第二六章 「シレジナ攻防戦 中編」
シレジナ方面基準表示時刻1月9日 午後14時43分 ローリダ政府直轄領シレジナ ノルラント南方浸透軍
「瞬電」兵団は、より深奥まで進んでいた。
計画を越える疾さであった。何よりも前進を始めて二時間を過ぎても抵抗らしき抵抗にすら遭遇していない。先頭集団を構成する戦車部隊に至っては、兵団司令官たるダスカの統制を離れ、間隔を開いて獲物の捜索に方針を切り替え始めている。獲物――そう、もはや戦闘ではなく、狩猟をノルラント軍は愉しみ始めていた。ただし欲する獲物はまだ姿を見せてはいなかった。
縦列で進軍する車両部隊の横を、サイドカーが数両蠅の様な爆音を蹴立てて走って抜ける。通信機と20ミリ口径の重機関銃を載せた威力偵察兼用のサイドカーの群。「我が軍の機械化騎兵だ」と案内役(監視役?)のノルラント士官は胸を張ったものであった。彼らは全速を維持したまま自軍の進攻方向に向かって散り、敵情を探ることになる。
「……敵さん、見つかるでしょうか?」
観戦武官に割当てられた半装軌自動車の車上で双眼鏡を覗きつつ、一等海尉 磐瀬 詩郎佐が言った。ボディーアーマーに繋いだ89式カービンライフルが曇天の合間に注ぐ陽光に充てられ、鈍く黒く映えた。そこに腰に収めた自動拳銃、黒いキャップと耳に繋いだイヤホンが中背の身体に精悍さを際立させていた。訓練で培った精悍さだ。それも尋常ではない訓練の結果ではないかと傍に坐る二等陸佐 佐々 英彰には思われた。
その佐々からして、ボディーアーマーとライフル、自動拳銃の装備からして磐瀬一尉と同じであった。思い返せばスロリア紛争のイル-アム戦から三年ぶりに完全武装で前線に出たことになる。それに……
「イル-アムと同じだな」
「…………?」
佐々は呟き、聞いた磐瀬は思わず佐々を顧みた。ノルラントの進軍を南北から迎える丘陵の並び、それらがイル-アムの谷々を想起させるのだと佐々は言った。
「では、向こうで待ち伏せていると?」
「少し様子が違うが、おれはそれをやったよ」
敵の数は少ない、と佐々は言った。勿論、シレジナを守るローリダ軍の数のことである。
ノルラント軍は三方向からローリダの要塞を攻めている。要塞の沿岸防衛線の正面に展開し要塞の主要火力を拘束する主攻、ベル-カディス――ベル-ミルフィヤといった山間部に浸透し、後背より防衛線を攻めると見せかけ主攻を支援する助攻、助攻のさらに北、ナガフルを起点とし南進、要塞の後背に、広範なまでに拡がるブッカー平原を制圧する「機動野戦軍」……要塞を守るのと並行し、その「機動野戦軍」にセンカナス-アルヴァク-デ-ロートは対処しなければならない。その野戦軍には、観戦武官として花谷一佐らが随行している……そして、助攻部隊に佐々と磐瀬が従軍している。
「向こうは雨ですね」
双眼鏡を覗くまでもなく、磐瀬が左手遥かに臨む丘陵に目を凝らした。こちらの頭上は時折雨のちらつく薄い曇天、向こうには分厚い雨雲が広がる。このまま時が過ぎれば自軍は敵だけではなく、雨天の中に突っ込む形となる。
「そろそろ拙いな……」
と言い、佐々はヘルメットを被った。丘陵とノルラント軍の距離が縮まっている。警戒体制のまま荷台に立ち尽くした磐瀬の眉が、心持ち上がる。
「伏撃ですか」
「ああ」
佐々は頷いた。火砲の応酬が発生しなかったことからして、長距離の砲撃戦に適した野砲以上の火力は、先刻の準備射撃から逃がす形で北に引き上げているのだろう。北……ローリダ軍の有する火砲の大半は北より迫る野戦軍への対処に配置されている可能性が高い。つまりは機動野戦軍が攻勢の主力であり、その撃滅こそ防衛戦勝利の鍵であることを、ロートは看破しているかもしれない。
「戦争の帰趨を見られるという意味では、花谷さんはいい位置にいるな」
「ええ、我々よりずっと特等席でね」
同じくヘルメットの顎を締めつつ磐瀬一尉が言い、佐々は苦笑した。皮肉か、という佐々の感慨は的中している。機動野戦軍の司令部にごく近い位置。否、司令部の中枢に招かれて当然の様に全軍の統帥に意見する花谷一佐の姿がふたりには容易に想像できたのである……一方、当のふたりの近くに司令部はいなかった。「軍機保持」という名目で彼らは司令部に近付くことすら許されず、逆に司令部付隊の前方、非ノルラント人徴集兵より成る工兵小隊に随伴し「観戦」を強いられている。進攻路の啓開が工兵部隊の任務であった。地雷や障害物その他罠への対処を強いられる危険な任務でもあった。ともすれば防備の乏しい半装軌車に乗り合わせた佐々らも罠の巻き添えを食うことになるかもしれない。体のいい追放……あるいは放置。
「我々には死んで欲しいのだろうな」と、佐々が呟くのはこの日二度目であった。
「自分が守ります。死にはしませんよ」と、磐瀬が応じる。当の磐瀬自身、自分たち二人を生きて日本に返すよりもこの戦場で死なせた方がノルラントに得るものが大きいことを知っている。自衛官の死を演出することで日本の反ローリダ感情を更に煽り、感情論からノルラントとの連衡を容易ならしめようとする意図とも言える。磐瀬個人としてはそこでふたりが偶発的な事故なり被弾なりで死地に瀕する以上に、ノルラントの総司令部が此方の陣中に刺客を潜ませ、戦闘のどさくさに紛れてふたりを「戦死」させる可能性を抱き始めていた。あるいは……
