第二四章 「デルエベ」
デルバリア同盟内基準表示時刻1月9日 午前5時14分 デルバリア同盟領デルエベ
「――――ッ!」
荒涼の支配する世界の中心、彷徨ううちに足許を奪われ、地の底に沈む瞬間に意識は醒める。
ルーガ-ラ-ナードラの目が開く。緑の瞳がただ、調度に乏しい寝室の天井を、焦点を揺らしつつ見上げていた。焦点が整うまで、目がまだ暗い部屋に馴れるまで、彼女は身じろぎもせずに待ち続けた。
何時ものことだ――毛布を撥ね上げて半身を起こすのと同時に、部屋を支配する冷気が薄い寝間着越しに忍び寄って来た。間断なく稼働し続ける冷房の存在を意識するのと同時に、通電音を思わせる耳障りな稼働音すら意識する。枕元、最近飲み始めた錠剤の詰まった瓶に白い手が伸びた。瓶の中身は半分ほど空いていた。数錠を冷水と共に流し込む。精神安定剤……夢が、ナードラの現実に負の波となって押し寄せる。
「…………」
眠れていないのではないか? 余計なお世話だ――寝台上で俯きつつ自問自答を繰り返す。暫くの後、顔を上げて寝室の窓に目を向ける。外は未だ暗い。熱帯夜が未だ続いている。この土地特有の熱帯夜だ。太陽が出れば不快な暑さは更に増す。それでも、外を行き交う兵士の隊列や軍用トラックの上げる音は、眠りに落ちる前から続いていた。
戒厳令の布かれているデルエベの街。戒厳令?……海賊と奴隷商人、そしてこの世界の何処にも行き場の無い「流れ者」から成る「自称」藩王国が、一端の独立国の如くにそんなお堅いものを「布告」しているというのか?――自ずと生じた冷笑が、ナードラの精神から寝起き特有の気だるさを奪う。この部屋に引き入り、眠りに付いたのは先日の夜十時を過ぎた辺りではなかったか……? 空路での到着からこの部屋に通されるまで、煩雑な入国手続きと街中央に鎮座するザミン議長の宮殿での、冗長極まる歓迎式典……当のザミン一党からすれば、不意打ちにも似たナードラのデルバリア来訪時に繰り広げられた全ての裏に、ナードラは時間稼ぎとこの場にいない誰かの意志の介在を直感している。
着信音が空虚な闇に響く。部屋備え付けの電話ではない。デルエベ訪問にあたり忍ばせて来た「携帯電話」の着信音であった。冷たいLEDの光を発して震えるそれを掌中に抱きつつ、ナードラは周囲の白い壁に横目を流した。横目を走らせつつ、内心で一瞬逡巡した。願わくば回線の向こうの「ニホン人」が、ナードラの懸念に配慮してくれていることを願うばかりだ。
「わたしだ」
『――モーニングコールってやつだ。おはよう』
電気信号の様な音で、母国ローリダの言葉が紡がれるのを聞く。回線に挟まれた翻訳機械のフィルターを剥がせば、聞き苦しいニホン語の肉声を聴くことができるだろうなどとナードラは考えた。「ケイタイ」を握るニホン人の顔のことはさすがに考えなかった。
「それはローリダにもある」
『――ならば話が早い。デルエベにはもう入ったな?』
「…………」
『――教えて欲しい。そこにいる「新世界清浄化同盟」の幹部の名前と所在地を教えろ』
「幹部は五人。ユニ-ゼテク、クラレ-アスモジウス、ハナ-ヴィルガー、レオ-ヴィルガー、ギレ-カジーレ。彼らはみな飛行場南西の『迎賓館』にいる。私の宿舎だ」
『――人質の所在は? 収容施設の位置は?』
「飛行場を挟んだ真向い。北東だ」
『――分散させていないのか?』
「デルエベの盗賊は来客を人質というより商品として扱う。商品にそこまで手間を掛ける程甲斐性のある連中ではないよ」
『――奴隷同然か……まさか!』
「そうだ。本物の奴隷もニホン人も一緒くただ。ここは――」
わざと溜息をつき、続ける。
「――街そのものが奴隷市場なのだから」
『――情報提供感謝する。また連絡する――ああ、最後にひとつ』
ナードラの言葉に、ニホン人が感銘を受けた印象は感じられなかった。フェードアウトしかけた回線に、再び電気の言葉が聞こえて来た。
「…………?」
『――ルーガ-ラ-ナードラはどうしている?』
薄い唇の端が、皮肉に吊上がる。
「ほう……特使の詳細は非公表なのだがな。ニホン人は地獄耳か?」
『――ナードラもそこにいるのか?』
ナードラの質問には、答えない。当のナードラも回答を期待してはいない。
「回答を拒否する。理由は保安上の問題だ」
『――…………』
回線は、今度こそ切れた。「内通者」の素性を自分からニホン人に明かす義理を、ナードラは認めていなかった。携帯電話のスイッチを切りつつ、彼女は部屋の一角に緑の眼光を険しくした。
部屋の向こうに、誰かの気配の予感がした。部屋の中では無いが、取り巻く様に監視する何者かの気配――
空想科学物語に出てくる様な文明崩壊後の世界同然の場所であっても、豪勢な朝食はある処にはあるようだ。
