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第二七章 「シレジナ攻防戦 後編」


シレジナ方面基準表示時刻1月9日 午後15時40分 ローリダ政府直轄領シレジナ ローリダ軍「沿岸防衛線」


 時は、少し遡る。

 

『――こちら前進観測班「穴熊」……制圧射撃……効果大。効果大と認む』

 シレジナ湾方向より「沿岸防衛線」突破を担う主攻軍、または総司令部付軍を直卒する軍監長 イザク-アリイドラからすれば、最前線からの報告を聞くまでも無かった。百聞は一見に如かずと言う。老将の双眼鏡の視界には、無数の榴弾砲弾の着弾が生む黒煙と炎に覆われ、破壊が進行するローリダ軍の「防壁(ウォール)」の瀕死の全景が拡がっている。あとは装甲の重さと兵の数に任せて崩れた防壁を駆け昇り、その向こうの敵司令部まで殺到するだけ――老将は、勝利を急いでいた。


 急ぐ……否、老将は勝利を焦っていた。実のところ、シレジナ湾方面の他、シレジナ半島北部と南西部に展開した拠点を起点に別働隊を前進せしめ、相互の連携の下でローリダ軍の防衛線を削り、浸透と包囲を可能にする兵力配置と作戦準備はすでに為され、あとはアリイドラ自身の前進命令と督戦の下で各部隊の機動と戦況を把握、時によっては統制するだけで事足りる筈であった。


 突破に困難が予想される沿岸防衛線は、ただ正面より圧力を加え続けることで彼らの兵力と注意を拘束し、別働各軍の迂回機動を援護するに留めるだけで良かったのではないか?――それを、老将は択ばなかった。更に言えば配下の首席軍監 ナジース-ジレが構想し提出した作戦案を、アリイドラは「修正」したかたちとなった。ハナヤ大佐――「軍師」を自認するあの堂々たるニホン人――が、自分の修正案に賛同してくれたのも、修正案の採用を後押ししたかたちともなった。


 現実として、要塞正面に展開する「突入部隊」の先鋒は動き始めていた。アリイドラ軍監長直卒、本国より戦車大隊の増強を得た一個狙撃兵団と四個独立狙撃大隊を主力とする「総司令部付軍」、これを一個砲兵団の火力支援の下でローリダ軍防衛線に殺到させ、突破させる。砲兵団固有の火力で足りなければ、防空兵団隷下の高射砲部隊の火力も加勢させるつもりであった。とくに初速と射撃間隔の早さに優れた高射砲は、要塞深奥に温存が予想される敵戦車への対処に有用な筈である。事前の諜報活動では、あの厄介なガルダ―ン重戦車は配備が確認されていない。配備されていても少数である可能性が高い。


『――「白豹」076、第二警戒線を突破!……砲撃及び地雷敷設の兆候なし』

 空電交じりに偵察部隊の報告が聞こえる。老将アリイドラと幕僚たちが聞き流しながらに睨んだ双眼鏡の向こう、弾着の生んだ惨禍を象徴する黒煙と炎が晴れ、その後には半壊した防壁が無惨な佇まいを見せ始めていた。アリイドラからすればローリダ軍の防壁は、前年ノルラントが構築し、あるいは増築を進めたものよりもずっと低く、粗末なものになっている様に見えた。


 ノルラントの披歴し、そして誇る「ノルランティア文明運動」の成果たる、ブロックとコンクリートで造られた「シレジナの鉄壁」が、攻守を変えた次の戦役では再建も補修もされず、単に瓦礫を固めただけのこんもりとした「傾斜」へと変わっていたことに、アリイドラをはじめノルラントの武人たちは呆れ、あるいは憤ったものだ。

「ローリダ人は愚かな連中だ。まともな防壁が造れないのに壊すとは」と言う幕僚までいたほどで、ノルラント軍人にとって、防御とは防壁あっての戦闘であり、要塞あっての防衛戦である筈だった。「護国の女神」キャスパル-ストルミン以来の定説と言っても過言ではない……ひょっとして、防壁の再構築に必要な兵数を確保できなかったのではないかと推測した幹部もいる。


「――敵の防御火力は殆ど喪われた様ですな」単眼式の携帯望遠鏡を覗きつつ、一人の幕僚が言った。


 攻勢準備射撃が始まる前、更にその前の対峙の段階では「傾斜」の頂上には火砲や機関重座が居並び、抵抗の甚だしきが容易に予想された。だがそれらが粗末な「防壁のようなもの」に暴露されているに過ぎない以上、いかに強力な重火器と雖も制圧射撃の前には無力である。此方の準備砲撃に対し敵も反撃し、彼我の野砲、榴弾砲の応酬で攻防戦が始まるのではないかと考えた幕僚もいたが、それは杞憂に終わった。


 そうなったとしても、制圧火力はノルラントが優越している。陸上から発射される野砲の他、シレジナ湾上に配置されたロケット砲艇の撃つ多連装ロケット砲も制圧射撃に加わる。投射し得る火力の量は侵攻側たるノルラントの圧勝であった。指揮所のアリイドラ達としては現状、自軍の火砲がローリダ軍の防御砲座を「耕作する」様を、余裕を以て傍観しているだけで済んだ。「防壁」の頂上、言い換えれば稜線上に露出したローリダの「防御火力」――それらが破壊される様を目にした時点で、アリイドラ達は敵要塞に向かう自軍を待ち構えている未来について、少し考えを廻らせるべきであったのだが……


「予備部隊も投入せよ。一気に方を付けるぞ」

 アリイドラが命じ、幕僚が眉を顰めた。未だ準備射撃が終わっていないこともあるが……

「戦闘工兵の編成完結には、予定ではあと30分を要しますが宜しいのですか?」

「我ら総司令部付軍の総力を以て敵要塞中枢を迅速に制圧し、北方装甲軍と南方浸透軍にとっての憂いを絶っておきたい。時流の神は今のところ我らに味方している。彼女の気が変わらぬ内に出来ることはやって置かねばならぬ。要塞の裏手で、友軍と合流できるようにしたいものだ」