「……失っても惜しくは無い部隊ごと、我々を亡き者にすることもあり得るか」
「…………」
平然と言ってのけた佐々を、磐瀬は眼を見開いて見返す様にした。そう言えば、周囲に在って進軍を共にしている異邦人は随行者であって護衛ではない。更に言えばノルラント国民はおろかその同調者ですらない。ノルラントの支配下にある民――ただそれだけの名分で戦場に引き摺り出されてきた人々だ。ノルラントからすれば捨て駒としても使い得ると言うべきであろう。このままではふたりの死の真相など数千に及ぶ異邦人戦死者の数に埋もれてしまう。ただノルラントはふたりの死を奇貨として、日本に対しローリダへの共闘を煽る未来しか見えなかった。
「では一層生き残らねばなりません」磐瀬が言った。
「簡単に言ってくれるな」
佐々はと言えば、スロリアの戦線に立った頃と変わり映えしない、完全武装姿の自身に再び苦笑が込み上げてきた。恐怖と言いきるよりも、自嘲の為せる業であったかもしれない。
雨足が勢いを増した。
左手の丘陵地帯が更に近付く。霧すら出て周囲が暗くなる。平原を完全に脱して傾斜に乗り上げた車列の中、激しく揺れ始めた半装軌車の車台に在って、佐々は思考を廻らせた。隊列はまだ止まらなかった。
「攻撃してこない……部隊を完全に引き込む算段か」
「最後尾を狙うってやつですね」
「おれたちがいる先頭もな」
大軍を狭隘な谷間に誘引しその動きを止める――あの傲慢なノルラントの指揮官がそれすら考慮していないことに、佐々は軽く苛立った。捨て駒なのは、この部隊だけではなく「南方浸透軍」そのものではないのか?……あるいは、準備射撃の効果を過大評価している?
「…………?」
ふと、ボディーアーマーに違和感を覚え、ポケットを弄った佐々が取り出した小型携帯電話がひとつ――磐瀬の目が更に丸くなる。
「着信だ……誰かな」
「女ですか?」
磐瀬としては戯れに聞いた積りが、画面を開いた佐々が一瞬の困惑と同時に目配せしたのを目の当たりにし、固くなり掛けた表情を綻ばせた。
「こんなときに何やってんスか」揄う口調。しかし画面のメッセージを一瞥するや、向き直った佐々の険しい眼光が、磐瀬を一瞬で自衛官の貌にした。
「磐瀬一尉、車を止めさせろ。部隊長と交渉するぞ」
「ハッ!」
愁眉が開いた。
シレジナ方面基準表示時刻1月9日 午後15時17分 ローリダ政府直轄領シレジナ 南西部防衛線
濃霧の海を越えて、黒い影が丘陵を過って行く。
最初は壊れかけの双眼鏡から薄らと見出した車列は、葬式の様に儚げに見え、包まれた霧も相まってその幻想的な雰囲気にセオビム-ル-パノンは心を呑まれ掛けた。しかし霧を抜けた車列が戦車隊の堂々たる縦列に転じるのを察した瞬間、自分が彼らを迎え撃つ兵士であることを恐怖と共に自覚する。戦闘を体験したことが無ければ、そのまま持場を捨てて後方へ逃げかねない程の恐怖であった。先年のシレジナ攻防戦を生き延びたという経験が、パノンという名の少年を兵士たらしめていた。
恐怖に踏み止まりながらパノンは困惑する――戦車隊はこちらの存在に気付いているのだろうか?
点検の積りで、無線機のイヤホンを押さえる様にした。無線機はほんの十分前に、指揮所と感度の確認をして以来一度として使っていない。それは誰何も兼ねていて、砲撃から生還できなかった同僚が少なからずいたことをパノンはこの時知った。共通回線を使った応答に答えないのだからすぐにわかる。それでも対戦車陣地自体は、それが防衛線として機能するに十分な戦力を残していた。陣地構築に十分な時間を使えた賜物でもある。
『――レデル11、射撃許可は未だか? ノルラント野郎が眼と鼻の先だ』
『――レデル11黙れ。未だ撃つな。追って命令する』
焦れる同僚も必死だ。敵はすでに対戦車誘導弾の射程圏内。先制できないだけならまだしも、最悪こちらの位置が露見て反撃される運命を迎える。指揮所の決心の程を疑う将兵が出るのも仕方が無い処だ。
「……畜生……未だ撃たないのかよ」
傍らでクリム-デ-グースが言った。共に配置に戻ってからというもの、奥歯をガタガタさせたり爪を噛んだりと始終態度が落付かない。砲撃で神経を病む兵士がいるとは、本土にいたときから聞かされてきた話ではあるが、クリムもそのくちなのだろうか……などと、また別の不安がパノンの胸中に生じる。
『――指揮所より各員へ、頭を出すな。土竜の様に潜んでいろ。見つかったら死ぬと思え』
指揮所の口調は落ち付いていたが、命令には容赦が無かった。敵に見つかったところで現状、壕のひとつふたつが即座に潰されるだけだが、ここで恐怖に任せるがまま皆が撃てば戦況は一方的な先制から混戦という名の地獄へと変貌する可能性が高かった。当然兵の死傷率も上がるだろう。地獄の門を進んで開こうと思う者などこの場にいる筈もない。