デルエベの指導者が朝食会をセッティングしたのは、先日デルエベに第一歩を標したナードラ自身にとっては「お節介」というものであって、そこにハイジャック犯と同席、ということになれば困惑すらいや増す。ただし図りかねたその意図はナードラが食卓に付いた途端、周囲から焚かれる写真機のフラッシュによって氷解した。デルエベまで遠征したグナドス、他ユーレネル諸国の記者たちだ。冷厳なまでの無表情で凝視した卓の反対側では、ユニ-ゼテクをはじめとしたハイジャック一党が、対面するローリダの使節ひとりに、呪いの掛かった人形の様な作り笑いを向けていた。
「…………」
新聞や他の報道媒体でこの一幕を見たグナドスの民は、自身とローリダをグナドスの友人と思う事だろう――思い当った瞬間、ナードラは席を立つことも当然考えた。自身の与り知らぬところで宣伝の材料に使われることを、ナードラは何よりも嫌った。席を立たなかったのは義務感に因った――ハイジャック犯の情報収集という政府使節としての本分、あるいは「ニホンの内通者」としての本分を果たすという義務感。
ニホン人に至っては当然、魔女でも見る様な眼で自分を見ることだろう。
他国の人間に魔女だの悪魔だのと言われることには慣れている。否、慣れた積りであった。だが他の敵国や従属国にそう言われるのと、ニホンにそう言われるのとでは完全に意味合いが違う様に思える。自身がローリダ共和国の代表である以上、代表に対する心証はその背後にいるローリダの国民、そして国家体制への心証へと重なる。そしてノドコールで進行中の戦役を顧みるまでも無く、ニホン人の共和国ローリダに対する心証は「最悪」だ。そこに今回のデルエベ訪問。「敵国」の人間が頼まれもしないのに同胞を開放するために交渉に行ってくれると? 馬鹿も休み休み言うべきだ。少なくともニホンの民はそう思う筈だ。
ニホン人は、かつて自分がそれを為した様に自分を殺そうとするだろうか?
過日のザルキス殺害が好例だが、ニホン人のやる戦争は我らローリダのそれと比べ明らかに異質だ。開戦するや否や彼らは最優先に敵軍の指揮官の所在を探りそこに直撃を仕掛ける。指揮官の首を取れば当然、彼の指揮下にある軍は忽ちの内に瓦解の危機に瀕する。言うは簡単だが行うに難い戦術を、ニホン人は容易に、更には開戦してごく早期の内にやってのける。
三年前の「スロリア戦役」はその始まりからまさにそのように実施され、高等文明の粋を尽くした装甲野戦軍を、開戦から僅か三日も経ぬうちに指揮系統の崩壊した烏合の衆へと一変させた。ジエイタイ――あの精強なニホンの軍隊に対峙する限り、常に敵兵犇めく前線に立つ事を強いられる下級の将兵と違い、彼らよりずっと後方に在って軍の掌握と用兵に専念する高級士官や将官とて安閑としてはいられない。そのことが、共和国国防軍の高級幹部をしてジエイタイに対する拭い難い恐怖感を倍加させてしまっている。あからさまな口調で「反則だ!」とニホン軍のやり方を非難する軍幹部もいることをナードラは知っている。それは愚かなことだ。戦場に於いて将校だけには絶対に弾丸は飛んで来ないと思い込んでいる様なものだ。
「…………?」
朝食の間、絶えず自身に注がれるきつい視線の存在に気付き、ナードラは緑の瞳を流した。殺意の発露ではないが、虎が餌場に現れた同類の獣を見る様な視線であった。食卓の末席、褐色の肌をした異邦人には見覚えがあった。過日、首都アダロネスの聖堂で遭ったミステルス-ル-ヴァン-ガーライルの傍に、護衛宜しく付き従っていた異邦人だ。先日、呼びもしないのにハイジャック犯どもと引合わされたときにも彼はいた。彼はお目付役。この自分たちがやったことの重大さなど微塵もわかっていない、子供の様な連中の引率役だと、ナードラはダキと名乗ったこの異邦人に察した。その上に監視係にして連絡係でもある。未だナードラの前に現れない「あの男」ガーライルとの。監視と連絡の対象は当然、こうして朝食を共にする自分も含まれている……
「――実は、我らが母国グナドスからも特使が来ます」
ユニ-ゼテクに対面から話しかけられたのは、ナードラにとっては不意のことであった。それ位、同席したハイジャック犯の指導者たるこの女には関心を払ってはいなかった。但しそう言われただけで、グナドス人の真意をナードラは理解した。但しそれを表情には出すことなく、白皙の無表情がユニに向き直る。美女の無表情は、それだけで他者に緊張を強いるものだ。
「寡聞にしてその様な話は聞いていません。何時決まったので?」
「先日夜の宰相府の閣議決定です。副外務相が来ると……」
「それは貴国の外交倫理的に、異邦人の私に伝えても問題無い内容なのですか?」
「むしろ閣下のお耳に入れた方が良いかと愚考した次第ですわ」
「確かに愚考だな」
「…………!?」
不意に変わった口調に、ユニ-ゼテクの顔が凍った。緑の眼差しの奥でそれを愉しみつつ、ナードラは言葉を紡ぐ。
「お前たちは勘違いをしている。私はお前たちの同志ではない。何より私は他人の飛行機ではなく、自前の飛行機で此処に来た。同一視は止めていただこう。この際だから言っておく。私とお前たちは同じ船には乗っていない。お前たちの乗った船が沈もうが傾こうが私の関知するところではない」