 発言には気を利かせた積りであった。ただし部下の反応をじっくり確かめる暇も無く、指揮所の通信回線を前進を告げる複数の命令が交差し渋滞する。決して快速とは言えぬ戦闘工兵や支援部隊を置き去りに、突入部隊の装甲車や対戦車自走砲、随伴する戦闘部隊が火砲による「清掃」が済んだ防壁を昇る。最下層の兵士たちの目にもローリダ人の防衛線は破壊され、抵抗する手段も意志も一斉射撃の前に霧散したように見え、それが傾斜を駆ける彼らの脚に翼を与えていた。この戦に勝つというより、早く終わらせて生きて故郷に帰る確率を上げたいという、功名心に逸る幹部以上に切実な望みの為せる業だ。



「怯むな! 前進せよ! 恩賞は思いのままぞ!」

 前線の防壁、その一端に取付いた部隊の先頭に在って下級中級の幹部が車上より声を張り上げる。彼ら兵士に命令し、そして彼らを鼓舞する彼ら幹部の意図は、もはや更地となった「防壁」の頂上に一番乗りを果たすことにある。昇進と一時金と休暇という、果たした場合の対価はアリイドラ自身の口により攻勢前夜に提示されていた。与る兵士たちの命など、考慮の外であった。


 兵士への恩賞? そんなもの本当に貰えると思っているのか? 度重なる約束の反故と過酷な統制の結果として、恩賞など本気で貰えると思っている兵はもはや我がノルラント軍にはいない。いるとすれば此処で死んでくれた方が有り難い。僅かに追随する戦闘工兵による啓開作業も等閑にして、徒歩で前進する兵すら抜き去って戦車や装甲車、そして幹部たちの指揮通信車が稜線上に到達する。一番乗りが誰か、もはや正確には判らないほどの勢いだ。


『――頂上に到達! 敵兵多数を掃討! 我が隊が一番乗りだ!』

『――頂上に到達! 我が部隊名を記録してくれ! 一番乗りとして総司令官のお褒めに預かりたい!』

『――馬鹿な! 一番乗りは我が隊だ! 妄言を吐くな下種!』

『――頂上を通過! 後続の友軍多数接近につき前進する!』

『――頂点が狭い! 友軍が犇めいている! 窮屈過ぎて溜まらぬ!』


 自隊の「一番乗り」を主張する通信、友軍の「一番乗り」を誹謗する通信が回線上に充満した。それらが一通り回線を嵐の如くに荒れ狂ったのち、突入部隊に占領され、結果として侵攻部隊の将兵と装備が密集した稜線上の狭さを報告し、指揮所の指示と助言を求める現実的な通信が廻り始めた。決して広範とは言えない稜線上に、数千に及ぶ将兵と装備が殺到したのだからこれは当然の結果であった。此処で前進を命令するには、前線に指揮統制は明らかな混迷を迎えている……



「閣下、占領と陣地再構築に必要な兵を残し、残りは後退させ再編させるべきでありませんか? 工兵との合流も必須でありましょうし……」

「ならぬ!」

 指揮の混乱に、さすがに懸念を覚えた幕僚の具申を、老将アリイドラは一刀の下に撥ねつけた。この段階で、ベル-カデス方面に浸透を果たした南方浸透軍の苦戦は伝えられていた。北方装甲軍の戦況は――未だ判らない。戦況表示盤に視線を落としつつ、老将は焦燥に駆られていた。戦況の容易ならざることに対するものではなく、此処から遠く離れたノルラント本国における、将来の彼自身の去就に対する焦燥であった。老将はこの戦場における数万に及ぶ将兵の未来を背負って戦っているのではない。ひとりとしてこの場にいない、総数で一個小隊分にも満たない彼の派閥の未来を背負って戦っているつもりであった。それ故に指揮官として下せる決心の性格が、アリイドラの場合、防壁の向こう側に居る敵将とは明らかに違った。


「前進させろ」

「は……?」

「組織的な戦闘力を有する部隊は、その規模を問わず前進し、ローリダ軍の陣を震撼せしめよ」

「…………」

 冷厳に命令するアリイドラの言葉に迷いがないことが、むしろ幕僚たちの一部を困惑させた。それが一部のみにとどまったのは、一部以外の大多数もまた、未来に注ぐ比重を此処の戦線ではなく本国に置いて来ているからに過ぎない。何より、防衛兵器の主力が集中している(と思われた)防壁を破ったという安堵が、勝利への駄目押しとしての前進を許容する空気を指揮所に作っていた。異論無く命令が復唱され、それが通信回線を通じて実行されようとした間際――


『――「白豹」015狙撃大隊先行集団より報告……防壁より奥に複数の砲座を視認!……敵弾幕効果大!……前進できない!』

『――独立「狼兵」219!……機関砲による銃撃を受けている!……防げない!』

『――砲撃を受けている!……被害甚大!……稜線を維持できない!』

「なっ…………!!?」

 

 戦況表示盤から顔を上げたアリイドラの魁偉な顔から血色が抜け、蒼白に染まった。信号機が換る様な鮮やかさであった。見上げた先に拡がる「瓦礫の防壁」の頂上、先刻まで友軍の制圧下にあり、ノルラントの軍旗が翻っていた筈の稜線では砲弾の弾着が始まっていた。弾着の火柱と黒煙が怒涛の如き勢いで稜線を再び埋めていく……それら全てが、ノルラントの砲弾では無かった。


「防壁が……燃えている」

 放心した様に、ひとりの幕僚が呟いた。稜線からの通信が途絶するのと同時に弾着の範囲が広がり始めた。弾着の炸裂と黒煙が稜線へと続く傾斜まで広がり、それは本隊を追及して防壁を上る後続の戦闘部隊、工兵と補給部隊をも呑み込み始める……攻略部隊が殲滅されゆく光景――老将たちが事態の深刻さをすぐに理解するのに、衝撃はあまりに大き過ぎた。