敵の戦車が近付いた。パノンの壕からすら、車体に記されたノルラント文字の符号と部隊章までが徐々に視認できるようになってきた。車体から煙突の様な主砲を生やしたノルラントの主力戦車。車体の上に配された旋回砲塔には単装、あるいは二連装の機関砲が収まっている。対空用途の他、戦車より防御力の劣る軽装甲車両への対処、構造物に籠って抗戦する敵兵を排除するための兵装であった。その構造からして車体はローリダの戦車より高く、箱が無限軌道を履いて走っている様な印象を受けた。
霧の壁から浮かび上がる様に数を増やす敵戦車の群、傾斜に入ってもそれらは速度を落とす素振りも見せず、尻から黒煙を上げてパノンの眼前を東へと過る――戦車がそのまま東へと進めば、あの海岸防衛線を背後から撃つことができる。「何で撃たせないんだ?」パノンは焦れた。
戦車の姿が東に消え、次は半装軌車とトラックの群が現れた。周囲を装輪式装甲車に守られた車列が、戦車に先導されるがまま道無き平原を走る。完全装備のノルラント兵を満載した輸送車両の隊列。中には野砲やコンテナを牽引している車も見えた。物々しいが、戦争をやる気がある様にはパノンには見えなかった。
『――各員へ、そのままやり過ごせ。隊列の最後が谷間に入り切るまで……』
通信を聞き流している内、隊列から離れたサイドカーが数両、こちらに近付いて来た。羊の群を守る番犬の様な動き。車体に機関砲を搭載しているが故に重く、その動きは決して速いわけではない。それでもいざ戦うとなればパノン達の手持ちの武器で応戦するのは難しい。そのサイドカーが一両、パノンの個人壕のごく至近で停まった。独特なノルラント鉄兜の形状に、鼻下からマフラーで顔を覆ったノルラントの偵察兵の眼つきの悪さすら伺える距離だ。思わず、パノンは息を呑んだ。「パノン、どうしよう……?」クリムに至っては声を震わせる。
「このまま……このまま」
壕に潜り込み、パノンは自分に言い聞かせる様に言った。完全に潜り込んだ体勢では外の様子を伺うなど不可能に近かった。おっかなびっくりという風に頭を上げようとするクリムを、ズボンを引っ張って止めた。手ぶらの兵士がひとり、声を上げて転んだ。
「ばか! 静かにしろ!」
「御免……!」
小声の応酬、それは幸いにも偵察用サイドカーの関心を惹かなかったようだ。バイクの排気音が二重三重に重なって地上を駆ける。地上に死神の気配こそ感じられても、彼ら死神が此方の存在はおろか対戦車壕の存在すら関知した様子は無かった。関知などあってはならないことだ……恐らくは、隊列が完全に通過するまで張り付いている積りではないか? というパノンの予想は程なくして的中した。エンジンを吹かせたまま動く気配が無かったのだ。
「クリム、あいつら馬鹿だ。バイクから降りて周りを探る知恵も無い」
「でも、いつまでそこに居るんだろう?」
「部隊が通過するまでだ」
その部隊の規模が大きいと、パノンには思えた。ノルラントの連中、何時の間にこんな大軍を陸揚げしていたのか?……まる一カ月以上彼らと対峙していた筈なのに、疑念は今更ながらに込み上げて来る。連中の数を削らなければ――思念を廻らせるうち、サイドカーの排気音が遠ざかるのを聞く。
『――こちら第四監視処。敵は完全に谷に入った。敵は完全に谷に入った』
『――指揮所からは確認できない。誰か……誰か見て報告しろ』
壕から頭を上げようと背を伸ばすパノン、クリムがズボンを引きそれを止めた。
「やめろパノン、撃たれるって!」
「止めるな!」
声を荒げ、パノンはクリムを振り切った。それでもゆっくりと、怯えた目線を塹壕の縁から擡げた――敵影は至近から消えていた。視線を廻らせた先でサイドカーが数両、隊列の最後尾を追って遠ざかるのが見えた。
「28番! 28番! 敵影遠ざかる。東に向かった!」
無線機のマイクに囁く様に言った。同時に複数の対戦車壕からも報告が上がるのを共通回線で聞いた。パノンのように眼前を通り過ぎた壕もいれば、今まさに眼前を通っている壕もいるのが、回線では手に取る様に判った。
『――18番から32番へ、こちら指揮所。射撃を許可する! 射撃を許可する!』
「パノン!? いま何て!?」
「クリム! 来い!」
「魔王殺し」を引っ掴み、パノンは交通壕に駆け込んだ。個人壕にいては射点を確保できないと思った。周囲が慌ただしい。パノンと同じく、これまで個人壕に潜んでいた皆も射点を得るべく動いているのだ。これは訓練通りの動きだった。敵兵の最後尾にも戦車は見えたがその数は少ない。それでも後背の備えを意識していることは察せられた。交通壕の一隅、一両の戦車の尻が、予備燃料タンクまではっきりと見える距離でパノンは「魔王殺し」を立て掛けた。
「…………!?」
照準鏡を覗きつつ二三度引鉄を引く。反応が無いことと発射装置に電源を入れていないことに気付き、慌ててスイッチを入れた。誘導弾と連動した照準装置のスイッチも入れた。電源が入ったことを示す輝点が点かない?……何度かスイッチを動かす。照準鏡の真ん中に輝点が点滅し、そして定着したように浮かぶ――取扱訓練でも戦闘訓練でも経験したことだ。あとは引鉄の安全装置を外せば何時でも――
「――――っ!!?」