「ぐぬ……!」
爽やかな朝食の食卓に、若者たちの不穏な呻きが影を差す。若者たちが択んだのは態度の再考ではなく反論であった。反論の主は同席の軍幹部。こいつもある意味「監視役」だろう。他人同士とはいえ、これ程融和の情に欠けた食卓も珍しい。
「それはそうと、ナードラ様には看過できぬ噂が流れております」
「聞きましょう?」ナードラの目は、グナドスの若者たちを嘲り始めている。
「兵士たちが口々に言っているのです。ローリダの特使がニホンと通じているのではないか? ローリダの特使を尋問するべきではないか?……と」
「何故に?」
「特使を送り込んだ意図が掴めぬ、と。小官自身も実のところ納得しておりません。何故貴方が此処に居るのか?」
微笑を作り、ナードラは言った。
「偉大なる第一執政官閣下の御意志です。我が共和国において、特使派遣の意図はただそれのみ。私自身も偉大なる第一執政官より特命を受けた以上、本国とも連絡を取らねばなりませんし、可能な限り現地の情勢も把握せねばなりません。それがいけないと?」
「ああ……ローリダ本国の使いということね」
「この話、ニホンに盗聴れていなければいいのですが」
「…………!」
若者たちの間に緊張が走るのを、緑の瞳は見逃さない。
「それはそうと、グナドスの特使派遣の意図は何処にありや?」
「貴国と我らグナドスとの間には、長い友好関係があります」
ユニ-ゼテクが切り出した。
「貴国はいま、ノドコールを廻りニホンと係争中であり、我らグナドスもまた今回の闘争の結果ニホンとことを構えるに至りました。貴国と同じく我らグナドスにとってもニホンは安全保障上の脅威となりつつあります。そこに、これまでの友好関係を越えた貴国と我らの共闘の余地があります」
「それは貴国政府の意志なのですか? 意志であるとすれば、何故に貴方がたがそれを知っている?」
「情報源は明かせませんが、その点は信用していただいて結構です」
「ふむ……」
胸を張る様な言い草から、ユニ-ゼテクは真実を言っているのだろう。それに真偽は後から来るというグナドスの特使に質せば済む――ナードラの視線が末席に向いたとき、ダキという名の異邦人が身構える様に表情を顰めるのをナードラは認めた……そのまま、ナードラは言った。
「本当に事実か確証が欲しい」
「…………!」
「連絡係」のお前に言っているのだぞ?――深緑の視線に込められたナードラの意志を汲み取る能力を、ダキが持っていることを彼女は確信した。忖度の才能とも言えるが、それを持っていない無能者があのガーライルの配下でいられる筈が無い。ダキが無能者ではないことは、精悍さ以外の完全に消えた彼の表情から判った。ユニ-ゼテクら若者はと言えば、彼らの吐露した闘争への熱意に対し、このローリダの要人が半ば無関心を装っていることに対し困惑を隠せないでいる。
正直こやつらがこの先どうなろうと知らぬが、今は「希望」くらいは持たせておいた方がいいか――作り笑いを微かに、眼差しに仮初の同情を籠めて遥かに年長のグナドス人を見据える。
「ニホン人も憐れなものですね。貴方がたとグナドス政府が完全に繋がっていることを知らないとは」
「ローリダとも繋がるでしょう。我らの闘争に賛意を示す貴国の要人は少なからぬおります」
「何と……?」
ナードラは驚く振りをした。振り、とは言っても片方の柳眉を心持ち分だけ上げて見せただけだ。漸くナードラの関心を惹いたと思ったのか、グナドスの若者がひとりナードラに向かい腰を浮かし、クロスに覆われたテーブル越しにファイルを差出した。爽やかな笑顔――過去にも未来にも関心を払わない、軽薄な笑顔――から並ぶ白い歯に、ナードラは内心で苛立った。しかし驚くべきことには、ナードラひとりと彼女と対面するグナドスの犯罪者どもとの間に、年齢の差など僅かなものでしかないのだ。
「…………」
ファイルを捲るナードラの口から、軽く溜息が洩れる。ファイルにはグナドス人の反ニホン行為に賛同し、物心両面の支援まで行ったローリダ国内の「協力者」が連ねられている。その殆どがナードラも既に把握している名前ではあったが、その最後の段になって共和国国防軍最高司令官 元帥カザルス-ガーダ-ドクグラムと前共和国第一執政官ギリアクス-レ-カメシスの名を見出したとき、ナードラですら今度は芝居抜きで眉を顰めざるを得なかった。
「カメシス……だと?」
「カメシス前執政官閣下は我がグナドス サルビギナ社の主要株主でいらっしゃいます。その御縁を頼り、連名を頂いたまでです」
サルビギナはインフラから各種工業、資源開発に跨るグナドス最大の産業複合体であり、最大の軍需企業でもある。特に「スロリア戦役」後、技術支援という形でローリダ国内の軍事部門への関与を深めている。近年始まった共和国空軍の主力戦闘機レデロ1、ゼラ-ラーガに対する搭載電子機器改良事業などはその好例であろう。ローリダ国内の資本が投資という形でサルビキナに回り、意図せずして軍備増強を外注せしめているというわけである。