「なにが……起こっているのだ?」

「あり得ぬ!……防壁を囮にしたというのか!?」


 防壁を越えた先は、隠蔽された砲座と機関銃座の犇めく死の森であった。


 稜線を越えて要塞深奥に突入を果たした筈のノルラント軍は、稜線上にその姿を露出した格好の目標となり、防壁を越えた先で、遮蔽物も逃げる場所をも失った格好の獲物となった。それだけではなかった。防壁の更にはるか後方から、ローリダ軍は長射程の榴弾砲や野砲、多連装ロケット砲を撃ち始めていた。それらは先鋒に後続して稜線を目指していた筈のノルラント軍を広範囲に直撃し、破壊と殺戮を拡大していく。


 稜線上とその後方に秘匿配置された観測所の威力でもあった。修正弾なしの迅速な砲撃から、恐らくは戦前より弾着点の測定など入念な準備も行っていたのだろう――前進はおろか後退も出来ずに殲滅されゆく攻略部隊――袋小路に呑み込まれた軍団――ノルラントの幹部たちがそのことに気付いたときには、既に遅かった。


 通信回線内の閉ざされた世界を、未来を閉ざされた悲鳴と怒声が前線を廻る。

『――後退を!……後退の許可を!』

『――第239、司令員が戦死!……繰り返す!』

『――365全滅!……繰り返す!……司令員以下全滅!――我が隊も継戦能力なし!』


「砲兵部隊、反撃せよ! ローリダの砲座を潰すのだ! 突入部隊を支援せよ!」

 アリイドラの命令は、思考を奪われ掛けた幹部たちに希望を披歴したかたちとなった。地上の被害こそ現在進行形で拡大しているが、要塞内に突入は果たしたのだ。彼ら突入部隊に目標を評定させれば重砲による反撃は決して不可能ではない。それに上陸時より設営された砲兵陣地そのものはなお健在だ……そう、健在だ。


 アリイドラの直接命令が飛んだ。指揮所より後方、砲兵陣地を構成する野砲、榴弾砲が大地を揺るがして要塞に向かい咆哮する。ただし攻略軍に随伴していた前進観測班が壊滅し、前線の混乱も相まってそれらが効果を発揮するのには時間が掛る。あるいは有効な弾着など全く望めないのかもしれない。ただ上層部の精神の均衡を保つためだけに、それらは敵味方に向かって砲弾をばら撒き始めた観があった。一方でそれらが反撃される可能性など、アリイドラはじめノルラントの幕僚たちは微塵も考えなかった。もはや考える余裕すら無かったのかもしれない。


「――――ッ!!?」

 それらは突如「防壁」の向こうから飛び上がり、蒼穹を抜けて砲兵陣地に達した。

 初め、曇天を切る様な白い軌条が複数戦場上空に出現したとき、ノルラント軍はそれが折からの悪天候を侵してローリダの空軍機が上がったのかと浮足立ったものであった。だがそれらは砲兵陣地方向へ急激に高度を落とし、速度を落とさぬまま砲兵陣地の火砲や観測所に向かい突入を始めた。内包する炸薬量こそたかが知れていたが、むしろ音速の三倍を優に超える突入時の運動エネルギーが広範囲に被害を及ぼした。

 それを防ぐ対空砲は、ごく少数の機関砲を除き全てが前面の要塞攻略に投じられている。残されたとしてもノルラント軍の対空戦闘能力では音速を超えて飛来する物体を迎撃することは困難であったろう。彼らには高度な野戦防空に必須の、対空警戒/照準レーダーや対空戦闘指揮装置の数と性能が決定的に不足していたのだ。


 しかし――どうやって目標の位置を特定し、ミサイルを誘導しているのか?――要塞の向こうのローリダ軍が混乱と疑念を斟酌してくれる筈も無く、小型のミサイルは砲兵陣地を沈黙させ、その毒牙はより後方の補給段列にまで及んできた。ミサイルの直撃で仮設倉庫が潰され、食糧と車両が燃やされ、燃料タンクが燃え上がった――立ち昇る轟音と業火を前に、残置していた後備役の兵は為す術も無く逃げ惑い、あるいは炎に呑み込まれて潰えていく……


『――補給基地通信途絶! 燃料庫なお炎上中!』

「鎮火を急げ! このままでは我が軍は作戦を継続できなくなる!」

 幕僚の指示はもはや悲鳴に近かった。それに追従、あるいはそれを捕捉するかのように幹部の命令と怒声が指揮所の内外で響き渡る。その間もミサイルの飛来と着弾は容赦なく続いていた。通信設備と、幹部が指揮を執るのに必要な住環境だけは立派な指揮所から遥か遠く、土くれと瓦礫を積み上げただけの「防壁」の向こうで、ノルラントの同胞が現在進行形で殺戮されつつあることなど、とうに考慮の外だ。


「…………」

 周囲の混乱が生む喧騒からは半ば超然として、イザク-アリイドラは椅子に座り込んだ。彼の見開かれたまま床の一点に向いた眼から、一切の生気が失われていることが、一軍の指揮を執るに不適当な精神状態にあることを無言の中にも雄弁なまでに物語っていた。現実問題として、アリイドラと彼の幕僚たちが直面しているのは完膚なきまでの敗戦であった。更なる問題は、幕僚たちの誰がそのことを指摘し、そして撤退を具申するかに移ってしまっている。


「……ハナヤ……ハナヤ大佐はどうしているか?」

「は……?」

「あのニホン人め! 大言壮語は何処へ棄ててきたか!!」

 突沸を思わせる感情の爆発に、幕僚たちもまた顔色を白黒させた……と同時に、現在頓挫しつつある三方向からの同時分散進撃を「大戦略」として称賛したニホン軍幹部の、高揚した貌を思い出した者も少なからずいた。思えばあのニホン人が太鼓判を押したからこそ、当作戦の実施にも弾みがついたというものであった。それ故に今となっては鬱憤をぶつける効果をも生んでしまっている。


