボール部の階段ダッシュが思い出された。息切れと防護服の重みは、急勾配を上まで登り切った後に一気に襲ってきた。背を曲げて息を整える真弓の背を、何時の間にか近付いた誰かの手がポンポンと叩き、撫でた。反射的に見上げた先で、江角陸将が慈母の様な微笑を浮かべて真弓を見下ろしている。やはり禁煙が必要だという思いを、驚愕と共に呑み込む。
「特等席へようこそ。真弓ちゃん」
一息をついた真弓を見届けた後、江角陸将は双眼鏡を構えた。北西の方向であった。菩薩像を思わせる穏やかな微笑を浮かべる江角陸将の周囲を、厳めしい無表情を崩さない幕僚や幹部たちが取り囲むように詰めていることに、真弓は顔を上げて初めて気付く。
「展開特科各班より報告、全班射撃準備よし」
「……!」
幕僚の報告に慌てた真弓が、前線に向かいタブレットのカメラを向ける。コメントタブの書き込みの数が尋常ではない。殆ど読めない勢いで書き込みが下から上へと昇り重なっていく。配信機材との連接が巧く行っていることの証でもあった。まるで新しいイベントの到来を待っているかのような熱気、それがタブレットを構える手にも伝わってくるかのようだ。その間、地平線と山際に向けて暫く覗いていた双眼鏡を下ろし、江角陸将は告げた。菩薩の顔から微笑が消えていた。
「全特科火力、目標南下中の敵北方軍主力。有効射程に入り次第、各級指揮官の判断で射撃を許可する。薙ぎ払え」
「キヨスより特科群全部隊へ、目標敵北方軍主力。有効射程に入り次第射撃を開始せよ」
幕僚の復唱も兼ねた命令伝達がデータリンクを駆け廻る。指揮統制端末のノートPCを睨むオペレーターが展開各隊の「射撃開始」を告げる。江角陸将の命令に、感嘆のコメントがコメントタブを壊さんばかりの勢いで生じ、タブを埋めていく。
薄らと降雪の白に染まった滑走路と大地、山嶺――高地から臨むそれら美景に圧倒されて息を呑んだ真弓の足許が、ずんと揺れた。高地より後背の方向だと察した。19式高機動ロケット砲システム群の展開位置だ。初弾――白煙を引いた重ロケット弾が無数、高地を越え、滑走路を悠然と越え地平線の山麓に向かう。それを見上げつつ、戦慄が冷たく背中を奔るのを覚える。
「HIMARS初弾 弾着まで5秒…3秒……弾着、いま!」
「あ……!」
真弓は軽く叫んだ。地平線の先が震えるのが見えた。タブレット画面越しの着弾、それは朝霧と山嶺に阻まれて直視は叶わなかったが、弾着の衝撃は周囲の冷たい空気すら震わせる。それに驚愕する間も無く、第二斉射が始まっていた。飛行機雲の様に白く長い噴煙を引き、ロケット弾が簾の様に地平線に延びて、爆ぜる。目標直上で複合目的改良型通常弾が散り、そこから更に中空で弾けた小爆弾が内蔵した金属球を音速の数倍の速度で、かつ豪雨の様に大量に撒き散らす。戦車といえど無事で済む筈が無かった。
はたして、時を置いて落雷が幾十回も連続した様な烈しい轟音が、山並みを崩す勢いで広がった。衝撃波すら体感として皮膚に押し寄せる勢いだ。
「――初弾、弾着を視認! 効果大! 効果大と認む!」
PCを睨むオペレーターの報告が弾んだ。弾着地点に展開したドローンの捉えた着弾の瞬間が、距離にして50km以上を隔てた統合指揮所に共有された結果の報告であった。ひいてはそれが、恐らくは今日の内に防衛機密に抵触しない処理を施された上で日本本土のニュース動画にも載るのであろう。
それらより先、ADの手で編集されたそれら動画が「ヌコヌコ動画」に掲載ることになるかもしれないが――タブレットを構えながらに、真弓は抜かし掛ける腰を、足に力を入れて必死で支える。滑走路にほど近い平原と山肌にも、小爆弾の弾着が無数、禍々しい黒い花畑となって拡がるのが見える。その下で人死にが始まっていることを、なるべく無視する様に真弓は務めた。それしかできなかった。
第二斉射に続き第三斉射が始まる。初弾の誤差を完全に修正したそれらが、噴煙を引いて鮮やかな朝空に映える。死の天使が真白い弾幕となって延びる。弾着の結果として立ち昇る黒煙に穢された空と地に、再び弾着が始まり、死と破壊を撒いた。今となっては朧げながら、光と炎が勃々と見える。
「――無人機情報より報告。ジョルフス軍、機甲戦力の八割を喪失と認む」
「――北方軍、全戦線に亘り通信途絶。傍受不能です」
「閣下、敵の統制が崩壊したのではありませんか?」
オペレーターが報告し、幕僚が言った。江角陸将は頷いて応じた。
「機動中の5、14旅団に攻勢準備。攻撃ヘリ群も向かわせなさい」
双眼鏡を再度覗きつつ江角陸将が命じた。それは追撃の命令であった。状況は撤退するであろう敵の追撃に移行する。会戦において、敗者の損害が最も拡大する時間の始まりであった。駄目押しの攻撃ヘリ部隊は差し詰め、逃げ惑う敵兵を追い散らし、その背中に槍やサーベルを揮う騎兵といったところだろうか? 前線から目を離さず、淡々と命令を下す江角陸将を、今となっては真弓は、興奮よりもむしろ戦慄と共に見遣る。
「第4斉射いま!」