「ところで……」
情報――得たいものを得た後、ナードラは話題を変えることにした。
「共闘はもちろんするが、これだけは確約を頂きたい。人質は殺さない。でなければニホンの政府とは有利な交渉ができない」
「ですがそれは……」
グナドス人が言葉を失くしたことに、再び苛立ちが募る。平静を装い聞く。「殺す積りなのか?」
「確約ができなければ、此処に来るのはニホンの外交官ではなく、艦隊になる。貴方がたは骨すら残らないだろう」
「馬鹿な! ニホンはノドコールに掛かりきりです。デルバリアまで兵を回す余裕はない。それに我々のことは我がグナドス政府が守るでしょう」
ユニ-ゼテクの隣、クラレ-アスモジウスが言った。恰幅の良い長身に似合わない裏返った声が、自分の発言に彼が確証を持っていないことを何よりも表していた。しかし……この期に及んでなお自国の政府を当てにするのか? 犯罪者にもそれなりの矜持というものがあるだろうに。
「ニホン人は――」
もはやユニらを顧みない緑の眼差しが、烈しい光と共に末席のダキを睨んだ。光が、サングラスに遮られたダキの無機な眼光と克ち合った。
「――ひとりの男を追っている。彼を野放しにしておけばニホンのみならず世界の破滅を引き起こすと彼らは思い込んでいるのだ。そこにお前たちが人質に手を掛ければ、ニホンの政府はその男の関与を疑わざるを得なくなる。先年、600人のニホン人を虐殺したザルキス将軍を殺した『抹殺部隊』が、晴れてお前たちの喉元に刃を突き立てることになるのだ。わかるか? ザルキスの背後にその男がいることをニホンはもう知っている」
グナドスのハイジャック犯どもが怯えようが逃げようがもはやどうでもよい。この場においてナードラの話の相手は末席の異邦人ダキひとりであった。そしてナードラは、ダキの回答など最初から求めてはいない。「子供の使い」が、自分の意志でものを言うことなどあってはならないのだ。その「子供の使い」に良い様に仕切られるグナドス人と真面目に会話をする必要を、ナードラはもはや認めてはいなかった。
「あんたの言い方は、まるでニホンの走狗だな」
感情のこもらないダキの言い方が、ナードラを内心で身構えさせた。客観的に見るに、この異邦人の発言はほぼ真実であった。「あんたがニホン人に教えたのか?」
「その男の去就如何によっては、火の粉は我が共和国にも及ぶ。私の他、ニホンに対するにこれ以上面倒事を抱え込みたくない者は、共和国ローリダにも少なからずいるであろうよ」
「…………」
ダキが不意に立ち上がった。朝食を半分残して部屋を出ようとする長身の背中に、ナードラはさり気なく言った。
「世界は壊させぬ、とあの男に伝えておけ」
「…………!」
舌打ち――ダキの歩が一瞬止まり、そして異邦人は荒々しくドアを蹴って部屋を出る。それまで手出しできずに留っていた給仕の兵士が、醒めた茶を慌てて取り替えに入った。方卓のあちこちで磁器と金属器が今更のように慌ただしく克ち合う。まるで止まった時が再び動き出したかのような――そこになお、取り残されたかのような呆然を宿すグナドス人に、ナードラは微笑と共に向き直るのだ。
「地の涯に似合わず、美味しい朝食でした。ところで、人質も朝食を頂いているのですか?」
朝食後、不快な会談が始まり、そして終わった。
外交使節たるナードラからすれば、デルバリア同盟の元首にして、その他訳の判らない肩書を持つデデリバ-アル-バ-デルバリア-ドス-ザミン将軍との会見が朝食後の予定であり、任務であった……ではあっても、ナードラは会見自体に微塵も意義を見出してはいない。何よりローリダの抱える問題を解決するのに必要な能力も財力も人脈も、装飾過剰な軍服に獣臭の纏わり付くこの巨漢は持ち合わせていない。「使節を迎え入れてやったのだから何がしかの対価を寄越せ」という低文明勢力特有のもの言いすら聞き流してナードラは会見を終えた……これから何かをするにあたり、場所を借りる挨拶に出向いたようなものだ。
ザミン、という姓には聞き憶えがあった。出立前に調べて判ったことだが、ザミンと名乗る前の将軍は、デルバリアと名乗る前は人間種の支配する王国であったこの地に於いて、生来姓を持つことすら許されない獣人奴隷の出であったという。「姓無し」のデデリバは王政府のいち兵士から軍歴を重ね、長じて将軍を自称するほどの私兵と権勢を得た。その際、将軍はちょっとした紛争が元でミラン王国という国に知己を得た。「ザミン」という姓を彼は持っていて、幾度かの交流と大量の金品とを引き換えにザミン姓を名乗ることを許されたのだという。異国の貴族でもあるザミン姓を得た将軍が王政を打倒し、この最果ての地に彼の王国を作り上げたのは、その直後のことである。実力以外に何も無い山賊が第三国から貴族の姓と威光を借り、ひいては体制すら覆したあたり、ザミン将軍もただの無能ではない。