「……閣下、ハナヤ大佐らをはじめ北方装甲軍との連絡が途絶しております。それだけではなく、我が指揮所と攻略部隊先鋒との通信も途絶しがちでありまして……」

「『特務班』は? 『特務班』からの報告は未だか?」

「ブッカー平原への降着完了と、サッサ中佐発見の報告は受けておりますが、それ以後は……」

「ハナヤ大佐諸共巻き込まれたというのか?……ローリダの攻勢に」

「この悪天候です。目標地点に到達できなかった可能性もあるかと……」


 一瞬苦渋に言葉を詰まらせ、アリイドラは質問を続けた。

「南方浸透軍はどうか?」

「苦戦中の報告を最後に、司令部とは通信が途絶しております。敵の伏撃より脱した一部部隊との通信は可能ですが、それらを総合するに戦況は……」

 絶望的かと……という幕僚が呑み込んだ言葉を、アリイドラは心中で聞いた。

「……南方浸透軍との連絡線の回復に努めよ。通信を回復できた部隊から攻勢発起点まで後退させよ」

「では……」

 再び、沈黙の誘うがまま老将は眦を足元に落とした。

「兵力の再編はこれを行う。だがもはや攻勢には出ることあたわず」

「では……」

 老将は頭を振った。

「作戦は終りだ。我々に手駒は既に無いのだ。攻勢発起点まで全面後退の後、『軍政会』の指示を仰ごう」

「…………」

 幕僚たちの沈黙には、これまでのそれとは違った趣があった。ノルラントの国政と戦争の最高意思決定機関たる「軍政会」の名を持ち出されて、襟を正さないノルラント軍幹部はいない。明確になった作戦の失敗を前にして、後始末としての撤収、同時に戦後の去就も考えなければならない段階にアリイドラと彼の幕僚たちはいる。


「ジレには詫びねばなるまいな……」

 老将の呟きは季節外れの湿った風に打ち消され、それを聞いた幕僚は誰もいなかった。



シレジナ方面基準表示時刻1月9日 午後17時43分 ローリダ政府直轄領シレジナ ノルラント南方浸透軍


 雨足が、再び勢いを増した。

 濃霧が視界を塞ぐ。見えそうで見えないその先を自然の壁が塞ぐ。霧は向かうべき場所、退くべき場所にも回り込み、文明の外に踏み込んだ者から一切の理性を奪わんとする……自然は、楽園であると同時に牢獄にもなり得るのだ。


 雨と濃霧の中にあっても、音と光だけは辛うじて届く。

 耳を澄ませ、眼を研ぎ澄ませば、地平の彼方より轟く砲声と破裂音、淡く伝わる光――おそらくは発砲と弾着の光――が聞こえ、そして見える。戦闘が続いているというより、それは残敵掃討の光景であった。ノルラント南方浸透軍は不用意な進軍の結果、ローリダ軍の伏撃を受け、そして虎の子の戦車部隊の大半を喪失して撤退――否、逃走した。


『――ロ軍(ローリダ軍)は巧妙なる対戦車陣地の構築を以てノ軍(ノルラント軍)の浸透を待ち、適切な時期に奇襲伏撃を実施せしめたり。ロ軍は十分な数の携帯型対戦車誘導弾(ATGM)を保有し、対戦車特技兵もよく訓練され、有効射程に接近しノ軍重目標に有効な打撃を与えたり。ロ軍は既知のレーザー誘導式ATGMの他、有線誘導式のATGMも有する。これらはより遠距離に隠蔽された砲座及び車両より発射誘導され、威力射程ともにレーザー誘導式ATGMに優越す……』


 タブレットにメモを記したところで、二等陸佐 佐々 英彰は頭を上げた。遠雷の如くに砲声は時折続いている。それに心を騒がせるには、彼は自衛官としてあまりに経験を積み過ぎていた。ただし……


 洞窟を照らし出すLEDランプを挟んだ対面で、毛布に身を包めて震える老兵たちを見遣り、佐々は表情から余裕を消した。敗戦にあたり、逃走するノルラント軍は多数の装備と物資を遺棄したが、その際に動けぬ兵、戦えぬ兵もまた遺された。安全圏への移動の過程で佐々は彼らを拾い、丘陵地帯に潜伏に適した洞窟を見出したときには、その数は百名程度にまで膨れ上がっていた。まともな軍隊とは呼べない、単なる避難民の群だ。


「佐々二佐!」

 洞窟の入り口から声がする。ポンチョから水を滴らせた一等海尉 磐瀬 詩郎佐が、声を弾ませて歩み寄って来た。近付くにつれ、泥の臭いと共に微かに軽油の臭いもした。顧みた入口の外、そこから距離を置いて勢いよく燃え上がる半装軌車に、佐々は思わず鼻白んだ。


「装甲車の放火業務終わりました」

「御苦労」

 苦笑と共に佐々は磐瀬一尉を労った。健在な装甲車を外に置いていてもローリダ軍の注意を惹くだけだ。かと言って帰路を取るだけの燃料も無く、結論としては燃やして残骸にすることで結論は落ち着いた。結果的に佐々は、最もローリダ軍防衛線の深奥まで、当のノルラント軍を差し置いて踏み入ったことになる。


 ポンチョの水滴を払いつつ、磐瀬一尉は言った。

「感謝するべきでしょうね。佐々二佐の『協力者』に」

「高くつきそうだがな」

 LEDランプの傍、控えめに炎を宿す焚火に佐々は木をくべた。逃避行の途中で補給部隊のトラックを拾ったのは僥倖だった。荷台に積まれた燃料と食糧を使い伸ばせばまる一月は此処で暮らしていけるかもしれない。トラックは燃やすまでも無かった。洞窟に辿り着くと同時にエンジンが破損したからだ。「整備不良」だと佐々は察し、磐瀬一尉も同意見だった。