照準器の視界に火球が生まれ、思わず頭を上げた先で、火球は火柱の連なりを拡げた。他方向、それも多方向より撃たれた対戦車誘導弾が左右上下に軌道を描き、やがては加速を付けてノルラント戦車の横っ腹を貫くのが見えた。破裂音!――直後戦車の砲塔がびっくり箱の様に上へ弾けて地面に落ちる。と同時に、砲塔が抜けた車内から炎が勢いよく噴き上がる。乗員が外に逃れる暇は無かった。そうした光景がパノンの眼前で幾つも繰り広げられていたのだった。
一方的な殺戮――あるいは成功した待ち伏せの光景。為す術も無く撃破されていくノルラントの装甲、非装甲の車両。凶器を抱えていることすら忘れ、思わずそれに見とれるパノンの肩を、息も絶え絶えに追及してきたクリムの手が烈しく叩く。
「パノンッ!」
「…………!!?」
口を半開きにしてパノンはクリムを顧みた。パノンを見返す眼が、酷く充血していた。酷い形相もそのままに前方を指差しクリムは叫んだ。
「パノン! 一台こっちに来るぞ!」
「え……?」
呆然と向き直った前方の戦場を前に、パノンの目も強張った。
硝煙にかき乱される霧を抜け、一台の戦車が後進してくる。当然、ノルラントの戦車であった。
本来、それが前進する先であった霧の向こうでは尚も殺戮が続いていた。
全速力での後進であることは、排気管から活火山の如くに噴け上がる真黒い排煙からすぐにわかった。
逃げているのだとパノンは思った。問題は、その逃げる先に自分たちがいることだ。あいつの小振りな砲塔からは、ノルラントの戦車兵が上半身を乗り出して足許に向かい何やら声を荒げている。近距離では無かったが、ノルラント人の蒼白な顔を拝むのに十分な距離であった。
「パノン! あいつを狙え!」
ノルラントの戦車がこちらに気付いていないことを先に悟ったのはクリムだ。まっすぐ後進しながらも、敵戦車は向かうべき場所を見定められずに見えた。軍命に依らない戦場離脱を恐れているのだとパノンには思えた。パノンは塹壕に託した魔王殺しの照準を覗いた。グナドス製誘導弾用照準器の、レーザーシーカー起動ボタンを押す。照星が再び点滅を始めた。新たな光点が照準鏡に狭められた丸い視界の中で緩慢に光の円を描き始めた。車上に在って背後を顧みたノルラント兵の視線と、照準鏡の冷たい眼が交差する――
『――! ――ッ!!』
こちらを指差し、ノルラント人が何かを叫ぶのをパノンは見た。戦車の砲塔が此方を向き、続いて機関砲の銃口が向かう。
牛の様な戦車の車体を囲む死の環が完成した瞬間、三角形のシュートキーが重なる様に浮かんだ。
「――――ッ!」
短く息を吸うのと同時に、引鉄に力を籠めた。轟音と炎ともに筒先を飛び出す「魔王殺し」――その軌道を追うように、パノンは無心で戦車に照準を重ね続けた。赤い軌道が逃げる様に針路変更を繰り返す戦車を追う。機関砲を撃ち小癪な伏兵を払うどころでは、もはやなかった――命中。
黄色い光が太陽の再来の様に烈しく戦車の横腹を穿つ。
「当った!?」
戦車の動きが烈しく揺れて止まる。砲塔の隙間から炎が漏れ、次の瞬間にそれは戦車を醜い炎の塊へと変えた。
シレジナ方面基準表示時刻1月9日 午後15時48分 ローリダ政府直轄領シレジナ ノルラント北方装甲軍
遭遇戦は、体感では30分も経たない内に終わった。
ノルラント軍は強く、急襲を掛けたローリダ軍はその強固さに跳ね返されて逃げた。急襲、あるいは伏撃と称するには敵の大半はノルラント軍の正面から現れ、その数も決して少なくは無い。事前の航空偵察から推測し得た守備兵力の半分を、ローリダ人は投入しているのではないかと訝ったノルラント軍幹部もいた。逃げる途上、炎上する多数の装甲車両と重火器、そして大量の物資もまた遺された。
二等海尉 士道資明は、高台に入った指揮通信車の車上に在って、勢いを増す進軍を見送っていた。勢いこそ付いたが整然たる進軍ではない様に見えた。大破した車両から部品を外す兵士がいる。一部の部隊では予備部品が枯渇しているのだ。遺棄された食糧などの物資を漁っている兵士もいる。防衛大学校で教わった、統制の取れた軍隊の光景では無かった。装備や物資が遺された割には、敵兵の死体はそれ程発見されてはいなかった。
「――まるで始めから戦う気が無かった様に思えます。威力偵察とでも言いましょうか……
「――威力偵察と呼ぶにはローリダ軍の規模が大き過ぎる。思うに戦意からして始めから無いのだ。あのロートからしても将兵の意欲は鼓舞できなかったと見える」
同道する観戦武官団団長 一等陸佐 花谷靖人は切り捨てる様に言った。彼の言葉には自信があった。自信が、戦場における彼の佇まいすら一変させていた。ゴーグルを嵌めた制帽、ノルラント軍制式の軍用コートの立った襟が、戦場の湿った風に煽られて揺れている。首に掛けた双眼鏡を時折覗き、無線機で指揮所と交信する姿は、資明には古のロンメル元帥を彷彿とさせた。
「日本に帰った暁には、私は心ある者にはこう呼ばれることだろう。『シレジナのロンメル』と」
「…………」
傲然と、というわけでは無かったが、はっきりと言い切った花谷一佐を、資明は半ば唖然として見返した。指揮所からの交信が入る。北部からの迂回機動打撃を担う北方装甲軍 軍監 アナスタム-ヴァロからの入電であった。それにしても資明は思う――花谷靖人というひとは、こうも浮付いた発言をする人であっただろうか?