実はミラン王国もまた、その頃からすでに共和国ローリダの影響下にある。豊富な地下資源を有するが列強に抗し得る軍事力を持たず、その上に平時の政情も不安定と来れば、この世界では自ずと大国の雷威に怯えて生きることになる。ミランの民は、自分たちと住処たる国土をこの世界に墜とした超越者の気紛れを怨まざるを得なかっただろう……今となっては、当のナードラですら彼らの気持ちが僅かではあるが察せられるのであった。この偉大なる共和国ローリダが、その顔色を伺わねばならない相手が近年この世界に現れ、共和国の「切り取り」を図っている……
このとき、ナードラは生まれて初めての経験をした。送迎用に差し向けられたその黒艶の車体は、デルエベの地を統べる砂埃を当然の如くに被ってはいたが、貴婦人に対するかの様な気品をナードラに意識させた。但し、車の前後を固めるのは不格好な上に破損の痕もみすぼらしい外国製装甲車だ。
「センチュリー?」
迎えに来たザミンの部下にナードラが口にした名には、隠せぬ感銘がある。噂に聞いていたニホン製の最高級車の真価は、この地獄同然の地でも発揮された。低文明圏に付きものの最悪な道路事情であっても、センチュリーは舗装道を走る様な乗り心地をナードラにもたらしたものだ。これがより道路の整備されたローリダの都市圏であったなら――
「…………」
共和国ローリダの要人や富豪が欲しがるわけだ――それまでナードラは乗ったことは無かったが、この車はアダロネスの中央でもよく走っている。最初に手に入れたのは現在別命を受けアダロネスにいるミヒェール-ルス-ミレスの父、ラベルト-ロ-タ-ミレスであるという。それも「スロリア戦役」開始の直前、「蛮族ニホン人の車」ということで冷やかしの積りで買い入れたそうだが、今では公私を問わず社交の場にこの車で乗り付け、半ば必死になって予備部品を集める位この車の虜になっていると聞く。「運転するのもいいが、客としてこの車の後席に乗るのが最上の使い方」というのが伝え聞いた彼の言葉であった。
現在の彼はローリダ国内でも有数のニホン車コレクターで、一度は草レースの場に持ち込んだエヌエスエックスなるスポーツカーの操作を誤り、観客席に突っ込んで大破させたこともある。幸いにも観客からはひとりの怪我人も出なかったが、彼自身は場に居合わせた愛娘に罵られた揚句、両足の骨を折って入院する羽目になった。ラベルトいち個人に限れば惨憺たる結果だが、あれ程の事故でありながら死ななかった、という点がまた、ローリダ社会の上流にニホン車の高性能ぶりを一層印象付けることになったらしい。それ以来、要人や富豪の「ばか息子ども」が競ってニホン製の高級車を買い入れ、夜のアダロネスの街をこれ見よがしに走り回り、山中や街の悪所に屯するようになった。当然暴走に纏わる事故やトラブルも増えているわけで……
「……アニメやアダルトビデオと変わらぬ。害毒だな」
会談の帰路に付いたセンチュリーの車内で不快な事実を思い返し、ナードラは吐き捨てたものだ。隣席に座る随員の官僚が、怪訝そうにナードラを顧みる。口を噤み、ナードラは眼差しを車窓へと泳がせた。崩壊しかけた格納庫の破れた屋根の下、この地に連れて来られ、帰る宛て……否……売られる当ても無く群れて待つ人々がいる。運良く身代金が届いて自由の身になるか、奴隷としてさらにこの世界の何処かへ連れ去られることになるのか、それとも……囚われの身のままこの荒野で生を終えることになるのか。それは多種多様な「待機」の風景であった。車窓から拡がる風景は、車内の人間にとっては神が下界を見下ろすが如き俯瞰を与えている。
「あのニホン人は誰だ?」
その「下界」の中に違和感を覚え、ナードラは言った。半壊した格納庫の下で座り込み、あるいは横になったまま動かない人々の黒い海に在って、佇んで歩き回る長身が、緑の瞳には真白く映えた。
「ニホン人?……あんな処にいたかな」と前席の護衛兵が言った。言いつつも、険しい目付きが外を探っていた。
「この世界で場所と立場を弁えずに要らぬ慈悲を振り翳すのは、彼らしかいまい」
「調べろ」とナードラは素振りで命じた。冷たい眼光に晒され表情を反感に凍らせつつも、護衛が携帯電話を取り出したあたり、異邦の要人を恐れつつも尊重している様子が察せられた。
「閣下の御明察の通りニホン人だ。グナドス人が乗っ取った旅客機に乗っていた医者だよ。女医さんだ」
「女なのか……?」
白い人影に見惚れているうち、もうひとつの違和感が、ナードラの内心で驚愕と共に溶けていく……そして車列は収容所の傍を抜けた。
そのとき、車列の周囲で砂塵が舞った。
音速に達した質量が影となって至近の低空を過る。
只でさえ華奢な格納庫から外板が剥がれ、空を舞った。それ程の低空であった。
ジェットエンジンの爆音がデルタ翼の機影となる。機影は複数烈日の光を遮り、それを追うナードラの眼差しが険しさを増した。機影には見覚えがあった。