「兵士はおろか、トラックの面倒すら見切れない……我が国の『愛国者』達はこんな国を日本の友と呼んでいるわけですか」

「重なって見えるのだろうな、兵士の面倒も装備の面倒も見ようとしなかった憧れの大日本帝国に」

「むしろウクライナのロシア軍ですねこれは」


 毒を吐きつつ、洞窟で身を休める兵士たちを見遣る。佐々たちと同じ焚火、あるいは燃やした固形燃料を中心に車座になる老兵と負傷兵たち、水筒の水をちびちびと飲む者、携帯口糧を齧る者、負傷に呻きながら毛布に包まり横になる者もいる。今のところ、彼らから死人が出ていないのが何よりの救いだ。


 トラックの運転手は、ノルラントの「同盟国」の出身であった。同盟国とは聞こえがいいが実態は従属国だ。母国で運転手をしていた彼はある日何の前触れも無くノルラントの兵にトラックに載せられ、そのまま兵営へと送られたのだという。兵営には彼と同じ経緯で連れて来られた同胞が数多くいて、日本で言う初老に達していた彼は恐怖よりも困惑を以て運命を受け容れたものであった。連行された三日後には娘の結婚式を控えていたのだというが……


「勝つためには形振り構わない、か」嘆息し、佐々は言った。「勝って何を得られるのか全く分からないが」

「しかしローリダの勢力圏は削れます」

 磐瀬一尉が言った。佐々はまた苦笑した。

「成程、嫌がらせってわけか……手の込んだ、投資(わり)に合わない嫌がらせだな」

 しかし案外当っているのかもしれない……と佐々は考えた。しかし日本との同盟が成れば、これら武力行使は「嫌がらせ」では済まなくなるだろう。待っているのは勢力均衡の崩壊だ……政治サイドとて、その辺のシビアさは理解している筈だが……


 佐々の懐で携帯電話が震えた。画面を見た佐々の顔から血の気が引いた。

「どうしました?」

「位置が暴露(ばれ)た。刺客が来る」

「暴露? ローリダ軍にですか?」

「違う。アリイドラ閣下にだ」

「…………」


 磐瀬一尉は傍らの89式カービンを取上げた。無言であったが、彼は明らかに呆れていた。あるいは予期もしていたのかもしれない。

「参ったな。増援も救援も送らないのに、我々を消す刺客を送る余裕はあると?」

「私にも訳が判らないが、そういうことらしい」

 外から声がした。比較的健在な異邦人の兵が見張りを買って出てくれている。彼らからの報告であった。「飛行機! 飛行機!」と彼は叫んでいた。半信半疑で空を仰いだ佐々の目が、鉛の雲を潜り、機首を向け降下して来る滑空機の影を目にした瞬間、驚愕に凍る。


「グライダーか! 道理で早い!」

 磐瀬一尉が手振りで兵士に指示を出した。比較的健在な兵士が銃を持ち集まるのに時間は掛からなかった。ノルラント軍の目標はニホン人の抹殺だが、彼らとて口封じに消される運命にあることを、恐らくは本能で悟ったのであろう。一蓮托生にも似た空気が、洞窟の中で生まれている。

 遠方、滑空機が烈しく着陸して洞窟に向かい大地を抉って止まる。程無くして派手に二つに割れた機体からは溢れんばかりに兵士が飛び出して散る。充実した装備とその挙動からして、手練だと佐々と磐瀬は察した。


本物の(・・・)空挺部隊だ」

「やつら、要らんところで本気を出すんですね」

「未だ撃つな!」と、佐々は背後に指示を飛ばす。「引き付けて撃つ。命令するまで撃つな!」

 命令は、完璧に守られた。ゆっくりと、だが警戒しつつ迫る敵兵に、佐々は違和感を覚えた。正確には彼らが持っている武器に……である。そして纏っている軽量ヘルメットもボディアーマーにも……


「くそ! 89式を持っている」

「まったく何処のバカなんだ。売付けたのは」

 ノルラント軍が持っている筈のない日本製装備が、日本人を殺すために向けられる。佐々たちにとってはおよそ考え得る最悪の展開であった。むしろこれらを外に告発するために、ふたりはこの絶望的な戦いを生き残らなければならない。待ち伏せるふたりの視線の先で、空挺兵のひとりが担いでいた包装を解き、円筒形の物体を組み立て始めるのを見る。息を呑む二人の眼前で、瞬く間にそれは洞窟に向け砲口を向ける携帯無反動砲となった。


「バズーカってわけか!」磐瀬一尉が言った。言うが早いが狙いを向けた砲口が火を吐く。鋼の矢が歪な軌道を描き洞窟の入口に刺さり、そして弾けた。狙いは悪い。だが恐怖の悲鳴と怒声で洞窟の中が満ちた。

「伏せてろ! 未だ撃つな!」佐々の怒声が、恐怖を殺す様に洞窟に伝った。携帯無反動砲が口火を切り、その後に分隊支援機関銃と小銃の一斉射撃が弾幕を生む。狙いは正確ではない。だが数を恃んだ制圧効果は圧倒的であった。反撃も逃避もできず、佐々と磐瀬、そして老兵たちは洞窟に伏せ、そして潜る。このままもう少し時が経てば、手榴弾が投げ込まれる距離にまで敵は迫るだろう。