そして――
「通信妨害が晴れています。前進時の不通、放射雑音も確認できません。不思議ですね」
「前進支援砲撃の効果だろう。元々ローリダ軍に電子戦能力は大して無いのだ。それにその手の装備や人員は、大半がスロリア方面に投入されているそうだ。まあ、我々の高度な電子戦能力に対してその様な努力など焼け石に水であろうがな」
部下にして年の離れた後輩に応じつつ、花谷一佐の眼差しが冷たくなっていた。生じかけた戦勝ムードに水を差すような言動を、防衛大の先輩は明らかに望んでいないのだと資明は察した。言葉を躊躇う資明の傍で、師団級指揮通信用無線機が着信音を鳴らす。資明から眼を離さないまま、花谷は無線機を取上げた。
『――このまま追撃に移行するが、布陣について意見を聞きたい』
「敵は統制が崩壊し個々に逃走しました。隊列を広く南北に拡げ、広域に亘り掃討する戦術で行きましょう。要塞後背で終結し、態勢を整えれば辻褄は合います」
『――宜しい、その手で行こう』
「敵はスロリアの頃から全く進歩が無い。勝てますよ」
まるで草野球の戦術を決める様な口調で全てが済んで行くのを、資明は黙って見遣る。懐の認識票に伸ばした手が、チェーンに繋がれたもう一つのロケットペンダントに触れた。自衛官としての義務感が、睦み合う男女の写真を覗きたい衝動を抑える。女――シルビア-ソム-ルクスはいま、総司令部に在って何を想っているのだろうか?
握り締めるうち、ペンダントが体温で熱を持ち始める。出立の間際、「御守り」としてシルビアに託されたものであった。上目遣いに資明を見遣りつつ、彼女は白い両の手で資明の手を抱く様にペンダントを握らせたものだ。暫し俯いたシルビアを、資明は為す術無く見下ろすだけであった。思いつめた様に顔を上げたシルビアの白皙の頬が、熱気を帯びていた。羞恥ではなく愛として、資明はそれを受け止めた。
「――シルビア?」
「――モトアキ、生きて」
思わず、両手を延ばしてシルビアを抱いた。ボディーアーマーに覆われた胸の中で、資明は女の躯が震えるのを体感しようと務めた。そのままでいる内、やがて資明の背中に手が廻り、強く抱いた。
「……必ず、還る」
シルビアに掛けた言葉を、指揮通信車の車上に在って資明は呟いた。傍らで軍監と交信している花谷一佐の訝しむ様な眼差しを感じ、資明は反射的に表情から柔和さを消した。我々は魔王を倒しに旅をしているのではない。我々は現実に存在する軍隊を捕捉し、撃滅するために進軍している。ライトノベルの主人公気取りでいるのは余りに不穏当と言うべきだ――そこまで考えたところで、資明の顔から完全に表情が消えた。
「…………」
ライトノベルの主人公気取り……前夜そう資明を痛罵した男は、南の戦線に居て観戦の任に付いている。彼らの軍は山地帯を抜けて要塞の側面を付き、要塞正面に布陣する主攻の支援を実施する手筈であった。地形故に此方よりも激烈な抵抗と後退の困難が予想される配置、ともすれば観戦武官団も窮地に立たされるかもしれない……そこまで考えが及んだところで、資明の背筋が冷たく震えた。ともすれば危険を承知で、花谷一佐は彼らを南に配したのではないか……と。何故かというに――
「花谷団長……」
「何かね?」
「……佐々副長たちは、この件を本土に報告したでしょうか?」
声を震わせた若者を、花谷は鼻で笑うようにした。
「このシレジナにおける通信の一切はアリイドラ軍監長の管制下にある。だいいち――」
「…………?」
「いま我々がしていることの、何が問題なのだ士道二尉?」
「それは……花谷一佐、あなたが無断で外国軍の指揮を取っていること……です」
「言ってくれるじゃないか士道二尉。君が士道武明の息子で無かったら――」
「――――!?」語尾に殺気を聞き、資明は微かに半身を仰け反らせた。
「君は今頃南の戦線で佐々二佐と共にローリダ軍の十字砲火に晒されていることだろう」
「…………!?」
資明は戦慄した――ローリダ人が待ち構えていることを、彼は何故知っているのだ? 然しそれを聞くのが資明にはどうしようもなく怖かった。先刻のやり取りもそうだが、それ以上の「闇の存在」が日本本土から手を延ばし、花谷個人にどす黒い「加護」を与えていることを若い資明は察したのであった……それはややもすれば、彼の父 士道 武明と彼が仕切る共和党も一端を担ったものであるのかもしれなかった。
言葉を失った資明を他所に、花谷一佐は再び無線機の送受話器に向き直る。前進するノルラント軍はさらに左右に布陣を拡げ、全軍の足はそれが余裕で可能となる平坦な原野に入ろうとしていた。
『――偵察隊より報告、ブッカー平原中部に敵影を認めず。静穏なること無垢なる処女のごとし』
偵察サイドカー部隊の報告であった。花谷一佐が笑った。余裕と会心の笑みだと思えた。あるいは偵察隊の語彙に感銘を覚えたのかもしれない。直後に共通回線から交戦開始の報が刻々と入り始めた。広域に陣を拡げたノルラントの各隊が、最初の衝突で四散した敵を補足したのだ。通信内容から見るに敵に組織的な抵抗は無く、これらの戦闘もごく短時間の内に終息するかのように思われた。掃討戦の様相だ。