「ゼラ-ラーガだと……?」
速い――滑走路に向かう編隊の姿は、すでに見えなかった。
赤茶けた大地、錆付いた人工物以外に一片の緑すら見えない大地を横目に、機影は加速から緩やかな旋回に入った。
「――デラス編隊長より各機へ、これより編隊を解く。デラス3より着陸せよ」
『――デラス3、了解』
応答する女性のハスキーボイスが心地よい。三機編隊の右翼、一機のゼラ-ラーガ要撃戦闘機が機体を翻し、着陸コースに入った。警戒基地から管制塔に切替えた無線チャンネルは、無機質なまでに抑揚に乏しいローリダ語で、滑走路近辺の気象と風向を伝えている。首都アダロネスの防空司令部のそれと同じ、機械の様な声であった……あとは飛行場から発信される誘導電波に乗り速度と高度を落としてやれば、ゼラ-ラーガは滑らかにアスファルトにその主脚を接することになるだろう。
「…………?」
高度を上げ、着陸までの待機コースに入った機上から地上にあるものを見出し、編隊長ログネイス-デ-ヴァ-ユリスは眉を険しくした。滑走路は決して広くは無い。一部は舗装が崩れ、仮設の鉄板を敷いて補修している。その継ぎ接ぎだらけの滑走路の終端、地面を抉って横に曲がる三条の轍の先に、鵬翼を佇ませる白い巨体が見えた。着陸するのに決して危険な位置ではないが、復航するときに気が散る。少し横風が吹けば、煽られてゼラ-ラーガの翼端に接触するのではないかと――自然、舌打ちが漏れた。
汚い滑走路の、一際黒く汚れた箇所に、着陸コースに入った「デラス3」の機影が重なる。高度がさらに下がり、ゼラ-ラーガの主脚が完全に接地した。滑走路を三分の一滑走ったところで尾部が割れて減速用の落下傘が開く。短い上に設備の整っていない飛行場では必須の装備であった。ローリダ本土の空軍基地の様に、自動着陸装置一式が揃わない外地では、その分操縦桿を握る者に着陸操作時の裁量が移ることになる。その点「デラス3」の腕は良かった。教科書通りの着陸、そこから教科書通りの滑走を経て専用のエプロンまで機体が走って行く。
「――『デラス2』、高度計の反応が少し良く無い。大事を取って先に着陸してよいか?」
『――『デラス2』、了解。お先にどうぞ?』
ユリスは操縦桿を倒し、待機コースから機首を逸らした。スロットルを絞りつつ計器盤のレーダー端末に表示された着陸コースに乗機を合わせるように飛んだ。端末画面と飛行服の二―パッドに挟んだ飛行場周辺の全景と飛行可能空域の収まった図、その上に重ねて記入された離着陸コースとを見比べつつ高度を落とした。円形、光電管表示式であった従来型のゼラ-ラーガのそれとは違う、矩形の平面端末だ。上空を飛ぶ僚機、地上の電波発信源、自機の位置と飛行方向……指標の形で表示される情報もまた前者とは明らかに質と量が違った。まるで箱庭だ――ユリスは思わず見とれる。
いけない――苦笑と共に視線を上げ、ユリスは計器盤の上に繋がる照準器を凝視した。他所見が過ぎた。従来型よりも幅の広くなった照準器には機体の水平姿勢と共に速度と高度、そして針路……さらにはレーダー端末と同じ着陸コースとがそれぞれ数字と指標として投影されている。極端な話、操縦士は照準器を眺めているだけで飛行に必要な全てを把握できるのだ。その点でも、ユリスが駆るゼラ-ラーガは共和国本土に配備されている同機とは明らかに仕様が違った。全てが搭乗し易く、飛行に関する全てを把握し易くなっている。
最終旋回を終えたゼラ-ラーガは、直進で滑走路に入るコースに重なった。
着陸位置に合わせたスロットル開度に合わせて高度が下がる。機首はやや上げ気味に、前方、間近に迫った滑走路の、タイヤ痕に汚れた中心線が急激に迫って来る――後部主脚が地上を掴む振動が、操縦席を不快に突き上げた。タイヤがコンクリートを擦る不快な音が聞こえる。機首車輪が接し、完全な滑走姿勢に入った。横目を流し、機体が仮設管制塔を過ぎたのを見計らい、指が減速用落下傘の展開スイッチに触れた。スイッチを入れる位置的な目安をそこに決めていた。滑走速度が更に落ち、方向転換が容易になった。あとは地上要員の誘導に従い、エプロンで機体を止めるだけだ。
「――『デラス2』、エンジン停止」
エンジン切断スイッチを捻る瞬間、地上に在って完全な静寂を忘れていたことに気付く。ゼラ-ラーガの積むエルイズⅦジェットエンジンはそれ位にけたたましく、鋭い爆音が絶え間ない衝撃となって魔神の咆哮の如くに操縦士の聴覚を圧倒する。はたまた聴覚だけでは衝撃の吸収が追い付かず、狭い操縦席と同時に座席に固縛された操縦士の躯すら自ずと震わせた。グナドスからの技術移入で、エンジン制御にデジタル方式を導入してもなお、その生来の獰猛さは調教されることは無かった。正確に言えば、共和国ローリダの空軍は調教に要する時間と費用が惜しみ、ゼラ-ラーガの改良型に関してはそれくらい早期の戦力化を希望していた。エンジンの完全な静穏化については、遠からず実施される再度の改良計画を待たねばならないであろう。その時には電子装備もその操作性もさらに向上をみているかもしれない。