「…………!」

 不意に、磐瀬一尉が佐々の肩を烈しく叩いた。驚いて振り向いた佐々の顔を、刃の様な微笑が迎えた。

「磐瀬!?」

「援護を恃みます!」

 言うが早いが、ライフルを背負った磐瀬一尉が駆け出して外に出た。不意の敵影に驚いたノルラント兵の銃火が磐瀬を追うように曲がり、正面から逸れる。


「撃て!」

 思考するまでもない。叫ぶや佐々は前に89式カービンを撃った。指揮官が撃てば部下もそれに倣う。老兵たちの一斉射撃が佐々に続く。援護の下、磐瀬の背中は遠ざかりそのまま霧の奥へと消えた。それを見届ける暇もなく銃火の応酬で時が過ぎた。弾着こそ洞窟を抉るが実害も無ければ敵に損害も見えない。交戦にはもう少し距離がありすぎた……ただし、彼我の距離は確実に詰まる。


 乱射される無反動砲弾が炎上するトラックに度々刺さり、むしろそれが火点を暴露させる効果ももたらした。濃霧の向こうで悲鳴と共に隊列が崩れ、同時に銃火の方向も分散し始めるのが見えた。ライフルによる狙撃――照準鏡も付いていないのによくやる、などと佐々は磐瀬を思った。無反動砲が沈黙した。洞窟からの射撃も勢いを増した。手榴弾の炸裂まで向こうでは聞こえる。銃撃を受け斃れる空挺兵の影まで見える距離であった。


 傷病兵の小銃と弾丸をかき集めて背負い、佐々は言った。

「此処にいろ。必ず戻る」

 懸命な決断ではないことは自覚しつつ、佐々も洞窟を脱した。何より自分たちがいなくなった後の手順を老兵たちには伝えていない。「いざとなったらローリダ軍に降伏しろ」位は言い残しておくべきだったか……霧中、銃火の方向に行き足を上げて緩やかな傾斜を上り下りする。見出した岩陰に潜り込む様に隠れ、佐々は周囲を伺うようにした。息が粗くなっていた。


「…………!?」

 銃撃戦が始まっていたが、空挺兵の射撃方向は洞窟とは違った。逆であった。磐瀬に背後を取られたのだと思い、彼の体力と浸透技術に内心で舌を巻いた。岩陰に座り込んだまま、小銃の薬室に五発綴りのクリップを押し込んでボルトを戻した。後方勤務及び予備役用の、古めかしいボルトアクション式騎兵銃。撃たせてもらったことは過去に二三度ある。弾は89式カービンのそれより太くて重く反動は強い。ライフル銃だけあって射程が長いのは容易に察せられた。


「――――ッ!」

 岩に銃身を託して、佐々は撃った。ライフル弾がボディーアーマーの背中を容易く貫通し、足元から斃れる空挺兵がひとり。振り返った同僚の顔に向け、素早く再装填を終えた二発目が刺さり、そして頭を紅く砕く。怒声と共に銃火と弾幕が更に分散した。分散はしたものの、その投射量に佐々個人が抗するのは困難であった。弾丸が岩を抉るにつれ死を覚悟した。日本にいる家族の顔が脳裏に浮かんだ。距離を詰めて来る気配を感じ取る。得物を89式カービンに持ち替え、反撃に躍り出ようとした佐々の眼前、霧に塞がれた向こうで光がふたつ、不意に瞬いた。


「うわっ!」

 喧しいクラクションに突き動かされ、突っ込んで来る質量から逃げる様に飛んで伏せる。ヘッドライトの強烈な光を伴った質量、それも巨大な質量であった。ディーゼルの咆哮と悪臭をばら撒きつつ、巨大な四輪の鉄の塊が、地べたに伏せた佐々のすぐ横を走る。同時に地面と空気が烈しく震えた。乱入され、撥ね飛ばされたノルラント兵の悲鳴と銃声が複数に亘り聞こえた。


 意を決して佐々は立ち上がり、89式小銃を構えて進み出た。小走りに進む佐々の傍、停まった鋼鉄の山がホイールローダーの形をして、アイドリングの唸り声で周囲を威嚇している。重機の闖入を前に、生き残ったノルラント兵は為す術も無く、ただ銃を構えたまま立ち尽くしていた。

「佐々二佐!」

 何処かから磐瀬一尉が叫ぶのを聞いた瞬間、佐々は周囲に飲み込まれ掛けた意識を現場に引き戻した。手にした89式カービンの銃口が空へ向かい連射で咆哮した。反撃するよりも先に、唖然として佐々に視線を向けたノルラント兵に佐々は叫ぶ。


「逃げろ! でないと撃つ!」

「…………」

 佐々を撃とうとして銃を構え、ノルラント人は止めた。予想外の反撃もそうだが、この期に及んで佐々を殺したところで、自分の運命はもう決まっている……そのことに彼らは思い当ったかのようであった。銃を構えながら後退りするノルラント兵を、佐々もやはり89式カービンを構えながらに見送る……最初に一人が踵を返して走り出し、やがてそれに数名が続いた。そこからは生き残りが雪崩を打ち霧の彼方へと消えゆくのに時間は掛からなかった。彼らとて、無事にこの戦場から生きて戻ることのできる保証はない。佐々らに至ってはこの期に及んで帰る場所すらあるのか判然とはしなかった。


「佐々さん!」

 再び、磐瀬一尉の声を聞いた。「いま行く!」怒声交じりの声で応じつつ、佐々は89式カービンの銃身を廻らせつつ銃撃戦の場に踏み入った。生を喪った血肉の臭いが漂っていることに気付き、少し遅れて所々に棄て置かれたノルラント兵の死体に、佐々は眼から感情を消した。いずれも自分が撃った憶えの無い相手だ。その死体が、見渡す限りの一帯に広がって散っている。たったふたりを殺すのに被るべき損害ではない。


「これ全部ひとりでやったのか……」思わず、呟きが漏れた。磐瀬という若者が、経歴に似合わない尋常ならざる戦闘能力の持主であることに、佐々はむしろ戦慄すら覚えた。朽ち果てた戦闘車両の残骸が一両、人の気配を察し銃口を向けつつ近付く。近付くにつれて残骸からはみ出したタクティカルブーツの爪先に、愁眉が開いた。それでも銃口は下ろさなかったのは、残骸に穿たれた弾痕の真新しさに気を引き締めたこともある。