「閣下、敵は明らかに四散しております。我ら主隊は敵に眼もくれず更に前進し、短時間で要塞後背に到達するが肝要でしょう」
『――成程、勢いを持って要塞の裏口に殺到し、ローリダの腐ったドアを蹴破らん。そういうことだなハナヤ大佐』
「そうです閣下。このまま行けば今夜の内に祝勝会が開けましょう」
交信が終わるや否や、自走対戦車砲の一群が霧を突く様に速度を上げて指揮通信車を追い越して行った。装甲半装軌車の派生形たる自走対戦車砲。長大な対戦車砲の砲身が戦場を疾駆する槍騎兵の影と重なる。緒戦の勝利に加え軽装甲と平坦な地形が、彼ら本来の俊足に勢いを与えていた。まるで前方にいるヴァロ軍監ではなく、いま自分の傍にいる花谷一佐の指揮下で全軍が動いている様な錯覚すら、資明は抱くのだった。
『――全軍、ブッカー平原に到達。索敵警戒を厳となせ。この霧だ。航空支援は望めまい。それはローリダ人とて同じこと。ノルラントの力と忠誠を新世界に示すのに、これ以上の舞台はあるまい』
ヴァロ軍監の檄が共通回線に飛んだ。それに応える様に各所から戦果を報告する通信、逃げる敵を追う通信が廻る。釣果を報告するのにも似た景気のいい報告の連なり。ただしそれらは前進に時が過ぎる内、急に消えた。
『――先行偵察大隊より報告。前方に広範な装甲車両の残骸を認む。先の戦闘地域と思われる』
「来たか……」
驚くのではなく、感慨深げに花谷一佐は言った。前進するにつれ勃々と、やがて視界一帯に認めるに至った彼我各種車両及び火砲の残骸の点在は、ブッカー平原を突っ切るに際し予想された光景であった。シレジナを廻るノルラントとローリダの衝突は、今次のものを除けば過去六度に及ぶ。小競り合いと睨み合いに終始した回もあれば、野戦軍同士の大規模な衝突に発展したものもあり、南岸の港湾/要塞地帯を後背より衝くことができる上に大軍を動かし易い荒漠さを誇るベッカー平原は、その際の主戦場にもなったというわけだ。云わば墓標とも言えた。
「寒気がします」資明が凍った声で言う。
「噂には聞いていたが、百聞は一見に如かず。祖国の同志たちにいい土産話ができるというものだ」
眼前の景色に向けた、陶酔と感銘の入り混じった眼差しをそのままに花谷一佐は言ってのけた。自衛官というより、武人として戦場に身を置いているという満足感の為せる業と言うべきかもしれない。そして彼がごく近い将来、此処で大事を為す未来に確信をも抱いたことは確かであった。所謂「廃墟マニア」には格別な光景であることだけは、資明は内心で認めていた。
軍列の後方に位置していた花谷一佐らが戦場跡に足を踏み入れたという事実からして、ノルラント北方野戦軍主力集団は、完全にこれら墓標を吸収するかのように東進を続けている……幾下各部隊が索敵のために周囲に散開したこともあるが、つまりは全軍の秩序と密度は希薄になっている。残骸を避けるために車両や隊列の間隔がさらに開く。罰当りにも残骸に乗り上げ、車重に任せて轢き潰す戦車の姿も見える。
「…………」
感情の消えた資明の眼前――戦車一両がやはり一台の、朽ち果てるがままに放置された、かつては軍用車両であった鉄屑に乗り上げる。鉄屑が潰れ、戦車の下部に光と炎が生じた。
「え……!?」
我が目を疑うのと、下から突き上げる様に噴き上がった炎の槍に、箱形のノルラント戦車が貫かれて燃えるのと同時。
『――敵襲! 敵襲!』
『――銃撃を受けている! 残骸に機銃座を視認!』
『――敵が反撃してくる! 囲まれた!』
無線通信回線に、悲鳴と怒声が輻輳した。堰を切ったような勢いでそれは電子の平野に溢れだす。そこに雑音や空電音が忍び込み、回線そのものを侵食し始めた。まさにこのときを待ち構えていた様に――前進が止まり、勇躍が停滞に席を譲る。
『――第66大隊、通信途絶!』
『――回復させろ! 何故こんな時に!?』
『――ハナヤ大佐、どうか?』「うろたえるな!」
観戦武官が将軍に、怒声で返す。
「敵主力はすでに撃滅したのだ。恐るるに足らず。各個に反撃し、残敵を圧殺しつつ最終到達点まで前進あるのみ!」
「うそだろ……!」
崩壊を前に踏み止まる秩序と拡大する混乱の相克の中、資明は気付いた。
銃火の光音に驚き高空を廻る野鳥……その群がりの中、違和感を纏った翼がひとつ、頭上遥か高くで機械の様に旋回を続けている。少し目を逸らせば、容易に鳥に紛れてしまう位にそれは小さく、拙い翼であった。若い資明がそれに気付くのと、その正体を察するのと同時。
「ドローンだ……!」
「何!?」
反射的に鉛の空を見上げた花谷の表情が凍りつく。同時に前方、霧に包まれた地平が幾重にも瞬くのを資明は見た。刃の様な光陰が霧を裂く。無数の弾幕が地平を飛び越え、そしてノルラント軍に降り注ぐ。最初に被弾炎上したのは戦車であった。徹甲弾に貫かれ動きを止めた戦車から、埃と煤に塗れた戦車兵が半死半生の体で車体から転がり出る。回避行動を取ろうとした戦車同士が衝突し、ひいては遠方では醜悪な同志撃ちすら始まった。そこに畳みかける様に敵の弾幕が降り注ぐ。平原が弾着に揺れ、被害は拡大する。