風防を開けるのとほぼ同時に、あるいはそれを待ち構えていた様に乗降用梯子が架けられる。昇って来た整備員に調整関係の引き継ぎをし、脱いだヘルメットと用具の入ったバッグを渡す。灼熱と乾燥の絶妙の共演の結果としての不快な暑さ、そこに時折吹く嵐の如き砂の風――精緻を極めたジェットエンジンと電子機器の塊とも言える戦闘機の運用には最悪の環境だ。
「ユリス!」
梯子を降りたユリスの背に、声を掛ける者がいた。振り返ると小柄、細身の女性がオレンジ色の飛行服に全身を包んでユリスの背後に佇んでいた。与圧空気用のパイプが腰に覗く繋ぎの服。グナドス軍制式の飛行服だ。飛行服と同じオレンジ色の頭髪は少年のそれのように短く切りそろえられ、白い鼻筋を飾る雀斑と相まって無言の女性に愛嬌を与えていた。ニコリと笑うときに生じる皺から、辛うじて実年齢を感じさせる位に若々しい。ユリスの僚機、ルビ-ニース-アシュク グナドス空軍大尉だ。
「アシュク大尉、飛行はどうだった?」
整備員からバッグを受け取りつつ、ユリスは言った。感情は表に出さなかった。謹厳な教師が生徒に対するかのような態度であった。
「ゼラ-ラーガ-改は最高の飛行機ですね。アダロネスで乗ったときとは大違い」――屈託の無く、遠慮も無いルビの回答に、ユリスは漸くで口元を綻ばせた。苦笑であった。把握にコツと経験が要る計器類の犇めく計器盤、簡易な目標捕捉機能しか持たない照準装置、そして操作の煩雑な搭載レーダーは性能面でも改善型に見劣りする……そのようなゼラ-ラーガを、三年前までローリダ共和国空軍は最良の戦闘機として重視して来た。三年前ならば列強空軍でも最高クラスに挙げられた共和国の航空技術の結晶――だが、今となっては上には上がいることをユリスは知っている。それも現状では追従も叶わぬ程の「上」だ。
三年前の「スロリア戦役」において、スロリアの空は精強を呼号した共和国空軍戦闘機部隊にとって、文字通りの「屠殺場」と化した。彼らが対峙したエフ15、エフ2というニホン空軍の主力戦闘機は、性能面においてレデロ-1、ギロ-18といった共和国空軍の主力を遥かに凌駕しており、後に増援という形で展開したゼラ-ラーガの部隊すら圧倒的な劣勢を挽回すること無く一方的に捕捉され、そして壊滅した。
首都防空部隊の一員として本土に残置したユリスがことのあらましを知ったのは、「勝利」した戦争が終わってからのことだ。勇躍アダロネスの飛行場を発ってなお戻らない新鋭機の幻、船便で帰国して来た生き残りの操縦士と地上要員の報告が、ユリスと彼の同僚たちに衝撃と「敗北感」をもたらした。高性能を自認し、これまでも数々の作戦でそれを実証して来たゼラ-ラーガが、手も足も出ずに撃破された「ニホンの戦闘機」――「スロリア戦役」後の、空軍軍人としてのユリスの課題は、これらの性能と対抗策の研究に注がれたと言っても過言では無かった。
政府間交渉の結果として、先年より本格化したグナドスの軍需産業との連携と、グナドス空軍次期主力戦闘機としての採用をも視野に入れた機体改修事業は、ゼラ-ラーガ単体の性能を向上させるのみならず、対地対艦に及ぶ任務の幅を拡げるに至っている。これらは特にグナドス側が望んだことで、結果としてゼラ-ラーガにグナドス製の精密誘導兵器の運用能力を付与する結果をもたらした。グナドスには超音速機の機体設計能力こそないが、戦闘機に積む誘導弾と電子機器の開発能力はローリダのそれに優越している……とは言っても、三年に及ぶ敵機研究に展望が開けたわけではない。敵手たるニホンもまた保有する戦闘機の性能向上事業を実施しており、そこに加えて彼らは更なる最新鋭機の進空まで実現させた。エフ35という名のそれは、従来のニホン機を越えた機動力と攻撃力に加え、レーダーに探知されないという「画期的な」機体構造を有するという。ユリスからすれば「反則級」の戦闘機であった。その様な戦闘機を、ニホンは200機導入するという。共和国空軍にとっての新たな悪夢の、それは始まりであった。見えかけた先行者の背中が、更に遠ざかる――
「――――?」
機影が、汚らしい滑走路の低空を過る。ゼラ-ラーガの機影だ。操縦桿を握るのはグナドス空軍中佐ゼデン-アシュク。ギアとフラップを下ろしたままのデルタ翼が、滑走路を過って再び上昇に転じた。ギアを上げたが、フラップを上げていない。上げるのを忘れているのだとユリスは思った。そのままでの上昇は失速の危険が生まれる。あるいは加速でフラップを壊すかもしれない――上昇の頂点で横転に入ったゼラ-ラーガが旋回から再び進入コースに復するのを、ユリスは地上から見送った。フラップはすでに飛行位置に戻っていた。エルイズⅦのエンジン出力とそれが生む加速をフルに使えば、不可能ではない機動だ。急機動の結果として翼端から延びる水蒸気が、蒼を背景に白く曲がった。地上の地獄を忘れさせる天使の舞だ。