「磐瀬?」

「佐々さんか……?」

 反応する声の弱弱しさが、佐々から却って一切の警戒心を奪った。傷を負った右手と右足に乱雑に巻かれた包帯、その全てが赤く染まっていた。ボディーアーマーも脇腹が軽く抉れている……満身創痍ながらも、磐瀬 詩郎佐という名の若者は意志の強い微笑で彼の上官を迎えた。

「出て来ることはなかったのに……」

「援護が遅れて済まない。傷を見るぞ?」

 謝りつつ、佐々は急いでボディーアーマーを剥がしに掛かった。痛がる磐瀬のことはわざと無視した。自分でも驚く様な手際の早さで剥がしたボディーアーマーに守られた身体に出血は烈しくない。致命傷は見えなかった。


「破るぞ」

 同意を得るまでも無く引き抜いたナイフでシャツを切裂きに掛かった。出血に汚れていてもそうと判る、年齢相応の引き締まった肉体。その胸板に見出したものに、佐々は思わず目を丸くした……自衛官らしからぬ刺青の絵柄には、見覚えがあった。


三叉鉾(トライデント)?……鷲? おまえ……!」

「手榴弾を食らいましてね……痛い!」


 本気で痛がってはいない。話を逸らそうとしているのだと察した。手榴弾の破片で切った胴体の所々から出血が続いていたが、動脈や臓器は逸れていると見えた。ボディーアーマーはきちんと仕事をした。

「こいつについては、打ち上げに行ったときに聞くとしようか」処置をしつつ佐々は言った。致命傷ではないと診たことが、応急処置の手捌きに余裕を生んでいた。


「日本に帰れるでしょうか?」

「一緒に飲みに行くんだ。六本木にいい店があるそうだ。大学の後輩がそう言ってた」

 強いる様に、佐々は言った。背後からホイールローダーが迫って停まる。応急処置を受けながらそれを見遣る磐瀬の目が、驚愕に見開かられる。飛び降りた気配が、駆け足の音と女の匂いを運んできた。

「重症!?」

 小関 (かなえ)の擦れた声には、余裕が無くなっていた。顧みもせず佐々は応じた。

「そうでもない」

「わたしがやる……!」

 言うが早いが、佐々を押し退けるよう鼎が代わった。磐瀬も現金なもので、年増であっても相手が女、それも美人に属する部類とあれば相好が緩むのがわかる。苦笑と共に佐々は配置を変わった。周辺警戒も必要だと思いいたったこともある。思い至るのと同時に、遠方からの銃声が、殺意ある弾着を運んできた――磐瀬の近くに当り、弾ける。


「――――ッ!」

 反射的に鼎と磐瀬を押し倒した。そこにもう一発銃声が響き、ほぼ同じ箇所に中って火花を散らした。

「怪我はないか?」

「傷口が……開きました」

 苦笑と同時に、佐々は鼎に89式カービンを持たせた。「89式と一緒だ。すぐに撃てる」

「なに? 援護しろっての?」

 彼女が困惑する顔を見るのは、何十年ぶりだろう?……佐々は鼎と顔を見合わせた。十数年前の、防衛大を出たばかりの少女の記憶が、現在の鼎と何故かすぐに重なった。

「そうだ。排除する」

 (まなじり)で鼎を黙らせ、立ち上がろうとした佐々を、磐瀬が呼び止めた。

「……ノルラントの手榴弾です。一発しか無いですが持って行って」

「何で持ってる?」

「軍人らしく、最後に自決でもしようかと……」

「あほ!」



 軽口と鼎の肩を叩き、佐々は駆け出した。軽快な89式カービンの射撃音が背後から唸る。残骸に届く曳光弾がはっきりと見えるくらい、一帯は薄暗さが増していた。残骸の敵は鼎たちに気を取られている。原野を奔り、原野に伏せて匍匐で迫る。残骸の背後に廻り、ノルラント兵の死体に隠れて残骸の詳細を伺う距離に達したとき、佐々は意を決した。手榴弾のピンを引き抜き、伏せた姿勢で放った。


「――――!」

 破裂音と光は、意図した残骸の真中で生じた。残骸が崩れ、その後には静寂が訪れた。手榴弾の威力に驚きつつ匍匐で近付き、それでも見えない反撃の兆候を前に、佐々に大胆さが生まれた。9mm自動拳銃を握り、構えつつにじり寄る。残骸の隅で潰れた狙撃銃を見出し、次には炎に照らし出された血の跡が、べっとりと原野にペンキでも撒いたかのような跡を標していた。

「…………」

 ゆっくりと這いつつ、射点からの離脱を図ろうとする人影の背中を、佐々は黙って拳銃の照門に捉えた。男のそれとは違う華奢な肉体に、手榴弾の炸裂と残骸の崩壊が重大なダメージを与えたことはすぐに察せられた。空挺兵の格好こそしているが、それは以前に見覚えがある輪郭だった。その長い、形のいい脚は動かず。ただ腕の力のみで地を這い続けている。

「動くな。反撃すると撃つ」

「…………」

 日本語での呼びかけで、狙撃手の動きが止まった。警戒心に好奇心を重ね、佐々は小走りに迫った。拳銃は下ろせなかった。狙撃手の(かお)を確かめたくて、横合いに歩を進めた。佐々の威嚇を他所に、何かを覗く銀髪の横顔に、佐々は思わず息を呑んだ。


「君は……!」

 シルヴィアという名の、ノルラント空挺兵の(なり)をした少女は、もはや自分を撃ちに来た日本人には目もくれず、ただ首に架けたペンダントを虚ろな目で覗いていた。それが死に瀕した少女が為し得る、最後の仕草であった。一陣の風に長い銀髪が揺れた。と同時に、涙もまた飛んで行った。無表情ではあったが、尋常では無く少女の横顔は泣いていた。