『――……こちら前進部隊! 敵の機甲部隊を視認!……部隊だ!……大軍がこちらに突っ込んで来る!』
「しまった……!」
うわ言の様に、花谷は言った。「敵主力」の撃滅と追跡の過程で散開した部隊、拡大した隊列の間隔、希薄化し重厚さを失った布陣――全てが周到に準備され、段取りされた罠であった。ノルラント軍はもはや細い竹ひごで編まれた拙い細工であり、重厚な統制と隊列を維持し前方から向かって来るローリダ軍は、さながら竹細工に全力で降り下ろされた拳であった――それらを悟った時、パニックは分別のある筈の幹部自衛官にすら牙を剥く。
「散開した部隊を呼び戻せ! 最優先だ!」
『――各隊! 本隊へ合流せよ! 集合! 集合!』
後退すべきじゃないのか……放心した表情で、資明は無線機に血相を欠く花谷一佐を見た。怒声で放つ指示が、前方で督戦する司令部と徐々にではあるが食い違い始めていた。司令部ですら、感情の奴隷となって幾下各隊に場当たり的な応戦の指示、その蓄積による状況の維持に拘泥し始めている。状況は、一気に劣勢に転じているのに……
直射曲射の別なく撃ち込まれ、叩き付けられる弾幕に交じり、緩く遅い軌道が複数戦場上空に延び上がる。上空、曲線軌道の頂点で生じる烈しい光が無数、それらは頂点からゆっくりと落下しつつ、霧と黒煙渦巻く戦場を禍々しく照らし出す。「照明弾!?」困惑と恐怖で見上げた空、続いて現在戦場を蹂躙している弾幕よりも太く、重々しい弾幕が唸り声を上げて空を切り、そして戦場に降り注ぐ。
『――重砲! 重砲だっ!』
『――逃げろ!……もうダメだ!』
悲鳴にも似た報告、逃走を促す悲鳴は、布陣の各所から上がった。対戦車砲、迫撃砲よりも威力の大きい重砲、多連装ロケット砲は、大まかな目標位置を元に広範囲に及ぶ打撃を与えることを想定して運用されるべきものであった。ノルラント軍の応戦と混乱がローリダ軍からして目標位置の評定に繋がり、照明弾の瞬きがそれを補強した。火砲よりも大きな火柱が上がる。火砲の弾着よりも大地が烈しく揺れる。直撃を受けた戦車、装甲車、自走砲、そして兵が「消滅」する。
「――前方集団、通信途絶!」
伝令からの報告で、花谷一佐はそれを聞いた。司令部に所在は既に消失し、あとには秩序を失った集団……否、「群」が遺された。呆然と立ち尽くす士官がいる。後退と言う名の逃走を始めている兵もいる。一人ひとりの本能に基づく行動が、そのまま集団としての決心に直結する。軍隊としてはあり得べからざる光景であった。弾着が止み、次には鉛色の雨天を衝き重厚なプロペラ音が過る。次には双発機の編隊が断末魔の布陣を急降下から低空で引き起こして奔る。ばら撒かれた爆弾が落下の途上で更に無数の子爆弾を撒き、なお健在な車両や部隊を痛撃し続けた。地上の誰も抵抗しない。機影は少数、だがそれらは、恐怖と逃避がノルラント人の背を推すのに十分な効果を発揮した。
「戦え……何をやっている?」
呟く様に、花谷一佐が言うのを資明は聞いた。耳を疑い、聞き返そうとして資明は諦めた。完全に感情の消えた男の貌が、狂気すら宿し始めていた。無表情もそのままに、資明は指示を待つ運転手に告げた。
「後退だ……安全な後方まで」
「…………!」
暴力的な勢いで手が伸び、資明の襟を掴み上げた。焦点を失った眼が若い幹部すら身じろがせた。
「前進だ!……未だ兵力は十分にあるのだ……!」
「花谷さん、落ち付いてください!」
襟を掴む手に、更に力が籠るのを資明は感じた。このままでは首を締められるとも感じた。怒りではなく憎悪が眼に宿す花谷、その一方で指揮通信車が車体を廻らせもと来た途を走り始めている。それを咎めることもせず、噛み締めた歯すら剥き出しにして、資明に何かを怒鳴り掛けた花谷一佐の至近で、地面が烈しく数度揺れた。至近の弾着に耐えきれず安定を失った指揮通信車を、操縦手の悲鳴を借り更なる破滅が襲った。
「操縦手が被弾! 操向できない!」
「…………!?」
指揮通信車は車体を激しく揺らし、荷台より護衛兵を振り落としつつ走る。制動もできぬままそれは、全速を維持しつつ戦車の残骸に突っ込んで止まった。
シレジナ方面基準表示時刻1月9日 午後16時37分 ローリダ政府直轄領シレジナ 北部防衛線
『――重砲射撃及び航空攻撃 ともに効果大。ノルラント軍、潰走します。後退ではありません……潰走です!』
「各中隊へ、節度を持った追尾はこれを許可する。追撃は再度の命令あるまでこれを実施してはならない。航空機による反復攻撃はこれを継続する要ありと認む。その旨ロート将軍にも打電してくれ」
「追跡はよろしいので? 閣下」
「そうだ。追跡は許可する」
砲隊鏡の狭い視界を動かし、砲撃の効果を確認せんと務める。大地はなお霧に覆われ、再び勢いを取り戻した雨足が更に視界を塞ぐ。それでも、平原一帯に立つ炎と黒煙の取り合わせの数は容易に数えられた。その数は多く、ノルラント人が凄まじい量の物量を喪失しつつあることは一瞥で判った。隊列を詰めての集中砲火と、それに続く敵中央の前進突破が、南北に拡がり希薄となったノルラントの隊列中央を一蹴し、その潰走へと繋がったというわけだ。