進入角度を間違えたのか? はたまた誘導電波の不調か?――ユリスの目が反射的に滑走路の横、ローリダ製の野戦航法支援装置とそれを与る技師たちに向いた。遠方でありながら、ユリスの訝しむ様な眼差しに気付いた技師が、苦笑して頭を振るのが見えた。此処に展開してから幾度となく調整を続けているが、グナドス製の電子航法装置とローリダ製の地上誘導装置の相性は、決して良くは無かった。
誰かの手ががら空きになったユリスの手にさり気無く触れ、そして握った。
「…………!」
ユリスは思わず背筋を震わせた。横目に見下ろした先で、彼より頭一つ背が低いルビが、悪戯っぽい上目遣いで彼女の編隊長を見上げていた。
「大尉……!」
「ルビと呼ぶ約束でしょ? あの人が居ない所では」
窘める男の口調に、恋人の様な女の声が絡んだ。彼女の良人はなお滑走路の上空にあって、復航操作に取り掛かっていた。ひょっとすれば滑走路端の無様な鵬翼が障害に思えたのかもしれない。アシュクは階級こそ空軍中佐だが、グナドスの最高学府たる王立中央技術学院の出という、彼の戦闘機操縦士としてのキャリアは、ユリスは元より妻のルビにもだいぶ見劣りする。アシュクは優秀な戦闘機操縦士たらんよりは、将来の空軍を担う指導者候補として、空軍での栄達を半ば自動的に設定された観があった。相当なエリートコースではあるそうだが……着心地の悪い服を無理して着ている様な印象を、ユリスは今の彼には抱いてしまっている。操縦訓練の端々から伺える技量の拙さなど特に――そこに妻ルビと、本国に妻子を残して来たユリスが接近する「隙間」が生じた。そう、ユリスにもまた「家庭」があった。
「ルビ、今度は巧くいきそうだ」
と、ユリスは言った。勿論不倫ではなく、着陸のことであった。手を繋ぎながら見守る二人の視線の先で、排煙に汚れたゼラ-ラーガが脚を滑走路に接して走り始める。制動用の落下傘を開くタイミングは遅かった。結果として滑走路の先端まで走ったところで機体が止まる。待機していた軍用トラックが慌てて機体を追う。地上の注意が一斉にアシュク機に集中した瞬間を、ユリスは見逃さなかった。
「ルビ」
「ん?」
呼びかけるのと同時に、ユリスの唇がルビのそれを塞ぐように重なった。それが終わるのも一瞬だった。不意打ちの様なキスから踵を返し、ユリスは歩き出した。赤面もそのままに駆け足で後を追ったルビがユリスの腰を叩く。成熟した男女の駆け引きというより、少年少女の絡みを思わせる光景であった。ルビはどうかは知らないが、不倫はデルエベに在る限りと決めていた。しないことを除けば、それが彼自身にとっても、グナドス人の夫婦にとっても最善の途であるとユリスは信じていた。これが、何時か歳を重ね老境に達したふたりにとって、心の奥底で愛でることのできる記憶になればそれでいい……滑走路に沿って歩く二人、それと行き当る様に端から走って来た軍用地上車が砂埃を立てて止まる。
背の高い、頭髪のだいぶ後退した飛行服が一人、装具を背負って助手席から降りた様が、如何にも格好を付けているだけにユリスには思え、それ故に相好が緩んだ。
「機体を壊さなくて良かった。よく降りてくれました」
「皮肉か? ユリス大尉」
声に心地よい疲労をにじませ、ゼデン-アシュク中佐は言った。待ち構えた様にユリスが伸ばした手を、彼は長い指でがっしりと握った。
後退した頭髪もそうだが、皺の走った顔が、本来の精悍なマスクから若々しさを少し台無しにしていた。とは言っても実年齢はユリスと同年で、それ故に軍人としての栄達速度の異状さが目立つ。国情のなせる業だが、それに実が釣り合っているか否か、ユリスには未だ確証が持てないでいた。
「皮肉? とんでもない」駐機する大型機を指差し、ユリスは続けた。
「あれが邪魔なのでしょう? 小官も気になっていたところです。お陰で気を取られて少し着陸操作が遅れました。彼女は平然と着陸してのけましたが……」
傍らのルビを顧みる。異状を見出しても平然と着陸進入をこなす技量と度胸、そのいずれをユリスは暗に評価した積りだった。アシュクの口元が崩れ。長い手が彼より頭一つ低い妻の背丈を引き寄せて肩を抱いた。
「グナドス空軍の誇りだ」
「あなた……」
妻の頭にアシュクはキスをした。良人に抱かれつつも、ルビの鳶色の瞳はユリスに向けられたままだ。此処デルエベでの「辺境地運用試験」が終われば、ふたりは母国に機体を持ち帰り、そのまま後進の指導に当たることになる。それこそがアシュクに用意された新たな栄達の階段であった。「指導役兼お目付役」のユリスもまた母国ローリダに戻り、新たな地位と仕事を与えられることになるだろう……微笑をルビの眼差しに返し、ユリスは用具入れを背負い直した。ルビを彼の良人に返す時間だ。
地獄の熱波に倦み始める時間帯であった。早いところ冷房の利いた宿舎に戻り、そして冷たいシャワーを浴びて――とにかく、自分が課せられている全てを彼は終わらせたかった。