「仰向けになれ。診てやる」

 言うが早いが、佐々は拳銃を収めて少女を起こしに掛かった。自分が兵士として迂闊なことをしている、というのは脳裏で理解していた。だが彼女がもう「他人を殺せない」こともまた、確信を以て察してもいた。それでも仰向けにさせ、破れた臓物と赤黒い血が溢れ出た少女の胴体を見出した瞬間、佐々は彼女の生を諦めた。血相を欠いた日本の軍人を、ノルラントの少女は青白い微笑と共に見守っている。


「……馬鹿みたいでしょう? こんなの」

 弱い、かすれた声だが、明瞭な日本語であった。「まったくだ」と応じつつ、再び覗きこんだ先、次には目と口を開けたままこと切れたシルヴィアの貌が佐々を迎えた。戦闘服の首から覗くペンダントの蓋を開いたとき、佐々の眉が微かに(ひそ)んだ。そのままシルヴィアを眠らせ、佐々は眼を(つむ)らせた。美しい貌だと、今更のように思えた。あの士道二尉が惚れ込むのも当然かもしれない。


「眠れ。君は義務を果たした」




「――どうでした?」

 散歩から戻って来たかのように淡々と修羅場からの帰還を果たした佐々を、磐瀬と鼎は安堵よりむしろ怪訝で迎えたものだ。話しかけた磐瀬に、佐々は黙って「戦利品」のペンダントを放った。只ならぬ事態を察してペンダントを開けた磐瀬の顔が、苦渋に歪んだ。痛みのせいではなかった。


「……あの御曹司、これを知ったらどんな顔をするやら」

「悲しむだろうな。二重の意味で」


「…………?」

 男二人の話に入れない鼎が、きょとんとしている。佐々は磐瀬を労う様に言った。

「帰ろう。立てるか?」

「…………っ!」

 促されるがままに立とうとして、磐瀬は膝を崩して倒れかけた。端正な顔が苦痛に歪んでいた。

「肩を貸していただけますか? 二佐。それなら何とか……」

「担架の方がいいと思うが……」

 鼎に横目を遣りつつ佐々は言った。鼎が言葉を慌てさせた。


「いま車持って来るから。待ってて!」

 慌てているのか、佐々の89式カービンを背負ったまま、鼎は駆け出した。ホイールローダーの巨大な影が、ヘッドライトを爛々と光らせたまま停まり続ける様が、空想世界に出て来る巨大な獣に見えて仕方が無かった。気が付けば、それ位周囲は暗くなっている。遠雷の如くに響き渡っていた火砲や弾着の音もまた、何時の間にか止んでいた。佐々は磐瀬に肩を貸し、ふたりの男はホイールローダーに向かい元来た途を戻り始めた。


「ところで佐々さん」

「ん?」

「帰るって、どちらへ?」

「いまのところは、洞窟だな。磐瀬にもっといい治療を受けさせないと」

 洞窟には医薬品の備蓄もある。医療の心得のある兵もいるかもしれない。そのことに二人は思い当っている。

「動けるようになったら、日本に帰ろう」

「ええ……帰りたいです」

 少し躊躇い、佐々は言ってみた。

「なあ磐瀬、この戦、どっちが勝ったと思う?」

「ローリダでしょう。この分だと北方(むこう)でももう負けている」

 佐々さんはどう思う? と言いたげな顔を、磐瀬は向けた。まだ遠いホイールローダーの傍、無線機を片手に小関 鼎が叫んでいるのを聞く。


「――ノルラント軍、総退却だって! 負けだよ負け!」

「…………!」

 互いに唖然として、ふたりの男は顔を見合わせた。この日の戦闘が終わった予感はすでにあった。そして今回の戦争も終わりつつあることをふたりの男は察する。しかし、火蓋を切ってわずか一日で片付いたという事実は、驚愕なしには受け止められない事実であった。しかも仕掛けた方が大敗するという結果である。ナジース-ジレはいま何を考えている? 花谷一佐らはどうしている? 北方の敗勢に巻き込まれずにいればいいが……柄でもない心配すら、佐々の胸中に頭を擡げ始めていた。ここを生き延びるにしても、死ぬことになるとしても、ノルラント人との対峙は避けられないだろう。



――シレジナ方面基準表示時刻1月9日 午後18時55分 ノルラント シレジナ奪回軍集団は、午後20時00分を期して全戦線に亘り攻勢を停止する。全面攻勢が始まってわずか八時間も経たぬうちに決定した攻勢の頓挫は、シレジナを廻るローリダとノルラントの戦史上、空前の事態ではあった。正面からの沿岸要塞地帯攻略が巧妙な防御を前に停滞したことも然ることながら、北方のブッカー平原と要塞地帯後背の制圧を企図したノルラント軍の機動打撃が、守るローリダ軍機動部隊の巧妙な陽動と伏撃により破綻し、攻勢の主軸となった機甲部隊が壊滅したことが攻勢停止の決め手ともなったのである。



 そして――シレジナを廻る地上戦の過程で起こった軍事顧問団に係る一件が、スロリアとデルエベ、両情勢の打開に掛かりきりであった日本に新たな衝撃の一石を投じることとなるのに、時間は掛からなかった。




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[気になる点] ロシアによる今次のウクライナ侵略を経験しながら破局の章で頭湧いた対応しかできないって、『環太平洋紛争』とやらでよほど軍事的に嫌な目にあったんスかね?この日本は。 今回の本邦政府の対露…
[気になる点] この特務班とやらはバカ過ぎ。 標的の日本人を口封じしないと自分達が即口封じか責任擦り付けられるかで消されるのは分かりきってるのに。 しかも相手はたったの二人(実際は三人だったが)。 こ…
[一言] 3日連続の更新お疲れ様です、シレジナ戦役の攻防はローリダと同等レベルの正規軍同士なので、指揮官がロート将軍にしても泥沼化するのではとも考えましたが全くの速攻で片付くとは予想できませんでした。…
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