報告と同時に、噴煙の群が再度蒼穹を穢した。これでHIMARS群は装填した全弾を撃ち終わる。しかしドローンの映像情報で弾着が把握できる現在となっては、この全力射撃が過剰攻撃との印象も拭えない。
しかし分厚いマフラーの下、白皙の美貌から表情を消した江角陸将の厳粛さが、こうした困惑を口に出せない障壁と化している。真弓からしても、まるで母娘の様に軽々しく会話を交わしていた過去の打ち合わせの記憶が、別世界の出来事の様に思われた。解き放たれた第四斉射が、これまでの三斉射とほぼ同じ軌道を辿り、炸裂して大地を圧する。平原が震える。生命が失われる響きが、空気の震えとなって伝わる。
「――第10師団より報告、攻勢の効果大。KS軍後方集団の崩壊を認む。KS軍後方集団、南西方向に逃走中。10D総力を上げこれを追撃す」
幕僚が電文を読み上げた。周囲の幕僚たちから安堵と歓喜の雰囲気が漏れる。一方で江角陸将の無表情は変わらなかった。着弾と爆発が続く山嶺の彼方を睨みつつ、江角陸将は言った。
「問題は正面の敵でしょうが。此方の攻勢の効果はどうなの? HIMARSの次弾準備は終わった? ドローンは敵情を把握できてる?」
「……」
苛立ちを少し前に出して、江角陸将は言った。それは一軍の将として矢継ぎ早の指示でもあり、目前にした勝利を前に、緩み始めた幕僚たちの気概を引き締める効果を与えた。指示が速やかに、だが悉く実行された後、ドローンによる監視報告を受けた情報幕僚が江角陸将の傍に立つ。
「――閣下、我が方正面に接近中の敵軍の崩壊を確認しました。敵が逐次後退していきます」
「これより攻勢発起位置まで前進する。ベース・ソロモンの防御線及び榴弾砲の砲列を北に持ち上げる。HIMARSは現位置にて射撃準備のまま待機」
「――防御線展開の各隊へ、攻勢発起位置まで前進せよ。前進せよ」
陸将の意志を伝える幹部の復唱が仮設の指揮所に満ちた。それが一段落するのを見届けた後、江角陸将は初めて相好を崩した。あの菩薩像を思わせる微笑が、真弓を顧みる。
「真弓ちゃん、音声拾える?」
「あ……ハ、ハイ!」
タブレットを前線に向けさせたまま、声だけを拾わせる。
「視聴者の皆様、統合作戦部隊司令官の江角と申します。改めて申し上げるまでもありませんが、これが、将軍の見る景色です。皆さん、徹夜した甲斐はありましたか?」
「うあ……っ!?」
コメントタブへの書き込みが、加速度的に増えた。それが真弓に変な声を上げさせた。本土のサーバーが飛ぶのではないかと思える程の書き込みの量と速さに驚愕を覚える間もなく、江角陸将の言葉は続いた。
「これより我々は敵軍の追撃を実施し、戦果を拡大します。ノドコールに平和を取り戻すそのときまで、我々の戦いは続きます。国民の皆様には、前線の陸海空自衛隊の将兵を代表して応援を宜しくお願いします。それでは引き続き、将軍の見る景色をお楽しみください」
そのとき、UH-1JYヘリコプターが一機、高地の上空を掠める様に過った。ローターの生む烈しい風圧に驚愕する間も無く、それは高地の斜面に沿う様に高度を落とし、仮設の離着陸地点へと進入していく。それを指揮所の面々が見届けるのと期を同じくして、武装した隊員が駆け込んできた。幕僚に敬礼するや、ヘリの回航を告げる。
「閣下、移動の準備が完了しました!」
「宜しい。では行きましょう!」
まるで花見の場所でも移るかのような感覚で撤収作業が始まる。唖然とした真弓が江角陸将に聞いた。「閣下、どちらへ?」
江角陸将は、北を指差した。「前に。此処にいたのでは前線の状況がわからないでしょ?」
「じゃあ、同行してもいいですか?」
「駄目よ。真弓ちゃん、あなた民間人でしょ」
娘の我儘を窘める母親の様な口調で、江角陸将は言った。先刻までの険しい軍人の貌からの豹変に、真弓は内心呆気に取られた。母親の貌がニコリと微笑い、江角陸将は真弓の肩をポンポンと叩く。
「だから此処で御留守番していなさい」
「あー……」
言葉を失った真弓を置いていく様に、江角陸将は高台を降り始めた。護衛と幕僚たちもまた足早に続き彼女に追い付く。外でありながら指揮所ならではの熱気が、熱気寂寥と寒風のみが支配する空間に装いを変え始めるのを真弓は体感した。
「間宮さん、残念だったねえ」
望遠レンズ付きカメラを手にした従軍カメラマンが声を掛けて来た。苦笑でそれに応じつつ、真弓は再び高台より臨む前方、もはや勝利が確定した戦場に向き直る。これからPKFの反攻――に名を借りた追撃――が始まるが、「会戦」としての今日の戦闘はもはや終わった様なものだ。日本本土は更なる戦勝に沸くことだろう。しかし――
「――この戦争、どうやって終わらせる積りなんだろう……?」
寒風が烈しく吹き、真弓の独白を容易く打ち消していく。
日本国内基準表示時刻1月13日 午前10時00分 日本政府は内閣官房長官 蘭堂 寿一郎による臨時記者会見の場で、防衛省呼称「中部ノドコール会戦」における、平和維持軍の対キズラサ国作戦行動の成功と、以後の地上戦における優勢確保を発表する。
今日の戦闘に日本は勝利した。
だが、今次の戦争には未だ勝利していない。