砲隊鏡から顔を上げ、ローリダ共和国国防軍 予備役少将 グラーフス-フ-ラ-ティヴァリは通信兵に目配せした。未だ少年の面影の残る通信兵の微笑が、彼の要望が叶えられたことを無言の内に物語っていた。
「北飛行場より第二次攻撃隊が五分前に発進しました。攻撃機六機とのことです」
「六機ですか? 心もとない数ですね」
「贅沢は言えんよ。それに、逃げる敵の背を推す効果だけでも十分だ」
呆れる部下、ぼやく様に言うティヴァリの頭上を、攻撃機の機影が過って再び上昇する。搭載する全弾をノルラント軍に叩き込んだ後、彼ら空軍は戦闘地域の監視のために燃料が続く限り上空待機をしていてくれているのだ。彼らの刻々ともたらす報告は、第一撃をまともに受けた敵中央は壊滅状態、痛撃を免れた生き残りも統制を失って逃走に転じている。散開した隷下部隊もまた、停滞と後退に陥っていることを地上の友軍に教えてくれていた。司令部と連絡が断絶し、混乱しているのだということは察せられた。
「攻撃機を回してくれるということは、南は大丈夫ということか……」
『――アルノア隊より入電。再集結完遂予定時刻1710。完遂し次第追撃に移行する。以上であります』
「もっと縮められんか……」
遊撃部隊指揮官 共和国陸軍少将にして息子でもある、アルノア-フ-ラ-ティヴァリの間の抜けた顔を想像しつつ、愚痴を言うティヴァリの表情には生来の謹直さが戻っている。追撃が成功せずとも、息子アルノアは与えられた仕事を成し遂げた。要塞防衛司令官 共和国陸軍中将 センカナス-アルヴァク-デ-ロートが与えた仕事……敗勢を装ってノルラント軍の追撃を誘い、彼らに兵力の分散をも強いるという、ある意味父が為した反撃よりも困難な仕事だ。
日没が早まったのか、鉛色が濃くなってきた空を仰ぎ、ティヴァリは言った。
「シンゲン公も照覧あれ……か」
「――我々はシンゲン公の加護を借り、ノルラントを殲滅する」
前日――作戦発起にあたり、幕僚を集めた最終調整会議の席上、ロートはそう言った。その後に始まったのはどういうわけか歴史の講釈であった。
「――ミカタガハラの地において、シンゲン公はイエヤスを決戦に適した平原に誘引し、正面突破の陣型を以て分散したイエヤスの軍を粉砕した。今回我々はこのシンゲン公の顰みに倣うことにする」
ニホンの偉人としてのシンゲンとイエヤスの名はもちろん、ロートの語ったミカタガハラの戦のことはティヴァリも知っている。スロリア戦役でニホンの捕虜となり、必然的に連れて行かれたニホンの本国で、将官たるティヴァリもまたニホンの文物の他、事跡にも触れる機会を得た。ミカタガハラの古戦場までは行かなかったが、事跡に纏わる会話の端々でその名だけは聞いているし、勝者たるシンゲンの名も、ニホンが誇る名将のひとりとして知っていた。何よりニホンには特に、史上双璧と名高いふたりの「聖将」と言うべき将がいて、タケダ-シンゲンはその一翼である。一方で戦の敗者たるイエヤスが、長じてニホンの戦乱を収め、新しい時代を切り拓いたことも知っている……だからこそ、ティヴァリはロートの提示した作戦に異論無く乗った。軍籍に身を置いた以上、名将に倣うに何の躊躇があるべきか?
戦場――静けさが戻り始めた平原の、新たに築かれた残骸と死体の野を双眼鏡で凝視するティヴァリに、幕僚が語りかける。
「敵将はどうしておりましょうか? 逃げましたか?」
「糞でも漏らしておらねばよいがな。ミカタガハラで敗けたイエヤスのように」
「イエヤス……ニホンの偉人ですか」
「知っているのか?」
若い幕僚が、ばつ悪そうに頷いた。士官学校を出てまだ三年も経っていないかもしれない。
「ミレス少佐の講義で学んだのです。昔、戦乱に倦んだニホンに秩序を取り戻し、新しい国に作り替えた人物とか」
「そのイエヤスがノルラントにいるとは、到底思えないがな」
ティヴァリは皮肉っぽく苦笑した。戦争を行うにあたり、先人の知恵を借りることは決して反則でなければ邪道でもない。しかし、ニホン人がこれほどまでに戦争の「実績」を有していることは、ティヴァリにとっては純粋な驚きであった。そのニホン人の知恵と実績を借り、今日我々は勝った。
「通信士官、全軍に伝達。損害を把握し、全軍を再編成の後我々は西進する。その旨アルノア隊にも周知せしめよ。あと……」
「あと?」
「アルノア隊に部隊集結を急がせろ。急がぬと尻を蹴飛ばすと伝えるのだ。全軍これより夜を徹して追撃を行う。ノルラントをナガフルより海へ叩き出すまで戦は終わらぬ」
「ハッ!」
通信士官の表情から余裕が消えた。彼とて、緒戦に勝ったこれからが正念場であると理解している。そして同様の理解は、平原にあって西進に臨む野戦部隊の将兵も総じて抱くところであった。
「……雨は、もう止まないか」
ぱらついていた雨に、勢いが戻り始めている。
ティヴァリにも未だ懸念はある――南の防衛線はどうなっているのだろうか?
そして――ロート将軍はいま、何を考えている?